牙に血糊を塗って悪魔のふりでもしてみては?

 

悪魔だ。
目の前の男を見てそう思う。自分の口を押さえつける手にはいつもの手袋はなくて、口が潰れるんじゃないかといほどの力だった。青白い手。 指先の爪が長くて黒い。その手から自分の口へ、鉄錆びた味が広がっていくので血だとわかった。それは果たして自分の血なのか、目の前の悪魔の血なのかもわからない。 ぼんやりとした焦点が合わさってきたころに、男は、にた、っと口の両端を上げた。鋭い牙が覗く。その牙には赤黒く変色した血がこびりついていて、口の端からもだらだらと赤い筋が流れていた。 いつものシルクハットはなくて、濃い紫の髪が頬に垂れていた。目の下にクマをもつ男のタレ目は、今はどこかつりあがって、 瞳の奥がぎらぎら赤く燃えているようだった。いや、赤い。流れている血に染まったかのように、溜まる血の底の瞳が赤い。 それで、押さえつけている自分を見下ろしている。後頭部には堅い床の感触があった。冷たい。ここはどこだ?燐は唐突にそう思う。 思うのだが目の前の男から目を放すことができず、燐は目を見開いたまま男の目を見つめ返すしかできなかった。まるで目玉を杭で打たれたかのように視線が固定されている。 この目の前の男はなんだ?次いでそう思う。目の前の男は普段、燐が抱いていたイメージや雰囲気や振る舞いとはまるでかけ離れた別の存在のようにそこにいる。これはだれだ?再度思う。
『まあったく、お痛がすぎましたねえ』
そこでようやく男は言葉を発した。低い、歪んだ声だ。これさえも普段の男のイメージとはかけ離れている。何がどうしてそんな声になるのか。澱んでいて、深い地の底から這い上がってくるような声だった。 少なくとも人間の声帯で出せるような声じゃない。燐がそれに気付いたとき、男は嫌味ったらしく言った。
『ああ、声帯はあなたが潰したので、治るまでこれで』
見れば男の首元には穴が開いていた。ぞっとする。そこからもだらだら血が流れている。普段巻いているスカーフもない。よく見れば男のふざけたピエロみたな服は所々破けていて、焼けていて、白いマントなんて引き裂かれていた。 獣にやられたように。そんな男の、メフィスト・フェレスの姿を見て、ようやく燐は自分の意識が一部飛んでいたことに気付いた。あれ、俺どうしたんだっけ?頭の隅で一瞬考えるも、すぐに血の気が引いていく思いであった。 ああ、俺はまたやってしまったのか。それがわかると急に体中を襲う激痛に気がついた。おそるおそる自分の体を見れば、シャツは切り裂かれてそこから覗く胸板には横一文字に深く抉れた痕があったし、 腕の激痛に気付いてみれば右腕が赤黒く腫れ上がっていた。折れているのだろう。思わず顔をしかめれば、見下ろすメフィストは暗く嗤った。
『悪魔のようで』
背筋が凍る。男の言葉に男の顔に。燃えるような赤い瞳が、ぎょろり、と自分をねめつける。口を押さえる手の力がより一層強まった。ぎりぎり。顎がきしむ。呼吸ができなくて パニックになり動く左腕で男の手を引き剥がそうとすれば、メフィストはその手をもう片方の手で掴み、ごきん。折った。激痛とその恐ろしい事実に、悲鳴を上げるも、メフィストの手に吸い込まれていく。じわり。目の端から溢れてくるのは、 痛みによる涙だろう。手の下で成すすべもなく悶える燐を見て、男は、ふと、表情をなくした。赤黒い瞳だけが、まるで虚無のように自分を見ている。吸い込まれていくようだった。ぎちり。呼吸が奪われて苦しい。 男は一切の表情なしに自分を見ている。背筋がぞくっと震える。こわい。燐はそう思う。こわい、こわい、こわい。目の前の男が、こわい。今までそんなこと一度も思ったことはない。しかし、あの実の父親たる魔神が養父の体を乗っ取ったときとはまた違った恐怖は確かにあった。 この恐怖は燐をぬるぬると包んで殺す毒の膜のように。
表情のない男の顔は、どこかアマイモンと名乗っていた悪魔を思わせたが、それとはまた違っていたように思う。根底に流れる本能の全てを剥き出しにしたとき、その存在の感情は凝縮され、あるいは殺され、このような虚無の顔になるのではないだろうか。
これはだれだ。悪魔だ。と燐は理解する。このときまで燐はこの男が悪魔であるという事実をまったく知らなかったし、思いつきもしなかった。けれど、今それは確かな事実であったと燐は知り、理解した。こいつは、悪魔だ。これが悪魔だ。 意識が飛んでいた頭の片隅に、思い出されるものがある。炎を吹き出しながら飛び掛る自分の腕を掴み、押さえつけ、胸を鋭い爪でえぐり、その瞬間に歓喜した顔を隠せない、赤い血にまみれた悪魔が。フラッシュバックする。これが悪魔か。 悪魔の本能に食われて何もない瞳が、じっと自分を見ていた。
『おそろしいか』
悪魔が問う。ぬるり、と口の端から血を流しながら、牙が、覗く。それが燐の左胸の辺りに突き刺さる。どこん。と体が跳ねるも片手だけで押さえ込まれてしまう。燐はこのとき、悪魔としての自分の無力を悟った。 がりがり。抉られる。食われる。こわい。とうとうぼろぼろ目から恐怖による涙が零れる。そうかおそろしいか。と悪魔は酷く起伏のない声で言った。これが悪魔が。燐はじくじくと伝わる胸の痛みと同時に、愕然とした。 普段の男がこうも変わってしまうことと、そしてなにより、こういったモノタチと確かに血の繋がっているのだろう、自分のことに。残虐なまるで何も知らぬこ子どものように養父を奪ったあの悪魔も、今、自分を貪る悪魔も。 全部全部、自分にはこれたちと同じ血が流れているんだ。そう思うと、いっそう、恐ろしかった。がたがた。震える。それを見て、メフィストは首をかしげる。
『おまえは私を怖がるが、私からすればおまえが一等恐ろしいよ』
悪魔は燐の胸を貪るのをやめて、口から溢れる若い悪魔である燐の血を指で拭う。そしてようやく燐の口を押さえつけていた手をどけた。しかし、燐は口を開いたまま、悲鳴も上げられなかった。がたがた。震える若い悪魔を見て、 男は思い出したように、にたあ、と嗤った。無表情から一転。この極端な変化も生き物では確かになくて、おそろしい。
男の指が開いたままの燐の口に入り込む。ぐりぐり。そのまま指で牙を撫でられる。牙に血の乗るいやな感触があった。それを見て、メフィストは深い深い声で、若い末の悪魔に囁くのだった。

『おまえは人でも悪魔でもなく、どれだけ炎に呑まれようとどれだけ魔神の子として見境なく暴れようと、その後、正気になれば人の心を取り戻し、哀しみ恐怖する。 おれたち悪魔はそんな心初めから持ち合わせていないんだよ。だからおれはおまえが一等恐ろしい。原始の悪魔の血を継ぎならが、おのれのために人のために涙する。おまえは矛盾しているな。人ではなく悪魔でもないのに、 人であり悪魔なのだ。だからおれはおまえが一等恐ろしく、そして羨ましい。おれが望んだかもしれないものをおまえは平気で手放して、かと思えば平気でまた放り出したものを取り戻す。おまえはこの世に存在するなによりも残忍だ。だからおれはおまえが一等、おそろしいよ』



どうせなら完全な悪魔になって何もかも失えばいいものを、とおれは「悪魔」として何度思ったか---------------











2011.9.17
小説読んで「己(おれ)」っていうメフィストもいいよねって思った。