生き残っている人間なんてもうほとんどいない。いたとしても悪魔に飼われいいように弄ばれて飽きれば骨まで食われてしまう。
美しかった緑も大地を潤す水もみんな腐って澱んでヘドロになってその上を悪魔が我が物顔で蹂躙している。
その中で憑依体を捨て虚無界にいたメフィストはただひたすらひとつのことだけを思って鍵を作っていた。
自分の知恵の全ての結晶を。悪魔を大量に物質界に手引きしてサタンの望むように支配させた。あとのことはどうでもよかった。
メフィストはあの世界が憎かった。ひたすら憎かった。その褒美として神と呼ぶべき父親から与えられた神しか知らない知識も。禁忌と言われた知識も。
全てを駆使してメフィストはやがて真紅の鍵をひとつ作り出した。
夏の終わりからすぐに秋深い季節になったかと思えば紅葉した落ち葉がすっかり落ちて、明け方の寒さが増して、街がそわそわし始める頃(燐にはもう街の様子を察することはできないけれど)。
ふとそうかもうそんな季節か、と燐は思った。
メフィストの屋敷の中は常に空調が効いているので燐はここに来てから季節感というのをあまり感じたことがない。
それでもかろうじて忘れずにいるのは雪男の持ってくる塾や学園での写真と、時々、メフィストが思い出したように燐を車に乗せて散歩に出るからだった。
今月の面会で雪男から貰った写真を見る。秋には学園でも文化祭というものをやるらしく、塾のみんなとあるいは学園の生徒達と文化祭の出しものをしている雪男が写っていた。養父が撮ったのだろう。
写真の光と影の入り方に養父のものらしいクセがある。小さい頃から自分達を写真に収めてくれているので、アルバムをめくっていれば自然と養父の写真を撮るときのクセというものがわかるのだ。
写真の中の雪男はたくさんの人達に囲まれて控えめに笑っている。まだ子供なんだからもっと思いっきり笑えばいいのに、と思ったのだがなんだかこういう笑い方の方が雪男らしい。
杜山しえみという女の子はどんどんかわいくなっていて、夏より少し髪が伸び、雪男と二人で写っている写真が多かった。白い頬を真っ赤に染めた大きな目のかわいい女の子とはにかんでいる雪男。
今度このしえみという女の子のことで雪男をからかってやろう、とソファに寝転びならが燐はくつくつ笑う。
こうしてみんな前に進んでいくのだろう。
背が伸び体も心も熟して成長してやがて素敵な人を見つけて家族というものを作っていくのだ。雪男もそうなるんだろうなと思うと胸から湧き出るのは嬉しさだけでいいのに、
息ができなくなるほどの寂しさが込み上げてきた。
むくりを起き上がり、自室を出る。メフィストの部屋に向かえば、外の人間達は成長して養父も白髪が増えていってしまうのに、この男だけは何一つ変ることなくデスクで羽ペンを動かしていた。
「…燐?」
珍しく自分から赴いた燐に首をかしげた。何か聞かれる前にその肩に頬を押し付けて、項垂れる。燐、と呼ばれたが返事はしなかった。肩にもたれる自分の頭を紫の手袋をした手が撫でる。
ゆるゆると頭を撫でられる感触に、ああ侵食されてる、と思う。
メフィストは自分から家族と過ごす時間を奪い祓魔師になりたという夢を奪い自由を奪った。酷い悪魔だと思う。もちろん憎んでいた時期もあるし今でもそうだと思う。
でもどうしてか、夏の終わりに初めて抱かれてからこの男とは離れがたくなってしまった。縋るように自分を抱いて離れないでと子供のように強請る悪魔が。抱くことはなくても毎晩ベッドの中で抱きしめて、
狂ったように自分の名前を呼び続ける悪魔が。
メフィストに対して何か言い表せない感情が生まれるようになって、でもよく考えてみたらそれは最初から燐の中にあった気がするのだ。
そのカラだった器の中にメフィストは甘い甘い果汁を流し込んでくるようだった。
自分はここで止まっている。前にも進めず自分というものの価値をどうして見出せばいいのかもわからない。外のみんなは前に進み、雪男は祓魔師をしながら普通の人間としての人生も歩み始めている。
そのうち医者になるという夢も叶えるのだろう。それはとても嬉しいけれど、どうしても、息ができなくなるほどの寂しさが。
いつの間にかやわらかなベッドの上でメフィストの腕に囲われて喘いでいた。男から襲ったのか自分が誘ったのかわからなかった。そのあたりの記憶が曖昧だ。汗の浮かぶ色の悪い顔が、真摯に自分を見下ろしている。
その緑の目の中に映っている自分が、まるで迷子になって母親を探している犬のようで惨めだった。けれどその惨めさを消してしまうほどメフィストは強く自分の中を打ってくる。
燐、側にいて離れないであなたを失いたくない。と繰り返す男がどうしてか、惨めな自分以上に可哀想でその頭を抱きこんでいた。
それはやわらかくあたたかく燐を拘束して離さない。
かちゃかちゃ。白い食器に料理を盛り付けて雪男と養父から送られたバースデーケーキをテーブルに置く間もずっとメフィストは燐から目を離さなかった。
12月に入ってからずっとこんな調子で、学園に仕事へ向かうことさえもしなくなり仕事は屋敷に持ちこむようになった。燐はもう慣れてしまったので何も言わないが、
メフィストは今年の燐の誕生日が近づくごとに何かに常に怯えて、ますます燐を離さなくなった。気まぐれな散歩もなくなり面会も12月に入ってから一度もしていない。電話もだ。
雪男と養父にどういっているのかわからないが、メフィストはただ誕生日までこのままでお願いします、とまで言ってきたので燐は大人しく従うことにした。
首の契約のサインはここのところ毎日新しく施され、燐には反論のしようがなかったのもあったのだ。
約束通り、燐の16歳の誕生日はメフィストと二人きりでメフィストの屋敷で行う。
10歳のあの日、誕生日は台無しになったがそれ以降の誕生日は面会という形ながらも家族三人で祝っていたのである。クリスマスもだ。メフィストと祝ったことはなく、そもそも悪魔が神の誕生を祝うのもおかしい。
自分も悪魔だが家族と過ごせるわずかなイベントを燐はどんな理由であろうとないがしろにするつもりはなかった。それにメフィストはひどく神やヴァチカンの信仰を毛嫌いしているのだ。
表立っては決してそんな態度は見せないけれど、憎んでさえいるのかもしれない。一応、名誉騎士という称号を与えられ騎士団に協力していながら何故そうなのか、燐は知らない。
毎年クリスマスと誕生日を家族で過ごせることを、10歳の誕生日を台無しにしてしまった償いですよ、とメフィストは言っていた。それなのに今年だけは二人でこの屋敷の中でとメフィストは言う。
何がそんなに恐いのだろう。
12月27日。朝からワインのボトルを開け始めたメフィストを見ながら考えるが答えなど出るはずもない。全てを知っているのはメフィストで、
カラになるワインのボトルが増えるたびに燐は落ち着かなくなった。
部屋に満ちるアルコールの匂い。メフィストが触れてくる手の熱さはアルコールによるものではなく虚ろな目もそうじゃない。
その目はここではないどこか遠い場所を見ているようだった。それでもメフィストはずっと燐の姿だけを追っていて、自分を絡むような視線を感じつつ料理をして並べていく。
カラになるワインのボトルがまた一本、一本と増えるたびに燐は早まる鼓動を止められなかった。
そうして向かえた夕食の時にはもうカラのボトルは10を越えていて、養父の命日を告げたあの夜と重なる。箸を動かして自分で作った料理を口に運びならが、燐はあの時見た映画の結末はどんなのだっただろうか、と
考えた。思い出せなかった。料理はスキヤキにした。10歳の誕生日の時に作るはずのもので、材料は当然のようにキッチンに用意してあった。
なんだろうこれは嫌味だろうか、と思ったがスキヤキは食べたかったのであまりひねくれて考えるのは止めておいた。メフィストなりに10歳の誕生日を台無しにしたことは本当に悪いと思っていたのかもしれない。
ぐつぐつ煮えるスキヤキの匂いに自然と箸は進み、会話は少なかった。外へ出れない燐には会話をできるようなネタもないのに、
メフィストはぽつりぽつりと燐に話しかけ、燐も、ぽつりぽつりとメフィストに話しかけつつ食事を食べる。何を話しているのかさっぱり頭には残らなかった。
ワインにスキヤキって合うのだろうか、とどうでもいいことを考えていた時点でなんとなく自分が緊張していることに気付いた。
滞りなく食事が終わり、片づけをしてテーブルに戻ればメフィストはワインをまだ飲み続けていてつまみなのだろうか、やわらかなパンをどこからか用意していた。
耳がこんがり小麦色のプルマンブレッドだった。燐が朝食によく出すというかキッチンに常備してあるものだ。
別にまだ食べたりないという様子でもなく、メフィストは何故か、そのパンのカケラをワインに浸して、食っていた。
白いテーブルの上に、パンからしたたるワインが広がっている。
燐はため息をついてテーブルを綺麗にするのを諦めた。ケーキ出すのにそんなん食うなよと言ったのだが、私はこうするべきなんです、とおかしなことを言う。
もう構わず家族二人に贈られたバースデーケーキを取り出した。メフィストからの贈り物なんて鼻から期待していない。家族二人のプレゼントだけで充分だった。
そう思いつつやわらかく繊細な白いクリームのケーキをカットした。一応メフィストの分も切って皿に分けておいた。メフィストは何故か、白いクリームの上に乗った真っ赤なイチゴを凝視していた。
ぽちゃん。
ワインの中にパンを沈めて、メフィストはケーキを口に運び始めた。つられるように燐もフォークでケーキをすくって口に運ぶ。甘ったるいけれど燐好みの味だった。
メフィストは真っ赤なイチゴをフォークで刺すと、あん、と一口で飲み込んでしまう。血色の悪い舌に飲み込まれる真っ赤なイチゴ。何故かいけないものを見ている気がして、
燐は慌てて自分のケーキを掻き込んだ。
ワインの中に沈んだパンは真っ赤に染まってふやけてグラスの底で澱んでいる。
無言でケーキをひどくゆっくりゆっくり食べ進めた。気が付けがもう眠気があったのでかなり遅い時間なのだろうと思ったが燐にとって屋敷にいるときの時間なんてどうでもよかった。
「…燐」
ケーキがなくなって、しばらくぼんやりとグラスを回していたメフィストが、唐突に燐を呼ぶ。
「…なに?」
自分の声は嫌に緊張していた。
メフィストはグラスの底に沈んだふやけたパンを指をつっこんで取り出して、しばらくワインの滴るそれを見つめて、ぱくん、と食ってしまった。
こちこちこちこち。
どこかで時計の秒針が動く音がする。
「…本当でしたら今日は…あなたの命日になるはずだったんです」
かちん。
どこかで時計の針が動いた音がした。
「…え…?」
「…私は100年後の物質界を知ってるんですよ」
ワインに酔えもしないその顔は、悲しげに微笑んでいた。
生き残っている人間なんてもうほとんどいない。いたとしても悪魔に飼われいいように弄ばれて飽きれば骨まで食われてしまう。
美しかった緑も大地を潤す水もみんな腐って澱んでヘドロになってその上を悪魔が我が物顔で蹂躙している。新しい生物は芽生えず、全てが骨となりチリとなり澱んだ泥に溶けて、
そんな穢れた大地と水の発する水蒸気のせいで青かった空も赤黒く染まった。太陽は見えなくなった。常に血のような雨が降るようになった。
虚無界となんら変らなかった。
「それが私の知っている100年後の物質界です。私はね、燐、100年後の世界から来たんですよ」
からん。再びカラになったボトルが床に転がる。残りを一気に煽る悪魔を燐は呆然と見つめていた。
「…私はね、この世界を裏切っているんですよ…いえ、先に裏切ったのはこの世界ですけどね。あなたは本当なら、今日…いえもう昨日か…あなたの16の誕生日に殺されたんです」
人間に。
思わず食卓にある時計を見た。日付は変っていていつもどおりに時計の針は進んでいる。
「…あなたと私はね、愛し合っていたんです…本当ですよ」
酔っ払いの戯れ言か。そう考えようとする自分がいたがメフィストは酒には酔えない。燐は何も言うことができなかった。メフィストは寂しげに目を伏せて、テーブルに落ちたワインの赤いシミを見ている。
「本当に…。あなたを初めて抱いた日は私が燐を初めて抱いた日でしたし、想いを通わせたのも本当だった。あなたを計画などに利用しようとしていたのも本当でしたが、
それ以上にいつの間にか私は燐に夢中でね。悪魔であるのにサタンの息子なのに決して失わない輝きをその身と心に秘めていて、私にはとても眩しかった。
だからこそ惹かれたのかもしれませんね、正確なところはわかりませんけど。…そして燐も私を想ってくれました。…今のあなたにはありえないことでしょうけど」
くつくつ、とメフィストは笑いながらテーブルに広がったワインのシミを指でいじって伸ばして広げていた。
「でもね、燐は殺されたんです」
自分の心臓のあるあたりを触ってしまったがそこは正常に動いて燐を生かしていた。日付は進み、メフィストはもう一本ワインを取り出すとグラスに注いでまたパンを沈める。
「人間に。ヴァチカンにいる一部のサタンを憎んでその憎しみを上手いこと浄化できない愚かな者達にね………私の見ていた燐は祓魔師になっていましたからその任務中にね、裏切られたんです。仲間だと思っていた人間に。
帰ってきたら誕生日を祝おうと約束していたのに。
……私も予想できなくて。……どれだけ情報というものを手に握っていてもどれだけ先を見通して行動してどれだけ人のすることを模倣して人の心理を理解したように振舞っても、
結局のところ予測できる未来など一つもないのだと思い知らされた。酷い、殺され方だった。燐は優しいからきっと人間相手に抵抗できなかったんでしょうね。
悪魔としてそれなりに惨いこともしてきた私でしたけど、血溜まりの中に残っていたのがあなたの首だけだったときは…全てが真っ白になった、ようで」
真っ白で、気がついたら全てめちゃくちゃにしていたんです。
「…………」
「たくさん、殺しましたよ人間を。燐独りでは寂しいだろうと思って、燐の弟も燐と友人になった子供達も、師匠も全員」
「…………」
「だって…燐のこと本当に愛してましたから」
「…………」
「一部の人間がしたなんて関係なかった。あの瞬間から人間全ては私にとってその辺りに蠢いている蟻と同じになりました。踏み潰したって、気付かない、でしょう?」
ぎり。
骨が軋むほど握られたのは何だったのか。グラスにわずかなヒビが入っていた。ゆっくりと、そのヒビから赤い雫が漏れていく。
ぽたぽたとテーブルに落ちていくそれを燐は見つめていた。メフィストの顔が見れなかった。
「全て終わった後は…私も死にたかった。でも悪魔に死なんて甘いものないんです。あったとしてもそれはただの消滅だ。半分悪魔でしたけど半分人間でもあって誰よりも清からな心だった燐と同じところへいけるはずもない。
そう思うと、寂しくて、悲しくて、苦しくて、あなたにもう一度だけでいいたった一度でいいから会いたくて」
生き残っている人間なんてもうほとんどいない。いたとしても悪魔に飼われいいように弄ばれて飽きれば骨まで食われてしまう。
美しかった緑も大地を潤す水もみんな腐って澱んでヘドロになってその上を悪魔が我が物顔で蹂躙している。
その中で、もう燐に触れられないのだと思うと虚しくて憑依体も捨てて、
虚無界にいたメフィストはただひたすらひとつのことだけを思って鍵を作っていた。
自分の知恵の全ての結晶を。悪魔を大量に物質界に手引きしてサタンの望むように支配させた。あとのことはどうでもよかった。
メフィストはあの世界が憎かった。ひたすら憎かった。それまで楽しんできた人間の行動も集めてきた貴重品もどうでもよくなって、
なんだかんだで好きだった人間なんて。
その褒美として神と呼ぶべき父親から与えられた神しか知らない知識も。禁忌と言われた知識も。
全てを駆使してメフィストはやがて真紅の鍵をひとつ作り出した。
「…神さえ禁じていた知恵の塊で作った真っ赤な鍵はね、一回使えば終わりでした。鍵穴に差したところでいつの時代のどこへいけるのかもわからない。それでも構わなかった。
賭けでしたよ。鍵を回した扉の向こうに何があるのか。…何があったと思います?」
そこでメフィストは初めて顔を上げてまっすぐ濁った目を燐に向けた。燐は、ゆるゆる、と首を横に振る。
「扉の向こうにいたのはね…デスクで仕事をしている私の後姿だった」
くくくく、とメフィストは肩を震わせて笑った。ワインの表面もぐらぐら揺れてヒビからはどんどん零れていった。
「私は賭けに勝ったんですよ。このナニモノにも止められない悪運!その先には私がいた!何も知らずに…やがて愛するものができて愛しい時間をすごして…それがだったの一年にも満たない時間であったとしても、
本当に愛したものをやがては殺す世界に騎士団に貢献している私の後ろ姿がね。そう思うと…その私が、腹立たしくて、腹立たしくて…!!」
取り込んでやったんですよ。憑依体ごと。
「傑作でしたね!憑依体のない見るはずのない虚無界での真の姿をした私が現れたときのあの「私の顔」!」
どんどんテーブルを叩いて狂ったように笑うと突然、ぴたり、と笑うのを止めた。
「我ながら、」
テーブルはワインで真っ赤に染まっている。
「呆気なかった、私の最期は」
『悪魔に対してこういうのは変かもしれないが、あいつ、メフィストは何かがごっそりと変貌しちまったみたいだった』養父の言葉をふと思い出す。メフィストを見返す。
頭のどこかがじんじん痛んで熱を持っているみたいだった。
「…『こいつ、狂っているのか』あなたは今そう思っているでしょうね」
肩が震える。
「でもねえ、燐、悪魔に対して頭が正気かどうか問うほど愚問なことはありませんよ。まともな奴なんているわけないじゃないですか。悪魔には正常がなければ異常もない。
そういうのがあるのは正常とは何か決めたがる人間だけですよ。だからこそ、病むのは人間だけだ。
燐を殺した人間達こそが本当に狂っている」
ごくん、とほとんど残っていないグラスのワインを煽り、その底で澱んでいたパンまで飲み込んだ。白い喉仏が上下する。それを見ながら残りのケーキを冷蔵庫に入れないとクリームが溶けてしまうせっかく二人がくれたのに、と
何故かそんなことを考えた。
「…後は、あなたも知っている通りです…。一目でよかったのに、どうしてもあなたを手に入れたくなった。もう二度と死なせたくなかった。
そうして過去を、私にとっての過去をこうしてめちゃくちゃに引っかき回して、未来は随分様変わりしたわけですよ。……悪魔の神さえ隠した禁忌の知恵だ。
代価は当然あるものと思ってますし、今もそうです。あなたも巻き込んだ。藤本との友情を失い、
あなたに愛されるはずだった時間を失い、あなたの笑顔を失い、あなたから家族を奪い祓魔師になるという夢も奪い友人になるはずだった塾生達との時間も奪い、
自由も奪った」
でもそれでもあなたが今生きてここにいる、その事実だけで、私はよかったんです。
こちこち、時計の針は進む。誕生日の日付は燐の命日になるはずだったという日付は過ぎていて、燐はそれを見て、ああそうか、と妙に納得した。あなたは悪魔なんですよ、とメフィストに告げられたときに感じたものと同じだった。
だからメフィストはずっと何かに怯えていて燐が言いつけどおりにしても安心できずに満足もできすに、燐が何を守っても何をしても毎日食事を作っても。
本当に望んでいたものなんて人間が普段当たり前のことのように受け入れている、愛するものが今日も生きて自分の隣にいる、という事実だけだったのだ。
メフィストは顔を手で覆っていた。肩がわずかに震えている気がしてもしかして泣いているのだろうか、と思ったが、そんな悪魔じゃないと、わかっている。
顔を覆う手の隙間から漏れるのは嗚咽なのか笑いたいのに堪える声なのは判別しがたい。
「でもね、燐」
手に覆われて声が少しこもっていた。
「こうして私の知っていたあなたとの時間が過ぎてしまえばもうどしていいのかわからないんですよ。
だってこの先がどうなるか私は知らない。あなたが16歳を無事に迎えたその後のことを。何も予測できないし、何を見通すことはできない。それが私は恐ろしい。
またあなたを死なせるんじゃないかと思うと……だから、」
がたん。
イスを転がしてメフィストが立ち上がる。燐は動けなかった。首に浮かび上がるメフィスト・フェレスのサインが燐を拘束している。
それがなくても、燐はここを動くことはできなかっただろう。外界からは閉ざされ、自分は外で生きていくことはできない存在なのだと、10歳の時に悟っているのだ。
こんなのなくても、逃げないのに。
ゆるく、首を絞めるヘビを見て、燐は思う。そんな風に思った自分に思わず自嘲してしまった。
気がつけばメフィストは燐の横に立っていた。ちゃんと明かりはついているのに、何故か、メフィストの顔は真っ黒な霧のようなものに覆われていて判別できなかった。
これがメフィストの言う虚無界での本当の姿の一部なのだろうか。それは影の塊のようだった。
『あなたの血も肉も骨も全て私にください』
声さえもどこか朧だ。いつものように自分を起こす落ち着いていて静かな大人の声ではない。歪んでいて壊れたラジカセから流れてくる機械的な声だった。
「…俺じゃダメかな…?」
少し恐ろしくて体は震えているのに、燐は逆にメフィストに問うていた。ぐらり、と影が揺れるのがわかる。
「だって、俺…おまえのこと愛した燐じゃねーし、ここでは本当に笑ったこともない。あんたの愛した過去の俺じゃない。それでも…いいのかなって」
ああ、何を言ってるんだ自分は。
メフィストにはこの悪魔には全てを狂わされたのに、憎んでいた時期も当然あったし今でもそうだと思う。愛してもいない。愛せるはずもない。ただ、可哀想だな、とは思っている。
捕らわれたとわかっている。この悪魔に首に巻きつくヘビに。10歳のあの時から全てメフィストの思い通りなのだ。今、自分が、こんなことを言っていることも。
その証拠に影の悪魔が、にたり、と笑う気配があった。
本当に狂っているのはどちらなのか。狂わされたのはどちらなのか。
『…当たり前でしょう、あなたは燐だ。私だけの』
近づく影からは逃げなかった。燐は自然と目を閉じた。そっと触れたものが悪魔の唇だったのかはわからない。それは冷たさも温かさもなくて本当に触れているのかわからないような。そんな存在であった。
その唇から、ひゅう、っと黒いヘビが流れ込んできて燐はそれを飲み込んだ。ごくん。味も刺激もない。それは燐の喉に落ちて肉と血と骨に染み込んで、
二度と消えないサインになる。
ふと、目を開ければ。
そこにはいつもの見慣れた顔のメフィストがいた。穏やかに、本当に心からの安らぎを得た顔をして、燐の髪に鼻先を埋めた。
「そうだ、プレゼントあるんですよ。部屋に置いてありますから、もう片付けは使い魔に任せて行きましょうか」
何もなかったようにメフィストは言った。その声はいつもの落ち着いて静かで大人の低い声に戻っていた。それに何故か安堵したので少し強く男の肩を掴む。
男はくつくつ笑う。そうして今度は目を開けたままもう一度、キスをした。緑の瞳の中の自分も何故か、穏やかな顔をしていた。
口付けから流し込まれた唾液は何故か、果汁のように甘く酸っぱい。
2012.4.30 完結ありがとうございました。
ヤンデレってこういうのじゃないんだろうな、とは思ってます、ええ…