僕たちの行方

 

雪男が、兄である燐がサタンの炎を継いでいる悪魔なのだと、養父の口から告げられたのは、祓魔師になったと同時であった。13歳という若さでそれこそ最年少 記録で祓魔師になったその夜のことであった。夜中であったので燐はもう眠っていて、いつも皆で食事を食べている食堂でのことであった。食堂。そんな日常的な 場所で養父は全てを語ったのである。雪男は、不思議とあまり驚かなかった。優秀な双子の弟は兄の燐が普通の人間とどこか違うということに、なんとなく気付いていた。 兄なんて、もっと幼い頃から、自分は普通の奴らとは違う、と気付いていたはずなのだ。それでもさすがにサタンの子供だという事実に、雪男はどう思うべきかわからなかった。 それは、燐のことでもあり同時に自分のことでもあるからだ。
それでも、炎を継いだのは兄の燐だけだという。弟の雪男自身は、普通の人間であるのだという。
そうか、兄さんは、悪魔なんだ、あの青い夜を熾したサタンの落胤なんだ。少しだけ納得する部分もあり、同時に、何故、とも思う。あの優しくて幼い頃はいつもいじめられていた雪男を助け、料理が 上手で感情表現が豊で、ちょっと喧嘩早くてそのせいで困らされることも多かった兄だけど、それでも、誰よりも燐は人間として純粋であったのに。
なんで兄さんなんだろう。
この問いかけは未だに雪男の中で、ぐるぐるぐる、と終わることのない螺旋を描いている。



がたん。と一際大きく電車が揺れたところで、雪男は、はっと我に返った。寝ていたわけではなかったのだが、ぼんやりしすぎていたようだ。 隣に座っている燐を見れば、案の定、眠っていた。ぐう、と呑気な寝息を立ててかくんかくんと舟を漕いでいる。窓から外を見て掲示板を確認すると、燐の言っていた駅の 名前がうすぼんやりと浮かび上がっていた。同時に電車も止まっていた。眠そうな車掌のアナウンスが流れる。その投げやりなアナウンスにやはりこの電車に 乗る人というのは、本当に少ないのだろうと予想できた。兄さん、ついたよ。と軽く肩を揺すると、んご!と変な声を上げて燐は飛び起きた。しばらく、きょろきょろ、周りを見渡す。 自分からこのような状況に持っておいて、少しの間、夢と現実の区別ができなかったのか。それとも滅多に乗らない電車に兄弟二人で乗っていたことが、夢であるように 思ったのか。瞼を手の甲でごしごしこすってから(よく見ればその拳にも渇いた血の痕があった)、大きなあくびを一つ。
「降りないの?」
「降りるに決まってるだろう」
寝起きのかすれた声で燐は言った。荷物を抱えて電車を出る。雪男もあとを追う。電車に飛び乗ったときは切符を買っていなかった雪男だが、電車に乗っている間に 車掌に、つい切符を買い忘れてしまいました、と当たり障りのない言葉を言って切符代は払っておいた。いかにも未成年の子供二人が夜中に電車に乗っていることを、 少し不審そうにみやった車掌であったが、どうでもよかったのか何も言わなかった。定年が近そうな目のクマも目の皺もやたら目立つ疲れた顔の車掌であった。二人は ホームに降りる。やはりここも無人駅であるようで、粗末なコンクリートの土台と寂れたトタンの屋根の待合室があるだけの駅であった。 黄色い光を放つ外灯はあったけれど、壊れているのか、じじっ、じじっ、と音を立てついたり消えたりしていた。改札口も別に切符を通さなくても通れるような 具合であった。それでも二人は律儀に買った切符を、今ではもう使われていないのだろう、駅の窓口に並べて置いておいた。
さて、と。と燐がどさっと荷物を地面に置く。乗ってきた電車は中の電気は全部消えて。真っ黒な長い箱になる。車掌はどこへ行ったのか、もう姿は見えなかった。 ホームの向こう側を見るが真っ暗でメガネをかけていても、暗すぎてよくわからなかった。対して燐は夜目が効くので、じっと向こう側を睨んで何かを確認しているようだった。
「兄さん…ここ何かあるの?」
「いや、なんもねえ、と思う」
この言葉で燐は駅名までは調べたがそこがどんな土地であるのかは、まったく知らずにここまで来たのだと知る。なんだそれ、と思わず力も抜けてくるもんだ。
「一体どういうつもりで、」
「とにかく、遠くへ行きたかったんだよ!」
目をすぼめて拗ねているように叫ぶ。はあ、と雪男が溜息をつけば、燐は荷物を抱えたまま、ずんずん、ホームを降りて先に行ってしまう。慌てて後を追う。 なんとなく少し後ろからその背を追った。



ここはもしかしたら廃村なのだろうか。と雪男が少し疑ってしまうぐらい、途中来た道にあった家には人の気配がなかった。また過去っていく景気には畑や空き地が多かった。 それほど田舎というわけでもない 自分達の住んでいた街から、こんな場所があるとは。街灯はかろうじてあるのだが、これもまた壊れかけなのか、じじじ、と電灯と寄ってきた蛾が怪しく燃える音がした。 来た道はさすがに舗装されたアスファルトの道路だったが。わずかな街灯があるだけの道で、アスファルトにぶつかる自分達の靴の音がやけに遠くまで響いていくようだった。 それでも少し向こう側を確認すれば、人家の明かりらしいものもあったので、まったく人がいないわけではないだろう。
少し前をゆく燐の背中を見る。二人の間には数歩分の距離があった。なんとなく兄がこちらから距離を置いているように 思えたのだ。燐は、何も言わなかった。背中に泥のついた痕がある。
「また喧嘩したの?」
雪男が問う。ああ、と燐は短い返事を返した。電車に乗っているときから気付いていたが、渇いた血の痕も拳などにもついている。一見、怪我が痛むようには見えなかったし 養父に連絡するのどうので言い合いしていたため、そのことには何も言ってなかったのだ。
「怪我は?」
「ちょっと鼻血出しただけだよ。もう止まってるし大したことない」
ごしごし、と再び燐は拳で鼻をこすった。歩みを止めることはない。雪男の方を振り返ることもなかった。それについて雪男は少しだけ違和感を覚えた。 幼い頃、足の遅かった自分。それでも燐は自分を置いていってしまうことはなくて、時々、ちゃんと弟がついてきているかどうかよく振り返ってくれたものだった。 別に気まずいわけではなく、それきり二人の会話はなかった。一体、兄は何を考えているのだろう、と雪男は思う。単純な兄の考えが読めないなんて、初めてであった。 それだけ燐は普段からわかりやすい人である。それなのに、今は燐のことがよくわからずにいた。
そうして、微妙な距離を置いたまま、少し歩いていったとき、お、と燐が声を上げ歩みを止める。
その視線の先を見ると、木造でできた随分古いのであろう小学校が見えた。
当然、明かりはついていない。 頼りない外灯がグラウンドに一つ、二つあるだけで、しん、としたその建物は暗い影をたたえている。へえ、と双子の二人は思わず息をもらした。木造でできた 学校を実際見るのは二人とも初めてであったのだ。へへ、と燐がおもしろそうに肩を揺らすのを見て、
「ちょっと兄さん?」
止める間もなく燐は、ずんずん、とその学校へ向かっていってしまう。
「不法侵入だよ」
「学校っていうのはみんなの場所だろ?」
どんな理屈だそれは。と呆れるも、燐はグラウンドに入っていってしまう。普通、学校の周りを覆うフェンスとか校門とかあるものだが、この学校にはそれさえなかった。 かろうじて、手入れのまったくされていない藪が生い茂っているだけである。その藪をくぐって燐は先へ行く。仕方なく雪男もあとを追った。兄のことだからたまたまこの地に 来て見ただけで、たまたま小学校を見つけておもしろそうだったから入ってみたかっただけであろう。雪男は土ぼこりの舞うグラウンドをさっと一瞥する。 悪魔はいないようだった。最も、悪魔というのは物質界のものに憑依して姿を現すものなので、こういう人気も何もないような場所だと逆に悪魔は出にくいのかもしれないが、 油断はできない。特に「今」はまだ燐に悪魔は見えてないので、自分がどうにかするしかない。そのように雪男が周りを警戒しているというのに、燐は呑気であった。 ぐるっとグラウンドと校舎を見回して一言。
「なんか懐かしい感じがするよな。変だよな、俺達の行ってた小学校は普通にコンクリートだったのによ」
「うん、そうだね…」
ざくざく、とスニーカーがグラウンドの土を踏む音が響く。雑草も生えている地面に近づいて見れば校舎はかなりガタガタで窓にも割れているものがあった。木造の 外壁など傷んで、めくれている箇所もある。 中は暗すぎて見えない。扉は厳重に鎖で閉ざされている。 その鎖を燐は、がたがた、揺らしていたが無理に開けると壊れるとわかったのか、ちぇ、と舌打ちだけした。
「入ろうなんて考えてないよね?」
咎めるように言ってみると、う、っと燐は呻く。
「いや、おもしろそうかなーって…」
「たぶん、廃校になってるんだよ。勝手に中に入って床とか抜けちゃったら危ないよ」
「わかってるって…。廃校かあ…」
じっと校舎の上を二人で見上げる。その上に方には時計台があって、時間はちょうど8時で止まっていた。ふと、自分達の行っていた小学校の登校時間と同じだな、と 思った。
「俺達の行ってた小学校も8時ぐらいだったよな、登校時間」
燐も同じことを思い出していたらしい。
「兄さんは朝寝坊よくしてたから、神父さんに怒られながらいつも二人で走って学校行ってたよね」
くすくす笑って昔のことを語ってやれば、んなこと思い出すな、と燐は唇を尖らせた。
「おまえは、寝てる俺なんて置いて先に学校いけばいいのにさ、いつも待ってたよな。兄さん、早く一緒にいこうよ!って、いやあー、あの時は俺と一緒じゃなきゃ 学校にも行きたがらないかわいい奴だったなあ」
仕返しのように燐も雪男の昔を語る。わざとらしく、うんうん、と首を縦に振っているその様子に、雪男も、う、っと呻る。
「なのに、今は…」
ふと、燐の顔に暗闇のとは違う影が差した気がした。そして中に入るのは諦めたのか、グラウンドをてこてこ歩き、遊具のある場所に向かう。 鉄棒、シーソー、ジャングルジム。いずれも学校に置くには定番なものがあった。どれも錆びている。その中で燐は鉄棒に向かっていった。シーソーは 錆びすぎてて乗ると壊れそうだったし、ジャングルジムは子供っぽすぎると思ったのか。 鉄棒は小学生用なので低いものもあったが、高学年用には燐達でも使えそうな高さの鉄棒もあった。燐は一番高い鉄棒に手をかける。そして、おもむろに逆上がりをし始めた。 ぐるん。と見事に一回転。鉄棒を握って上半身を地面から浮かせたまま停止。その時になっておそらく燐はようやく真正面から雪男の顔を見た。雪男も、そういえば ようやく燐が真正面から自分を見ていることに気付く。ふと、燐は優しく笑って言った。
「覚えてるか?学校の体育でさ、おまえ逆上がりできなくて、ベソかいてたよな。そんで放課後一緒に特訓してさあ。初めて一回できたときおまえ、すっげー 喜んでたよな。でも成功したのそれ一回でさ。…でも、今はもう逆上がりできるよな?」
「いつの話してるんだよ、兄さん」
隣の高い鉄棒に手をかけて雪男もぐるんと逆上がりをしてみる。小学生の時と違ってもちろん一回でできたし、勢いをつけたのでメガネも外れずにすむ。 燐は知る由もないが、普段の祓魔師の任務ではもっと激しい動きをしているのだ。逆上がりなどどうってことないのだが、そういえば、本当に逆上がりが成功したのって小学生のそれきり であったと思い出す。
「おーおー、うまいうまい、雪男!」
いつの間にか鉄棒の上に腰掛けていた燐は、器用に両手を離して、ぱちぱち、と手を鳴らした。そういえば、小学生の時、逆上がりが少しずつできるようになっていくたびに、兄は このように褒めていてくれたことも思い出す。うまいうまい雪男、ほらもうちょっとだ!と。リアルにその時の燐の言葉が耳元に蘇ってくるようであった。
それを思い出すと、もう一度、逆上がりをする。うまいうまい、と燐はまた言った。何をやってるんだろう僕たちは、と少し苦笑いしたい心境だったが。
ぐるん、と燐がこれまた器用に足を鉄棒にかけて逆さになる。長めの前髪が重力に従うので、額が露になった。着ていたジャケットの裾もぱさっと地面に着いてしまう。
「おー、世界が逆さだ」
けたけた、と燐が笑う。
「…兄さんさ」
「んー?」
「こんな何もないところまで家出して、寝泊りとかどうしようと思ってたんだよ…」
「いやあ、金なんてねーし。野宿でも大丈夫だろうって」
だから服とかちょっと多めに持ってきたんだよ。
案の定な答えに、雪男は、呆れるしかない。あの時、追いつかなかったらこの兄のことだ、本当に1日、2日は野宿で済ませていたに違いない。考えるだけで胃が痛くなる。 もしそんな風に一人でいて、悪魔にその身を攫われたらどうすんだバカ、と思ったのだが燐は自分の正体について知らないのだから仕方ないといえばそうであった。
あの時、養父に兄のことを告白されてから、雪男はそのことについては口止めされている。それがどうしてなのか、養父は語らない。また養父のことを信頼している雪男も、 深く追求をしたことはなかった。養父のことだからきっと正しい判断で、兄には何も言わないのだろう、と。
しかし、時折、雪男は思うのだ。
「兄さん…」
いまだ逆さになっている兄の目の前で腰をかがめて、言う。
「なんで家出なんてしようと思ったの?」
「……」
ふい、っと逸らされる目。そして、頭に血が昇る、と言ってぐるん、ともう一度回転して鉄棒の上に腰掛けた。それを雪男は見上げる。燐は雪男を見下ろしている。 いつの間にか、雪男の方が7センチも背が高くなっていたので燐を見上げるのは久々であるように感じた。ひゅ、と。二人の間に冷たい風とグラウンドの赤土の煙が通り抜ける。
「喧嘩したから帰りにくかった?」
燐は答えない。それでも、じっと雪男を見下ろしていた。今更、喧嘩して帰りにくかったから家出するなんて、そんなこと燐はしないとわかっていての問いかけだった。
燐はしばらく黙ったままだったが、やがて、はあ、と一つ息を吐いた。
「ケンカは確かにしたよ…」
バツが悪そうに、がしがし、青みのかかった黒髪をかく。
「中学生のやつらがさ、三人で小学生のガキ一人をいじめてたんだ。だから殴った」
すげえ腹たったから、けっこう、殴った。
と、燐は右手の拳を見つめる。その殴ってしまった自分の行動と常人とは違う力に兄が一種の恐れを抱いていることも、雪男は知っている。 思わず雪男は眉をよせる。それは兄の行いと咎めるべきものだ、と思ったからじゃない。いや、燐のしたことはたとえ理由があるにしろ、やったほうが悪いと言われる行いだ。 それはわかっている。燐もわかっている。しかし、燐はどうして自分が殴ってしまった人間が普通ではないほどのダメージを受けてしまうのか、その力の異常はどこから くるのか知らないのだ。けれど、雪男は知っている。
こんなとき、いつも、雪男は思うのだ。
「…悪魔、って言われた」
やがて、ぽつり、と燐が言った。雪男はその言葉に、背中が一瞬冷たくなるのを感じる。燐が周りから悪魔だの鬼だの言われていることは知っている。 しかし、燐はそれに対して特に気に病んでいた素振りは見せていない。少なくとも雪男の前ではだ。
「…誰に?また殴った相手に?それなら気にしないほうがいいよ、兄さん。負け犬の遠吠えだ」
だからなんで今更気にするのだろう、と思ったのだが、燐は寂しそうに笑った。普段、子供っぽい燐には似合わない大人びたもののように見えた。
「いんや、助けた小学生ぐらいのガキに」
「…え?」
「大丈夫かって手、伸ばしたら、悪魔!ってすっげー恐がってさあ、がたがた震えだしたんだ。顔真っ青でさ。メガネかけてて痩せてて、そうえいば雪男に似てたな、あの子。 だからいじめられてたのに、余計、腹たったんだ。…… そいつがさ、悪魔、って叫んだ」
自分を嘲るように、はは、と笑う。ぐるん、とまた一回転。錆びてしまった鉄棒の錆も同時に、ぱらぱら、と落ちていった。
「んで、お父さん助けて、って丁度迎えにきたらしい父親のところ逃げてった。その時、なんかこう…なさけねーんだけど、すげえ恐くなって。その父親に顔見られる前に 逃げなきゃ、って思ったんだよ。で、走って逃げた」
ケンカに勝ったのに、逃げたんだ。
「…それで、雪男の顔も親父の顔も…帰って見るのが恐くってさ」
鉄棒に腰掛けて、燐は遠くを見ているようであった。何もないグラウンドと壊れた校舎の向こうを透かして、兄は何を見たいのだろう、と雪男は答えがわかりきっている ことを考える。燐は、ずっと、「自分」の本当の姿を養父に隠され、それを知らずにいる。兄はその「自分」を見たいのかもしれない。
「おまえらまで、悪魔、って言い出したらどうしようかってバカなこと考えちまったから、少し頭冷やそうって思って。だから家出た。そんだけだ」
そんだけだったのにごめんな雪男。と燐は謝る。雪男は首を横に振った。兄が謝ることなど、何もなかった。
そうか、と雪男は理解する。
兄は自分のことを誰も知らないどこかへ、行きたかったのだ。悪魔だと、誰も自分を指差さないどこか遠くへ。弟である雪男と養父からも目の届かない場所で、 一人になりたかったのだろう。雪男と藤本獅朗。愛しているけれど、だからこそ、拒絶されれば一番恐いと思う二人の側から少しだけ離れていたかったのだ。 その時、つきん、と雪男の心を刺すのは間違いなく、罪悪感、である。そうしてどこか遠くへ行くことも、兄にはもう許されることはない。
だって、燐は。
「なあ、雪男…」
とん、と燐は地面に降りた。いつの間にか7センチの差がついた双子だけれど、まっすぐ雪男を見てくる燐の視線は何故かずっと上にあるように思える。
「おまえは俺のこと、悪魔なんていわねーよな」
「当たり前だよ」
少しも迷う素振りを見せずに、微笑むことのできる自分自身に雪男は、胸が苦しくなるのを感じる。しかし、それを聞いて、燐は、にか、っと笑う。 ようやく燐らしい顔になり、
「それなら、いい」
と、雪男の胸を、とん、と軽く拳で押した。ああごめん兄さん、と雪男は心の中で懺悔する。今押された箇所がすごく苦しいのだ。
「なあ雪男…」
燐は空を仰いだ。釣られて雪男を夜空を仰ぐ。外灯もビルと道路の明かりもないこの空間の夜空の星は、きらきら、と宝石のように輝いている。
「俺ってナニモノなんだろうな?」
燐は、おそらく、幼い頃からこの疑問を胸に秘めていたに違いない。
「…らしくないなあ、そんなこと考えるなんて、…兄さんは、」
兄は。
こんな時、いつも雪男は思うのだ。養父を信頼している。最強の祓魔師だと、誇りに思っている。いつも兄を守っているのを知っている。やがては自分がそれになるのだと、 決めている。それでも、こんな時、いつも雪男は思うのだ。
「兄さんは、奥村燐だよ」
そうして、思うだけで、いつも、言えないのだ。
雪男のある意味、卑怯といえるかもしれない答えの逃げに、燐は気付かない。気付くはずもない。ただ、そうだよな、と安心したのかようやく、肩の力を抜いていた。 ごめん、と雪男は懺悔する。違うんだよ、兄さんは。けれどその先がこの口から出てくることは、当分、ないだろう。当分だと信じたい、できれば、一生こないことを願いたい。 10年後、兄さんはもっと恐ろしいものを見るぞ。という養父の言葉が蘇る。あの時から、もう10年が経とうとしていた。兄はこれから先、何を見るのだろう。 あるいは、見ずに生きることができるだろうか。そうなることを願いたい。兄の先には、今見上げている星空のように、美しいものがあればいい、と願いたい。 錆びた鉄棒の思い出のように、懐かしい温かい思い出だけで一生を埋めて欲しい、と雪男は願うのだ。



「あー…やっぱカンショウテキっていうの?そうなるなんて俺らしくねーな」
「そうそう兄さんには似合わないな」
「…ちょっとバカにされてる感じがするが…。まあいっか…。おし、もうすっきりしたから帰るか!」
「…忘れてるだろうけど、朝まで電車ないからね」
案の定忘れていたのか、げ、っと顔をしかめる兄に、仕方ないなあ朝まで何をしゃべろうか、と弟は笑った。







がたん、がたん。
始発の穏やかな電車の揺れの中で、燐はすっかり熟睡していた。まあ普段からよく眠る燐なので、結局、一晩起きていたことはかなりきつかったのだろう。 最終で来たときは一人分スペースを開けて座っていた二人だが、今はスペースを開けていない。むしろ、燐は雪男の肩に頭を預けて、ぐうぐう、呑気に眠っていた。 雪男も起こさずにそのままにさせている。その燐の寝ている顔を横見する。伏せられたマツゲも、校舎で話していたときやっぱり気になったので水道で血を落とさせて、 綺麗になった頬も。目の形も。やはりどこまで見ても、人である。雪男はこんな時、いつも思う。このままであるようにと、願いたいのだ。
雪男が、兄である燐がサタンの炎を継いでいる悪魔なのだと、養父の口から告げられたのは、祓魔師になったと同時であった。 いつも皆で食事を食べている食堂でのことであった。食堂。そんな日常的な 場所で養父は全てを語ったのである。雪男は、不思議とあまり驚かなかった。優秀な双子の弟は兄の燐が普通の人間とどこか違うということに、なんとなく気付いていた。 兄なんて、もっと幼い頃から、自分は普通の奴らとは違う、と気付いていたはずなのだ。それでもさすがにサタンの子供だという事実に、雪男はどう思うべきかわからなかった。
それでも、炎を継いだのは兄の燐だけだという。弟の雪男自身は、普通の人間であるのだという。
何故、と思う。あの優しくて幼い頃はいつもいじめられていた雪男を助け、料理が 上手で感情表現が豊で、ちょっと喧嘩早くてそのせいで困らされることも多かった兄だけど、それでも、誰よりも燐は人間として純粋であったのに。 今見ている寝顔も、普通の人のように見えるのに。小学生のころ逆上がりを教えてくれた優しさも、悪魔と子供に言われてそれを恐いと思ってしまった弱さも、 弟に在りどころを見つけようとする儚さも、どこか遠くへ逃げようとした脆さも、悪魔は持っていないだろうに。悪魔が持っているはず、ないだろうに。
なんで兄さんなんだろう。
過去っていく掲示板を確認する。自分達の住んでいる街までもうすぐであった。日常が近い。また今日も、それを迎えられる。しかし、雪男はあの 日常の中での非日常をすでに知っている。祓魔師になってからというもの、雪男の世界は広がる一方であった。対して、兄の燐はいまだ狭い世界を 生きている。それが燐にとって幸せなのかどうか。雪男にはわからない。しかし、あの世界で、兄は これから先、何を見るのだろうか。何を知ってしまうのだろうか。どんな道を歩むことになるのだろうか。
電車は目的地に向かっている。けれど、自分たちはどこへ向かっていくのだろうか。まだまだ、出発してもいないのに。

ねえ、兄さん。と雪男は言葉に出さずに、思う。

僕たちは、一体いつどこから出発して、そして、いつ終着駅に着くんだろうね。その終着駅に着くまで僕たちは、何を見て、何を知って、 何を追って、何を想い、何を願って、歩いていくんだろう。僕たちの行方はわからないけれど、せめて、兄さんが迷った時が来れば、 僕でも手を引いてあげることぐらいはきっとできるから。小さい頃、兄さんが僕にそうしてくれたように。だってね、兄さん、僕はそのために強くなろうって願ったんだ。

なんとなく、寝ていてだらんと椅子に投げ出されている兄の手に自分の手を重ねる。温かい。燐の手はいつも温かであった。

悪魔はこんな優しいぬくもりなんて、持っていないはずなのにね。

過去っていく掲示板を確認する。自分達の住んでいる街までもうすぐであった。日常が近い。窓の向こうは日が昇って明るい。白いぐらいで眩しいけれど、 日常に到着するまえに、少し眠ろうと思って、わずかに兄に寄り添った。



その時、ふと、聞こえてきたアナウンスは、本日をもってこの線は廃止されます、と寂しそうに言っていた。







2011.5.28