ゲヘナとは。人間が当て字にした通りの虚無の世界である。
メフィストフェレスは己が一体いつから虚無界に誕生した存在であるのか、もう覚えていない。膨大に過去っていった
時間の中で置いてきてしまった記憶であったが、虚無界にいる悪魔のすべては魔神が創造したものなので、そもそも「生まれた」という言葉も
疑わしい。創られたというべき存在である。とにかくメフィストフェレスは下界に見れる「人」という存在がまだ大した文明を持っていなかった頃から、
虚無界にいた。
世界とはもともと空も海も大地も空気も一緒くたになった泥のような「カオス」という名前のもので、それを神が全てを空に海に大地に空気に、と
分けたから今の世界となったという。ならば悪魔達がいるこの魔神の世界は、その神の創造から見放された世界であるのだろう。
基本は下界の世界と似ていた。気がついたら廃墟のような建物のようなものが存在している辺り、下界とは合わせ鏡のような世界であるのだろう。しかし、そのどれも
朽ち果て腐り、物質が辿る最終的な滅びの姿そのものであった。それ以外は混沌を極めている。
空も海も大地も空気も常に湿ったように澱んで、一緒くたの泥になっていて、かろうじて上と下と右と左はあるのだが、「人」の住んでいる整頓された
世界でいう「夜明け」というものが足元からきて赤黒い光を放ったり、かと思えば頭上から夜と呼ぶにはあまりに暗い闇が覆いかぶさったりと、
とにかくすべてがでたらめで、当然、時間というものも存在しなかった。その世界に存在しているものといえばそれは悪魔以外にいることはなく、
悪魔以外には存在しえなかった。大抵の悪魔はどろどろとした形のない、「カオス」とそう対して変わらぬ姿をしていて、
手足もなければ眼もない。ずりずりと虚無界を這いずり回っているようなものが多かった。最も、創造主である魔神と一部の上級悪魔、または頭の切れる悪魔は
己という存在を己の気に入ったままに思い描き、とりあえず「形」を取っている。メフィストフェレスも例に漏れずそうであった。ただメフィストフェレスにとっては
便宜上そうした姿を作ってみただけで、特に悪魔としての己の姿にこだわりがあったわけではなかった。姿をとった方が何かと便利であるだけであった。
隙あらば己を呑み込もうとする兄弟達を軽くあしらうのには、鋭い爪や牙や体があるのに越したことはない。メフィストフェレスには多くの兄弟がいる。
最もそれらは虚無界の創造主である魔神から同じく創りだされただけなので、そういう意味での兄弟でしかなかった。その己も含めて兄弟達から、さらに枝分かれして
いくような形で様々な悪魔は増えていった。枝分かれの末に、階級というものが生まれた。下級にも満たない悪魔から下級、そしてその下級悪魔を作り出した中級、
創造主である魔神から直接創りだされた悪魔は上級。無論、魔神はその世界の頂点であり絶対であった。それだけの実に単純な階級であり、覆すことはできないものであった。
実に、単純。姿形、個々の能力は様々なものがあったが、何故か悪魔達の性格は、一様にして皆基本同じであった。常に快楽を求める求道者。メフィストフェレスは悪魔という存在をそのように認識している。
暴力を好むものは常に仲間の悪魔を殺して、暴食に捕らわれたものは死んだ仲間を喰いつくし、破壊を好むものは常に何かを引き裂いていた。
メフィストフェレスも弟にあたる悪魔の一人アマイモンの暴力という快楽の求道に対して、適当にあしらったりと相手をしてやったこともあるが、それもすぐに飽きてしまう。
そう、悪魔は常に快楽を求める求道者であるのだが、メフィストフェレスは己は一体何を求める求道者であるのかが、かなり長い間わからなかったのである。
聞き分けのない弟を軽くあしらったり、兄にあたる悪魔に対して試しに嘘などをついてみたこともある。メフィストフェレスはそのようなことが抜群に上手い。
虚言を耳元で囁いて容易に己以外のものの行動を操り、動かしやすいような駒を作ってどこまで己の思い描いた通りの
結果がでるのか試してみたり、嘘をつき騙し空惚け真実をくらまし箱に隠して鍵をかけその鍵を己の中に呑みこんでほらほら真実はここにあるぞと嗤ってみせ、
糸をつけてくるくると己の思うようにすべてを動かして、茶番劇を演出してみたり。思いつく限りのことを
全て虚無界でしてみたのだが、やがてそれらにも飽いてしまったのだった。頭上から暗い光が輝いたかと思えば足元から闇が呑む。悪魔が蔓延り、
物質の滅びを辿った廃墟が並び、それらを
全て支配する神は青い炎を噴く。そんな、でたらめでいびつなこの世界。
そこで何をしてみても、メフィストフェレスは己の快楽が満たされたことは一度もなかった。だからといって己の存在に疑問を持つとか、そんな意味のないことを
考えることはなく、ただこれから先も膨大な時間の中を、このように退屈に虚無に生きていくのだろうと、ぼんやりと思っていただけだった。
そんなメフィストフェレスは、ある日、ふと、下界の世界へ降りてみようと考えた。
理由はただ虚無界に飽いてしまって退屈だったからだ。混沌とした虚無界はそれだけ単純で、そっけない。しかし下界にある、「人」というものが言っている言葉から
その世界は物質界というそうだが、その世界は虚無界から見るにかなり整えられているようでしかし複雑怪奇という矛盾を孕むものであった。単純にして複雑。
複雑にして単純。しばらくただ見ているだけですませていたメフィストフェレスは、だんだんと下は面白そうな世界だと思い始めていた。
もとより、虚無界の悪魔は物質界の様々なものに憑依して干渉することがあるのだ。しかし、菌に憑ける下級悪魔ならまだ簡単だろうが、上級悪魔になればなるほど
力は増し憑依の状態も難しくなり、なにより人間に目をつけられやすいので、なんとなく避けていたのだが、
このままでは非常に退屈であったので、メフィストフェレスは、よしいってみよう、と考えた。退屈ほど死ねるものはない。
そうして初めて憑いた人間の顔を今ではもう正確には覚えていないのだが、確か若い青年であったと思う。
まず思ったことは、非常に窮屈だ、ということだった。肌というものはぱんぱんに肉体を覆っていて、
手足をぎこちなく動かしてみても、あまり思うように動かせなかった。ここは慣れだろう、と思い一、二歩、歩いてみると、何やら非常に肩が重い。そうかこれが重力という
やつか、と気付く。手の平を広げてみると、指は五本。短く整えられたピンクの爪。触っただけではがせそうだと思った。そして頭の中も何かが詰まっているみたいに重い。
脳みそってもののせいだ。左胸は常にどくどくどくどくと動いている。心臓ってやつだ。形を取った悪魔にだって同じようなものはあるだろう。人の
中身は器官が多すぎて常に騒がしく休むことなく動いているけれど。そうして、
初めて人に憑依したときは、とにかく何もかもが新鮮に思えた。調子に乗って手足を動かして、腕をちょっと指で触っただけなのに、ぼき、と嫌な音がした。
ついで激痛。ああ骨が折れたか。と気付く。これはまた随分、脆弱な生き物なのだな、人というのは。と溜息をついた。力の加減ができないせいで、
青年の体はすぐに駄目になってしまった。仕方ないので窮屈なその器から出る。そうして最初の実験体であった人間は、木彫りの人形のように砕けて壊れた。
メフィストフェレスはそれから頻繁に人に憑依するようになった。最初の失敗もあって、今度は人の肉体とはどのぐらいに加減でないと動かないのか壊れるのか、
よく見極めてから憑依して体を慣らした。2回目の憑依でそれはすぐに上手くいった。
慣れてみれば人の体も中々いいものであった。しばらく憑依して物質界に暮らしてみた。人の周りにあるものは何もかもが脆くて砕けやすく、最初はコップを手に取ることさえ
難儀していたこともある。とにかくメフィストフェレス自身の力が強大なので、人の体であっても悪魔の力は常に何かを儚く壊してしまった。脆弱だ。コップを手に取って水を飲んでみたいだけなのに
砕けて壊れてしまう度に、溜息をついた。一番の失態はその憑依した人の体で(おそらく憑依した男の恋人であったのか)女に
触れてみたとき、その女を壊してしまったことである。もろい。少し抱きしめただけで骨が軋んで折れて砕けて内臓が飛び散ってしまったのだ。
これはある意味、硝子のコップなどより繊細であった。人はなんと脆弱で硝子以下の脆さなのか。よくこれで生きていけるものだな、と。
しかし、やがてそれにも加減を覚える。コツを、力を制御する術を覚えてしまえば楽であった。人と交わす挨拶で握手というものもしてみたが、相手の手を砕かずに
握ることができた。そうなれば普通に人として生きてみることもしてみた。物質界は存在する建造物や物などが虚無界に似通っているとは
いっても、まるで違う世界であった。まず、色が鮮やかであった。虚無界は常に暗く陰湿で、腐ったような色が空気を染めて、
赤黒い雲が周りを覆い、青い炎が世界をすべる。しかし、物質界はとにかく鮮やかだった。人の目でそれは眩しいぐらいであった。
空は父である魔神の青と同じ色彩であるはずなのに、何故あんなにも違うのだろうか、と胸の疼きを覚えた。今から思えば、あれは感動であったのだろう。
規則正しく太陽が昇り、空は明るく、日が暮れれば赤いビロードが降ろされたような夕焼けがやってくる。そうして、夜を迎えればなんとなくその暗さが虚無界を思わせたが、
闇の中のある町や人の暮らす明かりは、常に灯っていた。そうして景色は美しかった。そしてそこに存在するものもどれだけ手に取っても飽きないものばかりであった。
メフィストフェレスが人に憑依するようになってまず初めて没頭したものは、書物である。様々な文字の羅列があり、同じ世界の住人だというのにまるで違う言語もあった。
少し学習すればそれらすべてを読めるようになった。そうなればむさぼるように書物を読んだ。
虚無界で生きるにはまるで無駄で役に立たないものがほとんどだが、それでも頭の中に入り込んでくる「知識」を感じるたびに、メフィストフェレスは楽しいと思えた。
虚無界にて決して味わったことのなかった感覚が、物質界にいると一秒、一秒にそれを感じる。書物の知識も目にする色も移り行く景色も、そして脆く脆弱な人もよく
観察して関わってみればこれは面白く飽きない存在であると知る。一見するとすべてが弱いのだが、考え方価値観外見うちに秘めたる能力まで同じものは
何一つとしてなく、見ていて飽きなかった。友人といえる存在も何人かできた。彼らと関わることも、物質界で覚えたチェスをしてみるのもおもしろかった。
メフィストフェレスは物質界に降りるようになった最初の頃は、まるで初めておもちゃに触れさせてもらえた子どものように、物質界の全てを夢中でむさぼっていた。
そうして人と関わるうちに、ふと、気付いたことがある。
まず人の営みとは中道にして非常に病みやすいということだった。己の中にある欲望や悦楽や絶望、怒り、嫉妬、それら全ての感情をどこか押さえ込んで
無難に、偏らずに生きていこうとするものがほとんどであるのだと気付いた。しかし、そのために病む。あるいは押さえ込んだ強烈な感情に呑みこまれて駄目になる。
もちろん、そうでない人間もいたのだが、圧倒的に弱い者の方が多かったのだ。いや、一見強く見えるものさえ、胸の内には拭えぬ病みと弱さがあった。
快楽の求道者である悪魔とはまるで正反対であった。何故そんな生き方をするのか、といつだったか大昔友人と呼べる人間に対して問いかけたことがあった。その友人の顔も
覚えていないのだが、ただ寂しそうに、そうでなければ人も悪魔になるからだ、と笑っていたことは覚えている。この時、メフィストフェレスは人間というのは、本能的に悪魔を
拒絶する生き物なのだと知った。その頃にはもう虚無界から様々な悪魔が物質界に憑依することが多くなっていたので、自然と対抗するように
人の間にも能力者が現れた。思えばそれが祓魔師の始まりである。友人だと思っていた人間に正体が暴かれて、祓われそうになったこともある。
別段、それを悲しいとは思わなかった。ただ、こんなものだろうな、という事実を受け止めただけである。物質界と虚無界。その微妙なバランスが崩れ始めていたのも
この頃であった。その中で、メフィストフェレスは特に目的も持つこともないまま、物質界に入浸るようになった。
覚えたいことや味わいたいものもたくさんあって、最初の頃は貪欲にそれらを吸収することだけに夢中であった。
正体がばれると祓われるけれど、上手くやっていけば人間の友人と共にいることもあった。しかし、ふと、気付けばそれらの友人達はあっという間に老いて、死んでいった。
はて、
まだ出会って50年ほどしか経っていなかったというのに、もう死んでしまうのか、とメフィストフェレスは首をかしげた。思った以上に人の世界での
寿命というのは儚く感じた。50年なんて、虚無界にいたころは昼寝でもしていれば過去ってしまうぐらいの時間である。そもそも虚無界には時間という概念はないので、
正確なところはわからないのだけれど、とにかく人間達の与えられた時間というのはまさに刹那であった。しかし、そのように刹那だからこそ
様々な書物や物質や芸術品に文学に美しい建造物などを必死に遺していくのだろう、と思うとその短い命さえも輝かしく見えた。そうして、
ある程度長く物質界を味わう。そうしてたどり着いた感覚にメフィストフェレスは口の端を、にやり、と上げた。
物質界、人間の世界----これは面白いおもちゃ箱だ、と。
メフィストフェレスは物質界にて心からの快楽を知った。おもちゃ箱の中のおもちゃは無くなることなく溢れ続け、また自らおもちゃを作り出すこともできた。
あの虚無界にある途方もない時間とは違い限り在る時間の中でしか存在しえない物質界だが、欲しいものはそれこそ無限に湧き出てきた。
触れるもの見るもの味わうもの全てに悦楽を見出せる。飽くことなし。最高だ、と思わず嗤った。嗤いながら、こうして快楽を得ようとするだけではまた
虚無界での二の舞になるだろう、とも考える。なるべく、長く、長く、それこそ永久に、このおもちゃ箱の世界で自分は遊んでいたい。そのためには、
適当に己の目的や実行したい演劇でもしてみるか、と。
そういえば--------父上はこの世界を欲しいなどと仰ってはいなかったかな?と思い出す。
その気持ちが今ではわからないこともない。しかし、あの父にこの世界すべてが手に渡ったらこの世界もきっと、虚無界と同じようになってしまうのだろう。いびつで
でたらめで廃墟が腐りゆき、
悪魔が蔓延り神は青の炎を噴き、
だらだらと退屈な時間もないあの世界。冗談じゃない。せっかくの楽しい世界なのに。
そうだ。とこの時初めてメフィストフェレスは魔神という創造主から完全に解放された考えを持つ。目的を持つ。演劇の名目を考え付いた。
その魔神の手にこの世界が渡らぬよう、いつまでも面白く可笑しいこの世界であるように、己は生きてみせようじゃないか。
そうであれば、きっとこの存在が消える時が来るまで、退屈しないであろう。
メフィストフェレスは、ようやく、求める快楽を知った。
この時メフィストフェレスは虚無界で誕生して初めて、メフィスト・フェレスという本物の悪魔になったに違いなかった。
2011.5.23
カオス(Chaos)、ギリシア人の考えた宇宙発生以前のすべてが混沌としている状態のこと(辞書から引用)。ギリシャ神話でこういうのありました。