アドニスの血

 

朝日と小鳥のさえずりとともに目が覚める。ぬるいシーツの中で丸めていた体を伸ばして、やたら大きなベッドに降り注ぐ朝日をまず感じれば、 ちかちか、としたホコリのような血管の血流のような模様が瞼の裏で踊る。そこで瞼を少しこすって燐はようやく覚醒する。
ぬるんでいくシーツの感触を惜しく思いながらも、数度瞬きを繰り返しながら身を起こす。
何か夢を見ていたような気がする。しかし、それは散っていく霧のようにすでに不鮮明で掴むことはできそうにもなく、燐は頭の中にある違和感をすぐさま消し去った。 それよりも自分には朝からやらなければいけないことがある。
適当ではるがベッドメイキングを終えると短い通路を小走りしてキッチンへ。木製の家具が揃えられたリビングと設備は整えられていながらどこかアンティークな様式を思わせる キッチン。まるで外国の絵本にでも描かれていそうなカントリー風の内装を燐は気に入っている。
昨日「届けられた」ばかりの食パンを三枚切ってトースターで焼く。その間にミニトマトとレタスで簡単なサラダを作り、コップにミルクを注いで先日自分で作ったイチゴのジャムを取り出した。 採れたてですよ、と「届けられた」それは甘さ控えめ。ジャムになる前は真っ赤でぷくりと太っていたイチゴだけの甘さでも十分なほどだった。 我慢できずに少しだけスプーンですくって口に入れる。上出来だった。その間に、ちん、と音を立ててトースターからこんがり焼けたパンが飛び出してくる。 素早く皿に取り出せば見計らったように足元で「にゃあ」と細い鳴き声が響く。
「ああ、夜。今丁度できたから待ってな」
燐の足元にいたのは真っ黒な毛が印象的な猫であった。夜と呼ばれたその猫はアーモンド型の赤い目を丸くさせて「にゃあ」ともう一度鳴いた。 その猫の足元にちぎってジャムを塗ったパンと浅い皿に注いだミルクを置いてやる。夜はとても行儀のいい猫で燐が食べだすまで口をつけることはない。
「いただきます」
燐の声に応じるように「なあ」と夜も鳴いた。
1人と1匹の朝食を。
温かな手製を思わせる家具に囲われて静かに始まり、時折夜に話しかけながら終わる。
手製のイチゴジャムはやはり上出来であった。



食器を片付けパジャマから簡単な服に着替え身支度を整える。夜はその間も燐の側を離れることなく時折毛繕いをしながら燐の足元をうろうろしていた。 そんな夜の頭を一度撫でてから燐は木製の扉を開けて「家」の外へ出る。



登り始めた朝日は白く、燐の眼前に広がる「庭」を照らし出す。
色とりどりの花が広がっている。
大きなレンガの花壇に植えられたものや、一つ一つ鉢植えに飢えられたもの。広大な平地に植えられたもの。 様々な形でより美しく魅せるように全てが配置されている。多くの種類の花を抱えたその土地は、本来ならば咲く季節の違う花達まで咲き誇っている。 「最初」の頃、燐はあまり花には詳しくなかったがそれでもヒマワリとチューリップが同じ土地に同じように咲いているのは少しおかしいなとは思うほどである。 いっそ過ちさえ思わせるほどであった。 だがそれもいつしか慣れてしまっていた。空を見上げれば「今日」は快晴。透き通った青い空が広がり何の種類かもわからない鳥達が美しいさえずりを上げて飛んでいる。 空気は乾燥しているわけでもなく湿っているわけでもなく。肌を撫でる風と気温は人間の皮膚が最も快適と思うぬるさであった。常にそうだ。時折、思い出したように雨が降り嘘みたいな美しく大きな虹が出てくるぐらいであった。
「よし」
燐は庭を一望するとシャベルや肥料や水の入ったジョウロを持って庭を見回る。不思議なことに、ここの花達はどれだけ放っておかれても枯れることもなければ花びら一枚でも散ることはない。 広大で意外と様々な形状や色のあるチューリップ畑を横切って、ダリアの咲き誇る花壇でその折り重なった鮮やかな花びらを指で撫でる。 赤、白、ピンク、黄色、様々な色を持つバラが絡みつくアーチをくぐれば濃厚なバラの香が鼻をくすぐる。夜が鼻をひくひくさせていた。 まるで時を忘れたかのようにいつまでも咲きつづける花畑をいくつか通り過ぎると、一箇所、まだむき出しの茶色い土の目立つ花壇に来た。
そこにはまだ蕾の真っ赤なアネモネがいくつか顔を出している。
特に手入れをしなくても枯れない花達だがその中にも「決まりごと」はあるようだった。種から球根から苗から。 まずは最初から育てて花を咲かせなければ花達はいつまでも咲かないのである。しかし一度咲けばその花が最も美しい瞬間を。まるで写真で撮ったかのように、 色あせることもなくいつまでもそこに咲き続けているのだ。今しがた通りすぎて多くの花々、あれら全てを最初から燐が育てたか、否、少なくとも本人にそんな記憶はなければここまで多くの花を咲かせることができるほど器用でもない。
まだ蕾のアネモネに肥料をやり水を与える。キラキラ、とジョウロから零れる透明な水が土に染み込みアネモネの根に吸収されていくのだろう。 この花は先日「彼」が新しい花ですよと勝手に持ってきたものだった。
水をやり土を整え、燐なりに懸命に手入れを進める。その間も夜は行儀よく座りながら燐から目を離すことはなかった。やがて手や顔を土で汚しながらうっすらと肌に汗を感じ始めた頃「なあ」 とそれまで大人しかった夜が腰を上げ作業を続ける燐の足元に絡みつく。
「ああ、あいつ、来るの?」
心得たように頷く燐の目にわずかな輝きが宿ったことを夜はしっかりと認めている。
まだ手入れは途中だったが燐は慌てて中断した。アネモネの未完成な花壇から離れバラのアーチをくぐりダリアの花壇を横切ってチューリップ畑の横を通り過ぎる。

ここでは全てが曖昧で、しかし全てが明確な輪郭を保ち、全ての時が止まっているかのようである。

外観もどこかの御伽噺のようにカントリーで可愛らしい燐の「家」。鍵をかける必要もない。扉を開ければやはり彼はそこにいた。

「サマエル」

そのように呼ばれて振り返った顔は扉から差し込む昼も近い光のせいかより一層生白く見えた。 目元の隈は相変わらず不健康そうでひょろりとした体型だがやたら背が高く道化のような白いスーツとマントを纏っている。いつもやらやや大げさな気さえするシルクハットも被っているのだが、 今はすべてテーブルの上に置いていた。不健康そうなのにきょろりと生々しく動く緑の目が光の加減によっては金色に輝くことを燐は知っている。 紫に輝くサイドが長めの髪を揺らしながらサマエルと呼ばれた男は燐の元へ歩み寄る。燐は逃げなかった。逃げるという選択肢さえも最早「今では」消失している。 本人は知らない。
「土、」
サマエルは紫の手袋をした手を伸ばして、
「ついてますよ」
その手で燐の汚れた頬を撫でながら、くすり、と微笑を浮かべた。その金色に輝く目の中に浮かぶ燐は、ひどく幸せそうである。



「昼飯、簡単だけどいい?」
「ええ、もちろん」
部屋の中に今作ったミネストローネの香が満ちる。朝に食べたパンを再び少し使って、手早くホワイトソースを作ってしまうとパンの上にかけてそのままオーブンで焼いた。 足元の夜が少しそわそわし始めるもその赤い目はイスに座るサマエルに向けられている。数秒、目を合わせた後、夜は目を逸らし燐の足元に纏わり付にいった。
このサマエルという男は時間を気にせずここへやってくる。時折、野菜や果物、お米、パンなど生活に必要なものを持って。 朝早くからの時もあれば今日のように昼の時も午後のお茶の時もあれば夜の時も。 おそらく彼に最も都合のいい時間にやってくるのだろう。どこからやってきているのか燐は知らない。
そもそもこの花の咲きつづける土地はどこであるのか。
考えることもいつしか放棄していて何故そうなってしまっているのか燐は知らない。
「アネモネはキレイに咲きました?」
しばらくして出来上がった昼食を燐とサマエルと夜で食しながらそのようなことを聞かれた。燐は丁度ホワイトソースのかかったパンを頬張っていたので 首を横に振るだけで返事を返す。そうですか、とサマエルは優雅な動作でスープを食す。
「今度もキレイに咲かせてくださいね」
サマエルは柔らかな笑みを浮かべる。それに、こくん、と頷いて燐も笑い返した。

サマエルは不思議な男だ。
一緒にいると頭の芯がどこかぼんやりとしてくる。時折生活に必要なものを差し入れては同時に花の種や球根や苗を持ってくることもあった。 その度に燐がそれを育て花を咲かせる。それを何度か繰り返している気がするのだが正確には何度目か、燐は知らない。他愛ない会話をしにこちらにやってきては、 燐の料理を食してくつろいでいく。時折、マジックと称する摩訶不思議な術を見せることもあった。 いつも柔らかな目で燐を見つめ、一緒に庭を歩くこともあった。
本当に不思議な男で。
サマエル以外誰も尋ねてくることはないこの土地で。いつしか、サマエルが訪れることは燐の一番の楽しみになっている。それもいつからなのか知る術さえない。 ここでは全てが曖昧で、しかし全てが明確な輪郭を保ち、全ての時が止まっているかのようである。
今日のサマエルは昼食から午後のお茶まで共にするようだった。
サマエルの淹れた温かい紅茶で燐の作ったスコーンやクッキーやケーキなどを皿に並べればアフタヌーンティーの準備は整う。 やわからな午後の日差しが漂う部屋で向かい合ってそれらに手を伸ばす。
「そうえいばさ、変な夢、見た気がする」
スコーンに手製のイチゴジャムを塗って。サマエルもおいしいと評してくれたそれは今朝食べたようにやはり上出来で。 それを頬張り紅茶で流し込んでから燐は唐突に話し始めた。クッキーに手を伸ばしていたサマエルが止まった。
「どのような?」
「うーん、なんだろう、ずっと誰かに呼ばれてる」
朝から、何か夢を見ていたような気がしていた。 しかし、それは散っていく霧のようにすでに不鮮明で掴むことはできそうにもなくすぐに消えたはずだった。 けれどサマエルに話してみればその不鮮明な何かは白い霧の向こうで、むくり、と身を起こしたように燐の頭の裏側を突いていく。
「誰か、そう…俺にちょっと顔が似てる奴、男。うーん…やっぱ似てないかなあ、わかんねえや」
「……」
「俺のこと呼んでた。なんて呼んでたんだろう」
大切なことのはずなのに、ともう一度真っ赤なジャムを塗りつけると急に思い出したことがあった。
「血、」
「血?」
「そう、血、流してた」
「…誰が?」
「…わかんね…でも俺かな?」
「燐」
呼ばれてじっとジャムを見つめていた目を上げる。真正面にあるサマエルの顔。先ほどまで穏やかに微笑んでいたにも関わらず、今は無表情に近かった。 けれどそれは一瞬のことで次には人を小馬鹿にしたような笑みを浮かべる。
ああ、そういう笑い方のほうが----------らしい。と何故か燐は思った。
「もう一杯どうですか?」
サマエルは自らポットを手に取り燐のカラのカップに注いだ。いつの間にか日は傾き始め、赤い夕焼けの光が琥珀色の紅茶に呑み込まれているようだった。

血を、流している夢を見た気がする。

注がれたばかりの紅茶を熱いを思いながらも飲み干す。どこかほうっと安心した。目の前の男の白い顔にも夕焼けの赤が落ち、 それがますます夢で見た何かを鮮明に浮き立たせるようだった。
「燐、忘れてしまいなさい」
そういわれていつの間にか後ろに回りこまれていて、そっと目元を手の平で覆われた。いつの間にか手袋は外していて骨ばった手はひんやりと冷たい。
「サマエル」
「はい?」
「なんでだろう…時々、あんたのこと『サマエル』って呼ぶの慣れてない感じがするんだ」
今しがた頭に浮かんでのであろう違和感を素直に語れば、ぐっと瞼を押さえられた。痛くはなかったが瞼の裏で、ちかちか、とホコリのような血管の血流のような光が舞う。
「もっと違う呼び方してた?」
「…いいえ」
「本当に?」
「サマエル以外に何が?それは私の本名ですよ」
遮られた視界は役立たずだったが背後から、ちりちりちりちり、と何か規則的な音がした。それが何か燐にはわからないけれど、時々、ここへ来ているサマエルが愛用している懐中時計。 あれが秒針を刻む音にも似ている。
「−−−−時間戻しましょうか」
それの意味することが燐にはわからなかった。ただひどく頭がぼんやりする。ひどく眠たかった。サマエルの手を押しのけようとも思わず、ずるり、と体から少し力が抜ける。
「眠っておしまいなさい」
やさしくあまったるい声が耳元で響く。
「でも、アネモネの手入れ、まだ、途中」
そういう燐の声はすでにか細く、かすれている。
「気にすることはありませんよ」
そう言い放ったサマエルの声は囁くように小さかった。



「だってここでは、」

なんにも死ぬことはありませんから。



ずるり、と完全に力の抜けた燐を支えるサマエルを、真っ黒な空を抜き出したような服に身を包む赤い目を持った若い男だけが見つめていた。



ここでは全てが曖昧で、しかし全てが明確な輪郭を保ち、全ての時が止まっているかのようである。







2012.10.13
っていうメフィ燐本か長編をいつか書きたいなあ、なんて。