燐が家出をしたらしい。
学校と祓魔師の任務を終えてすっかり遅くなった頃に帰ってきた雪男は、まずそう聞かされた。ばたん、と慌しく玄関を開けた
燐と雪男の養父はひどく張り詰めた雰囲気であった。父がそんな顔をするのを雪男は祓魔師の任務でしか見たことがない。
「兄さんが家出?」
雪男は驚くよりもまず疑問に思った。何かの勘違いじゃないのか、と。いつも喧嘩ばかりで確かに朝帰りになってくることもあったし、
割と近所をふらふらしては基本的に帰りも遅い。中学に入ってからそれはますますひどくなっていたのも確かだが、だけど家出なんて一度もしたことは
なかったのだ。どれだけ喧嘩をして擦り傷を作って、怒られるとわかっていても結局、燐はいつも修道院に帰ってきていた。そうして
やっぱり養父に怒られて、むすっと拗ねてしまうのだが、それでも燐は修道院を出て行ってしまうような行動を起こしたことはない。
いうなれば、藤本もその点では燐を信用していたようなので、油断した、といったところだろうか。
「たぶん、間違いない。俺もてっきり喧嘩してどっかでふらふらしてるんだろうと思ったんだが、部屋に行ってみると、着替えとか財布とか…
とにかく遠出に必要なもんだけがごっそりなくなってた」
言われて雪男も慌てて部屋に行ってみる。兄弟で共同に使っている二段ベッドと机が二つあるだけの狭い部屋。確かに、兄のスペースである
タンスとか引き出しはひっくり返されたように中身が散らばっていて、タンスの中に至っては服が何枚かごっそりなくなっていた。
財布もないみたいだった。大して入ってないだろうくせに。その光景を見て、雪男はようやく、さあ、と寒気が走るのを感じた。藤本も
眉を寄せて呻っている。
「やばいぞ…早いところ見つけて連れもどさねえと…」
何がやばい、というとそれは誘拐に遭うからとか変な連中に絡まれるからとか警察に補導されるからとか、そんなことではないと雪男もわかっていた。
燐は、極力目の届かない遠い場所で一人でいるべき人じゃない。特に藤本の範囲外にいるのは非常にまずい。だって兄は。
「雪男、おまえも探してくれ」
そういわれたと同時に雪男は、わかった、と答えるともう部屋を出て行った。ケータイは祓魔師になったころ、こっそり養父から貰っていたので
見つければすぐにこれで連絡しろ!と背後で養父は叫んでいた。頷く暇もなく、雪男は夜中の街を走っていく。馬鹿だよ兄さん家出なんて、と内心舌打ちをした。
帰ってくるのはあの場所しかないだろうに。身寄りのない(正確には実の父親はいるのだけれど)自分達は帰ってこれる場所があるだけ幸せだってわかってるくせに。
どれだけ喧嘩してもそのせいで落ち込んでいたとしても、燐は家出なんてしたことなかったはずなのに、なのになんで。
特に兄は、勝手にどこか遠くへ行っていいような、そんな自由を与えていいような身の上じゃない。
心当たりのある場所はもうあらかじめ養父が探していたらしい。けれど、どこにもいなかった、とケータイの向こう側で言っていた。わかっただったらもう少し遠くへ
行ってみる、と答えてケータイを切る。走ってきてもまだ春の訪れさえ感じないこの季節は寒く、吐く息は白かった。冬ほどじゃないがやはり寒い。
こんな日にどこへ行ったというのか兄は。ふと、思いついて街から一番近い駅まで行ってみることにした。腕時計で時間を確認する。
まだ電車は数本だけ出ている時間帯ではあったが、最終が近い。もしかして、と望みをかけて駅に行ってみる。最寄の駅は無人駅で、ホームには駅員のいない寂れた場所だったはず。
最近ではとんと使われなくなった駅で、もうすぐ廃止されるとの噂もあった。あそこを最終の電車が通ってしまえば、追いかける電車はもうない。
雪男は走った。
「…兄さん!?」
無人の寂れたコンクリートの土台だけでできているような駅。
錆びた改札口を切符も通さずに入って、外灯が一つだけある駅は、ぼんやりとした黄色い光があった。その黄色の光の下に、今まさに電車に乗り込んでいた
人影があった。薄暗いが確認しなくてもわかる。兄だ。兄さん!ともう一度叫べば兄が振り返った。青みのかかった黒髪が、ぱさり、と額を覆っていて、その前髪の下の
鋭い青い目は、大きく見開かれた。やば!と聞こえなくても口がそういっているのがわかった。
雪男はホームをほとんど飛び跳ねるように駆ける。燐は電車に慌てて乗り込んでしまう。まって!と滑り込みで雪男は電車に乗り込んで、燐の上着の袖を掴んだ。
そのまま力任せに引っ張るつもりだったのだが、予想に反して燐は抵抗した。足で踏ん張っていたのだ。いくら祓魔師の任務をして銃を扱うようになった
雪男だけれど、尋常ではない怪力を持つ燐の本気の力にすぐさま対抗ができるはずもなく。
ぷしゅー、と背後で扉が閉まった。
しばし、燐の袖を掴んだまま、呆然とした。燐もここまで追いかけてくるとは思わなかったらしく、呆然と雪男を見返していた。
電車は発進してしまっていた。がたん。と大きく揺れる。がたん、がたん。数メートル進んだところで、雪男は我に返った。
「何をやってるんだよ兄さん!?」
珍しく声を荒げた。燐はさすがにまずいことをした自覚はあるのか、肩をすくめてバツが悪そうに唇を尖らせた。その頬には作ったばかりであろう擦り傷があった。鼻の下には
渇いたばかりの血を拭った痕もある。
「お、おまえこそ、何も電車の中まで追ってこなくても…!」
「バカ!そう思うんだったら袖掴んだ時点で大人しく電車から降りればよかったんだ!」
「しかたねーだろ!思わず、その…!」
家出人の言い訳など聞くものか。と雪男は久々に言葉遣いも荒くしていた。走ってきたせいか、ふうふう、と肩も揺れる。
「とにかく、次の駅で降りるよ!まったく、もう…神父さんも心配して…」
「…止まらねえよ、この電車」
はあ、と思わずメガネの下で目を細める。珍しくかなりの剣幕で怒っている弟を直視できないのか、兄は視線を揺れる床に落としていた。
古い電車の床は傷だらけで汚れが目立っていた。
「だから…ちゃんと調べてきたから…この電車、次の駅…えーっと、かなり遠くにいくまで止まらない」
燐は気まずそうに次の駅の名を言った。雪男は聞いたことのない駅名だったが、なんとなく聞いたことないということは、かなり遠くであるだろうとわかった。
どのやらこの電車はそこで車庫入れするらしく、あまり使われていない線なので途中にある駅は殆どないのだそうだ。しばしの沈黙の後、雪男は、眉間を揉みながら、はーっと
重い溜息をついた。とにかく走ってきて少し疲れたので、椅子に座る。燐も戸惑いつつも雪男から一人分のスペースを開けて座った。よく見れば、燐と雪男以外、電車に乗っている人は
いなかった。燐は少し大きめのカバンを持っていた。そこに持ってきた服などが入っているだろうことの察しはつく。
「…なんでこんなこと…家出なんてしたの?」
メガネを外してさらに眉間を揉む。燐は雪男の問いかけに、うーん、とうなった。
「やっぱこれって家出になるのか?」
とぼけた質問返しに、ずるっと肩がすべる。
「財布も服も持ち出して、さらにもう後戻りできない電車に独りで、誰にも言わずに乗ってしまうのは立派な家出だと思うけど?」
「いやでもさ、…い、一応書き置き残してきたんだよ!『一日、二日で絶対に帰ってくるから探さないでくれ!』って」
「どこに?」
「机の上!あっただろう?」
「…すごく散らかったままだったから気付かなかったよ。たぶん、神父さんも気付いてない。第一、書き置き一つ残せばいいなんて考えてるなら、甘いよ兄さん」
この家出人。と言ってやれば、くう、と燐は言葉を詰まらせた。
「…誰にも着いてきて欲しくなかったんだよ…」
だから独りで出てくるしかなかったのにおまえが着いてきちゃ意味ないし、という燐の言葉。そうして項垂れてしまった。
雪男は、かなり気落ちした様子の燐に少し目を見開いた。同時に、自分が着いてきては意味がない、というこの後に及んでまだそんな発言をする兄に胃がむかむかするのを感じる。
むすっと腕組みをして、座席に深く腰掛ける。ぎし、っと古い座席が悲鳴をあげた。がたんごとん。やけに足元も揺れた。
項垂れたままの燐は時折、ちらちら、こちらを確認しているのがわかった。普段温厚な
弟が怒っていることが珍しいだけかさすがに気まずいのか。まあ両方であるのだろう。しばらくの沈黙の後、おもむろに雪男はケータイを取り出した。その様子に
燐が、ぎょっと驚くのがわかった。弟がいつの間にケータイを持っていたのか、ということにも驚いたのかもしれないが、それ以上に養父に連絡される事態に危機感を持ったらしく。
「や、やめろ、雪男!親父には連絡するな!」
ぶん、とケータイを取り上げようと伸びてきた腕を軽くかわす。
「この後に及んで何を言ってるの?連絡するに決まってるでしょう?途中で降りれなくてもとにかく、兄さんがちゃんと無事だったことだけでも
言わないと…。神父さん、すごく心配してたんだよ?」
内心、まだ兄に対する怒りと苛立ちはあったのだが、なるべく諭すように優しく言ってやる。途端、燐は口をきゅっと真横に結んだ。でもほんとに止めてくれ、と
言ってくる燐はやけに必死で。その必死さに雪男は違和感を覚えた。それは怒られるからどやされるからということに対する心配ではない気がしたのだ。そもそも
燐はしょっちゅう養父には叱られているので、今更なんでこんなに抵抗するのか。
「言ったら次の駅に着いたらすぐに帰らされるだろう!?」
当たり前だ。どれだけ遠くの駅かは知らないが、その駅について朝まで始発を待つよりは養父に迎えに来てもらったほうがいい。しかし、はて、養父は車の免許を持っていただろうか、と
雪男は少し疑問に思ったがそこは最強の祓魔師である養父だ。遠くてもたとえ免許がないとしてもどうにでもして、すぐに迎えに来るだろう、と
雪男は勝手にそう思っていた。これを藤本が聞いていたなら、別に祓魔師は青い猫型ロボットみてえにどこにでも行けるドア持ってるわけじゃねえんだぞ祓魔師の施設に
入れるどこでも鍵はあるけどな、と言い返したかもしれないが。そこは妙に養父の力を過信している雪男だった。
「でも、兄さん、すぐにでも帰らないと」
「俺は…!」
がっと燐が雪男の袖を掴む。暗い不安をたたえた青い目がのぞきんでくる様に、雪男は呆気に取られた。しかし、すぐに燐は我に返ったのか手を放した。
わりぃ、と一言謝ってくる。
「…どうしたの、兄さん…なんからしくないね…」
そもそも家出などした時点で兄らしくないといえばそうであった。どれだけ周りから不良だの化け物だの悪魔だの言われていても、燐は本質的に素行の悪い
人間ではないのだ。本当にグレたことも実はない。大抵の不良は格好つけたがってタバコや酒や万引きも平気でして警察の世話になることをしても罪悪感の一つも持たずにするが、燐はそうした
行いは一度だってしてないことを、雪男と養父は一番わかっている。喧嘩だって、実は理由がなければ理不尽にすることもないのだ。
そんな兄が家出をした。
よく考えれば、兄に何かあったのだと、最初に気付くべきだった。
「…でも、せめて神父さんには連絡しようよ、」
ね。と顔を覗きこむように問いかける。しばらく燐は黙っていたが、それを拒絶ではないと察した雪男は、ケータイをかけた。燐はそっぽを向いていた。
ワンコールの後、すぐに養父は電話に出た。雪男か?燐は!?と言う声は少し荒かった。大丈夫だったよ、と言ってから今の状況を簡単に説明する。
養父は電話の向こうで長々と溜息をついた。それが安堵からかそれとも呆れからか。おそらく両方だろう。しばらく電話の向こうで
養父は黙っていたがやがて、燐に代われ、と言ってきたのでケータイを燐に差し出す。燐は、むすっとしていたが、数秒迷った後、結局電話を手に取った。
「…うん…。今A線の電車…最終。止まらない…。うん、雪男も巻き込んだ、わーってるよ、悪かったって思ってるよ…。うん……」
どうやら養父は今回は怒鳴らずに静かに燐を諭しているようだった。家出という行動に出た燐に養父も少なからず違和感を覚えたのだろう。最も帰れば
いつもどおりに怒鳴られるのだろけど。しばらく、燐は、うんうん、とやけに素直に頷いていた。
「なあ…親父…」
ややあって、燐が問いかけるようにそう言い出した。
「勝手なことしてるってわかってる。…反省してる。ごめん」
珍しく殊勝に謝る燐に雪男は驚いた。電話の向こうの養父が息を呑む様が見てなくても想像できた。
「…でも頼む…。明日だけ、ちょっとでいいから好きにさせてくんねえ?」
しばらく、沈黙。電車の車体の揺れる音だけが響く。しばらくして、養父から何かしら返事があったのか、うん、と燐は一つ頷くと、雪男に代われってさ、とケータイを
差し出した。それを受け取り養父と話す。電話の向こうの養父は少し声を潜めていた。万が一、向こうの燐に聞かれないためだとわかっていたので、雪男も不自然ではない程度に
声が漏れないよう手でケータイを覆う。
『…雪男…絶対に燐から目を離すな…。絶対に側から離れるなよ…』
苦々しい養父の言葉。その言葉の中にある様々な深い意味も複雑性も雪男はわかっている。
「うん…わかってる」
『頼むぞ…俺も見張りの使い魔をそっちに送る…』
使い魔の特徴を簡単に説明してから、悪いな雪男、と養父は苦笑したようだった。どうやら明日ぐらいは燐の好きにさせると決まったようだった。
一通り、話し合ってから電話を切った。兄の方を振り返れば兄は、向かい側の暗い窓を睨んでいた。何話してたんだ?とは聞いてはこなかった。
それきり、二人は黙ったまま電車に揺られていた。時折、横に一つスペースを開けて座る兄を見ても、やはり、兄、燐は向かい側の窓を睨むばかりだった。
ふと、雪男も向かい側の窓を見る。まっくらで外の様子はわからないが、双子でもあまり似ていない自分達が映っていた。その窓の中でふと燐と目が合うと、
燐は我に返ったようにぼりぼり髪を掻いて、
「おまえ、いつの間にケータイ買ってもらったんだよ」
ずりいぞ、ホクロメガネのくせに。と唇を尖らせた。その様子に、雪男は少し苦く笑った。
これは雪男が、兄である燐が実は人ではなく悪魔の、魔神の落胤なのだと養父藤本獅郎に告げられた後。残り二ヶ月で
正十字学園の祓魔師講師として入学することが内定していた時の話である。