あなたといふひと

 

「よく見ろ、雪男」

兄はそういって僕の胸倉を掴んで身を起こさせた。内の中で押さえの効かない欲望とか絶望とか快楽とかとにかく色んなものが一緒くたになってしまった僕は、 苦しくて苦しくてでもどこかがとても楽で、でもやっぱり辛くて、すっかり膝をついてしまっていた。兄に何か傷を受けたわけじゃなかったのに、 それどころか兄は僕には決して刀も拳さえも向けてこなかったというのに。僕はなんだかボロボロだった。おかしいな。もっと楽になれるはずだったのに、どうしてこんなに疲れているんだろうか。
「俺を見ろ、雪男」
鼻血を流して額にも頬にも切れた痕をつけた兄が、今度は僕のコートの襟を掴んで持ち上げるようにして視線を合わせた。青い兄の目の中に、虚ろな目をした僕が映っていた。 その目の中に映る僕は、耳も牙も、兄のように尖っていた。そんな変わってしまった僕と、そして兄の強い視線から目を逸らせなかった。
「よく、見るんだ」
ぼうぼう。青い炎を噴く兄。目は青く瞳孔は赤くぎらぎらと光っていた。鋭い牙。そこには血が伝って滴り落ちていた。先ほど僕が殴ったせいで、口の中が切れてしまったんだろう。 僕は、呆然と兄を見る。
「…おまえが今、なろうとしているものっていうのは、こういうものなんだぞ」
兄の目が、切なそうに細くなった。ああ、僕は一気に呼吸が苦しくなる。どうしてだろうか、もっともっと楽になれるはずだったのに。
「こういうものなんだ、雪男」
兄は自分自身を僕に向けた。どうしてだろうか、あの男が言っていたみたいに、楽になれるはずだったのに。どうして、こんなに苦しいのか。こんなことになってしまう前だって、 苦しいこともあったけど、それよりまったく違う異質な地獄だった。
兄は鼻血を流して額にも頬にもざっくり切れた痕があって、口からはだらだら血が流れていて、腹には僕が放った銃弾の一発か二発が食い込んでいるだろう。兄は、 傷だらけだった。一瞬、どうしてこんなに怪我しているんだろうか兄を守るって誓ったのに、と思った僕だったが、そこで、は、っと「思い出す」。
これは、全部、僕がやったんだ。
「………」
自分がやった確かにやった。そういう記憶が見せ付けるように蘇ってくる。そして僕は、すとん、と地面に落ちて飛べなくなってしまった鳥のように、急に恐ろしくなった。 震える指で兄の切れてしまった頬を撫でる。兄は少し顔をしかめたが、止めなかった。
「…兄さん」
兄を呼ぶ僕の声は、震えていた。声だけでなくて全身もがたがた震えていた。どうしてなんで。僕は兄を傷つけたんだろう。わかっているはずなのに、記憶にもあるはずなのに「わからない」。
「わかるな、雪男」
兄は僕に合わせて膝をつく。僕の両肩に手を置いた。

「…悪魔になるっていうのは、こういうことなんだ」

悪魔として生まれてきてしまった、兄は言う。
「こういうことなんだよ。気がついたら誰かを傷つけてる。自分がやったはずなのにまるで全然別の誰かがやったみたいで、怖くなる。自分が怖くなるんだ。 友達を気がついたら殺しているかもしれない、好きな人を気がついたら喰っていたかもしれない。いいか、雪男」
「………」
「人から悪魔になるっていうのは、そういうことだ。人から悪魔になったって、何にも楽にならない。何にも救われない、何一つ。自分も周りもだ」
いいか、雪男。と兄は僕の頭を撫でた。小さい頃、いじめられていた僕を助けてくれたあの優しい明るい兄の顔。ふと、思う。どうして、兄は。
「…今、目の前にいる俺(悪魔)が、それなんだ」
どうして、兄は悪魔なんだろう。
僕も今、そうなってしまった。けれど、兄の言ったとおり、全然胸の苦しさは取れないし、両手は兄のものだろう血で真っ赤だった。兄は傷だらけだった。 それでも決して僕とは戦わなかった。雪男、雪男。と必死に僕に呼びかけて。がたがた僕は震えている。胸の内の巣食ってしまった黒いものが、けたけた、嗤いながら「そんな言葉は戯れ言だ」と言った。 ああ、その言葉を聞いて僕はようやく理解する。僕、騙されてしまったんだね。悪魔に。
「…兄さん」
怖かった。ただひたすら怖かった。自分が得たいの知れないものになっていく。守ろうと誓ったはずの兄を傷つけていた。もしかしたら、僕は底の心理の中で、 ずっと兄をこういう風に傷つけて殺してしまいたい、って思ってたのかもしれないけど、それさえずっと怖かった。僕が、堕ちて行く。怖い、怖い。ひたすら、闇だ。
「…闇が、怖いんだ」
小さい頃、闇に怯えていた僕を、僕はいつから「いらない僕」として胸の奥に葬り去ってしまったんだろうか。
「…俺も」
兄はそういって、にか、っと歯を見せて笑った。
「だから俺が照らしてやる」
兄が僕の体に腕を回してきた。ぼう。青い炎がいっそう上がる。
「いいか、雪男。おまえが手放したいと思わなきゃ、何も出て行かない。強く、そう思え」
うん、と僕は頷いた。兄の青い炎が勢いを増す。けれど、僕自身はまるで温かい毛布に包まれたように心地よかった。青い炎は悪魔を焼くはずなのに、僕は火傷一つしなかった。 その時にわかる。この青い炎は兄の意思と心そのものなんだ。なんだ、と思った。それならば、こんな僕に操れるはずもなかったんだ、最初から。きっとこの青い炎は兄という優しい人にしか使えないんだ。
僕の内に巣食った黒いものが、悲鳴を上げた。一瞬の体の浮遊感と嘔吐感の後に、それが青い炎に焼かれて地面に転がった。ぎゃあぎゃあ、とみっともなく悲鳴を上げて転げまわるそれは、見てみれば、 ただの下級悪魔だった。思わず笑ってしまう。兄は、ほうっと肩の力を抜いて、また僕を正面から見た。兄は、よかった、って笑ってた。
ずきん。
僕はとうとう耐えられなくて、目からしょっぱいものを次から次へと流してしまった。こんなに泣いたの、あの「いらない僕」であった時以来だ。
「…兄さん」
兄さん。兄さん。
兄は何も言わずに僕の頭を撫でてくれた。とても温かい手だ。ああ、兄さん。思えば、僕を落すために甘い戯れ言を囁き続けたあの男も、父と兄のようになりたかったけれどその先にあったのは無だった、と嗤っていた。 きっと世の中じゃなくて自分自身を嗤っていたのだろう。あの可哀相な人がずっと追い続けていたのかもしれない「父」と「兄」はあの可哀相な人に一体、何をしてあげてたんだろうか。
「僕の兄」は、ぎゅっと僕を抱きしめてくれた。そして、僕が何かいう前に、しん、とした静かな声でこう言った。

「おまえだけは、俺みたいになっちゃダメだ」

ああ、兄さん。
そんな悲しいこと言わないで。
そんな寂しいこと言わないで。
思えば、僕を落すために甘い戯れ言を囁き続けたあの男も、父と兄のようになりたかったけれどその先にあったのは無だった、と嗤っていた。 きっと世の中じゃなくて自分自身を嗤っていたのだろう。あの可哀相な人がずっと追い続けていたのかもしれない「父」と「兄」はあの可哀相な人に一体、何をしてあげてたんだろうか。
でも、僕の兄さんは。あなたというひとは、やっぱりずっと追い続けたい、僕の兄さんなんだよ。
兄の目の中に映る僕は、やっぱりただの常人に戻っていた。その顔の僕は、ぐしゃぐしゃに泣いている。兄さんはでも、僕をずっと温かい火で包んでくれていた。 傷だらけの、ずっと人でいたかったはずの、それなのに悪魔の、あなたという人が、僕の愛しているひとだ。だからそんな僕を作ってくれたあなただから、僕は、僕自身も愛していきたい。 これからそうすれば、少しでも僕は変われるだろうか。
僕は兄の胸に顔を埋める。血の匂いがした。僕は兄を抱きしめ返した。



「兄さん、ごめんなさい」



あなたというひとが。僕の僕である全てだ。















2011.8.12

ってな感じでいつか救われるのならば、これから先雪男に何があっても私、ナニモコワクナイヨ!

藤堂さんってたぶん自分自身が一番嫌いで憎いだけなんじゃないかなってちょっと思いました。