ゆきお、なにがほしい?
あのね、あのね、ラムネとあとそれから、
あとおかしもおもちゃも買えるかも。
お、おかしは、あれがいい、よーぐると?みたいなやつ
わかったおもちゃはなにがいい?
お、おもちゃ、わかんない…
よし、じゃあにいちゃんがゆきおのぶんも、おもちゃ買ってくるな、だからそこでまってろよ
……やっぱりぼくもいっしょにいきたいよ。
……ゆきおがもっとつよくなったらいっしょにいこうな。
…ほんとに?ぼくがつよくなったらいっしょにいってくれる?
おう、いっしょにいく!やくそくだ!
だから、いまはそこで、まってろよ。
思えば、雪男が燐と過ごした時間というのはとても短い。8年も経ってしまった今では普通の兄弟ならきっと思い出は色あせてくすんだ写真のようなものになってしまうのだろう。
しかし、雪男にとっての燐の記憶はそうはならなかった。今でも鮮やかな兄の色を思い出すことができた。それはきっと、燐がいなくなる直前に雪男に買ってきていた青いビー玉のせいでもあるだろう。
このビー玉は兄の目の色と同じであった。当時、燐は何を思ってこれを弟に買ってきてくれたのか。自分の目の色と同じだから、というそんな理由ではない気はしている。
きっと、きれいだったから、ただそれだけで、だからこそ雪男に見せたいと思ってこれを選んでくれたのだろうか。確かに、青一色のビー玉は珍しい気がした。
例の坂の一歩手前。雪男は祓魔師のコートを着たままそこに立っていた。アスファルトから湯気がたちこめ、坂の向こうにはゆらゆらした蜃気楼が浮かび上がっていた。
日陰にいるとはいえ、コートを着ていては少々暑かった。腰に見えないように装備している拳銃二丁も持ち運び慣れているはずなのに、少し重い。この坂は人通りはあまりないので、
1人の青年が黒いコートを着ていつまでもそこに立っていることを不審がる人も幸いいなかった。
ゆらゆら揺れる坂の向こうを見る。今なら、簡単に越えていける坂なのだが、雪男はあれから一度も、あの向こうへ行ったことがない。だから坂の向こうの世界が今はどうなっているのか、知らないのだ。
燐と一緒に1、2度だけ行っていた駄菓子屋には、確か老夫婦が共にいたと記憶している。あの駄菓子屋はまだ坂の向こうにあるのだろうか。駄菓子屋の内装を思い出してみても、
数度行っただけなのでその辺の記憶は曖昧であった。けれど、お菓子やちょっとしたおもちゃは確かにあって、あそこへ行くのは楽しかった。結局、直接いけたのは1、2度だけの話だったが。
あそこへ行くのが兄の役目になってからも、雪男は兄があの向こうから帰ってきてくれるのがいつも楽しみだった。兄の燐は、いつもいつも、雪男の好きなものばかり買ってきてくれた。もちろん、自分の好きなものもしっかり忘れずに買ってきていたのだが。
その記憶の中の兄は、ずっと幼いままである。
思えば、雪男が燐と過ごした時間というのはとても短い。短い間だけ共にいた兄のことをどうしてこうも忘れられないのか。それが兄に対する愛しさだけではないことを雪男は知っている。あの時、
自分も一緒に行っていれば、どうこうできたわけじゃないけれど、それでも一緒に行けていれば。あるいは、自分が代わっていれば。
兄に対する未練が愛しさだけではないのは、だからわかっている。そこには後悔とか罪悪感とかそんな負の感情も一緒くたになっていて、そこに愛しさという膜を張っているのだ。
だからこんなにも忘れられない。けれど、そのどろどろした自分への責苦を覆い隠すその愛しさは、やっぱり幼い頃からずっと消えることなく雪男の胸の中に燻っているのである。兄さん。僕の兄さん。
体の弱かった自分をいつも守ってくれた、いじめっこにからかわれていじめられていたときも、助けてくれて、医者になりたいという夢を、すげえなおまえならなれるって!と笑って応援してくれた兄。
時々、雪男は夢想する。
もし、あの時、燐が無事に坂の向こうから帰ってきてくれて、そのまま共に過ごすことができたなら、自分たちはどんな道を歩んでいたのだろうか。どんな生活を送っていたのだろうか。
13歳にして祓魔師になった自分を、兄は、すごいな、と褒めてくれただろうか。兄の身の上を考えると、きっと今の学園で一緒に過ごしていたかもしれない。
一緒に祓魔師のための勉強をして、ああそうだ自分は悪魔学の講師をこの春からやるようになったから、だからきっと勉強も自分が教えていたのかもしれない。人懐こかった兄のことだ、
塾生達ともすぐに仲良くなっていただろうか。
ビー玉を手の平で転がして雪男は夢想する。
兄と過ごせたかもしれない8年間は、もう手の平をすり抜けていってしまった。その間に色んなものが変わったと思う。自分は背も伸び体も丈夫になり、養父は年を取った。
養父の中には自分と似たような深い後悔と懺悔があることも雪男は知っている。だからこそ、養父はきっと自分に「兄を取り戻すために強くなれ」と言ったのかもしれない。
もちろん、泣いて過ごしていた自分のためであったこともわかっている。それについては感謝している。だからこんなに強くなった。けれど、同時に養父は、もう燐のことをわかってあげれなくなってしまっているんだな、と雪男は悟っていた。
ヴァチカン?祓魔塾のあるあの学園?虚無界に堕ちてしまったから物質界を攻めてくるときは、悪魔が最も活発になるという夜にやってくるだろう?
ふ、っと雪男は笑った。養父もあの道化の悪魔も、何もわかっていない。いや、養父は忘れてしまったのかもしれない。
神父さん、忘れてしまったの?
世間でいう夏休みが終わる最後の一日。雪男は今日を過ごしたら学園の寮に帰らなければならない。だから昼間からここに立っている。養父は忘れてしまったのだろうから。
神父さん、忘れてしまったの?
さわり、と坂をぬるい風が通りすぎた。
はっと雪男は顔を上げる。
ゆらゆら揺れる、まるで朧なような坂の向こう。ぬるく重たい風が通りすぎた。祓魔師としてもう2年も過ごしている雪男は、それが前触れだと知っている。腰に隠しておいた拳銃を取り出す。かちゃり。
冷たい音がした。
蜃気楼のように揺れる向こう側。そのアスファルトの地面から、まるで黒い溶岩のようなものが、ごぽごぽ、と溢れ出てきた。さんさんと太陽の降り注ぐ夏の最後の日差しの中で、
その黒い液体は次から次へと溢れてきた。ごぽり。まるでタールの池のようだった。強い日差しの中のそれは酷く不釣合いなものに見えた。いや、そもそも人が過ごす日常の中でこれは相容れないものである。
ごぼ。
その黒い池の中から、人の腕と思われるものが伸びてきた。筋の走った、少年のものと思われる生白い腕。雪男は黙ってそれを見ていた。腕が、探るように空気を掴む。その腕は、長い爪を持っていた。
ごぽり。黒い溶岩のようなそれが再び湧き出てくる。ずる。中から何かが這い出てきた。それを見て、雪男は口の端を上げる。
神父さん、忘れてしまったの?でも僕はよく覚えているんだ。
兄さんは、太陽の下が大好きな人だったってことを、
ごぽり。
黒いものから現れたのは、青い炎に身を包み、祓魔師とは相反するような白いコートを着て腰には、8年前燐と一緒になくなった倶梨伽羅を差している。
10代半に見える少年であった。
ゆらり、と少年は体を揺らすと、顔を上げた。病的なまでに青白い顔。尖った耳。揺れる悪魔の尻尾。
かすんだような焦点の合わない、つり目。それは雪男の持っているビー玉のように青かった。瞳孔は、血のように赤く輝いている。
「………」
少年は、ぼんやり、と周りを見渡した。そして空を仰ぐ。眩しそうに青い目を細めて。そしてわずかに少しだけ口の端を上げていた。うれしいのかもしれない。
太陽の下に出れて。少年が、すう、っと空気を吸い込むのがわかった。どこか緑の香がする空気。吸い込んでから吐き出す。はあ。ぱたり、と尾が跳ねた。うれしいのかもしれない。8年振りの故郷の空気も光も。
ほらね、神父さん。だって兄さんは太陽の下が大好きな人だったから、
「…兄さん、」
衝動のままに、少年を、兄を呼ぶ。兄は、燐はしばらく自分が呼ばれたことに気付かなかったようだが、もう一度、兄さん、と呼べばやっとその目は雪男を見た。
「………………ゆきお?」
首をかしげて確かめるように自分を見ていた。そうだよ、と頷く。ああやっぱり声も少し低くなったよねお互いと思う。
へらっと燐は笑った。
「雪男だ」
「うん、そうだよ、僕だよ、兄さん」
ひどく覚束ない足取りで燐は坂を下ってきた。雪男の手にはまだ銃が握られていたままだったが、燐は構わずこちらに来る。どくどくどくどく。何に対する緊張からか、心臓が跳ねる。
燐は数歩分先を開けて自分の前に立つ。青白い顔。どこか痩せているという印象を受ける体つき。最後にその姿を見たときは、肌は健康的に焼けていたのに、8年も日の光に当たらなかったのでこうなってしまったのだろうか。
燐は、雪男を見て、もう一度笑った。しかし、その笑顔の中に幼い頃の無邪気さは薄れていた。目下には深いクマがあって、青い目の輝きは昔と変わっていなかったけれど、それでも闇を湛えていて、
それだけで燐がこの8年間「あちら」でどれだけ苦労したか覗い知ることができた。雪男は途端に切なくてたまらなくなった。8年。虚無界に堕ちてしまった兄と、今ようやく再会できたのに、込み上げてくるものが嬉しさではなくて、
こんなに悲しいものであることが、かなしい。視界がかすんだ。銃を握る手も震える。けれど、まだ降ろさなかった。
「…背、のびたな」
燐が、嬉しそうに言った。
「…うん」
「もう風邪とか引いてねえの?」
「いつの話だよ。もう風邪なんて滅多に引かない」
「…父さんは?」
「元気。少し年、取ったけど」
「そっか、」
元気なら、いいよ。
その言葉で燐は養父に会う気がないのだと雪男は悟った。いや会いたいのかもしれないけれど、会えないということだろう。この8年燐のことをずっと想っていた養父のことも思い返して、今ここで自分だけ兄と再会していることを、
やっぱりすまなく思った。けれど、それでも。
「兄さん、僕は、」
それでも、自分は。
「強くなったよ」
「…うん」
「がんばったんだ」
「うん」
坂の向こう。朧のように兄の姿もどこか不鮮明であった。だからこそ、虚無界と物質界を隔てる何かが燐の中にあることを知る。
「兄さんを、連れ戻すために」
がちゃり。銃が冷たい音を立てた。けれど燐は白い刀身をさらしたまま腰に差している刀に、手をかけることはしなかった。夏の最後の日差しの中。
燐の体から燃えている青い炎が、どうしたって彼がこの世のものではないことを主張している。兄は、やっぱり、悪魔である。
賢い雪男は、祓魔師の訓練を始めて少ししてからもう気付いていた。兄の燐を、一度、虚無界に堕ちてしまいサタンの手で覚醒させられた燐を、再び物質界に迎え入れることは難しいだろう、と。
不可能に近いだろう、と。教会の中でメフィストと養父がそのことで何かしら言い争いをしていたことも雪男は知っていた。だからもう無理なんですよ藤本、彼は悪魔になった向こうにいるアマイモンから聞いた話ではもう彼を人に戻すこともこちらで生かすことも不可能だ、彼は悪魔になったんですよ
唯一物質界を行き来できる特殊な悪魔に、サタンに縛られて自由には生きられない悪魔にね。馬鹿野郎、まだわからないだろう燐は絶対連れ戻して、またこっちでここで、一緒に暮らすんだ。
養父はいつまで本気でそうしたいと思っていたのだろうか。
いやあの養父のことだから今でも本気でそう思っているだろう。ただ、だからこそ養父の中で生まれてきている諦めの色が、何を意味しているか雪男はわかっている。だから、
自分にもほのめかそうとするのだ「兄さんのことはもう諦めろ」と。
冗談じゃない、と吐き捨てたい。
だから、賢い雪男は、知っていたし理解もしていた。だからこそ、養父にずっと嘘をついていたことを謝りたいぐらいだ。
神父さん、ごめん、僕は、もうとっくに。
がしゃん。
祓魔師の資格を取ったときに養父が送ってくれた銃を落とした。アスファルトに当たって金属的な鈍い音が響く。みんみんみん。蝉の音も聞こえてきた。銃を落とした自分を見ても、
燐は少し目を細めただけだった。ほらね、兄さんはやっぱりわかっていたんだ。視界がにじむ。
神父さん忘れてしまったの?兄さんはとても優しい人だった。だから、約束を守ってくれる人だった。だから僕はわかっていたよ、兄さんは必ずこの幻のような坂の向こうから来てくれるって。
「兄さん、僕は、」
だから、自分は。
「強くなったよ」
「…うん」
ぼたぼた、と。アスファルトに目から零れたものが滲んで吸い込まれていく。兄の顔が、朧のようにかすんでしまったので、袖でそれを拭った。その向こうには、いとおしそうに自分を見つめ返す兄がいる。
「泣き虫なの、変わんねーな」
困った顔して笑って、頭を撫でてくれた。炎が触れたけれど、とても温かだった。その青白く燃える炎こそ、まるでこの世界のものではないかのように、朧のように燐の身を包んでいる。
「……だから、僕も一緒に、連れて行って」
ずっと、養父に嘘をついていたことを謝りたい。本当はもうとっくに、連れ戻すことが目的なんかじゃなかったことを、兄と戦うなんてとてもじゃないけれどできないことも、覚悟なんてこれっぽっちもしてなかったことも、
結局、自分は兄を失ったあのときから、ずっとずっと泣いてたことも。ごめんね、とうさん、でも僕は。
けれど、雪男の搾りだした悲鳴のような叫びに、燐は、悲しそうに微笑んで、ゆっくり首を横に振るのだった。
ああ、ほら、やっぱり、神父さん、ほらね。
---------兄は優しい人だから。
ゆきお、なにがほしい?
あのね、あのね、ラムネとあとそれから、
あとおかしもおもちゃも買えるかも。
お、おかしは、あれがいい、よーぐると?みたいなやつ
わかったおもちゃはなにがいい?
お、おもちゃ、わかんない…
よし、じゃあにいちゃんがゆきおのぶんも、おもちゃ買ってくるな、だからそこでまってろよ
……やっぱりぼくもいっしょにいきたいよ。
……ゆきおがもっとつよくなったらいっしょにいこうな。
…ほんとに?ぼくがつよくなったらいっしょにいってくれる?
おう、いっしょにいく!やくそくだ!
だから、いまはそこで、まってろよ。
朧と約束は、青い炎に呑まれて消えていく。
2011.9.11
続きません、すみませぬ…