「兄さん、約束してほしいことがあるんだ」
雪男がそのようなことを言い出したのは、梅雨もあけ、いっそう気温の上がり始めたため、非常に寝苦しい夜中のことであった。熱帯夜である。
燐と雪男の暮らしている旧館の寮にはエアコンはついていない。扇風機はあるにはある。一応、部屋の真ん中でなんとか二人の寝ているベッドにまで風は
届くのだが、循環する空気までじめっと暑くてはあまり効果があるともいえなかった。燐は寝苦しくて、床についてからもう30分も経っているというのに、
今だ寝付けないでいた。珍しく、普段、就寝時間が燐より断然遅い雪男と、同じ時間に床についた夜であった。燐は寝付けなくて、ベッドの上で無駄に寝返りを打ったり、
枕元で腹を出して寝ているクロのそのふわふわの腹をいじってみたり(こんな暑くてもクロは寝れるらしい)。そうして、ぼんやりしているうちにようやくわずかな眠りが
訪れようとしているときだった。雪男がふとそんなことを言い出したのは。
まだ寝ていなかったのか、と燐は思った。
そして、そんなことをいきなり言い出してくるということは、向こうはこちらが寝ていないということを、わかっていたのだろう。まあ、寝息が聞こえないからすぐに
わかっただけだろうが。しかし、いきなりこの言葉である。会話の前後もなく、突然にであった。普段、弟はこのような話の切り出しの仕方をしないので、燐は
違和感を覚えた。何か話したいことがあるのなら、雪男は一から十まで順序を持ってから話すのだ。しかし、はっきりした口調であったので、少なくとも寝ぼけているわけでも
なさそうだった。
「…なんだよ、いきなり」
頭だけもたげて頬杖をついて、燐は答えた。ベッドに横になっているであろう雪男は、こんなに暑いというのに、今夜に限って簾を降ろしていた。
よって、雪男の姿は見えなかった。
うん、と雪男は頷いて。しばらく、いや、ほんの一瞬だけ、間をおく。
「…人はいつか死ぬよね」
この雪男の言葉に燐は、思わず、あ?と声を上げてしまった。弟にしては会話の要領が悪いというか、雪男らしくないことを言っているように思ったからだ。そもそも、
こいつは何が言いたい。とぐるぐる燐は考えたが、とりあえず、まあそうだよな、と答えておいた。頭の中では、自分を助けて死んだ養父の姿が、蘇ってきて、燐は、ほの暗いような
気持ちを抱いた。
「僕と兄さんもいつか、死ぬ」
「まあ、そうだよな…」
例えば、自分達が普通の高校生であったなら、このような会話を違和感なく交わすことはなかったと思う。けれど、自分達は普通ではなかった。
雪男はいつも危険な祓魔師の任務に出向いているし、燐に至っては、何をどう理由にされて、いつ処刑されても、いつ虚無界へ連れ去られてしまっても、おかしくない身の上であった。
そういう意味で、燐と雪男は「普通の高校生」よりもずっとずっと「死」というものが身近でリアルなことであった。漠然と、輪郭のないものでなくて、
常に目の前に突き出されているといってもいい事象である。しかし、何故、こんな暑いだけの何もなかったような夜にそんなことを言い出すのか。
燐は雪男の真意が読めずにいた。
「僕はね、いつも思っているんだけど」
戸惑う燐に構わず、雪男は続ける。しかし、少し言葉を切った。それにじれったくなったのは燐であった。
「なあ、おまえ、さっきから何が言いてーの?」
「…おかしい、って思わない?」
何が、と言いそうになったが、やめておいた。何がどうおかしいと思うのか。まず聞いてみなければわからないのだが…。燐は、うん、と軽く頷いておいた。
そうして、雪男は、しばし黙って、こう言った。
「…兄さんが、僕の知らないところでとか…誰か他の人のせいで死ぬことがあるってことを考えるだけで、怖くて仕方ない」
「……」
燐は、そんなの当たり前だろう、と思った。燐だって、弟の雪男が、自分の与り知らない場所で死んだり、誰かに殺されたり、など、考えただけで怖すぎて、それ以上、想像
することを頭が拒絶するぐらいである。よって、燐の中で雪男の「死」についての想像図は、いつも真っ暗なまま終わっていた。けれど、雪男は違うのかもしれない。
思えば、燐の方がより「死」に襲われる可能性が高いのである。燐にはいまいち自覚はないのだが。
「だから、兄さん」
黙り込んでしまうしかなかった燐に、雪男は言った。簾の向こうの弟の姿が見えないのが、すこし怖いと燐は思う。
「…どうしても、避けられない最期の時がくるとしたらさ、その時は、僕に兄さんを殺させて欲しい」
この瞬間、燐は、先ほど雪男が言った、自分が与り知らない場所で誰か他の者の手で死ぬことが怖い、というのはもっと深い、別の意味があるのだと、知った。
「俺を?」
おまえが殺すのか?
思わず聞き返していた。半分身を起こしてしまって、それでクロが身動きをしたが、にゃあ、と小さなあくびをひとつしただけで、起きなかった。
「うん」
と雪男は答える。
「…なんでまた」
「だって…嫌じゃないか」
何が嫌なんだ、と何故か燐は聞けなかった。その答えの先にあるものは、おそろしく暗い、執着にも近い何かが隠れている…ということを燐は無意識に感じ取ったからである。
嫌なんだ。とだけ雪男は言う。
自分が与り知らない場所で自分の兄が、誰か他の者の手で死ぬことが
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燐はそれについては、答えられないでいた。また雪男も、いいよ、なんて気安く返事がもらえることなど期待していなかったに違いない。兄の戸惑いを置いて、弟は言う。
「そして、兄さんを殺したら、僕もあとを追う」
ぞ、っと。背中をに感じる汗は確かに熱さのために流れるものなのに、燐は寒気を感じた。
「それはダメだ」
と咄嗟に否定した。自分が弟の手にかけられる、そのことよりも燐にとっては、雪男が自ら命を絶つ、そちらのことの方が、よほど恐ろしいことであった。
何がどうして、雪男が急にそんなことを言い出したのかわからない。熱さのせいか。自分が自分の怪我を省みないせいか。
それとも、先日、査問会に突き出されあわや処刑されそうになったせいか。あるいはその全部が
積み重なってか。けれど、もう燐にとってはどうでもよくなっていた。 弟が死ぬ。それ以上に燐にとって怖いものはなかったのである。
「なんで?」
と雪男は言う。なんでって、と燐は呆然としつつも、ついにベッドから身を起こし、雪男のベッドへと、一歩、踏み出した。ぎしり。床が鳴る。扇風機の動く音。りん?
とクロが起きだしたのか、問いかける声。
「ダメなもんは、ダメだ」
兄弟で心中なんで笑えない。
と言えば、なんと雪男は、くつくつ、笑った。「心中」なんて言葉どこで覚えたの?と。場違いにも燐は、たぶん、ドラマか何かでだっただろうと思ったが、そんなことどうでも
いいのである。燐は、雪男のベッドの前まで来た。雪男の起きだす気配はない。簾で境界のしかれたその場所を、じっと、燐は睨んでいた。
燐はこのとき、脅迫的な想いに駆られていた。雪男が死ぬ。しかも自ら。たとえ、いつか、自分の死ぬのが避けられない日が来たとしても、その先を、弟は、自分の分まで
生きていけるかもしれないのに、何故。わからないが、とにかく、それだけは許せなかった。
「おまえに、殺されるのは…正直、全然、かまわねーよ」
例えば、もし、どうしても、どうしても、避けられない「死」が自分に来ることがあったら。確かに、虚無界のわけのわからぬ悪魔の手や、知らない誰かの手にかけられるよりは、
そちらの方が、安心できる気はしていた。それでも、燐は、心の底からそんな日がいつか来るなんてことを、思っていたわけではない。
「ただ、おまえがそれを約束して欲しいっていうんなら、おまえも約束しろ…。俺がいつか死んでも、おまえ、あと追うなんてするな。俺の分も、生きてくれ」
じゃないと、ダメだからな。
と簾の向こうに言えば、しばらく、雪男は黙って、
「残酷だね、兄さんは」
と、ため息混じりに呟いた。
何がどうして、残酷か。酷いのはおまえじゃないか。と燐は思う。
「でも、ま、それでいいよ。…「約束」する。だから兄さんも「約束」して」
燐は、言葉に詰まってしまった。今ここで、うん、とその約束を本当にしていいものか、迷ったのである。でも、弟が、死なないというのなら、と燐は、
「わかった…」
と言ってしまう。その約束が何を意味するか。燐には、理解しがたい何かがあることも、知る由もなく、また雪男以外の誰にも理解などできないであろう。
簾の向こうの雪男の姿が見えない。燐はそれを怖いと思う。じわりじわり。蒸しかえる暑さに追われるように、簾に手を伸ばした。雪男は、その時を見計らっていたかのように、
こう言った。
「僕はね、ただ、嫌なだけなんだ。僕が与り知らない場所で兄さんが、僕じゃない、誰か他の者の手で死ぬことが---------」
簾の向こうの、弟は、一体、どんな顔をしているのだろうか。
(馬鹿だな、兄さん。兄さんが死んじゃったあとのことなんて、それこそ、僕の自由にできるじゃないか。)
2011.7.9
口約…口約束 どっちも「くちやくそく」