こぼれたワイン

 

「無理だと思いますよ」
生まれた双子の安全を確保しようやく一息ついたころ、そんな悠長なことをしている場合ではないというのに、年代物のワインのコルクを 抜いて、とくとくとく、とグラスに注ぐその姿を藤本は睨んできた。一応、藤本の分のグラスにも注ぐ。部屋の奥では結界に 守られた双子の兄弟が眠っているはずだった。
「悪魔を物質界で育てるなんてねえ」
「そういうおまえも物質界に馴染んでるじゃねえか」
「おや、私はあれですよ、ちょっとばかり特殊なもので」
今しがたサタンの仔を取り出すというとんでもないことをやらかした二人だが、メフィストは藤本と違い気後れした様子も気張った様子も ない。そもそもこの男のそういう様を見たことがあっただろうか、と思い返して、すぐに、ないな、と結論つく。双子の。特に兄に あたる仔の方をどうするかで散々話し合って(しかしメフィストの結論は始めから決まっていたようだ)藤本の出した答えをメフィストは、笑える、と言って遠慮なく笑ったあと、大切に取っておいたらしい ワインを開けた。そして、無理だと思う、の一言である。藤本もそう思うのだが、そうは思わない確信めいた考えもあった。 悪魔の心臓は魔剣で封印して双子の兄はいまやただの人間の赤子の姿をしている。生れ落ちたその時は、おぞましい悪魔の産声を上げたサタンの 落胤そのものだったというのに。
「私は特殊ですけど、一般の悪魔を代表して言わせれば、」
メフィストは頬杖をつく。つまらないことを思い起こしている時の、彼の癖だと気付いたのは最近のことであった。
「物質界は、悪魔にとっては生き難い。本当に、とてもね。人はちょっと指でつつくだけで骨が折れてしまうような脆弱な生き物ですから。 あの子どもが自分の力を扱えないうちは色々と被害がでるでしょうし。…実のところ私も、最初の頃はこの世界の脆さに慣れるまで時間が かかりましたから」
藤本はこの時初めてメフィストの過去らしい話を聞いたが、それはこれきりのことだった。 そして、藤本はあの子どもの将来を思い描けるほど父性のある人間ではなかったので、メフィストに言われても具体的に想像はできなかった。 できないのだが、そうだろうな、という事実は頭の中に生まれている。目の前には血のような赤黒いワイングラスの中のワイン。 先ほど双子の母親が流した血のような色のそれに、こいつはどんな神経してるんだ、と思った。思うのだけれど藤本はそれに口をつけた。 そんな自分も大概だ、と自嘲する。古いワインはなんだか酸味が強すぎて、行き着けの居酒屋の日本酒の方が美味いと思う。
「本当に脆いものなんですよ。人の骨も肉もその精神も。そして、そのような人間が作り出した物も然り」
つん、と。まだ一口を飲んでいないというのにメフィストはワイングラスを指先でつつく。とたん、ぱきん、とグラスにヒビが入ったかと思えば 、がらり、と割れた。ワインがテーブルにこぼれた。それを見て、悪趣味め、と藤本は目を細めた。
「おまえ、自分は飲むつもりなかったんだろう?」
目の前の悪魔は嗤うだけでそれには答えない。悪趣味め、と罵った。
「このように、物質界は、脆い。その脆い世界で悪魔を育てようなんて、私の末の弟は、かわいそうですね」
ちっともかわいそうなどとは思っていない口ぶりであった。テーブルの上にはこぼれたワインがじわじわ広がって白いクロスを染めている。 じわじわ。先ほど一人の哀れな女が流した血のように広がるそれを見て、藤本は言った。
「それでも俺は…あの子達の父親になろうと思う」
果たしてそう決意させたものが何であるのか、藤本にもよくわからずにいた。ただ、雪の降るあの寺で「君はきっと殺さない」と 笑って魔剣を投げてよこしたあのお人好しの坊主の姿が蘇る。実際、殺さなかった。そうなればもう行く道は決まっている。
こぼれるワインはてらてら輝く。その生々しい赤黒い海の中に映るメフィストはまだ嗤っていた。
「では、双子の誕生と脆弱なるこの世界に、乾杯しましょうか」
こぼしておいてなにを言う。と今度はこっちで嗤ってやった。



2011.5.21