オペラ座法廷での出来事である。
磨きぬかれた大理石の床。
天井には煌びやかなシャンデリアが吊り下げられており、幾重にも重ねられた硝子で形を成しているそれは、
まるで本物のダイヤモンドのような輝きを放っている。
円を描く舞台を中心として、三階にまで及ぶ見事なボックス席にはこの舞台の本来の目的であるオペラを楽しもうとして来たものなど一人もいない。
多くの群集の中そのほとんどは黒いコートを身に纏っていて、一部のものは白いマントのついたコートにピエロのような燕尾服など。
思い思いの格好をしているものもいるようだ。その舞台の中でも中央に位置する三階の席には顔を布で覆い隠した三人の人間がいた。グリゴリ。正十字騎士団最高顧問である。
その三人を正面としてその右側には白いマントのついたコートを着た金髪の男が1人。その左側には白いピエロのような燕尾服を着て、さらに大きなシルクハットを被った珍妙な男が1人。
誰もがこの場でどこか怒気や苛立ちや不安に恐れを抱いた雰囲気と表情でありながらも、その珍妙な男だけはクマの濃い垂れた目をにんまりと細めている。
「…一体、いつ「こちら」来るんだ。そろそろ「あちら」の告げた時間になるぞ」
硬質な声を発したのは白いマントの男である。
「まあまあ、そう焦れることはありませんよ。そろそろ来るでしょう」
懐から金の懐中時計を取り出して時間を確認しているらしい珍妙な男。やたら鋭い八重歯の除く口元は消えぬ笑みだけを浮かべている。
「…なにせ、「あちら」と「こちら」の住人では少々時間の感覚といったものがずれることがありまして」
道化の男が頬杖をつきながらそう言った時である。
法廷内の空気が変わった。
どう変わったのかその感覚を正確に言い表せるものはいなかっただろうが、ただ肌に熱を感じたというのは誰しも覚えたことである。
顔を撫でる熱。それは幻のようにかすかで、春の地面から吹き出る陽炎にも似た、はっきりと掴めない何かであった。
熱いのか温かいのか冷酷なのかやさしさなのか。あるいはその全てなのか。ざわざわと人の肌を撫で神経を逆立て内の臓までねっとりと。
それはおよそ人が与えられる感覚ではなかった。
「来た」
誰が最初にそう呟いたかは知れない。
磨きぬかれた舞台の上に、ぼこぼこ、と黒い泡が吹き出てきた。ぼこん、ぼこん。と成人男性の頭ほどの大きさの泡、または拳ぐらいの大きさの泡。
蟲のように小さくぽこぽこと煮えたぎる泡。黒い泡が次から次へと吹き出てきては、この世のものではないかのような臭いを運ぶ。
獣の毛皮のような肉の腐ったような臭いだ。そして泡の一つ一つには顔がある。苦痛に歪む顔、悦楽に笑い狂う顔、怒りに崩れている顔。
それらが同時に、けたけた、笑っていた。
その泡の中心が、めり、っと盛り上がった。ざわざわ、と何かを取り囲むように盛り上がるそれは170センチほど伸びると、その中から、手が、
出てきた。青白く筋肉はついているがまだ若さを証明する細さがある。その腕から先に、黒い泡の中から何かが1人現れた。
それは少年であった。祓魔師の黒いコートとは正反対の白く飾り気のないコートを身に纏い、
耳は尖り舞台を正面を睨む瞳は青く輝き瞳孔は日に当たる猫のように細く、悪魔の尻尾も尻から生えている。間違いなく悪魔であるが、まだ成長途中を思わせるその面影は
ひどく人間染みているようでしかしそれは一瞬のことだった。
少年の体から青い炎が吹き出る。
ちりちりと火の粉を飛ばし、ごうごうと少年の体を包んで燃え盛る。舞台の誰もが息を呑んだ。あるものは悲鳴まで上げて後ずさり、またある者は舞台から逃げ出したりもした。
「サタンの息子だ…」
そう呟いたのは誰だったか。それともこの舞台の誰もが思った言葉が形となって出てきたのか。その誰かの言葉に少年は尖った八重歯を見せて不敵に笑っていた。
「父上の使いとして来たものだが、誰に向かって話せばいい?こんなに人がいるなんて聞いてなかったからな」
誰を見たらいいかわからないせいなのか、舞台天井のシャンデリアに向かって少年が叫ぶように声を発した。
声変わりの少し前を思わせるまだまだ若い声だ。大きく開けた口から鋭く尖った八重歯が覗いている。ぎょろり、と青い目玉が舞台を一階から三階までねめつけて、その視線に誰もが竦みあがった。
唯一、グリゴリと白いマントの男、道化の男、以下数名のものは身じろぎ一つしなかったが、道化の男を除いて誰もが忌々しいと言いたげに少年を見下ろしている。
「こちらの三人に向かって話せばよろしいかと」
ざわめきながらも妙な沈黙の訪れた舞台の中で最初にまともな言葉を発したのは、道化の男である。少年はちらりと道化の男を見て、何か言いたげに口を開いたが、思い直したかのように閉じてしまった。
そして顔を隠したグリゴリに向き合う。顔を隠した格好であることが不思議なのか少年は不躾にも首をかしげた。白マントの男の米神がぴくりと動いたが、事前に手を出さないよう言われているのか、
腰につけた大剣の柄を握るだけに留めている。
「…不本意ながら我等が父上の伝言を伝えにきた。『物質界を寄越せ』それだけだ」
前置きも駆け引きもなしに単調直入に放たれた言葉に、今度こそ舞台の殆どのものが悲鳴を上げ、または罵倒した。白マントの青年まで上品な顔に似合わず舌打ちをし、
だからすぐに殺してしまえばよかったんです、と不穏な言葉をグリゴリに向ける。ざわめき波になる言葉の中でも少年はどこか呆れたように顔をしかめて、ちょっとまて、と片手を上げた。
「父上の考えていることは至って簡単だ。物質界が欲しい、そんだけ。でもあんた達も知っての通り父上はそれに見合う器がないと10分も物質界には留まっていられない。
そんな父上がどうしてこの年になって俺を使ってまでおまえら人間に伝言を寄越したか。それは俺が父上をこちらに通せるゲヘナゲートを造れる上に、
父上の器になりえるからだ」
「ならば今すぐここで貴様を殺せばいいだけの話だろう!」
ついに白マントの青年が荒く声を上げ、舞台から飛び降りた。その後はもう刹那の時間だ。一瞬、少年が青い目を見開いたかと思えば、大剣は少年の首に食い込む寸前であった。
ぎりぎりで押し留めたのは、まだグリゴリの許しが出ていないからである。そもそも散々協議を重ねた上で催した場だ。
それを自分の激情一つで壊すほど青年は見境がないわけではないようだ。ただその品のいい整った顔は嫌悪に歪んでいる。
「すっげー早い!全然、見えなかった!」
対して少年は拍子抜けするほど無邪気であった。しかし、青年は悪魔の感情とは両極端なところもあり無邪気でもあり邪気の塊でもあると知っているので態勢を崩すことはなかった。
何がすごいですよ彼が本気だったら首が飛んでましたってまあ首が飛んでも再生できるんですけど、とため息をついたのは道化の男だったが誰も彼の言葉は拾えていなかった。
「えっと、とりあえず落ち着いてくれよ。確かに父上がこっちに来るには俺が必要だけどまだその時じゃないんだ。
俺は器として成熟してない。でもそろそろその時期だから…そうだなあ、あと一年もないかもしれない」
一年もない。その言葉に青年の顔さえもさすがに歪んだ。少年の体から吹き出る炎が熱く、大剣まで、あつい、と悲鳴を上げ始めている。
人どころか悪魔さえ燃やす炎である。数多くいるサタンの息子達の中で唯一青い炎を引いた少年。サタンの器にさえなれる可能性のある脅威の悪魔。
「…でも、俺は物質界が好きなんだ」
炎を熱に煽られながら腕を下げない青年に向けて少年はまっすぐ青い目を返した。その時、炎の熱がぬるくなったことに青年は気付いたがそれが何を意味していたのか、
青年は考えたくはなかったし悪魔に気を使われているとも思いたくはなかった。
「あんた達の中には知ってる奴もいるだろうけど、俺は人間とサタンのハーフだ。だから俺は物質界に縁もゆかりもないわけじゃないし、正直「下」から何度も見てた。
だからそれなりに愛着はあるし…ここは滅んで欲しくない」
信じる信じないはあんた達の勝手だけど、と少年は前置きをして、少し息を吸った。
「俺の今から言う条件を飲んでくれれば…俺の願いを聞いてくれれば物質界への侵攻は後500年は延ばす。っていうか確実に延びる。上手く言えばサタンの脅威は永遠に燃え尽きる。
約束する。なんだったら、契約を交わしてもいい」
しん。
音が一瞬にしてなくなった。もともと、舞台のためのオペラ座の中はかすかな音でもよく響くように造られているが、この時、本当に何の音も打たなかったのである。
あるのはごうごうと燃え盛る炎の息吹だけ。その音だけが舞台に響いていた。それは手の平で耳を覆ったときに聞こえてくる、血管が血を流れる音にも似ていた。
「条件はただ一つ。これから俺が言う人間を見つけて欲しい。その人間は俺の双子の弟で、名前は、」
奥村雪男は田舎に住む普通の高校生だった。
否、普通というには少々、かなり頭がよく慎重も高くて生真面目で、誰からも褒められるような優等生だった。
ただ身よりはなく自分の両親の名前すら知らない。そんな雪男にとって、藤本獅郎という田舎町の教会に勤める神父が親代わりだった。
寄宿も兼ねているその教会の部屋を一つ使いながら、雪男は神父と数人の修道士と共に暮らしていた。12月に入り冬の寒さも本格化してきた田舎では雪が降るのも都会に比べると早く、
たくさん積もる。その日は先週丸1日続いた豪雪の雪がようやく解け始め、12月にしてはそれなりに温かい日であった。雪男は近くの高校に行くため、
いつもどおり神父たちと共に朝早く起き、修道士の誰かが作ったのだろう、沸騰させてしまってしょっぱい味噌汁と少し焦げてしまった卵焼きで腹を満たしていた。
「雪男、受験の方はどうだ?」
赤い目がねをして灰色の髪を持ち、今年もう50は越えた男が雪男の養父である。
焦げた卵焼きをちょっとばっかり眉間にシワを寄せつつ口に放り込んで、茶と一緒に流し込んでいた。男所帯なので所詮料理の腕は期待できない。
雪男も料理の才は残念ながらなくて、かつ受験生なので無理はするなとやたら気遣われ最近ではほとんど料理をしていない。
「うん、大丈夫だよ、神父さんは何も心配しないで」
「…そうか」
普通の高校生ならば、実は偏差値が足りなくて、としかめ面をするかもしれないが、雪男にはそんな心配はずっと無用だった。
希望している大学への偏差値も充分だった。奨学金も取るつもりだ。今通っている高校は養父が学費を出してくれているが大学までお金を出させる気は雪男にはなかった。
養父は気にするなと何度も言っているけれど、医者になるにはお金がかかるのだ。
雪男の将来の夢は医者である。
「まあ、無理はするなよ。おまえは小さい頃から風邪引きやすいからなあ。あと生真面目すぎてそれが逆に心配っつーかなんつーか」
「心配性だな、神父さんは」
ころころ笑いながら食器を片付け、カバンを持って黒いトレンチコートを着て、雪男は学校に行く支度をした。玄関まで見送ってきた養父は、おい雪男わすれもんだぞ、と
十字架のネックレスを渡してきた。
「あ、ありがとう神父さん」
その十字架のネックレスを首から下げるのは幼い頃からの雪男の習慣であったが、どうにもそれには信仰以外の何かがある気がしている。
問い詰めたことも問い詰める気もないのだが。
「じゃあ行って来ます」
「行ってらっしゃい」
最後のいってらっしゃい、という言葉は台所に集まっている数名の修道士も共に。毎朝、養父と彼らの声に見送られて雪男は高校に行くのである。
雪男が常にない何かを見たのは、高校へ行くための道を歩いていた時であった。
田舎の道は舗装もされてなく、さすがに高校へ行くにつれて道はアスファルトで染められているが、そこに行くまでは田んぼに沿ったあぜ道である。
稲もとっくに刈り取られ枯れた黄土色に染まる田んぼには、まだ溶けきっていない雪を乗せている。足を踏み出せば朝の寒さに凍った地面がぱりぱりと音を立てた。
溶けた雪が凍結しているのだ。転ばないように慎重に。
雪男が見たのはそんな凍った冷たい道の向こう。ふと、行く先に、陽炎のように立ち上る蒸気を見た。
おや、と雪男は首を傾げる。
陽炎というのは春に出てくるものではなかっただろうか、と。
しかし雪男より数十メートルは先に湧き出たそれはゆらゆらと空間を歪ませて、何故か、青く染まっているように見えた。気のせいだろうか。
雪男は思わずメガネを一度外して瞼をこすったが再びメガネをかけた時、青い陽炎の向こうに人影を見た気がした。
「………」
ただ人の影があったような気がしたのでそれが本当に人であったかは、わからなかった。背格好も明確ではなく。けれど、揺れる空間の向こうから雪男を見つめる、青い二つの目を見た気がした。
「…あ、」
しかし、その揺らぎは一瞬の後に消え去った。雲散していく雪のように、ちりり、と空気に溶けていった。
「…なんだったんだ、今の」
不思議に思いながらも雪男は足を速めた。腕時計を見れば急がなければ出席に間に合わないと気付いたからだ。歩調を速め、陽炎に見えただろうあたりを通過しても何も起きなかったし、もう見えなかった。
ただ通り過ぎた際にこの身を包むような温かさを感じたのは気のせいだったのだろうか。
2012.12.16
っていう雪燐の長編か本をいつか書きたいなあって。思いつくとこだけ書いた感じなんでマジで続くかわかんないです☆