血は水より濃いといいますでしょう

 

があ、と末の弟が悪魔の雄たけびを上げる。 首に刺されば冗談では済まされないほどの穴をあけるだろう、悪魔の牙を手の平で受け止めた。ぶし。手が砕けた。 がまだ指は動いたのでメフィストは悪魔の牙を覗かせる、物騒な口を押しやって、そのまま地面に後頭部をぶつけてやるつもりだったが、 予想以上の力で押し返される。ほう、体はまだまだ成長しきっていない少年のくせに、実際、己が相手になってみるとこうも力の重さを 感じるものか。なるほど降魔剣を折られていない状態での燐と対峙しただけだが、アマイモンもなかなかだったんだな、と少し感心した。 口を手でふさがれ尚、燐は鋭い爪を伸ばした手でメフィストの顔面の皮をはがそうとしくるので、長い腕で持ってさらに押し返す。 そのまま投げ飛ばしてやりたかったが、生憎、手に燐の牙が食い込んで離せそうにない。一瞬、燐の腕が宙をかいたが、次にはメフィストの腕を掴んだ。 ごきり。とすぐに嫌な音がする。痛みは感じるがそれは憑依しているこの人間のものなのだと思うと、痛みも痛みではないのである。それよりは、 燐の体からごうごうと燃え上がる青い炎が自分の体を焼き始めたことの方が問題だ。ああ、お気に入りの正装もとっくに駄目になっている。そして、 これは憑依した体が駄目になるどころか、自分の悪魔としての 本体も危うい。以前の燐の炎ならば上級悪魔の本体まで燃やす力はなかったが、今はそうじゃない。元来、青い炎とはこうなのである。サタンにある 炎が本当に恐れられる理由とはこれなのである。燃やせぬものがない。 何もかも燃やす。悪魔の本体も、空気も、水も、魂も。そのことを知っているものは、おそらく人間の中でも一部の者しか知らず、上級悪魔でも 知るものは少ない。まったく炎本来の恐ろしさまで引き出してしまうとは。とメフィストは苦く嗤う。理性を失った燐だったものの目が、ぎょろり、と メフィストをねめつけてきた。ごお。炎の勢いが増す。表現しようのない熱さと悪魔としての己の焼ける苦痛がある。しかし、こちらだって そう簡単に燃やし尽くされるほどやわではない。一応これでもあなたの兄に当たるんですからね、と言ってみても、最早人の言葉も理解できないのか、 がああ、と呻るだけだった。やれやれ、もっと兄を敬って欲しいものである。暴れる燐の体を全身で押さえ込むようにする。どさり。地面に落ちる。土さえ燃える。 最早、普段自分の使う技など効きはしない。圧倒的な力量差の前では、小技など役に立ちはしなかった。力ずくでしかない。こういうのは苦手なんだが、とメフィストは 思いながらも、ぞくぞく、と胎の底から湧き出る「本性」を自覚する。ああ、何百年振りぐらいだろうか。己が本性を出してしまうなど。紳士ではいられないので、そういう 自分は好きではないのだが、どうせ、ここまで燃えてしまってはもう今憑依しているこの体は使い物にならなくなるだろうから、かまわないだろう。
押さえつける小さな体。その内側で、ぼこぼこごきごき、と変異が起き始めているのを感じる。骨格が変わってきている。その変異が苦痛なのか、燐が呻く。 それさえ最早人としての声を忘れ、形相も、燐だったころの面影がなくなってきていた。残っているといえば、瞳が青いぐらいしかない。ぼきごき。と 背筋が震えるような骨と内臓と筋肉の変異が始まっている。急激に悪魔としての、サタンとしての存在に成長している体に、燐はついていけてない。 メフィストはその変貌の全ての原因がある、燐の左胸に視線をおとす。どくどくどくどく。と異常な速さで脈打つそこは、本来あるべき場所に戻ってきたことを 歓喜しているようだ。あ、と燐が声をあげた。わずかに、人としての燐の声で。どうしました?とメフィストは努めていつもどおりな嫌味っぽい笑みを浮かべて尋ねてみる。 しかし、燐は喘ぐばかりだった。ああ、わかりました、すぐに終わらせますから。とメフィストは答えて、その左胸に己の手を当てる。異常に脈打つそれ。 さっさと取り出して、再び封印しなければなるまい。悪魔の心臓。燐の力の全てである。しかし、そこに手を当てた瞬間、どこん、とまるで意思を持っているかのように 大きく跳ねたかと思うと、燐が、がぶり、と腕に噛み付いてきた。
おやおや、まったく聞き分けのない。
「本性」が導くまま、末の弟の首に噛み付く。ぶわ。と口の中が一瞬で血の海になる。ぎゃあ、と燐の叫ぶ声。しかし、メフィストの腕は離さない。 少しだけ大人しくしててください。とメフィストはさらに牙を首に食い込ませた。細い首の血管を筋肉の筋を噛む、この奇妙な感触を、やはりメフィストは好きにはなれなかった。 こんなのならば、お気に入りの和菓子を口に入れたほうがずっといい。左胸に当てた手で、悪魔の心臓を掴もうとするも、燐が全身で暴れてくる。炎を噴く。 さすがに上手くいかなかった。
ほらほら、大人しくして、もう体がほとんど燃えてしまっている、私の本体まで燃え尽きてしまうまで時間の問題ですから、 そういうわけにはいかないので、 早いところ終わらせたいんですよ、少しでいい、おとなしくしてください、ああもう、暴れないでください、心臓が、とりだせ、ない、 体が燃える、ああ、認めたくないが、私の力も及ばなくなってきてるじゃないですか…おとなしくしてください、おとなしく、おとなしく、しろっ--------!!



「---兄さん!?」



炎の壁の向こうで、そのような声がした。途端、ふと、一瞬だけ悪魔の形相に変貌しはじめていた燐に、人としての燐としての面影が戻った。雪男。と 青い目を見開いて炎の向こうにいる弟を呼んでいた。雪男。
一瞬だけ、燐に戻ったそれをメフィストは逃さなかった。が、っと左胸の向こうで蠢く悪魔の心臓を掴む感触。あ、と燐が悲鳴を上げる。 苦しい。と言っていた。メフィストは、燐の首から牙を離して、ガラにもなく、その前髪をかき上げて、落ち着いて、と少しだけ穏やかに言ってみせた。



大丈夫ですよ、がんばって、すぐに終わりますよ、終わったら、弟さんのところへ、あちらの世界へ帰れますから、がんばりなさい。



うん、と涙を浮かべて耐える末の弟の姿に、メフィストはおそらく悪魔として誕生して初めて「哀れみ」という気持ちを抱いた。







2011.6.6