兄さんは僕の目の前で夏になる少し前、二十歳になる前にいなくなってしまった。
兄のいなくなった後でも世界は正常に進み、カーテンから漏れる朝日が眩しい。僕は兄さんがいなくなってからカーテンを開けることはしなくなったので誰かが開けたのだろう。
すっかり鈍くなった頭でうっすらと目を開ければ高校の頃に使っていたこの602号室に着物を着た薄い金髪の女の子がいる。しえみさんだった。
また来たのか。僕はもう追い返す気力もなく追い返したとしてもしえみさんだけじゃなくかつての塾生達は入れ替わり立ち代りここに来ては勝手に僕の身の回りの世話をしていくのだから、
止めても無駄だと諦めたのは早かった。しえみさんの着物を着た背中は無言で部屋を片付けている。昨夜、また僕は発作的に物を壊した。兄さんがよく好んで使っていた食器を衝動的に床に叩いて割ってしまったのだ。
もう使う人がいないのにどうしてあるんだろう、と考えると虚しくて寂しくて。その破片をしえみさんは無言で手際よく片付けている。最初の頃こそ602号室や厨房にあったものなどを壊していた僕に戸惑っていたのに、
慣れたものだ。次の日には割れ物はもうこの寮から撤去されてしまうだろう。しえみさんも塾生のみんなも僕が壊したものの片付けとか、まったくベッドから動くこともしない人間の世話ばかりが上手くなっていく。
別にそれを申し訳ないと思う段階は通り越し、彼らは彼らで勝手にやっていた。最初の頃はあった説教も今ではすっかりなくなっていた。そんな姿、燐が見たら悲しむぞ、と。
悲しむのなら悲しんで欲しい。そしてなんでもいいから僕の前に帰ってきて欲しいんだ、と言えばもう誰も兄をネタに僕を奮い立たそうとはしなくなった。
クロさえも。今はあまり寮には寄り付かなくなった。
かちゃかちゃ。
割れた食器を片付けるとしえみさんは簡単に602号室を掃除しはじめる。もう使い主のいない向かい側のベッドのシーツを取り払ってしまうので、僕は、
「そのままにしておいてって」
何度言ったらわかるんだ。
ととても久しぶりに声を出した。それは掠れて澱んでいて何より生きようという気力もないし、僕自身そう思ってはいない。ぴくり、としえみさんの肩が揺れたが、
「お洗濯するだけだから」
と振り向くこともなくシーツを剥がして洗濯カゴに入れていく。僕の方にはこなかった。力のないしえみさんには男一人を抱えてベッドから移動させることができないからだ。
使う人のいない皿は割ったくせに、ベッドはそのままだった。
僕と兄さんがこの寮を使っていたのは高校を卒業するまでで、それ以降、僕は医者になるために大学に進学し祓魔師になった兄さんと当然のように同じアパートに暮らしていた。
狭いアパートで、兄さんはそこから仕事に向かい、僕は大学に通っていて。
『いつまでこういう生活できるのかな』
いつかの晩御飯の時なんとなく兄が言っていた言葉を思い出す。そこに込められていた色んなものをあの時の僕は半分も理解していなかった。
そうして兄さんがいなくなってから僕は勝手にふらふらと浮浪者のように取り壊し寸前だったこの寮に戻ってきた。当然戻ってきた当初はもう住めるような状態じゃなかったけど、僕は構わなかった。
あの狭いアパートではなくこの寮を選んだのはただ死場所を探していた猫と変らないだろう。取り壊しをするのなら瓦礫と一緒に埋もれて構わなかったのに、
未だ寮は取り壊されることなく僕が勝手に住み着いてから慌てたように電気や水が通い始めてしまった。まるで僕を生かすための環境を整えているようで(実際その通りなんだろうけど)
僕は不快だったけど、もうここから動く気力もなく結局そのままだった。結局未だ人間のままの僕だから食わなければ勝手に死ねる。
だからここに来てから僕は自ら食べることは放棄した。それなのに、みんな無理矢理僕の口をこじあけて喉に取りやすい湯で煮込んだ食事を流し込んでいく。
最初は抵抗していた僕も数度過ぎればどうでもよくなった。
こんな時こそ放っておいて欲しいのに。みんなも寮に水と電気を通したあの理事長も。
放っておいて欲しい。大学も放棄している。食事もこの先自ら食べるつもりもない。水さえいらない。
汚れた体も服も最悪な環境も、どうでもいい。悪魔落ちだってもうどうでもよくなってしまった。
そうなったって兄さんに会えるわけでもないし、憑く悪魔の方もこんなにも生気のない何もかもどうでもよくなっている故郷の虚無(きょむ)のような人間は願い下げなようで、
最初こそ僕の悪魔落ちを防ごうと寮に張られていた結界も近づく悪魔さえいなくなれば役目を果たすこともなくなった。
鼻先に、食事の匂いが届いてきた。
しえみさんはあらかじめ女将さんに作ってもらった簡単な食事をいつの間にか温めなおしてきたのか、まだ湯気の立つそれを机の上に置く。何も言わない。
ただよう匂いは煮詰めた米の匂いだった。昨夜の分が手付かずに固くなってしまっているのを見ただろうに。何も言わずにそれを片付けてまた新しい食事を用意する。
この時になって初めてしえみさんは僕を振り返った。兄がいなくなってもしえみさんのおおらかな優しいけれどあの頃より強くなった眼差しが変らなくて、
僕はわけもわからず憎くなる。
「食べて」
有無を言わせない強い口調でスプーンにすくったお粥を僕の口元に運ぶ。僕の返答も待たずに無理矢理口をこじあけ流し込んでくる。抵抗するつもりもない。
そんな力さえもう僕にはない。
だって兄さんはもういないのだ。
飲み込むこともせずに口から零れるお粥を、しえみさんは表情を変えずに拭い取って今度はもっと奥まで流し込んだ。えづきそうになるほどだ。
それは無理矢理僕の喉に落とされ空っぽだけど空腹も感じなくなった腹に落ちていく。薄いそれは仄かに梅干の味がした。
「もうかまわないでよ」
茶碗に半分ほどなくなったところで僕は軽いのに胃に重く落ちていき僕を生かそうとするそれを吐き捨てたくて、そう言った。しえみさんのスプーンを運ぶ手が止まる。
こんな風に拒絶しなくたって、彼らの努力を無駄にする僕にはいつか誰も構わなくなるだろう。そうして僕はひっそりここで屍になるのだろうか。
幾度妄想したかわからないそれは、骨だけになった僕が懐かしいこの602号室に横たわっている。
けれどしえみさんは、ゆるゆる、と首を横に振る。
「何度、拒絶されても、」
「………」
「雪ちゃんが何を言ってももう生きようとしなくたって、みんな毎日ここに来るよ」
そうして雪ちゃんを生かすの。
だんっ。
ベッドを拳で叩く。思いのほか大きな音がした。拳が痛くて赤いシミがじわじわ広がっていくので皮膚が裂けるほどの力だったのだろう。しえみさんは一瞬目を丸くしたが、
すぐに、すう、っと細くなる。
「…それに、なんの、意味がある」
地を這うようなまるで悪魔のような歪んで掠れた声はかつて兄さんが好きだといってくれた僕の声ではないだろう。
なんの意味がある。なんの意味が。
「もう、兄さんは、いないのに」
今しがた喉を通った僕を生かすためのお粥の感触が、憎い。僕を生かすために通された電気も水も。みんなのことも。
何の意味があるのだろう。兄はいないのに。
「…みんな、ひどいよ」
今度は悪魔に怯えていただけの頃の幼い僕のような弱々しい声で。
「兄さんは、いないのに。そんな酷い世界で生きていけってっ…」
「………」
「ひどいよっ…!!」
兄のいない世界は。
本当に想像したことすらなかった。常に処刑の危険があった兄なのにいざ兄がいなくなった先の世界を思い描くことすら僕は恐かったのだ。だから、
兄のいない今この世界の残酷さは、あまりにひどくてひどすぎて、現実味が未だにないぐらいで悪夢の底から抜け出せない寒い冬の夜のようだった。
永遠に温もりの訪れない夜。それが今の僕の現実だった。ベッドを食器を使うあの人はもういない。勝手に自分でいなくなった。真っ黒な底に救いなんてないだろう
虚無の底に落ちていってしまった。
「ひどいよ、ひどい、ひどいひどい…!あんた達も…兄さんも!」
「………」
「兄さんはっ…!!」
気がつけば。ぼたぼた、と薄汚れたシーツの上に涙がこぼれ落ちていた。もう流れることはないと思っていたそれなのに。兄がいなくなって初めて流したかもしれない。
そんな歪む視界の向こうで、しえみさんも大きな目からぼろぼろ真珠のようなそれを流していた。そういえば兄がいなくなってからしえみさんの泣き顔も初めて見たかもしれない。
彼女は口をきゅっと結んで、ぼろぼろ、と。
「ひどい、兄さんは…勝手にいつも…」
しえみさんは泣きながら僕の頭を腕で抱えてきた。頭に当たるしえみさんの着物からはハーブの香がして、けれど僕の涙で全部ぐしゃぐしゃになってしまう。
「…ぜんぶ、終れる明日はもう来ないのに…」
「………っ」
「兄さんっ…!」
兄のいない世界は。
残酷で冷たくて寂しくて。それでも兄以外の温もりがこうして必死に僕を生かそうとする。でもそれに何の意味がある。明日が来ても明後日が来ても一年経っても十年経っても。
兄はこの世界にはいない。その先で生きていくことに何の意味があって、兄のことを忘れられる明日が来ることもないのに。
「…燐…」
僕を抱きしめならがしえみさんは兄を呼んだ。僕は一瞬何故かそれに驚いて、しえみさんの顔を見たかったけど強く抱きこまれてそれはできなかった。
「…燐…っ」
「………」
「りんっ……」
やがて。惨めな二人分の嗚咽だけが部屋に満ちていった。そうえいば誰かと泣くなんて初めてじゃないだろうか、と僕はじんじんする頭で考える。
おまえ溜め込みすぎるんだからたまには何かを誰かと共有しろよ、と頭の片隅でそういって苦く笑っている兄がいた。その兄は僕の好きなお刺身を作っていて、
『結局俺達兄弟なんだからそういうなんてーの感情の共有とか弱いとこの見せ合いってしねーだろ。そういうのはもっとやわらかく自分を包んでくれる人としてーよな』
『兄さんにそんな人いるの?』
『……いや、でもおまえにできればいいなって話だよ』
そういって振り向いた兄は笑っている。
僕が最後に見た兄は、結局、振り向いてはくれなかった。
これから先を一緒に生きてはくれず、兄は真っ黒な底へ堕ちていった。
兄のいない世界は残酷で冷たくて寂しくて。この世界が変ることはきっと一生ないだろう。全てが優しくなれる明日なんて。
きっと、こない。
報告書をやや乱暴に机に置いて、呆れるフェレス卿に会釈をすることも忘れて僕は理事長室から特別に作ってもらった鍵を差し入れた。
いざという時のために特別に作ってもらった鍵だけど、ちくしょう、もう「連絡」を貰ってからかなり時間が過ぎている。意味がなかったじゃないか。
携帯にはいくつかメッセージが残っているかもしれないが、
それを確認する時間すら惜しい。鍵で扉を開ければそこは真っ白な病院のどこかの廊下。つん、と消毒の匂いが漂ってきて通院していたときしえみさんはこの匂いが少し苦手、と言っていたのを思い出す。
扉を閉めて廊下に駆け出す寸前に背後の悪魔は「お祝いの品は後日贈らせていただきます」といいやがる。誰の押し付けた任務のせいで間に合わなかったと思っている。確かに予定日より一週間も早かったけど、
こちらとしては一月休みをいただきたい、と言っていたのに断固拒否していたあっちが悪い。そう結論付けて廊下を走る。
祓魔師のコートのままで悪魔の血がついていないことが幸いだ。駆け抜ける途中で看護師に何か言われた気がしたが頭に入らない。目的の病室まで少し滑りそうになりながらたどり着き、
「しえみさんっ!!」
ばん!と勢いよく扉を開ければ、きょとん、としたしえみさんとその腕に抱えられている布の塊。他には誰もいなかった。
出雲ちゃんたちさっきまでいてくれたんだけど今もう一度雪ちゃんに電話してみるっていちゃったよ、とふんわり彼女が笑ったと同時に携帯が鳴ったが僕は取らなかった。取れなかった。
「…体、大丈夫?その…」
「うん、私もこの子も元気!」
つい、っと抱えられた布の塊を差し出されて情けなくも僕は引け腰になってしまって、しえみさんは、くすくす、笑った。
「ごめん、…間に合わなくて…立ち会うって約束だったのに」
「ううん、そんなこともういいの。それより雪ちゃん!」
しえみさんはやや興奮した様子で僕にその布の塊を渡す。僕は、わわ、とまた情けない声を上げてそれを腕に抱えた。ふにゃふにゃしていてどう抱っこしたらいいかわからず、
戸惑う僕にしえみさんはこうして抱っこしてと教えてくれてその通りにすればぴったりと腕に収まった。それは小さな命。
「………」
ぼうっと熱くなる顔を自覚しながら僕はどきどきしながら布をめくる。
まず初めに見えたのは握られた小さな小さな手。うわ、と思わず声を上げた。なんて小さいんだろう。くにくに動いている。それに笑みが零れてきてしまう。
そしてそっと顔を覗う。
僕は一瞬言葉を失くした。
白い布の中から現れたのは生まれたての真っ赤な顔。
まだ湿り気のある青みのある黒髪。
その顔にある小さな唇、鼻、そして大きな青い目。
その目はどこまでも透き通って澄んでいて、まっすぐ僕を見つめていた。
「……兄さん……」
何故か、懐かしいあの人に重なって。僕は思わずそう呼んでいた。が、すぐに我に返る。一生懸命産んでくれた赤ん坊をもういない人に散々泣かされた人に重ねるなんてしえみさんはどう思うか。
そう思ったのに、しえみさんはなんと泣き笑いのような笑顔を浮かべていて、赤ん坊を抱く僕の腕にそっと白い手を重ねてくる。
「…わかるよ、雪ちゃん…だって私が産んだんだもん」
「………」
「燐、帰ってきてくれたんだよ」
はっきりとした潤んだ彼女の声は、すうっと僕の頭に体に馴染んでいく。
泣かずに僕を不思議そうに見上げる青い目の小さな顔にそっと指を這わせるとくすぐったいのかわずかに、笑った気がした。
生まれたての真っ赤な顔。
まだ湿り気のある青みのある黒髪。
その顔にある小さな唇、鼻、そして大きな青い目。
その目はどこまでも透き通って澄んでいて、まっすぐ僕を見つめている。
握られている小さな手を撫でればきゅっと僕の人差し指を掴んで離さない。
じわり、と目の奥が熱くなるのを自覚しながらメガネを外して、生まれたての肌の額に僕は自分の額を重ねた。ぼやける視界。でも生まれたばかりのこの顔ははっきり僕に届いている。
汗臭くてごめんね、とちょっと謝りながら。
「……おかえりなさい、兄さん」
そして、初めまして僕の息子。
それは、当然のように僕の口から出てきた言葉で、偶然に違いないだろうけど腕の中の小さな命は、あう、と鳴いた。
おまえの誕生してくれた世界は、こんなにも温かで優しくて。
おまえはこの先、この世界で大きくなっていくのだろう。
その世界の中で今度こそ僕はおまえを守ろうと思う。
そしてたくさんたくさん与えていこうと思うんだ。
おまえの目の前に、そんな優しい明日が来るように。
残酷で冷たい世界じゃなくて、この優しく温かな世界を君へ。
優しくて温かで愛しい世界を、君へ贈ろう。
2012.5.6
もう一年も前に書いたものの最後のお話を急に加筆したくなったのでUPしました。青エクにはまってほぼ一年記念的な意味で。これからも青エクは大好きよ。