「…ゴメイワクおかけしてどうもスミマセンデシタ…」
べこ、っと勢いをつけすぎなぐらい頭を下げた。というか、隣の雪男の手で頭を下げられた。
その様子にメフィストは、やはり狂ったようなにやけ顔を直さぬまま、重厚なデスクに肘をつきながら、
見ていた。
「いえいえ、治ったようでなによりです」
と、相変わらず間延びしたような声で答える。ようやく雪男の手に解放されて、顔をあげた燐は、むす、っと唇をとがらせていた。兄さん!と
そのむくれ顔を咎める雪男の小声が聞こえた。
「まあ、その様子ですともう通院も必要ないでしょうね。塾にも今日から行くのでしょう?遅れた分、しっかり取り戻しなさい」
珍しく理事長らしいことを言った。燐は、う、っと顔を青くする。きっと今、彼の中では「健忘症」になっていて学校に行けていなかった分、
そして遅れた塾の分の勉強をどうしたらいいのか、それが一番の難題であるのだろう。時計を見れば、そろそろ塾の始まる時間であったので、さ、もうおゆきなさい、と
言えば燐はすごすごと去ろうとした。
「ああ、奥村先生は少し残ってください、なに、すぐに終わりますから」
言えば、一緒に行こうとしていた雪男は歩みを止めた。燐はその様子を見て、こそり、と雪男に何か耳打ちした。何を言ったのか、「人」にはない聴力を持ったメフィストには
聞こえていたのだが。飯、作って待ってるからな、と。雪男は軽く頷いていた。そうして、燐だけ、理事長室を出ようとして、扉に手をかけたのだが、その瞬間に、ふと、
「思い出した」かのように、燐は言った。
「…メフィスト…」
「はい?」
あえて呼び捨てていることは咎めなかった。
「いや…あー…ありがとう、な?」
この言葉に、きょとん、としたのは雪男である。メフィストも、クマのある眠そうな目を少し見開いたのだが、にや、っと笑うと。
「はて、なんのことやら?」
と、嘯いた。
燐は、…そうだよな、俺、何言ってるんだろう、といった表情で、理事長室を出て行った。
「今回のことあなたはどう見ます、奥村先生?」
一目でそうだとわかるような高価なアンティークの赤いソファに、腰掛けて、優雅に足を組み、メフィストは言った。向かい合って、同じようなソファに雪男は浅く
腰掛けていた。
そして、雪男はメガネの奥の目を隠すかのように、考えるような素振りをする。否、実際、この若い講師は青い炎の持ち主以上に考えたに違いなかった。
「青い炎の暴走としか…」
考えようが、と雪男は呟く。確かにそれ以上にどう考えたらいいのか「人」にはわからないだろう。雪男の険しい顔は言葉に出さずとも言っている、青い炎は本当にそんな
ことまで可能なのか、と。
「あの炎の力はですね、実のところ、まだよくわかっていないものもあるんですよ」
最も、虚無界の魔神はありとあらゆることにあの炎を使役した。それこそ、すべてを燃やし尽くすことから、それ以上のことをしてきたのも、実際、メフィストは目にしている。
とても「人」に語るにはおぞましすぎる力もあった。けれど、それはあの魔神が悪魔でありまた神にも近しいものであったからできたことに他ならない。
「もしも、奥村くんの炎にも…人の心を記憶を、形のないはずのものまで燃やす力があったとして、それを使えるようになることは、ある意味、生き物の肉体を炎で燃やすことよりも、恐ろしいことだ」
雪男が、メフィストを睨んできた。わずかに殺気が漏れた。本当にわずかにだが、そういうのを隠し切れないところは、やはりまだまだ若いと思う。
「私は可能性を述べたまでです」
とメフィストは肩をすくめた。そして実は意外と気の短い若い講師が痺れを切らす前に、続ける。
「しかし、奥村くんの話を聞くに、今回は本当にそういうことが起きたとしか考えようがない。まあ、今回は奥村くんの精神状態が非常に不安定であったせいだと思いますが、」
ここで雪男の様子を伺ってみたが、表情は一切動かなかった。そういうところは若者らしくないと思う。
ねえ、奥村先生、とメフィストは、
「…「彼」が燃やしたかったものは、本当は何であったと思いますか?」
口の端をあげて言った。雪男は、メガネの奥の、燐と似ていて少し色合いの違う青緑の目を見開いた。
「…「彼」?」
雪男は問い返す。「彼」は記憶のある燐のことかそれとも記憶をなくしたあの「燐」のことか。しかし、メフィストは、実はそのどちらことも指してはいなかった。
「記憶などという…いえ、失敬。人にとって記憶とはとても大切なものだ。己の人格を形成する基盤の一つですからね。しかし、
私は思うのですが、青い炎が本当に燃やしたかったものは、そのような曖昧なものでしょうか?ヘタをすれば中途半端に炎の持ち主が壊れてしまいかねないのに?
…私はね、思うのですよ。「彼」が本当に燃やしたかったものは「奥村燐」を形成する全てであったのではないかと」
雪男はわけがわからない、といった表情であった。メフィストはテーブルに用意してあった紅茶を飲み干す。雪男の分もあったのだが、やはり飲まなかった。
さて、この若い講師にもわかるように、もう少し深淵の底の話をしてやろう、とメフィストは思った。
「奥村くんはとても半端な存在だ。強すぎる魔神の血を継いでいながら、その心は人格は半分は流れる血は、人のものです。実は私、記憶のなかった状態での
奥村くんと一度話しをしました。その時の奥村くんと話して思ったのですが、あの「奥村くん」は
「人」というよりむしろ「悪魔」により近い属性を持っていると感じたんですよ。まあしかし…実際、炎を燃やしていたのはより「人」
の属性であったはずの「奥村くん」だった。面白いことではないですか。「人」の方が炎の力を使っていた。「悪魔」がむしろそれを止めた。
しかし、彼らは理解しあった時点でおそらく「本物の悪魔」とは言えないと、私は考え直しました。おそらく見当違いだ、と。…ならば、
「人」に炎を使わせていた、その心の隙間につけいった「彼」は他にいたのかもしれない、と」
雪男の顔がどんどん青ざめていくのをメフィストはわかっていた。しかし、それを気遣うようなつもりはメフィストにはない。
だから、続ける。
「人と悪魔。これほど対照的な
ものは他にありません。確かにこの世界には人と悪魔のハーフは割りとざらに存在しますが、奥村くんは異質すぎる。人と悪魔。対照的なものがおなじ器の中に同時に存在していることが、
果たしてどのようにバランスを取り続けていられるでしょうね」
「………」
「今回のこと…頭を打ったことがそのことへの「きっかけ」に過ぎないことは確かですが、それ以前に…あなた方との間にあった、おおっとそんなに睨まないでください。
私は何にも知りませんよ。ただの「兄弟喧嘩」ですよね?ああわかってますよ。とにかく、あなた方の間にあったことが今回の件の原因…いえ、それすら、
実は、「きっかけ」だ」
メフィストの言っていることが、じわりじわり、と頭の中に浸透してきたのか、雪男は、は、っと目を見開く。
雪男の中でどのような可能性が生まれたのかメフィストにはわからない。そして、この件に関して今回、答えなどでないだろうとわかっている。
ただ、これから先、
「これから先、また同じようなことが、何か別のことが「きっかけ」になって起きないとは限りません。先生、あなたはその時、どうしますか?」
握り締めた雪男の手には血管が浮いていた。しかし、この強い力は、あの時のような迷う何かを持っているものではない、とメフィストは知る。何故なら、
雪男は、迷うことなく、真っ直ぐにこう答えたからだ。
「決まっています。僕が、兄を守る。たとえこの先、また同じことが起きたとしても、僕はその度に兄を守ります。いえ、共に乗り越えていきます」
それだけです。そして、それが全てです。
メフィストは、にや、っと笑って、
「よろしい!…ではもう戻って構いませんよ」
とまるで正しい答えを出した生徒を褒めるように、ぽん、と両手を打った。
内側で炎を燃やよう「人」につけいったのは、本当はなんであったのか。
新鮮な骨を血管を肉を喰らう獣のように、記憶を喰っていたのは、なんであったのか。
あのくらい場所には、実は、もうひとりいたのではないか、とメフィストは思っている(え、何故私があのくらい場所を知っているのかと、それを
聞くのは野暮ってものです)。
あの場所にはもうひとり、いた。
隙あらば己の理性を保つものを燃やそうと、蠢く、獣が、
「本物の悪魔(魔神の息子)」そのものがいたのではないかと。
結論によってはおぞましい可能性のある話だが、メフィストは、くつくつ、笑って、ひとりきりの理事長室で呟くのであった。
「人と悪魔、か」
さあて、どちらへ進ませようか。
2011.7.3 完結 ありがとうございました。