人というのは心に隙間を作らずにはいらない生き物だ。どれだけ強固で強靭な意志を持っているとしても、それは所詮いずれ脆く崩れ去るまでの虚構にしかならず、
長い長い終わりなき時の中を生きる悪魔にとって、その瞬間が訪れる時を待つなど、たやすい。いずれ崩れゆくボロ布のような心を、今を保つために必死につぎはぎ繕うなど、なんと虚しい行いであろうか。
長年、付け狙っていた人の男の体は、思ったとおり、俺がとり憑いてもそう簡単には崩れなかった。ぼうぼう、と俺の青い炎を体から吹き出す、人の男の体。
目の前にはあられもない姿をした女がいた。涙とやらに濡れた大きな瞳をさらに大きく見開いて、俺を、凝視している。言葉もないようだった。口が空気を求める魚のように、
ぱくぱく、動き。体はみっともないほど震えている。もともと、みっともない格好をしている。どうやらこの男と戯れていた最中だったのか。白い肌はうすい赤に染まっていて、
とり憑いている男の体の感覚を巡れば、拭いきれていない重みがあった。まったくもって人の交配とは、
実は悪魔のそれより浅ましい。お楽しみのところ邪魔したなあ、と嗤ってやれば、女は声にならぬ悲鳴をあげた。白いシーツの上を、白い足が這う。青みのある黒髪、大きな青緑の瞳、
細くも肉付きのいい体。
なかなかに美しい女であった。人の男ならばすぐに欲情するだろう。そういう俺も、憑依している男の体に合わせて、体がうずくのを感じていく。どくどくと、流れる血流までが俺という存在に侵されていくころに、
俺は女の腕を捕まえる。女はそこでようやく悲鳴を上げた。男の体から噴出す俺の炎が女の腕を焼いた。肉の焼ける匂いがした。俺は別に女など焼け死んでしまっても構わなかったのだが、
女の下腹の中に蠢くいずれ人となる卵(らん)を見て、そもそもの目的を思い出す。そうだな、「今」焼け死んでもらっては困るな、と俺は初めて人を焼かぬように炎の加減をした。
今、女の体に触れる俺の炎はきっとぬるま湯のように生暖かく、肌を撫でているだろう。体を近づけ、女の頬に男の手でもって触れてみる。まったくもってそんなことをする必要もないのだが、
女の恐怖を愛惜をその細い喉から今にもこぼれ落ちそうな哀絶なる啼声(ていせい)を楽しむためには覿面であった。
どうして、
と女が啼く。実に心地いい、悲鳴であった。ああ、意地悪く嗤うていとしいとしと想っているであろう、男の顔で「悲しい」という顔を創ってみせる。
共にはなれないと、言ったじゃないか。
と囁けば、女は涙というものを、ぼろぼろ、流した。
おまえがこの男の心に隙間を作ったのだ。
と俺の顔でねっとりと耳に流せば、女は呆然と俺を見返していた。
いずれ命となるであろう卵は二つあった。
俺は一時、よもやこれは俺の子を二人も作れるのだろうか、という期待を抱いたが、女の下腹部に包まれるそれを見て、すぐに落胆することとなる。二つのうちの一つ。
そちらはすでにこの憑依した男の精を受け入れていた。人の卵というものは、たった一匹のそれしか受け付けない。ちぃ、と忌々しげに舌打ちすれば、ぼお、と口から炎が漏れる。
体の皮膚がもろくなっていく感覚があった。急がなければならない。使えなくなった卵は仕方の無い。その代わり、もう一つ。
女の下腹部に俺の手を這わせる。女は狂ったように抵抗したが、炎でもって手足を絡め取れば、泣き叫びながら、ゆるしてゆるして、と救いを請うていた。何に許しを請うている。
俺か、俺という存在が今一人の女を犯そうとしていながらも手助けさえしてはくれぬ神にか、それともこの男にか。女の耳元で何度何度も囁けば、女の目はだんだんと正気を失っていった。
その間にも女は誰かの名前を繰り返し呟いていた。誰の名前かは知らないが、おそらくはこの青い炎に包まれている男の名であるのだろう。
女の下腹部に包まれる。まだ何も受け入れていない卵一つ。にたり、と俺は嗤う。虚無界で暇つぶしに創ってきた俺の精。俺はそれを、憑依した男の体の中で生成する。残念ながら男の体は、
もう持ちそうにはなかったので、衝動のままに、女の中に流し込んだ。女の今までで一番高い悲鳴。
どくり。
小さき鼓動を一つ跳ねさせて、二つのうちのまっさらだった一つの卵は、俺を受け入れた。
瞬間、ぐるり、と卵が回る。それが火種のように青く染まったのを、俺は見たのだった。俺は、高く高く、嗤った。おかしくて嗤いが止まらない。俺の子だ。おまえは今、俺の子を孕んだぞ、大事に大事に、
腹で育ててくれよ、と囁けば女の瞳が絶望に染まり、そっと、閉じられた。少なくとも、俺がこの真綿のベッドを去るまで、その女の瞳が開けられることはなかった。
ついでに、邪魔な人の子となる卵を潰してやってもよかったのだが、そうする間もなく、男の手が崩れ落ちてしまった。まあいい。俺の子ができたのだ。せいぜい、大事に、
堕とさぬように、腹を抱えて、待っていろ。
ぼろり、と男の目玉が潰れたところで、俺は俺の創った次元へ帰っていった。男の体が崩れ去り、口までぼろぼろ落ちていく瞬間。男の口が最期の言葉を吐いていた。何か、誰かの名を呼んでいた。誰の名前かは知らないが。
ああ、そういえば女の名はなんであったのかな、とふと思ったのだが、すぐにそんなどうでもいいことは忘れ去った。
暇つぶしであった、好奇心であった。俺という存在から直接、子を作ってみること。それがどのようなことになるのか、単純に楽しんでみたかったのだ。これまで「創った」他のどのガキ共とは違うものを。
暇つぶしであった。それだけであった。
人というのは子を十月十日腹に抱えてから、産むのだという。
すでに記憶にも遠いほどの時間を生きてきた俺にとって、おそらく一番長く感じた期間であっただろう。俺の分身ともいえるそれの存在は、感じ取ろうとすればすぐに確かめられた。
ある程度成長したところで、この胎児は男の性になるとわかった。
俺(魔神)の卵。細胞分裂を繰り返し、悪魔の子を形取る。悪魔でありそれ以外の何にでもない、完璧なる悪魔の子。そうやって生まれてくることは明白であった。
父上、最近、ご機嫌がよろしいですな。
と珍しく放蕩息子が一時、虚無界に帰ってきていて、俺の様子を見てそう言った。相変わらず、あちら(物質界)で何をしているのかは興味がないので知らないが、
何をしようとも俺にとっては何の影響もないと知っているので、俺は特にこの放蕩息子のことを気にかけてはいなかった。最も、他のガキ共で、俺の気を惹いたことのある者は一匹たりともいなかったが。
機嫌がいい。そう俺は確かに最高に気分がよかった。もうすぐおまえにもう一人弟ができるぞ、と言えば、放蕩息子は、にや、と俺とよく似た笑みを浮かべて、それはそれは、と祝いの言葉を述べた。
人に産ませる弟が…楽しみですよ。
最後にそういって、放蕩息子は虚無界を去った。
以来、そいつは虚無界には帰ってこなかったのだが、俺は別段気にも留めてなかった。
俺の子が生まれたら、悪魔の血の産湯で浸し、この荒れ果てた大地にもしぶとく根付く藤の蔦で作った揺籃で。
ゆるゆる揺らし、眠りを誘い、温かい毛布の代わりにゆるい真綿で体を包み、青い炎で温めて。不快なことなど一切ない、心地よき眠りの中で、欲望の夢を見る。
おまえを否定するものもおまえを不快にするものもここには一切いないのだ。おまえはおまえの快楽の赴くままに、揺籃の中で眠り、
悪魔の肉を喰らい、そうしてすくすくと大きくなっていく。おまえの前を妨げるものは何もなく、おまえのすること全てがこの世界にとっては絶対のものになり、
ナニモノもおまえを傷つけず、どろどろに甘やかして、多くの兄達の牙と爪で遊んでもらえ。ああ、ああ、俺の息子よ。早く俺に顔を見せてくれ。そして、俺の作り出したおまえという存在がどれほどの炎を吹き出すか、
それでもってどう物質界を燃やしてくれるか、早く俺に見せてくれ。早くあの女の腹を突き破って出てくるのだ。ここにはおまえを咎められるものはいない。
おまえのすること成すこと全てが肯定され、全てが創造されていく。我慢などしなくていい。耐えることなどなにもない。
怒りも悲しみも絶望も、そんなものは一切ない。あるのはただひたすら甘い甘い菓子のような「快楽」のみ。どうだ、息子よ、ここは素晴らしい世界であろう。
悪魔の血の産湯で浸し、この荒れ果てた大地にもしぶとく根付く藤の蔦で作った揺籃で。
ゆるゆる揺らし、眠りを誘い、温かい毛布の代わりにゆるい真綿で体を包み。いずれ物質界にて俺から継いだその炎で思う存分遊んでみるがいい。おまえを包む真綿の中に、
俺は、こっそり、と人間達に対して針を忍ばせておいてやろう。その真綿に包まれ、揺籃の中で眠れ。
ああ、楽しみだなあ。俺の息子が青い炎を纏って、無邪気に世界を喰らいつくす、そんなおまえの未来の姿が。そうして、俺の青い炎を吹き出して、そして、この俺に、
おまえの父親であるこの俺の欲しいものを奪ってくきてくれ、我が息子。
十二月二十七日。雪の降る寒い夜のことであった。悪魔の赤子の産声が上がる。虚無界の神は暗闇の底にて、にたり、と嗤う。
(さあどこにいる我が息子、おまえを包む真綿も揺籃もおまえのすべてを否定せず、
ぬるま湯のように迎え入れる産湯も、世界もここにはある、さあどこにいる我が息子、悪魔の産声を上げて俺を呼べ、お誕生日のお歌でも歌ってやろうか、さあ、我が息子よ、おまえが継いだ俺の力でもって、
この雪の降る世界を壊してくれ、そうなればどちらの世界もおまえをゆうるりと包み込み、誰もおまえを否定はしない、素晴らしい世界がおまえを待っているのだよ)
ぼうぼうぼう。雪の降る世界を甘い甘いケーキの代わりに、青い炎をロウソクの代わりに。人の悲鳴を祝いの言葉の代わりに。
その日の夜は、青く青く、燃えていった。
2011.7.30
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