燐くんがご飯を食べられなくなる話。
一体何日経過したんだろう。
指を折って数える。すでに時間の感覚はなくなっていたので正確なことはわからないけれど、
少なくとも三ヶ月は経ったかな、と気付いてから燐はそれ以上考えるのを止めた。
悪魔の仕業によって異空間だかなんだか知らないが、
どうやら燐のいる日常に帰れなくなってしまって、ここは確かに学園の敷地内にあるあの試験をした森の中のはずなのだが、
まったく抜け出せなくなっていた。どれだけ歩いても出口は見付からず、また誰にも遭遇しなかった。
雪男や仲間達は間違いなく自分を探していてくれてるはずなのに、
誰にも会えない。気配すらない。まったくもって面倒だ。悪魔の放った力から自分ひとりの身で仲間を庇ったのがいけなかったか。
いや普通の人間であるあいつらがこのような状況に巻き込まれずにすんだのだ、いけなかったことはない。後悔などしていない。現に、自分はまだ生きている。
すでに三ヶ月以上は経過している。その分の疲労も体に現れているので、間違いはない。三ヶ月、三ヶ月だ。
その間、自分は食い物さえおろか水も飲めてはいなかった。
普通の人間なら当に死んでいる。しかし、自分は死んでいない。
それどころか、空腹も疲労も喉も渇きも、ある一定のところを超えたら、
まったく感じなくなってしまったのだ。燐はそれを実感したときただただ、ぞ、っとした。ついにここまでになってしまったか、と思う。
生き延びる分にはなるほどこれ以上の適応力はないかもしれないが、
もう自分はどんどん人ではなくなっていってるんだな、と知る。その時、燐は、迷い森に飲まれて三ヶ月、
初めて何もかもの絶望に捕らわれた。食い物がないことでもない水も飲めないことでもない。燐にとっての何よりの絶望はそれだけだ。
兄が帰ってきてから、兄は食事を食べなくなった。
雪男は今日も燐の作ってくれた夕飯を目の前にしながらもう何度目かになるその事実を確認する。
テーブルの上にあるのは1人分のオムライスだ。
悪魔に捕らわれて、実に四ヶ月も行方不明だった燐をようやく解放させることができてまだ二週間。
その間に燐は一口も何も食べず、行方不明だった四ヶ月の間も何も食べていなかったという。
検査をしても異常はない。今はかろうじて水だけ飲んでいるが、それだけだ。何度も無理にでも食わせようとは思った。
たが燐は自嘲気味み笑って「食いたくないんだ」というばかりだった。
彼の三大欲求のうちの一つが欠けた。それがどれほどのことなのか、
人である雪男には絶望にも近い感覚で実感しており、それは人でありたかった燐も同じだろう。
燐はものを食わなくてもよくなった。メフィストがいうには、
もともと悪魔というのは食はあくまで嗜好を満たすため憑依体を維持するために行うものであり、
悪魔本体は本来そんなことをする必要なんてないそうだ。半分人間の燐ではあるが、
流れる悪魔の血の強さがそれを成したのか。雪男は何度目かわからぬ、サタンの血のもたらす残酷さを呪った。
それでも燐は何事もないように今日も笑って雪男の好きなご飯を作ってくれる。
雪男にとってはそれが何よりも辛かった。兄は、どこまで人として生きていけるのか。
目の前のオムライスはおいしそうに湯気を立てている。早く食わないと冷めるぞ、と燐は笑う。
いっそ雪男も燐と同じようになれたら。しかし、人である雪男は腹は空く。水を体が求める。
兄に合わせて食事をやめれば当然、死ぬ。本音、
それぐらいしたかったのだが、兄は許さないだろう。
だから今でも雪男のためだけに料理をしている。もう自分は食わないというのに。雪男はスプーンを手に取った。
オムライスを崩せば、バターで炒めた香ばしいライスが零れてくる。
おいしそうだ、いやおいしい。そして、あたたかい。歯で咀嚼して呑み込む。それは雪男の栄養になり雪男を生かす。ご
くんと一口分飲み込む。あたたかな食事が雪男の喉を通り、胃におちる。
雪男はそこで自分が泣きながらそれを食べていることに気付いた。兄も気付いた。どうした雪男!?心配そうに覗き込む顔。
その時、雪男は胸の内で、激しい、飢餓とも変わらない感情を抱く。腹は満たされていくのに、その飢餓はきっと一生、自分の中から消えてはくれぬだろう。
2011.9.2 ツイッターから加筆修正