Keloidal

 

病院という場所はあまり好きじゃない。死ぬ人が多いからその辺りに漂う人の氣の気配が濃いからだ。母から継いだ力なんてそれぐらいしかなくて、でも私は時々感じる自分の人ではない部分を、 ずっと恐いと思っている。







目をあければ白い天井が広がり、そして鼻につく消毒の匂い。以前医務室で手当てを受けていた時のことを思い出したけど、人の死の気配が濃いここはすぐに病院なんだってわかった。
意識がだんだんはっきりしてくると、今はきっと夜中なんだとうと思った。病室は暗くて、でも隣のベッドだけランプの明かりが灯っている。私は気絶する直前のことを思い出して、あわてて身を起こした。
「まだ寝てたほうがいいよ」
奥村先生の声がした。隣のランプが灯っているベッドでは新しく白い包帯を巻かれて眠っている燐さんと、白衣を着た奥村先生の背中があった。 先生の背中はいつもと違って少し小さく丸まっているように見えた。
「燐さんは…」
私はおそるおそるベッドから降りて眠る燐さんの顔を見る。しっかりと包帯で覆われてあの時見た「ひどい顔」というのは見えなくなっていた。 ただ燐さんは静かに寝息を立てている。私をそれを見てぎゅうっと胸が締め付けられて喉の奥が熱くなってしまう。
よかった、生きてる。
ぽろぽろ、と目から落ちてくるものが止められなくてそれは白いシーツに染み込んでいった。そのシーツから少し出ている燐さんの赤く爛れた手を、 奥村先生が握っていることに私はその時気付いた。先生のタコの目立つ大きな手は、左の人差し指だけ爪を残した燐さんの手を握っているのだ。
先生はただじっと眠る燐さんを見ている。
「…君が起きる前にね、兄さん目を覚ましてたんだけど…少し話をしたんだ。あの霧の中で君と何を話していたのかも聞いた」
私はいつの間にか着せられていた白い服の袖で目を拭いながら、先生が出してくれたイスに座った。私と燐さんと先生以外に病室には誰もいなくて、 窓の向こうは真っ黒な夜の世界が広がっている。病室を照らすのはオレンジ色の光を放つランプだけで、それが先生と燐さんの顔に濃い影を落としていた。
私は黙って先生のそんな横顔を見ていた。
「……」
先生は唇を少し舐めて、これから言うことを迷っているようだった。先生は自分の立場をいうものをすごく大事にしている人だってなんとなくわかっていた。 15歳の私に、自分の胸の内を話すことに戸惑いがあるんだろう。でも先生の横にいるのは普通の子どもじゃないから。
「…先生が、私と燐さんが話すのを許してくれたのって私がハーフだからでしょう?」
先生はちらっと私を見たけどすぐに逸らして、そうだね、と頷く。燐さんと「同類」だから。 余計なことは外には話さないはず、と最初からそう思っていたんだろう。 でも別に私はそれに傷つくことはない。これから先、似たようなことがたくさん私の身には降りかかるだろうから。
先生はしばらく黙っていた。やがて、はあ、と息を吐くと、
「『なんにもいらない』って言われたんだよ」
少しだけ寂しそうに微笑んでいて、オレンジ色に染まった緑の目がゆらゆらと揺れていた。
「兄から聞いたよね、5年前兄さんはサタンの最期の炎に燃やされたんだ。僕達を庇って。それなのに…その時僕や聖騎士や同期の祓魔師達は、何にもできなかった。 燃やされる兄さんをただ見ていることしかできなくてね…その時の兄さんのことを僕は今でも夢に見るんだよ」
先生は額に手を当ててもう一度息を吐いた。それはため息というのとは違っていて、重くて、自分をずっと責めている胸の中の膿みを吐き出しているように思える。
「だから僕は、兄さんがサタンに焼かれたあの日から、とにかく兄さんの火傷を治すために兄さんのやったことを周りに知ってもらえるように、 兄さんの名誉を知ってもらいたくて…それだけのためにこの5年間…生きてきたんだと思う」

でも兄さんは、いらない、って言うんだ。

「僕は許せなかった。兄さんがもう満足に戦えないとわかった途端祓魔師の免許を剥奪して、サタンのいない今唯一青い炎を持つ悪魔として手元に置いて管理しようとしたヴァチカンも。 そのヴァチカンの捏造したサタン討伐の結末を信じて疑わないこの世の中が…どうしても許せなかったんだ」
「……」
「だから兄さんを守るためヴァチカンに渡さないために…離されないために使い魔の契約をした。まだ視力が充分回復してない兄さんを騙して悪魔の署名をさせたんだ… 使い魔にさえしてしまえばヴァチカンにも手が出せないし、兄さんが少しでも無理をしようものなら魔法円を消してすぐに帰せる。 最低だったと今でも思ってるけど、後悔してないんだ…。でもごめんね、あの霧の中に君と兄さんが取り残されたとき魔法円を消してしまおうかと何度も考えた」
「…でも先生は消さなかったじゃないですか」
だから私はここにいる。生きていられる。燐さんが先生を信じていたから。だから先生は消さなかった。先生は驚いたように目を見開いていた。 その様子がやっぱり燐さんと似ているなと私は思う。
「…こんなこと言ったら講師失格だと責められると思ったよ」
「でも先生はみんなを助けるために燐さんを喚んだんです。だからみんな助かったし私もここにいる。だからそれでいいじゃないですか」
「君のそういうところ少し兄さんに似てるかな」
先生は珍しく子どものように、くすり、と笑った。そして燐さんの手を握ってないほうの手で私の頭を撫でてきた。先生がそんな風に生徒に触れ合うのはきっと初めてだ。 私の頭を撫でる手は燐さんのとは違ってそういうことに慣れていないような不器用さがあった。少し前の私なら頭を撫でられることを恥ずかしく思ったかもしれないけど、 その手から感じる不器用さが少し可哀想だとさえ今では感じる。
「世の中みんな…君みたいに気付いてくれる人ばかりだったらよかったのにね…。誰のおかげで今こうして生きていられるのか、わかってくれれば」
先生は私の頭から手を下ろすと両手で燐さんの左手を握った。
「それなのに、何にもわかっちゃいない奴ばっかりで、あろうことか自ら悪魔になる奴もいる。あの-----先生みたいにね。ああ、あの人はヴァチカンの使いに拘束されたよ。 どうなるかなんてもう僕たちは知らなくていい。…あの人みたいに、兄さんがこんなになるまで一生懸命守った世界で生きていながら…人が悪魔になるんだよ」
だからどうしてもこの世界が許せないんだ。
「…でも、兄さんは『いらない』って言うんだ…名誉も何にもいらないって」



『…なんにもいらない…。本に名前とかのらなくても、いい。みんなからかんしゃされなくても、いい…。 でも…おれ…ゆきおにはまた心から笑ってほしい…あともう、ヴァチカンも悪魔もかかわってこないようなしずかなところで、いっしょにいたい…』



霧の中で聞いた燐さんの言葉を思い出す。切実に訴えるようなあの言葉を燐さんは先生に言ったんだろう。その時、先生がどう思ったかなんて私には想像もできない。
「ただ『いっしょにいたい』っていうんだよ」
「………」
「…兄の火傷を一番受け入れられてなかったのは、僕だったんだ…。だから兄さんは自分の炎で火傷を重ねるんじゃないかって…ようやく気付いた。本当は兄さん、自分の炎をもう恐れてないはずだから…」
「………」
「僕はこの5年間何をやっていたんだろうね」
先生はそっと燐さんの手を離すとイスから立って燐さんの腕に流されている点滴を見ていた。白衣を着た先生はいつもと雰囲気が違っていて人を救う、人の怪我を治す医者なのだと思い知らされる。 でも奥村先生が本当に救いたい人はきっとたった一人なんだろう。5年前から。だから。
「でも先生はこの5年間、誰かを救ってきたじゃないですか」
胸の内に膨らんだケロイドみたいな傷を背負って。
「私と私の家族は先生に救われたんです」
私の声は思ったよりも大きく病室に響いていた。先生が驚いたように私を振り返って、そしてまじまじを私を見つめてくる。その様子も最初にあった頃の燐さんと似ている。 そこで眠る燐さんの以前の顔を私は知らないけど、注意すれば似ているところの多い兄弟なんだろう。
「……ああ…」
先生は口元に手を当てた。
「…あの時の…」
その顔は本当に今思い出したばかりの顔で、ひどいなあ、って思う。
「やっぱり忘れてたんだ、先生、ひどいなあ」
でも私は笑っていた。不思議と心は穏やかで悲しいなんて思っていない。むしろ、先生はもうちょっとお兄さん以外も気にしたほうがいいですよ、と言えば、
「…ほんとに、そうだね…」
と先生も笑った。











それから燐さんはずっと眠っていて先に私は退院になってしまった。
悪魔の体だから疲労もすぐに回復したのかと思っていたけど、先生がいうにはあの霧の中で私がアザゼルに頭を支配されずに済んだのは燐さんがずっと私の手を握りならが、 アザゼルの霧から守っていてくれたからだということだった。そして私が意識を失う前に見た青い光は燐さんが自分の青い炎を恐れずにアザゼルを祓ったからだという。 私は燐さんにどれだけ感謝すればいいのかわからない。 でも燐さんは目覚めないまま私は塾に復帰して、友達や塾の仲間に「心配ばっかりかけて!」と何故か怒られた。
それから燐さんのことを気に掛けつつも日常は慌しく過ぎていく。奥村先生はしばらく塾を休んでいたけど一週間後には戻ってきていた。 先生は「兄は無事目を覚まして今は元気ですよ」とこっそり私に教えてくれた。
あれから先生と燐さんがどう話し合ってこれからどうしていくつもりなのか私にはわからない。それは聞くべきことじゃないし、知るべきことでもない。
一週間ぶりの奥村先生の授業はやっぱりわかりやすくて全然眠くならなかった。先生は授業中生徒が眠らないように工夫して授業を進める人だ。 きっと昔講師をしていた頃に授業中よく眠る生徒でもいたから対策を考えて今に至るのかもしれない。
でも気のせいかもしれないけど、その日の先生はいつもよりとても丁寧に丁寧に、授業を進めて言って最後に壇上でこう言った。
「これから先もがんばってください、皆さん」
私以外のみんなは先生の改まった言葉に首をかしげていたけど、私はなんとなく予感していた。



「これ、なんだけど」
塾が終わってから先生は職員室に私を呼び出して、クローバーの刺繍が施された水色のハンカチを渡した。私は驚いてハンカチを握り締めてしまう。だって これは確かに破いて包帯代わりにしたはずなのだ。私が不思議そうにしていると先生は穏やかに微笑んで、
「兄さんが前と同じものになるようにって自分で刺繍をしたんだよ」
というではないか。クローバーの刺繍。お母さんや私は悪魔だから本物のクローバーのお守りは持てない。気休めだけどあんたに変な悪魔がよってこないように、って お母さんが自分で刺繍してくれたクローバーだった。でも正直、燐さんのはお母さんの刺繍より上手かもしれない。 正直に言っても私の悪魔のお母さんは怒らないだろうけど、でもちょっとだけ悔しい、と刺繍の練習を始めることだろう。 さっそく今夜は写真つきのメールでも送ろうと思う。
「あ、ありがとうございます」
「いいや、こちらこそ、色々とありがとう」
先生は本当に柔らかく笑っている。
緑の目を細めて、心から。
私はその笑顔を見て、何故か嬉しいけれど同時に寂しく思ってしまう。だって先生はきっと胸の内の膿みを取り除いてしまおうとしているんだろうから。
お兄さんの燐さんと、一緒に。
「…これから先もがんばってね」
そして先生はさっきと同じことを私に言った。私は強く頷く。
「…先生も」
と言えば、先生は、うん、と頷く。まだ不器用さの抜けないその手で私の頭を撫でる。

「それじゃあ、おやすみ」

離れていく手はきっと、これから先たった一人のお兄さんのためだけに捧げられるんだろう。





私達が奥村先生の授業を受けたのはその日が最後になった。











奥村先生とその兄、奥村燐が共に失踪した日から数週間は色んな噂が飛び交った。
悪魔に追われて逃げ出したとか逃げ切れずに殺されてしまったとか、ヴァチカンに反旗を翻し悪魔のお兄さんと暗躍するためとかどうとか。 二人の逃亡には塾長のヨハン・ファアスト理事長と同期の祓魔師達が手を貸したとかどうとか。本当にヴァチカンまで学園に乗り込んできて理事長を問い詰めたそうだけど理事長は「 知りません☆」としらばっくれるばかりだという。 全部無責任でただの好奇心からの噂だ。その中に真実は少しだけしかないだろう。
裏切られたと嘆く人もいる。がっかりしたと失望した人もいる。でも私も含めみんな何にも知らなくて、全ては想像でしかなくて、今は騒がしいけれどやがて静かになっていくだろう。 そうしてみんな忘れていくんだと思う。そんなものだと思う。本当のことを知っている人達だけ覚えていればいいんだと思うんだ。少なくとも燐さんはそれだけで満足するだろう。
最後に顔を見たかったなあとは思った。そしてやっぱり寂しい。
でも、不思議とあの二人にはまたどこかで会える気がする。だって先生は「さよなら」とは言わなかった。「おやすみ」って。 また明日も来ることが当然であるかのように。これから先、会える時があったとしてもそれがすれ違う程度かもしれないけど、私はそっとしておくつもりだ。
そして、そっと胸の中で祈り続けるつもりだ。悪魔の私が神様にお祈りなんて、神様は聞いてもくれないかもしれないけど。
「…残念だったねえ…もう奥村先生の授業受けられなくて」
私の塾の友達や仲間は残念そうだったけど誰一人として先生に失望はしてなかった。先生は気付いていたんだろうか。これだけ生徒にも信頼されてたってこと。
肩を落としている友達に笑いかけて、私は言う。
「話したいことあるの」
友達は弾かれたように顔を上げると、にっこりと、頬杖までついて笑った。
「やっと言ってくれた。待ってたんだから」
あーあ、私の友達はぼんやりしているようで、変なところで本当に鋭い。











そっと胸の中で祈り続けるつもりだ。

悪魔の私が神様にお祈りなんて、神様は聞いてもくれないかもしれないけど。

でも私は目を閉じてずっと祈り続けるだろう。

どうか、あの二人が幸せになりまように、って。











2012.6.3