目の前にある燐の背中がやけに広い、と雪男は思う。それこそ、幼い頃自分達を背に負ってくれた養父のように広く、けれど、
自分と同じ幼さと儚さと青年へと変貌を遂げようとしている半端な強さもあるのだった。祓魔師の装束に身を包むようになってまだ
そんなに経ってもいないのに、数歩先にある燐の背中は、それこそ何年分も先にそこに在るように思える。その体を青い炎が噴出し包んでいる。
兄さん。と呼びかけてみるのだが、半分潰された肺が苦しい。声がでない。燐の返事はない。こちらを振りかえってはくれなかった。噴出す炎は
それこそ青色のその真髄までに染まっていく。背を向けている燐の手には折れた降魔剣がある。ちょうど半分に、折れている。
ぼろぼろの刃を、ただ燐は強く握っていた。燐は自らそれを折った。
雪男からは背中しか見えないが、燐には悪魔としての変貌が始まっているのだろうか。
半分だけ残っていた人間としての成長さえ呑みこんで、燐は完全な悪魔に、なる。神と同等の炎を手に入れられるがやがて人としての意識を失うのだ、といつだったか
道化の悪魔はそう言っていた。それでも、わかっていながら燐は、折ったのだ。全てを同じように青い炎を噴く悪魔から守るため。そんなの、バカだ。
炎が自分を包む。けれど、何も燃えることはなかった。温かい、と思う。前にある燐の背中は幼い頃、いじめられていた自分を助けてくれたあの背中から、
当たり前だが成長していて、あの頃、自分はこの兄を守れるようになれたらどんなにいいだろうと、思ったのだ。そうしてそのために、強くなったはずなのに。
燐が、一歩、前へ踏み出す。駄目だ兄さん行くな、と叫ぶ。返事はない。あるのは炎の向こうで響く、高く低い悪魔の嗤い声だけである。自分達の生き行く世界を
呑もうとしている炎を同じ青い炎が。一緒に奈落の底へでも行こうぜオヤジ、と。燐が言った。きっと不敵に嗤っている。そうして俺もアンタも二度と這い上がらないんだぜ、
最悪で最高じゃねえか。と。
涙が溢れて頬を伝う。そういえば泣いたのなんて何年ぶりだったろうか。兄さん。と上手く動かない腕で精一杯その背中に伸ばすのだが、届かないのであった。
遠い。そうだ、燐の背中は思えば幼い頃から、どこか遠かった。それこそ養父のようであって、また違う意味でそうであって。それを自分は守りたい、守ろうと、ずっと
戦ってきたのに。
(ふざけんなよ僕はそれならなんのために今の今まで強くなるためにもがいてきた。全部、兄さんを守るためだったのに。意味ないじゃないか。
最後の最後で、一番大切な時に、僕は小さい頃のように、兄さんに守られて。なんだよふざけんなよ。ついこの間まで僕がいてやんなきゃ宿題もできなかったくせに、
朝寝坊するくせに、
祓魔師の任務も不器用すぎて上手くやれなかったくせに。最後の最後でなんでそんな背中を見せて守ってくれるんだ、兄さんは、)
「雪男」
燐が呼ぶ。今度は雪男が返事をできなかった。喉が熱い。目元が、熱い。包む炎はやさしくてあたたかいのに、焼けるように体の内は熱かった。
「わりぃ…俺、父さんと同じところへは逝けない。…謝りたいこともたくさんあったのにさ」
(ああ、ああ、違う。僕はこんな言葉を兄さんに言いたいんじゃないのに、ああ、ああ、違う、声がでない。ねえ兄さん、僕は、)
「だから、代わりにおまえがいってくれ。ただし、もっともっと長生きしてからな」
(ねえ兄さん、大好きだよ。だから、逝かないで、こっちを向いて、また笑って、僕とこれから先もいっしょに、)
2011.5.31