ごほり。口の端から溢れる血の味にようやく正気に返る。グルグルグルグルグル。とまるで檻に入れられ外へ放たれぬことで圧死しそうな
猛獣のような唸り声が喉の奥であった。正しく自分は解放を求める獣である。自分の中には檻の隙間から常にどうして外へ出ようかと
うろつき呻る獣がいて、悲しいかなその獣は間違いなくもうひとつの自分なのである。金色の眼を光らせて、青い炎を噴く「自分」は
ぐるぐる喉を鳴らしながら快楽を求めている。
ごり。人体の繊維を歯に食い込ませる感触は想像以上に不快であった。早く離さないととわかっているのだが、まるでおもちゃにじゃれつく加減を
知らぬ人ならざる赤子のように。腕の持ち主の顔を見ても、何故か不鮮明ではっきししない。しかし、妙に亡くなってしまった義父の
顔とかぶるのだった。幼い頃、義父の肋骨まで折ってしまった自分だが、その前にもわけのわからぬ癇癪を起こし義父の腕に噛み付いたことがあったのを思い出す。
まだ歩き出したばかりの頃だったと記憶している。ぼんやりと、あの頃の自分は今生きている世界の全てが過大なるストレスであったと
思い出す。とにかく世界が肌になじまない感触が負担になってしようのなかった。生えたばかりの歯で義父に噛み付いた。あの時、義父は
なんといって幼すぎる自分を宥めたのだろうか。
ふと。一瞬の回想が終われば自分が噛み付いていた腕の持ち主は弟であったと気付く。あ、と情けない声をあげてようやく口を離した。
弟は、落ち着いた?と眉を寄せながらも微笑んでいる。普段は銃を持つ逞しい腕にはぶっつりと自分が牙を食い込ませた証があった。何が
どうしてこうなったのか前後がわからない。それが余計に恐ろしい。唇がわなわな震えた。口の中で血の味が溢れる。
ああ-----ごめん、ごめんな、雪男。
謝罪する度に口の端からぼろぼろ血が流れてくる。弟のだ、と思うと恐ろしかった。弟は、困ったように微笑んだままだった。
大丈夫だよ、兄さん。
と何が大丈夫なのかそう言って謝る自分の肩を抱く。先ほど噛み付かれたばかりだというのに戸惑いなく肩を抱く。
ああ。
そうだ、父さんもこうして噛み付いた俺を宥めてくれた。
大丈夫だ燐、ちょっとおまえは肌がこの世界に馴染むのに時間がかかるかもしれないが、
だけど大丈夫だからな、燐、俺と雪男がおまえには生き難いこの世界で少しでもおまえが生きやすいようにしてやるからな。
そういって俺を抱きしめてくれた父さんの腕は覚えもないはずの羊水のように温かく、
その腕に噛み付く獣の子どもの横で、布団にくるまりながら幼い雪男は泣いていた。
2011.5.21