それはやわらかで冷たい泥に埋まっていく感触だった。肌にひたりとまとわりつき、幼い体を引きずり込んでいく。
もがいても逃れられずそれは、ひたひた、と燐の体を侵食していった。冷たい。堕ちていった底の底。その場所は幼い燐が生きていくには冷たすぎて、
過酷すぎて孤独であった。
冷たいその世界は虚無界といって燐はわけもわからぬままに堕ちてそこで生きていくしかなかった。それまで知らなかった自分の出生のことや、
対面した実父というのはごうごうと燃え盛る青い炎の塊で、その奥には何かいるらしいのだがいつもケタケタ嗤ってしゃべっているだけで、その奥にあるものが
何であるのか燐は未だに知らなかった。もしかしたら悪魔の誰も知らないのかもしれない。虚無界における魔神の本当の姿など。全てを知った当初は何も信じられなくて、
戸惑い、泣いて、己からも青い炎が噴出したときは混乱して気を失った。目が覚めればすべて悪い夢であればよかったのに、そんなことあるはずもなく。
燐は己が魔神の子であり青い炎を継いでいてだから虚無界に落されたのだと知る。戸惑いや、絶望は通りこした。それでも最初のうちは涙が枯れるほどに泣いていた。
家に帰りたい、とうさんとゆきおのところへ返して。と。泣いている子どもに同情するような存在は虚無界にいるはずなどなく、あんまり泣くと魔神は、うるさい、と罵って青い炎で焼いてきた。
だから燐は生きるために泣くのをやめて久しい。それでも魔神はやはり悪魔であったので、幼く家に帰りたがる燐に、甘く甘く囁いた。
ようし、それならばおまえががんばって俺の期待に応えられるぐらいに強くなったら弟と神父に会わせてやろう。
炎の向こうで悪魔は嗤っていた。
虚無界という世界はぬかるみの底のようだった。常に肌にまとわりつく空気は冷たくけれど妙な生ぬるさを持って、まるで肌の裏を蟲が這うかのような不快感をともなった。
吸い込む空気は血の霧のように赤黒く、肺にべとべととたまっていくようで、定期的に吐き出さねば肌の色まで赤黒くなっていくので、燐は頻繁に虚無界の空気を吐いていた。
なるべく見た目は人のままを保ちたかったのだ。太陽は当然のようになくて、けれど虚無界は物質界とある意味合わせ鏡のような世界として構成されているらしく「夜明け」
「日没」という概念は一応あったのだが、頭から正体のつかめない闇色のもの真っ赤なものがまるで帳のように落ちてきたりするだけだった。そこは半分人の体を持った燐には過酷すぎて。
それでも生きていける自分は確かに悪魔であるのだと、燐は何度その事実に絶望したのだろう。今ではもう数えるのもやめている。当然のように燐を助けてくれるような存在もいなかった。
そもそも虚無界にいる悪魔というのはまるでつかめない気体のような姿をしていて、ぼんやりと影のように形をもっているものから、ヘドロのように地べたを這いずり回っているもの、
ぼごぼこと泡立ちながら瘴気を吐き出しているもの。中にはたまにしゃべるものもいたが、やはり燐には興味のカケラも持ってはいなくて、持っていたとしても燐を容赦なく痛めつけにくるだけだった。
どうしてこんなことをされるのか、最初はわからなかったがおそらく自分が魔神に興味を抱かれているのが気に喰わなかったのだろうか。普段、はっきりした形を持っていないのにその時だけは爪と牙を尾を持った、
けむくじゃらで赤や青や緑に目をぎらつかせる恐ろしい化け物の姿になって燐を怖がらせ、牙と爪で傷つけてきた。その度に燐を守ったのは皮肉にも自分から吹き出る青い炎である。
これはどんな悪魔も燃やしたので燐は今までこれで生き延びてきたといっても過言ではない。中にはアマイモンという「兄に頼まれたので一応」といって自分を観察している悪魔もいたが、
こいつもこいつでまるで子どもの作った粘土人形のようなどろどろ崩れた姿をしていて、その顔と思われる部分にぽっかり二つの目と思われる黒い穴が開いているのも不気味であったし、
本当にアマイモンという悪魔は観察以上のことはしてこなかった。この世界に燐の味方はいなかった。燐を守るのは青い炎だけだった。だから燐は生きねばならなかった。
生きたかった。何のために自分が虚無界に落とされて生かされているのかも、わかっている。知っている。魔神の欲のためだった。わかっていた。それでも燐は生きたかった。
父さんと雪男に会いたい。
それだけが、希望も光も澄んだ空気もない世界で燐が生きている理由であった。
すっかり生白くなってしまった自分の腕を見つめて、腐った木々や草の倒れているだけの不毛の大地に寝そべっていた。その生白い腕も自分の体も青い炎がまとわりついている。
燐は闇色の降りてきた「空」を見つめてぼんやりと考えた。今、一体何年目だろう。虚無界に時間といった概念はない。生き延びるのに必死になっているうちに燐にも時間が分からなくなってしまっていた。
わかるのは自分の体がこの世界に堕ちたときより大きくなっているので、それなりの年月は経過しただろうということぐらいだ。ここへ堕ちたとき、自分はまだ7歳であった。
夏休み最後の日のことだった。燐は目を閉じて思い出す。アスファルトから吹き出る水蒸気で蜃気楼のようにゆらゆら揺れる坂。
あの坂の向こうは大好きな駄菓子屋があって、最後にあちらで過ごした日も、そこへ行ってラムネ二本と弟と自分の分のお菓子と、そして弟のために青いビー玉を買ってきていたのだ。
なつかしい。燐は自然と口の端を上げる。あれから何年過ぎたのかもわからないのに、すごく昔のことであるようで、けれど鮮明に思い出すことができた。
年を取った夫婦がいた駄菓子屋で、頭を真っ白にしたやさしそうなおばあさんは燐がくるといつも、よくきたね、と顔をシワでくちゃくちゃにして笑って、おじいさんには内緒よ、とおまけにいつも飴玉をくれた。
そのおじいさんもすっかり髪の毛のなくなった頭をかいてちょっとしかめっ面をしていることが多かったけど本当は子ども好きの優しい人で、ばあさんには内緒だ、とやっぱりしかめっ面で燐におもちゃをくれることがあった。
ああ、そうだあのビー玉も弟にどんなおもちゃを買っていってあげたらいいかわかんない、と言ったらおじいさんが、これなら喜ぶかもな、といって自分に渡してくれたものだった。
青いビー玉。体が弱くてよく風邪を引いて、羨ましそうに外で元気に遊び燐や他の子どもをみていた雪男。青い空に向かって元気にボールを蹴れる健康な子ども達に憧れていた雪男。
だから、雪男がこれから風邪を引いても外の色を思い出せてさみしくないように、と青いビー玉を買うことにしたんだった。
ふふ、と燐は独りで笑う。
思い出にひたれば、夏のうなるような暑い日差しも、蜃気楼のゆらゆらした影も、駄菓子屋の匂いも、ラムネの炭酸の痛さも、青いビー玉の色も、雪男の顔も、養父の顔も、まるでそこにあるかのように鮮明に瞼の裏に蘇えった。
ああ、あのビー玉、おもちゃ、買ってきてやるって言ったのに。
坂を越えられない体の弱かった弟の笑った顔を思い出す。顔に合わない大きなメガネ、三つのホクロ。泣き顔をしていることが多くて、兄さん兄さん、と後ろをついてまわってきて弟。
そんな自分達を温かく守って育ててくれた養父。あんな別れ方をしたのが、悲しい。ここへ堕ちた当初は、わけがわからなくて、ただ帰りたいと願い続けて必死だったから、
こうして回顧に浸ることなんてなかったのに最近ではそれが多い。
雪男は大きくなったのだろうか、父さんはさすがに年を取って老けてしまったのだろうか。
記憶にある雪男はずっと幼いままだった。幼い弱い、雪男のままだった。
とうさんにあいたいゆきおにあいたい。
毎日、そう願って生き延びきてた自分が記憶の片隅にある。今一度自分の生白い腕を見る。あのころと比べると、大きくなった。身を起こして大地の小さなくぼみに溜まっていた、泥水に顔を映してみる。
汚い赤黒い水だが何も映らないわけではない。そこに現れたのは白い血の気のない顔をした「燐」だった。青い目はひどく澱んでいて、瞳孔は赤いのにどこか暗い。目の下にはクマができていて、こすってもどれだけ寝ても治らなかった。
思わず自分の顔を手で覆ってしまう。自分はこんなに変わってしまった、と燐は膝を抱えた。体からは常に炎が噴出していて牙も爪も鋭く、尾まで生えていて、そして。
「…とうさん」
久々に出した声はひどく掠れていた。燐はここでは滅多にしゃべらなかった。話してくれる相手がいなかったからだ。そして。
「…ゆきお」
自分はこんなに変わってしまった。体からは常に炎が噴出していて牙も爪も鋭く、尾まで生えていて、そして、青い炎を通して全てを魔神に縛られている。
燐がそれを理解したのはここへ堕ちてきてしばらく経ったころだった。そのようなまとわりつく、あの強大で熱く冷たい炎に常に見られている、その恐ろしい事実に気付いたのはすぐだ。
あの低く暗い嗤い声は常に耳に響いていて囁くのだ、おまえは俺からは逃れられない。
どさり、と不毛の大地に横たわる。燐はここへきてしばらくしてから知ったのだが、あの養父は魔神の憑ける可能性のある唯一の人間であるらしく、だからこそ燐は悟った。
きっともう養父には会えない。会ったらきっと、魔神に渡してしまうことになるのではないだろうか。燐は恐ろしかった。養父に会えないのも、養父が魔神のものになるのも。
でも養父が死ぬくらいなら、会いたいけれど、会わないほうがいい。燐は、その事実を知った日に久々に泣きに泣いた。今でも養父には会いたくて仕方ないけれど、
会わないと決めている。いいんだ。俺の欲なんて。父さんが生きているなら。けれど、牙で唇を噛む。
とうさん、今でも元気だろうか。俺のこと忘れてないならうれしいけど、それでも、元気ならいい…でも。
でも、雪男。
雪男に会いたい。それだけはどうしても諦め切れなかった。だってあんな別れ方をしてしまった。待ってろよ、と言ってしまったんだ。俺の弟だからわかる。
きっと雪男はまだあの坂の一歩手前で待っている。だから、行かなきゃ。行かなきゃ。でも。
「ごめん、雪男」
俺はうそつきだ。
体が弱くてよく風邪を引いて、羨ましそうに外で元気に遊び燐や他の子どもをみていた雪男。青い空に向かって元気にボールを蹴れる健康な子ども達に憧れていた雪男。
医者になるという夢をいじめっこにからかわれて泣いていた、自分の夢もはっきり言えなかった雪男。兄さん兄さんといつも後ろをついてまわっていた弟。弱くて、でもやさしい、全力で兄の自分を好きでいてくれた。
雪男。俺の弟。なあもし俺があの時こんな場所に堕ちなくてあのままあの世界で生きていけたらどんな生活を送れていたんだろうな、と燐は時々夢想した。否、夢想しようとするのだが、
7歳で物質界での生を終えている燐にはどうしても想像できなかった。何故なら燐はあの世界のことをあまり知らないままここへ堕ちてしまったのである。どうしてあそこにあっただろう、
明るい人生が想像できようか。虚無界は常に暗く照らしているものは魔神と燐の青い炎だけだった。悪魔達は実態のない気体やヘドロや泥人形のようで虚ろな真っ黒な目だった。
あの世界にあった鮮やかなものなど、ここにはない。温かい太陽もない、澄んだ空気もない。ああ、太陽の下にいきたい、あの澄んだ空気を吸いたい。
雪男に会いたい。
一目で、いい。
死ぬ前に、会いたいのだ。
「俺は死のうと思う」
少し前の話だ。
粘土人形のような崩れたアマイモンの黒い目が、こちらを見た。感情などはそこからは伝わってこないが、さすがに驚いているのだろうな、と燐は察した。
「何故です?」
けれど、さして興味もなさそうにアマイモンはそう言った。父上が許しませんよ、と。
「生きてちゃだめだから」
「人間は悪魔を見たらみーんなそう言いますよ」
粘土人形の口元と思われる部分がもごもご動いた。最近、物質界で人に憑依したときに飴玉を食う癖がついてしまったらしく、虚無界での姿をしていてもアマイモンは時々、この癖を見せた。
自分など飴玉の味は当に忘れてしまっている。
「…だって俺、あの世界、好きだから、こわしたくねーし。サタンの思い通りにあっちを手に入れるのも気にいらねーし、とうさんに雪男…人を殺したくねーし」
「………ふーん」
「だからあっちにいって、太陽の光浴びて空気吸って…雪男に会ったら死のうと思う」
「…そうですか」
やはり地の悪魔はさして興味も持てないようで、もごもごと口を動かしながら、ああまた物質界にいってお菓子食べたいなあ、とぼやいた。そのせいで、なんとなく小さい頃に食べた駄菓子の素朴な味を思い出してしまい、
口元が緩んだ。ああ、やっぱもう一つ追加したいなあ。できればラムネを飲んでお菓子食いたいかも、とここへ着てからやはり感情とかが可笑しくなっているのか意味なくへらっと笑えてしまう。アマイモンは、へえ、とやっぱり興味はなさそうだった。
悪魔は総じて、自分にさえ興味は持てない。
「ごめんな、雪男」
兄ちゃんはうそつきだ。
枯れた大地を爪で引っかいて握り締める。水分のない砂のようなそれは手の間をさらさらとすり抜けていってしまった。あそこで暮らせるはずだった年月のように。
闇を湛えてしまった青い目から温度を失くした涙が流れた。ああ久々に泣いたな、俺。と燐は思う。もう温かいものを流せなくなった自分はやっぱり人ではなくて悪魔であって、
きっとあの太陽の光は自分の肌を痛く焼いて、澄んだ空気は肺を焦がすだろう。いつの間にか虚無界に馴染んでしまったこの化け物の体が憎らしい。自分は実体と青い炎を持って物質界にいける唯一の悪魔だが、
同時に物質界でも虚無界でも上手く生きられない中途半端な存在だ。だったらせめて死ぬときは、あっちがいい。
次に闇色の帳が降りたら、物質界へいって手に入れてこい。
魔神にそういわれたのはついさっきだ。次に闇色の帳が降りたら。物質界へいける。雪男に会える。いや会いたい、せめて顔を見たい。約束ひとつも守れなかったけど、
あの弟はきっとまだ坂の手前で待ってくれている。会ったら自分を殺すだろうか。いや、あの優しい弟のことだ自分に対してはきっと何もできないだろう。
ぼくがつよくなったらいっしょにいってくれる?
ああいったのだから、きっと雪男は強くなっている。たくさんたくさんがんばっているだろう。雪男はそういう弟だ。雪男。7歳までしか一緒にいなかったのに、まだこんなにも愛しい。
この感情は、きっと孤独とか絶望とかそんな負の感情も一緒くたになっていて、そこに愛しさという膜を張っているのだ。
だからこんなにも忘れられない。けれど、そのどろどろした自分の中の壮絶な苦しみを覆い隠すその愛しさは、
やっぱり幼い頃からずっと消えることなく燐の胸の中に燻っているのである。雪男。俺の弟。
もうすぐ会えるぞ。あの坂の向こうから俺は来るから。
そうして、会って、俺は死のう。
この澱んだぬかるみの底から、あの明るく澄んだ世界へ死にに行くために俺は昇っていこう。
ゆきお、なにがほしい?
あのね、あのね、ラムネとあとそれから、
あとおかしもおもちゃも買えるかも。
お、おかしは、あれがいい、よーぐると?みたいなやつ
わかったおもちゃはなにがいい?
お、おもちゃ、わかんない…
よし、じゃあにいちゃんがゆきおのぶんも、おもちゃ買ってくるな、だからそこでまってろよ
……やっぱりぼくもいっしょにいきたいよ。
……ゆきおがもっとつよくなったらいっしょにいこうな。
…ほんとに?ぼくがつよくなったらいっしょにいってくれる?
おう、いっしょにいく!やくそくだ!
だから、いまはそこで、まってろよ。
この澱んだぬかるみの底から、あの明るく澄んだ世界へ死にに行くために俺は昇っていこう。
あの約束とこの悪魔の心臓を青い炎で呑みこんで消すために。
2011.11.6