産声

 

『よう、サマエル』



その声はまるで空気に交じる窒素のように。酸素のように二酸化炭素のように。決して意識できるものでもなければ認識できるものですらない。 現にこのヨハン・ファウスト邸のプライベートルームにいるのがメフィスト以外の誰かであったら決して気付くことはできなかっただろう。 そうして自分の身に何が起きたかもわからぬうちに喉を掻っ切られるか臓物を引きずり出されるか。あの「兄」と供に虚無界にいた頃、あの「兄」 の好んでいた物の殺し方をいくつか思い返してみたが、どれもこれも気分のいいものではなかったという記憶しかないぐらいだ。
「…兄上」
メフィストはゆったりとした浴衣姿のまま握っていたコントローラーを無造作に床に放ると「声」のする方にゆっくりと向き合った。 どこから響いているかわからない。しかしメフィストならばかすかにわかる。わかるのだが、掴めない。 今向き合っているのはそんな相手だ。
「珍しいですな、あの引きこもりの兄上が直々にいらっしゃるとは」
ぱちん、と一つ指を弾きいつもの白いスーツにマントと奇抜な道化師に成り下がる。同時に、くつくつ、沸騰する湯のようなかすかな音を立てて「兄」が嗤った。 同時にどさりと大理石の床に人一人の形をしたものが転がる。燕尾服を着込んだ初老の男のそれはメフィストの身に周りの世話をしている執事であり使い魔だった。 うつ伏せになっているので見ることができないが、きっとハラワタは空っぽだろう。思わず一つ舌を打った。中々に優秀な使い魔だったので逃げおおせてはいるだろうが、 憑依体はこの通りだ。しばらくは虚無界から這い上がってはこれないだろう。
『兄を歓迎する準備がなってないな。そいつのハラワタは不味かった』
きいん、と。出来の悪い教会の鐘のような音と供に耳に流れる声。同時に薄暗く青い影のようなものが部屋の中に現れた。 物音も何もない。その薄く青い影のようなものは人の手足の形を取ってはいたが酷く不透明で本当に影でしかないものだった。
それが柳のようにひょこひょこ揺れて、丸い何もない顔のような部分はぐるりと部屋を見渡す。
『くだらないねえ、どうでもいいもんばっか集めてやがる』
娯楽品に溢れ帰っている部屋を認めて「兄」はどうでもいいように言い放った。
『おまえは昔からそういう収集癖というのかな、くだらないものを集める癖があった』
「……」
『その割には飽きやすい』
手のような形を取った影がコレクションの一つに触れようとしたが憑依体を持たない影の存在だ。掴むこともできない。
「何のようですか、兄上」
紅茶もお菓子も。歓迎するようなものを出す仕草させ見せずメフィストはゆらゆら揺れる影から決して目を離さなかった。 その手がいつ何が起きてもいいように、ペットであるピンクの蝙蝠傘を握り締めている。
『何の用?ああ、なんだっけ…どうでもいいことなんだがな、父上が煩くてな。ちょっと見に来たよ』
「何を、ですかな?」
『なんだっけ…あー、あー、あー、…』
考える仕草を見せる影。それはそこにあるようで実はそこにはいないのかもしれず。もしかしたら「兄」の本質はメフィストの背後か上か下か右か左か。 それすら掴めない掴めさせない「兄」は昔からそういう悪魔であった。
『あー、ああ、そう、弟。いや俺から見ればおまえらみんな弟なんだが、一番、下の奴、だな。なんといったかな。ダメだな。どうも。 他の兄弟共も父上も騒いでいたが俺はどうしてもそいつに関心が持てないよ』
くんくん、とまるで犬のように臭いを嗅ぐ仕草をしている影。
『…いたな、ついさっきまで、ここに』
ぐるんと回った青い影は先ほどメフィストと燐が晩餐会をしていた場所に一点留まる。アマイモンもいたな、と抑揚のない声が呟いた。
『ふぅん。随分、人間臭い顔してやがるな、我等の末の弟は』
ついさっき過去ったはずの光景がまるで見えているかのように、否、実際この兄には見えているのだ。 スーツに身を纏った燐の姿が見えているのだろう。
「それがなにか」
『へぇ、へぇ…こいつは興味深い。へえ。おまえ今サマエルって名乗ってないのか』
くくく、と影が震えて一歩メフィストに近づいた。その影から流れる虚無界独特の冷気がメフィストの体を包み込む。
『そうだな。俺が初めに教えたからな。与えられた名を名乗る度に俺達は縛られていくってな』
まあおまえがどう名乗っていようと関係ないんだがな、とまた一歩影が近づいた。
「それが、なにか」
『さあ、なんだろうな』
次第にかみ合わなくなっていく会話に神経を逆撫でされるようだった。この「兄」と話す時はいつもこうだ。近づく度に虚無界の不快な臭いが鼻につく。 空間をつなげてもいないのに、兄のいる場所は虚無界へと近づいていく。兄の存在はべったりと虚無界に組み込まれている一部である。メフィストの憑依体が冷たい汗を流していた。 少しでも気を抜けば屋敷ごと虚無界に呑み込まれかねない。この「兄」はそういう存在である。ツギハギ縫い合わされた空間を無理矢理引きちぎって呑み込んでいく。
『で、末の弟のことなのだがな、少し俺にも見せてくれないか?』
「お断りしますよ」
途端、ぐぐぐ、と見えない何かに押されていく感覚。必死に押しつぶされまいと空間と時を繋げているが横暴にぞんざいに暴挙に力そのものに、押されて呑み込まれていくこの感覚が、 メフィストはずっと嫌いである。
『おいおい、サマエル。弟よ。俺に逆らうということは父上に逆らうのと同じだと思え。俺は別に末の弟などどうでもいいが、父上が見て来いというのだ』
ぐるん、と再び部屋を見渡してから、ほう、と感心したように兄が吐息のようなものを漏らした。
『青い炎をなあ…本当に継ぐ奴が出てくるとは…ふぅん、父上とおまえが執着するのも少しわかるな』
「兄上でも継げなかったものですからね。最も父上に近い父上の生み出した最初の悪魔であるあなたでさえ、」

継げなかったものを。

ひゅ、っと空気が曲がった感覚。じっと虚無の青い影がメフィストを見つめいていた。
『おまえ、』

執着しているな。

にやり、と影が嗤ったのがわかった。

『おまえがそこまで拘るものなんて、俺は3つぐらいしか知らないな。時間と空間とそしてこのどうでもいい世界』

『「時間が知りたい。自分が今どこにいるのか知りたい」覚えているかこれがおまえの産声だ』

『おまえは今でもその産声通りの悪魔なんだよ。いくら名前を変えようと、いくら物を集めようといくら、いくら物質界を好んでいても』

『末の弟はおまえのただのお気に入りってわけでもなさそうだ。そうだな、おまえが本当に求めて止まないものを与えてくれる、何か、とか』

『あの末の弟はどんな「悪魔の産声」を上げるかな。おまえはそれを誘導するっていうのかな?』

できやしないよ、末の弟も所詮、悪魔だ。

ずぶずぶ、と澱んだ溝のように影が滲んだ。それは大理石の壁に染み込んでいき溶けて消えていく。 残るのは拭いきれない「悪魔」の気配だけだった。漂う声は未だメフィストの耳に纏わりついているが。

『本当は父上に一度連れて来いといわれたが、末の弟が産声を上げた後でも別に遅くはないだろう。さあて、あれはどんな悪魔になるかなあ』

その瞬間なら初めて興味が持てそうだよ。
と。最後に響く言葉だけを残して「兄」は虚無の世界へ戻っていった。







どっと襲った疲労感のままにベッドに仰向けに横たわる。スーツに包まれる憑依体の皮膚から溢れる汗が鬱陶しい。額にかかる前髪を掻き揚げればそこもぐっしょりと濡れているのがわかった。 見えるのは派手な天蓋ベッドの天井。体を包むシーツの感触は柔らかいのに求めているものとはまるで違う感触に何故か苛立ちを覚えた。
「…産声ねえ」
それをサマエルという名を与えられた悪魔が上げたのは、もう遠い遠い気が遠くなるほどの昔のことだ。
今、自分の羽の下で育てつつあるあの小さな末の弟はまだ生まれてさえいないのかもしれない。固い殻を破ってこの羽の下で羽化するとき、あれはどんな産声を上げるのだろうか。
できれば最初にそれを聞くのは自分でありたいな。
ふと、自嘲的な笑みを零してメフィストは携帯電話を取り出した。迷うことなく繋げた先は「奥村燐」と名前を浮かび上がらせる。 耳にあて相手を呼び出す音を数度聞きながら、さて、次は彼の好きだというスキヤキでもエサにしてまた供に食事をするのも悪くないだろう、とメフィストは考えていた。



何故だか無償に彼をこの腕に収めておきたくなったのだ。







2012.10.28