正十字学園旧男子寮事件

 

紅葉にはまだ早く、けれど昼間も風が少し冷たくなって来た頃だ。食後の運動とばかりに夜と燐は旧男子寮の中庭で木刀と刀を打ち合っていた。赤い柄が特徴の夜の刀。 それが抜かれているところを雪男も燐も見たことがない。夜曰く、抜くと体が半悪魔化するためメフィストの張っている結界に反応してしまうためらしい。 夜が悪魔でありながら人の姿であることは憑依とは少し性質が異なっているらしく、燐の倶梨伽羅への封印と似たような仕組みになっているようだった。最も、詳しいことは夜も話さないので雪男は知らないが。
「ほらほら、遅いぞ燐!」
挑発しているがどこか幼い弟をからかうようにも見える。燐もムキになっているようには見えるが、兄にじゃれつく弟のように楽しそうだった。倶梨伽羅はシュラに預けてあるため燐も木刀で、 夜も刀は抜けないので鞘で応戦している。実技とは少し遠い。シュラとしている修行の方がより実践に近いだろう。けれど燐はよくこうして夜に手合わせをお願いしているのだ。だからこそ課題も(間違いだらけながら) 午前中に終わらせようと努力したわけで。
夜の戦い方には無駄がない。見ただけでどれだけ実践を潜り抜けてきたのか察することができた。あるいは彼にも師匠はいたはずなので、その師匠の教えがよかったのだろうか。 それと少しだが燐の動きと似ているのである。もちろん、燐のほうがまだまだ拙いし、実践では命取りになるような動きも多いのだが、なるほど、似たような戦い方をしてくれる夜に刀を教わりたいという燐の気持ちもわからなくもない。 教わるならタイプの似ている人からのほうがわかりやすい。そうすれば戦うときにで出ている癖のようなものも短所から長所にすることができる。相手が年長者であり経験豊富ならばなおさらだろう。
理屈から考えてそうだろうな、とは思うのだけれど。
やっぱり面白くない。
と雪男は背を木の幹に預けて二人を見守りながら思うのである。雪男の手元には午前中に片付かなかった学校の課題用の問題集があった。解きながら二人を監視しているわけである。しかし、さっきから一問も解けないでいた。 どうも集中できない。がきがき。と木刀と鞘の打ち合う音が耳障りだとか燐の叫ぶ声だとか燐をからかって笑う夜の声だとか。言い訳はいくらでもできたが、正直にいうとどれも違った。
ああ、とうとう木刀を放り投げて素手で夜に飛び掛る始末である。もちろん夜は軽くかわしたが、自身も刀を放り投げて燐と遊び半分の取っ組み合いを始めていた。ぎゃー!と叫びながら地面に転ばされる燐。いやうん、武器を失った場合の戦いかたを教わるのも大事である。 大事なのだが。
「ぬあー足引っ掛けるとかきたねーぞ!」
「実践じゃあ目潰しだってありだぞ!これぐらい逃げられないでどーする?」
「ぎゃー!ギブギブ!骨がいてええええ!」
もう完全に遊んでいるだけだろおまえら。というつっこみを叫ぶ前に握っていたシャーペンを見事にぼきっと折ってしまい我に返った。そうえいば昔、自分達がまだ幼かった頃はああして取っ組み合いでじゃれあっていた頃もあったっけ。と雪男は少し回想する。 最も、体の弱かった自分を気遣って兄は全然本気でケンカしたこともなかったし、よく考えれば殴られたこともないのだ。兄の中で自分はきっといつまでも昔のような守るべき弟なのだろうか。だから、燐はきっとどこかでああして思い切りじゃれつくことのできる相手を求めていたりしたのだろうか。 そこまで考えていた雪男の思考を遮ったのは夜だった。気が付けば、どかり、と横に腰を下ろしていたのである。驚いて回想から返った。夜は口元をゆるくさせながら、燐の方を指差す。ちょっと目を離している隙に、どうやら外へ遊びにいっていたクロが帰ってきたみたいで、 今度はクロを相手にして木刀を振り回していた。
「クロが燐と遊びたいっていうからな。ここはクロの縄張りだからな。俺はもう遠慮するよ」
そういえば、初めてクロが夜を見た時やたら威嚇していたのを思い出す。ここはおれのなわばりぞ!と毛を逆立てていたクロに対して、夜は宥めるわけでもなく威嚇し返すわけでもなく、はいはい了解しました、 とばかりに身を引くのだ。夜が言うのは、こっちが縄張りにお邪魔させていただいてるのだから身を一歩引かせれば大抵はやりすごせる、らしい。やけに経験染みたその言葉が、雪男にはいまだ不思議であった。 悪魔であったころに彼は一体どのような生活をしていたのだろうか。
問題集から目を離して夜を見れば、やけにすっとしまった横顔が、やはり彼は大人なのだと思い知らされる。そして赤い目が、ぐるっと旧男子寮から中庭を巡るように動いたかと思えば、
「…メフィスト・フェレスはまた結界を強めたな?」
横目で雪男を見た。雪男はしばし呆気に取られた。そんなこと気付きもしなかったのだ。夜は肩をすくめる。
「何か起こるたびにだ。あと燐の力が増していく度にどんどん結界が重ねられていってる。気付かなかったか?」
雪男は唇を噛み締めた。彼の言う通りだった。燐の生存がヴァチカンに知れてあわや処刑というところを条件つきでなんとか逃され、加えて不浄王討伐になんとか成功しまたもや処刑を逃れたこともつい数週間前のことだった。
「兄は…あなたと違って危うい身なんですよ」
そうだ、自由に世界を飛びまわって仕事をして、それなりにヴァチカンからは監視はついているだろうけど、燐のように行動の自由もないような身の上じゃない。 そもそも彼は下級悪魔だ。その身に持つ悪魔の力が物質界にも虚無界にも大きな影響を与えるほどのものじゃない。けれど燐は違う。そうだ違うんだ。と雪男は思った。 本質が似ていたって偶然でも外見も似ていたって戦い方が似ていたって。ぱたん。問題集を閉じる。しかし視線は夜を見ないままだった。
「さっきから何すねてるんだ雪男?っつてもおまえ、俺が来るときはいつも拗ねてるよな。別におまえの兄ちゃん取ったりしねーって」
「別にそんなこと心配してません」
ムキになってすぐに答えてしまった。それこそ肯定しているような気がしてバツが悪い。からからを笑う彼が憎らしい。言われてしまえば、そんな風に拗ねていたことは認めよう。でも本当に自分が気に入らないのはきっとそれじゃない。
「…あまり兄に余計なことを吹き込みのは止めてもらえます?」
夜がこちらを見る気配がした。
「余計なこと?」
「わかっているはずです。旅先のこととか……とにかく、外のことをいかにも楽しいことしか溢れていないみたいに兄の好奇心を刺激するのは止めてくださって言ってるんです」
知らず口調がきつくなっていたが構うものか。兄を見れば、今度はクロとじゃれあうのに夢中なようだった。
「軽はずみなことをしないでもらえますか?」
「…別に軽はずみじゃねーし、燐もわかってると思うぜ」
刺々しい口調の自分に対して夜は穏やかだった。顔を上げて彼を見ると、大きな赤い目を細めている。余裕があるその様子に、だからこいつが気に入らないのだ、と雪男は改めて思った。
「わかってる?兄が何をどうわかってるって言うんですか?いつも目を離すとすぐに勝手な行動をして、いつでも処刑される立場にあるってことを理解してくれない」
そうだ。キャンプで刀を抜いてしまったことも、不浄王討伐のときも勝手に牢から抜け出して。なんとなったからよかったものの。ちっとも心配する自分のことを考えてくれない。 そこまで考えて雪男はなんだか悲しくなった。目を伏せる。前を見る。兄は笑いながらクロと遊んでいる。呑気なものだ。
「いや、燐はおまえが思ってるより自分ってものを理解してるっていうか…理解しようとしている最中だな」
夜の言葉に少し頭が熱くなった。
「早く理解してもらわないと困るんですよ。兄には時間がない」
「…そう焦るな」
ぐしゃ。頭を大きな手が覆った。思わず振り払ったが、夜はひどく大人びた笑みを浮かべるばかりだった。
「…燐は確かに俺とはその血統も立場も違うさ。燐のような身の上の悪魔は他にはいない。でもな、だからこそこんな結界で包まれた世界に閉じ込めてちゃあ駄目なんだぞ」
雪男が言い返す前に夜はポケットから石を取り出した。ただの石じゃない。黄色をおびたあめ色の。琥珀だ。
「ロシアからの土産。これはおまえの分だ」
ぽい、と投げてよこされたので思わず受け止めてしまった。ロシアは琥珀の量産地であることでも有名だ。雪男が夜に渡されたそれは、あめ色に輝いている。何億年も前の木の樹脂が地中で固まってできたものだ。 初めて見るそれに返すことも忘れて指に取って眺めてしまった。ほんのり温かい気がした。そしてあめ色の塊の中には、樹脂が固まったときに絡め取られて閉じ込められてしまったのだろう、小さな花の残骸があった。 つぼみのようだ。
「いいか雪男…それはおまえの兄ちゃんだ」
夜の長い爪がこんこんと琥珀の表面を叩いた。雪男はじっと中の花のつぼみの残骸を見る。これが兄?わけがわからない、といったふうに夜を見れば、彼は優しく微笑んでいた。
「こうして固く守られてる。でもそれだけだ。ここからいつか出してやらないと、いずれ固い守りだって崩れるしかないし、何よりつぼみのまま咲くこともない。ずっと、つぼみの花のままだ」
おまえは兄ちゃんがそれでいいと思えるか?
「………」
「燐の世界は狭い。でも燐はそれで満足しているところもある。もちろん、本当に大切なら少数でも構わない。でもな外へ出てたくさんの人と触れ合うことも、ずっとやってなきゃ、いざって時にその勇気はなくなるぞ」
夜は側に生えていた名もない野花を摘みあげた。ぷちん。何か回顧に浸るようにそれを見つめている夜の目は、赤みの強い琥珀のように輝いている。
「そんなことわかってる…でも」
「もちろん、それこそ今すぐじゃなくていい。今やることをやってから、全部終わった先のことでもいいんだ」
そんな先のことを雪男は想像もできなかった。目の前にやることは山積みで、それが全て終わった先が埋もれて見えない。知ったようなことを。と雪男は思ったが、思えば自分だって夜が今までどんな生き方をしてきたのか知らないので、それをいう資格もないことはわかっていた。
「俺達(悪魔)は醜い」
はっと顔を上げる。夜は、まっすぐ燐を見ていた。無邪気に笑うその顔は、尻尾と耳を除けばとてもサタンと人間のハーフであるようには見えなかった。
「燐はいずれそれを知る。悪魔の本性ってやつがどんだけきたねーのかもな。人とは違う。それを他の悪魔から見るのかもしれねーし、自分自身から見るのかもしれない。いずれにせよ、その時がきて、自分の醜さを呪うことがあったときは、 きれーなもん見せてやれ。豪華なもんじゃなくていい。ささやかだけど、美しいものでいいんだ。そのためにもこんな化石の中で閉じ込められたままじゃ駄目なんだよ」
「………」
「世界はきれーだって教えてやれ。俺が言いたいのは、それがくるのが全て終わった先かそれとも道の途中なのかはわかんねーけど、いずれ来た時に、それを教えてやるのはおまえの役目だってことだけだ」
ぽんぽん。と頭を軽く叩く大きな手を振り払うのを雪男は忘れていた。握り締めた琥珀が温かい。
「自分に生きてる価値がねーなんて思わせるなよ」
くそ、目が熱いのは気のせいだ。と雪男は固く目を閉じた。でもそれについては何も言わない夜の気遣いが逆に悔しいのである。そうだ、妬ましくて、悔しい。
「わかってますよ、そんなこと」
「そーだな。おまえは賢いからな」
「…あなたは本当にずるい」
「そりゃあ大人はみんなずりーよ」
からから、と笑って夜は立ち上がった。指先で摘んでいた名もない野花をさりげなくポケットに押し込んだ。彼は名もないそれをどうするのだろうか。
「ま、いざってときはそんな大人にも頼れ。俺だって力になれる」
それを聞いたとき、ああそうか。と雪男は思った。だから彼は、世界の珍しい話やきれーなものを燐に教えて与えてくれるのだろう。いずれくる時のために。少しでも手助けになるように。 くそ、やっぱり悔しいな、と雪男は思うのだった。手の中の琥珀が熱い。いっそ自分の手で溶けてしまえばいい。そうすればつぼみのままの花も解放してあげられるだろうか。
「あなたになんか頼りません」
でもそういってしまうのはただの意地だ。しかし夜はわかっている。
「燐はわかってるけど、確かにおまえに関しちゃちいっと鈍いかもな。弟が嫉妬してるって」
してない!と叫ぶも夜はひらひらと手を振って、背中を向けて、燐に向かって歩いていった。


丁度クロと遊び終えた燐は夜に渡された琥珀を見て、すげー!と目を輝かせていた。燐に渡されたそれに何が閉じ込められているのか雪男からは見えない。見るつもりもなかった。夜ありがとう!と素直に礼を言って 夜に抱きつくその様子を雪男は先ほどより幾分か穏やかな気持ちで見ることができた。ほんじゃまー俺はもう行くわ。という夜の声。えー!と寂しがる燐の頭を撫でて、
「元気でな」
と一言告げると、夜は薄紅色に輝く夕暮れ闇の中を消えていった。



「夜、泊まっていけばいいのにさー…次はいつ来てくれんだろーな」
「そうだね、また任務ならもう少し後になるんじゃない?」
「ちぇー…。あ、雪男もう夕飯できたから皿並べてくれ」
「うん、わかった。でもほんと兄さんは夜さんが好きだよね」
「おう、好きだな。かっこいいし!あとかっこいいし!」
語彙の少ない兄に苦笑しながら弟は皿を並べる。その上に兄が作ったばかりの料理を並べた。
それを見て、雪男は、あ、と声を上げた。
「…兄さん、今日の夕食」
「あ?…ああ、俺特製の刺身のアレンジ料理と魚の天ぷらだ!」
たんと食えよ!と胸を張る燐に雪男は口元が綻ぶのを止められないでいる。



その日の旧男子寮の夕食は、昼間の具の大きなシチューの埋め合わせであるかのように、たくさんの魚料理が並んでいたのだった。







2011.10.10