「そんなつもりじゃなかった」
それは最もおろかしい言い訳だとメフィストは思う。
燐は全ての話を聞き終え、今はソファに座り込んでどこか床の一点を見つめていた。再びデスクのイスに腰掛けているメフィストからは燐の表情を覗えない。
ただ若い頬に垂れる青みのかかった黒髪が、雲の隙間から差し込んできた月光で、綺羅綺羅、と煌いているのがわかるだけだ。
「…藤本は、」
養父の名を出しても、燐は屍のように身動きもしなかった。
「藤本は、当時、あなたに何も教えなかったわけではないでしょう?」
「………」
藤本獅郎が15年間、燐をどのように育てたのか、メフィストは知らない。ユリ・エギンから血まみれのこの子を取り出して、悪魔の心臓を倶梨伽羅に封印したその時から、
獅郎の墓の前で出会うまで、一切接触はしていなかったからだ。ある程度の報告は当然獅郎から聞いてはいたが、そこに「人間の子育て」の話はあまり聞かなかったし、
メフィストも興味がなかった。ただ墓の前で出会った時、なるほど藤本らしい育て方をしたものだ、と感じてはいた。
しかし、この件に関してだけは、獅郎の親の情からくるという弱さが浮き彫りにされている。
あの男は確かに燐に教えただろう。しかし、向き合うことはさせなかったのだ。それはまだ燐が自分の正体を知らないから、その時が来たら同じように自覚させるつもりだったのか。
あるいはこんなにも恐ろしい事実を自分の息子に自覚させることを、哀れに思ってしまったのか。
どれであったとしても獅郎は死んだ。おそらく獅郎のことだ。燐が何をしてしまったのか、薄々気づいていただろう。当時、メフィストも薄々そうなのではないか、と察してはいた。
だからこそ、悪魔達の起源について獅郎に投げかけてみたのだ。結局、あの男も人であったので踏み込んではこなかった。もしかしたら無意識に逃げたのかもしれない。
育てていた双子への愛しさを口実にして。だからメフィストはあれ以上のヒントは与えなかった。
実際にアサガオと梟を目にしたわけではなかったので確信はなかったということもあったのだが。そして、今回の事件の異常性と奥村雪男が拾ってきたタールと梟の羽。
当時の獅郎の話、今の燐の話。それら全てで確信を得た。
メフィストは自分の悪魔の心臓が歓喜と狂気と畏怖に燃え上がるのを感じている。
やはり、奥村燐は、自分が想像していたよりもずっと脅威の存在である。
悪魔を創りだせる。それはいずれ虚無界まで赴き魔神を倒すための武器になる、燐にだけ従順で燐のために戦える人には到底ない力を持った駒を、燐自らが創りだせるのだ。
魔神へ対抗できる武器がまた一つ、増えた。
だから燐には、やがて全てと向き合わせなければいけない。今回の件で燐がずっと目を逸らし続けたのは、
それは獅郎の失態だ。そして、獅郎の諭す言葉を本当の意味で理解できなかった燐も。
けれど、
獅郎はもう死んだ。ならば、子どもは独りで歩き続けるしかない。悶え苦しみ足掻きながら。
「…よかったですねえ…その「力」で藤本獅郎を「もとにもどさなくて」」
悶え苦しませ足掻かせながら。
「そうしたならば、確かに今でも「藤本獅郎」は笑いながらあなた達双子の側にいてくれたでしょうね。あなたが辛いときは優しく甘やかし、あなたの全てを否定せず、
あなたを守り続けてくれた」
「………」
「けれど、そこまでです。もしあなたが藤本の遺体を梟達と同じようにしていたら、それは「藤本獅郎」の皮を被り、あなたの望むままに父親を演じる別のモノになっていただけ。真実でもなければ
それはもうあなた達の父親ではなくなっていたでしょうね」
「…もうやめてくれ…」
嫌に抑揚のない訴えだった。しかし、メフィストは、にい、と口の端を上げる。そういうわけにはいかないのだ、と。
試験管の中で、ぞぞぞぞぞう、とタールが蠢く。
「奥村くん、これをよく見なさい」
それを揺らしながら掲げる。数秒間を置いて、燐はゆっくり顔を上げた。無表情を通り越し、唇は裂けて血が赤黒く滲んでいた。
青い目にはいつもの輝きもない。月光が照らすせいか、
青白い皮膚の幼い顔。
心の死んだ人というのはこういう顔をするのかもしれない、とメフィストは思う。
虚ろな青い目が、試験管を見る。
「私が調べたこととあなたの見たものを推測すれば、これはおそらく魔神が最初に創った原始に近い悪魔のできそこないです。
魔神の心臓の一部を削って創ったものです。その頃、魔神も自分以外の悪魔の創り方がよくわからなかったのでしょうね。
それが悪魔として形を成さず、虚無界に流れる汚泥の川に捨てられ、底に埋まりどろどろに腐って溶けたもの」
輝きを失っていた燐の目に、仄かな炎が宿ったのを見た気がした。
「しかし、我々悪魔達に「生」がなければ「死」もないように、これは死ぬことはなかった。人間などには想像もできないほどの時間の中、虚無界の底に埋まっていた。……
そして這い上がってきた」
なんのために?
燐はもうわかっているだろう。小さな拳をぎゅっと握り、おそらくあの悪魔に襲われたときのことを思い出している。
「それは俺を求めてる」
確信を得た燐の言葉に、メフィストは、よくできました、と嗤って見せた。
「それは…悪魔として完全になりたいんだ。青い炎が欲しいんだ…。魔神にもう捨てられないために」
父親に捨てられないために。
「奥村君、私はあなたが学園に入学した頃、あなにだけ特別な結界を施していました。あなたを狙う悪魔はそれこそ腐るほどいますから。
人間やそこいらのハーフには耐え切れないほどの強い結界です。あなたはものともしていませんでしたが」
燐は、嫌そうに鼻面にシワを寄せる。むしろそれで守っていてあげたんですから感謝して欲しいぐらいだ、とメフィストは肩をすくめた。
「それはこのできそこないにも有効だったようで、あれはあなたの居場所を正確には特定できていなかったのでしょうね。あなた達があれを罠にかけようとしたとき、
あれがあなたではなく真っ先にヴァチカンの手騎士に襲い掛かったのはそのためです」
その場にはいなかったはずなのに、報告を受けていただろうメフィストだが、詳細に語る口ぶりに燐はいぶかしんだ。メフィストはいかにも忌々しそうに、眉間にシワを寄せている。
「あのとき…さすがに死人を出すわけにはいかず、ましてやあなたをあれに取り込まれるわけにはいかなかった。だから私はあれが覆う部屋に入ろうとしていました、
しかし、阻まれた。入れなかったんですよ、この私さえも…。おまけに居場所さえ特定できない。実に隠れるのが巧い」
上級悪魔の伽楼羅もさらに長い年月存在し、魔神の息子に当たる大悪魔のメフィストでさえもあれの作り出す境界には踏み込めなかった。おまけに燐に施した以外の結界はままったく効果を成さなかった。
甚くプライドが傷ついた、とメフィストは試験管の中のタールを睨む。
「悪魔は創造されたとき、名を与えられ立場を与えられある程度の知識と特定の力を与えられます。そうして悪魔達は名と立場と知識と力によって己というものを縛っていきます。
悪魔として確立していきます。だから効果のある結界もある、効果のある祓魔の術も出てくる。しかし、これには何も与えられなかった」
どろり。燐を求めるように蠢く「できそこない」。
「あなたが今の今まで私以外に話をしなかったことは、賢明とはいえませんが間違ってはいない。
あれは最早人の手には余る。人に話したところで、人の力程度でどうこうできるモノではないんですよ。あれには何も与えられなかった。己を縛る、名も、力も、立場も。だからこそ、
あれには何も通用しません。あれが魔神の心臓でさえなければこれほどの事態にはなりませんでしたが、
あれは確かに魔神の捨てた心臓の一部です。簡単にはいかない。あれには何もない。今後どのような悪魔に変貌するか誰にもわからない。
あれが悪魔にとっても人にとっても魔神につぐ脅威になるまえに、始末するべきなんですよ」
始末する。
魔神の炎を唯一継いだ燐にも「死」による選択を迫ったメフィストだが、あれは燐がどのような選択をするか試しただけに過ぎない。けれど、あの悪魔に関しては選択する余地など与えない。
そういった意志が黄色を帯びた緑の目に浮かび上がっている。それは容赦のない悪魔独特の残忍な目だった。
「本来ならばあれが憑依できるような物体は物質界には存在しえなかった。できそこないで悪魔にもなりきれていない逸脱したものですからね。
しかし、あれはあなたの創った梟に取り憑いた。最も魔神の血を色濃く継いだあなたの「力」を帯びた悪魔としても逸脱した梟と、
何も継ぐことはできなかったが同じく最も魔神に近い存在として捨てられ逸脱したあれと。そこが共通点となってしまって憑依できてしまったんです。
そしてあなたの創ったキキョウを食って最初の力の器を得てしまった」
燐は思い出しているだろう。自分の創った悪魔に憑依し、汚らわしいタールで覆われ、ぱくぱく、悪魔の心臓の肉塊を求める左胸を。
燐はあれに傷をつけられた。あれは燐を求めている。だから傷をつけたのだ。いずれ呑みこむことができるように、容易に燐の身を自分のものにするために。
きっと、あの悪魔が受けてきた哀しみと痛みと寒さを味遭わせて同化させるために。燐は冷たくなってきた左腕をさすった。メフィストも燐の傷を見た時点でこのことについては気付いていた。
そしてあれは、燐の創った梟の悪魔にとり憑いている。だから、
「あなたはあれを始末しなければいけません」
いえ、おそらくあなたにしか始末できない。その青い炎でしか、あれを倒せる手段がない。あれには何も効かない。
「しかし、あなたはあれの憑依している梟に名を与えた。
そもそもその梟はあなたが創った悪魔だ。
そこが鍵となる。あの梟が今だにあなただけの哀れな悪魔ならば、あれを始末できる可能性がある。
どう始末するかはあなたが考えなさい。炎を持たない私にはこれ以上、教えようがない」
フータ。と血の滲んだ燐の唇が確かにその名を紡いだ。そう呼んでいた。そう名前をつけた。つまり少なくともフータはその名で縛られている。
燐のために鳴いて、雪男を喜ばせてくれた梟を。
「あなたがあれに傷つけられた以上、もうあれからあなたを隠し切ることはできない。近いうちに再び襲ってくるでしょう。これだけは忠告しておきますが、決して倶梨伽羅は取られないように」
燐は思わず背中に負っていた倶梨伽羅を手に取る。
「それにあなたの悪魔の心臓が封印してあるのは、オペラ座の法廷で話した通りです。あれはまだそのことに気付いていませんし、あれが青い炎を持った悪魔と成るには心臓だけではなくそれに耐えられる肉体…
奥村君自身の肉体も必要になりますが…倶梨伽羅の中の心臓が取られたらもうあなたはあれに抵抗のしようがなくなりますから」
「…全部呑みこまれるってこと?」
その通り、とメフィストは人差し指を立てる。
「しかし、その前に心をあれに呑み込まれてしまわないように、強くありなさい」
燐は左胸に当てるようにぎゅっと倶梨伽羅を握った。とくとくとくとく。どちらからだろうか。心臓の鼓動が響く。そこにつけられた傷がうずく。燐はもうわかっていた。
相手がこちらを同化させるために傷をつけたなら、きっと、この傷の冷たさは相手を追い詰めるために使える。少なくともあれの思考が悲痛な叫びが燐にはわかったのだ。
きっとそれでフータのことも辿れる。鳴き声が聞ける。居場所がわかる。
燐の青白い顔に暗い影が落ちたかと思えば、
赤い仄かな光が灯る。窓を見ればもう夜が明けようとしていた。薄い赤からオレンジ色に染まる空。朝焼けである。メフィストの理事長室の窓は東側に設置されていて、
朝日などが充分に差し込める大きさがあった。規則正しく昇り降りる、命の源。じわじわ冷たかった部屋に熱を与えていく。
真に神々しいのはああいうものだ。
燐はすくっとソファから立ち上がった。ゆらり、と薄く青い炎が噴出したかのように見えたが、それは一瞬だった。燐はメフィストに背を向ける。
それは成長途中で青年と少年の狭間にある小さな背中だった。その背にどれだけのものを背負っていくのか。メフィストは想像して、口元が歪むのを止められない。
「もちろん私もサポートはします。これ以上やつを私の領域内で好きにさせるのは気に入らない。今後のことはまたこれからにでも。今日はもうお帰りなさい」
と告げると燐は小さく頷いたようで朝焼けに赤く染まるドアに手をかけてから、ふと、思いついたように言った。
「…おまえは…何で創られたんだ?」
メフィストはしばし黙ってから、
「さあ…昔のことすぎて忘れてしまいました」
と答えた。
「…ゆき…お」
扉のすぐ前にいた。黒いコートに身を包んだままだった双子の弟。戸惑う燐の姿を眺めながらメフィストは、くつ、と嗤い声を漏らしてしまう。きっ、と燐が振り向いてメフィストを睨んだが、
白い悪魔は空惚けた。おや奥村先生、立ち聞きですか、と。この扉が容易に向こう側に音が聞こえるような作りになっているわけがない。最初からメフィストは追ってきた彼のことに気付いていた。そして、燐に気付かれないよう小さく、
カウントしていたのだ。向こう側にも聞こえるように。
「…ゆき、」
「兄さん」
弟は表情のないまま、兄の左手を掴む。
「帰ろう」
そうしてメフィストへの挨拶もしないまま、その手を引いて扉を閉めた。ばたん。
(そうだ)
朝焼けがだんだんと薄い黄色に染まり、青い空が広がる中、白い悪魔の心臓が狂喜に震える。
(そうだ。そうしてまた一つ、自分を知るのだ。おまえにはまだまだ知るべきことが山ほどある。
その力と血の中に流れるおまえの破壊的な力と創造的な力をもっと知り、自覚し、向き合っていけ。それをどう扱っていくのか考えていくのだ。悶え苦しみ足掻きながら。
そうすることでおまえはもっと強くなる。おまえがそうなることで、私はおまえの後ろでいつまでも愉しく嗤っていられるのだから)
2012.1.29