ずるずる、ぼふん。

 

「ほんとはさ、暗いところ苦手なんだ」

ベッドサイドの部屋をぼんやりと橙色に染めるランプを消そうとしたところそのようなことを言われた。メフィストは思わず手を止める。 意外にもメフィストの寝室はまともといえばそうであったが、それは趣味のために作られた部屋と比べればという話だった。少なくとも修道院で質素な暮らしをしてきた燐にとっては、 このだだっ広いいかにも高そうなキングサイズのベッドでさえまともな部類には入らないのだが。ピンクの家具や小物やオタクのグッズで溢れた部屋より大分マシではある。 だからというわけでもないけれど、メフィストには理由もわからないけれど、いつの頃からか燐はメフィストの寝室に入浸るようになった。メフィストはいくら末の弟に当たる燐といえど、 燐よりもその存在の形が似ているアマイモンといえど寝室にまで入り込まれて放っておけるような寛大な性格はしていないし、ベッドに入り込まれるなどもってのほかであった。 それでも、いつの頃からかベッドに入り込んでくるようになった燐を拒まないのはそれ相応の関係であるからだった。先に手を伸ばしたのはメフィストであった。その手を取ったのは燐であった。 思えばこんな子供に対して何故手を伸ばしたか、メフィストは燐と過ごすうちにだんだんとわからなくなってきた。当初はもっと玩具を増やすようなそんな享楽に満ちた動機であったと思う。 それなのに、今だこの末の弟に対してはその身を抱きしめる以上のことをしていない。アマイモンがそれを知ったら「兄上のその憑依体は不能でしたっけ?それならば 早く変えられたほうがいいですよ」と失礼極まりない言葉を吐いてくるだろう、と容易に想像できてメフィストは想像の中で無表情にそう告げるアマイモンに対して顔をしかめた。 しかし、確かに何故、燐に対してあまくゆるくぬるい対応しかしていないのか、メフィストにはよくわからなくなっている。
「ほう、それは意外で」
アマイモンのいやな(想像の中での)言葉を忘れるように眉間のシワを意識してなくす。ランプはまだ消さず、つけたまま。白いシーツをかぶりながらふかふかの枕に深く頭を静めている燐は、静かにランプの橙色の電球を見つめている。 青い目に橙が映りこんでまるで物質界に初めて来たときに見た夕焼けのようだ、とメフィストは珍しく感慨に耽った。
「小さい頃の話」
ランプから目を逸らして夕焼け色に染まっている燐の目がメフィストの目と合う。枕にちらばる青い黒髪も橙色の薄い膜に覆われてこちらも夜更けの夕焼けのようだった。
「ほんとは雪男が暗い場所をいつも怖がってたんだよ。俺もなんとなく怖くってさ、でも雪男が泣くから俺は兄ちゃんだから暗い場所を怖がってちゃいけねーなって、強がってるうちにそれほど怖くもなくなったけど、 時々、思い出すんだ」
ごそり、とシーツのこすれる音をたてて青年と少年の間悪魔と人間の間にさしかかっている中途半端な体が、悪魔としても憑依体としても成熟しているメフィストに身を寄せてくる。 考えてみれば燐が何故、この道化の悪魔の手を取り抱きしめられてこうして寄り添って眠るようになったのかその理由もメフィストにはよくわからなかった。ただ、その身を抱きしめる度に感じられるものは純粋な寂しさであると思う。 人間の弟とも塾の仲間とも埋められないそれを、燐はもてあました末にたまたま手を伸ばしてきたメフィストに縋ってみた。そんなところだろうとメフィストは予想している。 最も、本人からそれを聞いたわけでもないので知らないのだが。
寄り添ってきた体に腕をまわす。ゆるく、綿で包むように。
「…なんかおまえと一緒にいるようになってから、暗いところがこえーなってよく思うようになったっていうか」
自分でも自分に起きている思考の変化をよく理解していないのか、燐はうーんと首をかしげながら言葉を紡いだ。メフィストはそんな姿に薄く笑みを浮かべる。
ぱちん。とメフィストはランプを切った。あ、と燐が声を上げる間に、その身を白いシーツの中に引きずり込む。燐は反射的に抵抗しようとしたのか少し伸びかけた爪がシーツをつかんだが、 むなしく引きずり込まれていった。ずるずる。ランプの光もない真っ暗になった部屋で、さらにシーツの中は暗かった。しかし互いに人間とは言えない存在なのでそれなりに夜目が効いていて、燐はぱちくり数度瞬きしただけでもう慣れたようだ。 しかし、暗い。薄く笑うメフィストの顔だけが目の前にある。そのメフィストが伸し掛かるように燐の体に覆いかぶさった。しかし少しの重みを感じただけであった。吐息が近い。 脈打つ憑依体の存在がぴったりと覆ってくる。燐はまた数度瞬きをする。しかし逃げないその無防備な子どもにメフィストは少し苦笑した。
「暗いのが怖いのなら炎で照らしてみては?今のあなたならシーツも私も燃やすことなくできるでしょう?」
そう耳元で囁くと燐は少し考えるような仕草をしたのち、ぼう、っとその身から青の炎を吹き出した。幕で覆うようにほんのりとだが。それはシーツもメフィストも燃やすことなく穏やかに暗い世界を照らした。 メフィストの顔が青い炎に照らされて、濃く青い影を落す。メフィストは今だ燐に覆いかぶさっている。
「奥村くん、あなたがそう思うのはね」
青に包まれるその頬を冷たい指先が撫でた。つつつ。と爪ですられるのがくすぐったくて身を捩るもメフィストは逃がしてはくれなかった。また燐も逃げなかった。 青の目がメフィストを見上げている。純粋に己の気持ちに対する答えを求めるその視線を、メフィストはどのような顔で受け止めていいかわからなかったので、結局いつものように 薄く笑ってみせた。
「縋る存在ができたからですよ」
そう告げれば零れるように見開かれる青い目が、そうだ、いとしいのだろうと、メフィストは思った。



思えば虚無界という世界は常に魔神の撒き散らす青い炎に覆われていて、メフィストたち悪魔はその炎の囲いの中にいるようなものであった。それは悪魔を悪魔として拘束するものでありまた魔神の絶対を思い知らされるものであった。 そういう意味では虚無界に真の暗闇はなかったといえよう。事実、初めて人に憑依して物質界にやってきた初めての夜にこそ、メフィストは真の暗闇を見た気がするのだ。 そして人の心の中に。人より悪魔の方が、よほど暗闇を知らないのである。



「…実は私も、」
ぼふん。体の力を抜いて燐に覆いかぶされば、おもい、と文句を言われたが無視した。
「あなたと寄り添うようになってから、暗闇が恐ろしいかもしれない、と思うようになりまして」
驚きに顔を染める燐が何かを言う前に、メフィストは初めてその若い唇を己ので覆った。

かつていた虚無界の強大な炎には及ばないか弱いけれど絶対の炎は、けれどあれにはない優しさと愛しさをもってメフィストの暗闇を照らしている。











2011.10.22