気がつけば花見の時期は終わり、学園を歩く初々しい新入生達の笑い声も溶け込むようになった頃。
メフィストは昼間からだというのにスーツがシワになるのも構わず寝室のベッドに横たわっていた。
何をするわけでもなくぼうっと白い天井を見つめている。最近、メフィストはこのような状態になることが多く、
その間の執務に追われるのは使い魔達と他の祓魔師達であった。それでもメフィストは何をするわけでもなく寝そべって宙に視線を漂わせていた。
けっこう大人っぽい部屋なんだな。
初めて燐をこの寝室に招いた日のことを思い出す。恐る恐る寝室を覗いた燐のあからさまにほっとした様子に、どんな部屋を想像してたんですか?と聞けば、もっとこうおもちゃ箱
みたいかと思ってた、と笑っていた。そんな幼い燐の笑顔につられるように、細い体に触れた夜。その体から香るミルクの石鹸の匂い。甘いシャンプーの匂い。
くすくす、くすっぐったそうに笑い、悪魔の腕に翻弄され、それでも朝になれば、おはよう、と子供のように顔を赤くしてはにかむ女の子、が、ここに確かに存在していたのに。
焼け爛れた指輪を手の中でいじりながらメフィストは夢想に耽る。
燐はこの寝室を気に入っていた。白いシーツの大きなベッドがふわふわで気持ちいいと胎児のように自分自身を抱きこんで昼寝をする姿を何度見ただろう。
あれはああして襲い来る不安から身を守ろうとして無意識のことだったのだろうか。今から思い返せばそう思えるのに、どうして一度も気付いてやれなかったのか。
燐と会うのはこの屋敷の中のことばかりで、あちこちに燐の残像が見えるようだった。それはメフィストの脳内で壊れたテレビのように再生されていて、
それはベッドで眠る彼女で、お気に入りのソファに座ってメフィストの仕事が終わるのを待っている彼女で、キッチンに立って、メフィストごはん何食べたい?と野菜を切っている彼女で、それが
耳元で聞こえるような気がしてくる。屋敷のあちこちに燐のいたという「思い出」があって。
燐。
目を閉じる。浮かび上がるのはただの闇で、頭の中の燐さえ消えていくような気がしてメフィストは焼け爛れた指輪をそっと握り締めた。それにはチェーンが通してあった。
それはメフィストの首を囲いメフィストの痩せた胸元で赤く爛れたまま煌くこともない。
ねえ、燐。
返事などあるはずないのに、メフィストは問いかけていた。
「あなたにとても会いたくて、悪魔なのに死にそうだなんて言ったら…あなたはなんて返してくれるんでしょうね」
そのまま眠った夜、夢を見た。
ふと、夢の中で目を覚ますと青い蛍のような光を纏った燐がメフィストを見下ろしていて、やわらかく微笑んでいる。夢の中のメフィストは数度瞬いてから、燐、と呼んだ。
燐はそれに頷くと身を乗り出してメフィストに覆いかぶさるような態勢になる。あの日、燐が部屋を出て行ったときから変ることなく背中まで流れる黒い髪が、蔦のようにメフィストの頬を撫でた。
そこでメフィストは気付いた。何故か燐は真っ白なワンピースを着ていて、普段、祓魔師の黒いコート姿と学園の制服姿しか見ていなかったメフィストは、まるで別の女性を見ている心地になった。
だが確かにそれは燐である。メフィストは思わず彼女に手を伸ばす。しかしその指はするりと燐の体を通り抜けるばかりで触れられない。ああやはり夢か、と。
燐は少し悲しそうな顔をした。けれどもう夢でも幻でもなんでもよかった。これがゴーストでメフィストを食うために夢にまで出てきた可能性も咄嗟に考えたが、
それでもいい、と思えてしまう。何もかもどうでもいい。夢から醒めても燐のいない学園が燐のいない世界があるだけだ。それは死にそうなほどつまらないのだから。
「燐」
呼べば燐が顔を近づけてくる。
「会いたかった」
ぽろり、と湧き出る正直な言葉に、燐は寂しそうに微笑んだまま、ちらり、と牙を覗かせて何か言った。
『 』
それは幻でもなんでもなくてやはりただの夢だった。
窓から差し込む朝日が今日はいつもと違いただただ憎たらしくて、指を鳴らしてカーテンを閉めた。夜明けがきたばかりの部屋はそれだけで薄暗くなる。
メフィストはため息をついて身を起こすと酷く緩慢な動作でベッドから降りた。当然そのままだったスーツはすっかりシワになっていたがどうでもよかった。上着だけ脱いで無造作に放れば、
どこからともなく使い魔が回収していく。メフィストがこのようになってしまってから誰も何も言わなくなった。唯一、燐の師であった赤髪のシュラだけは、おまえどうしちまったんだよ、と
珍しいものを見るようにしていただけだ。そんなシュラも燐がいなくなった日から休むことなく彼女を探している。シュラも雪男も塾の仲間も。ふ、とメフィストは嘲った。
そんな人間達とそしておそらく自分に対して。
探しても探しても探しても見付かったのは燃えて赤く錆びれた小さな指輪だけ。
それはメフィストの胸元で、ちゃらちゃら、小さな音を立てている。燐はいつも何を思ってこれを首からさげていたのだろう。
上着も放ってシャツとスラックスだけの姿のまま理事長室に入ったメフィストは、目の前の光景に全ての体の機能が停止した気がした。
窓から差し込む昇りきった明るい光に照らされて、嫌に浮かび上がる赤いソファ。いや、浮かび上がるのはとても短くなってしまった黒い髪の女の子であった。
少女は、膝を丸めてソファの上に座っていてどこか一点をじっと睨んでいるばかりで。
「……燐っ!!」
叫んだつもりが情けないぐらいかすれた声だったがメフィストは赤いソファにうずくまる彼女に駆け寄った。髪はとても短くなり不自然な形にばさばさと跳ねていて、
白かったはずの燐の頬は爛れて水ぶくれをしたひどい火傷の痕があり、裾がほとんど燃えてしまっている黒いコートから覗く素足は血まみれで、
メフィストが駆け寄る間にも、どくどく、と大理石の床に血の溜まりをつくっていた。そして光のない青い目は、じい、っとどこともしれないどこかを睨んでいて、
顔には表情がない。
それでもそれは確かに奥村燐であった。
どこにいたんだ今までどうしてたんだ、と聞きたいことは山ほどあったし言いたいこともたくさんあったがそんなもの、彼女の痛々しい姿を見ると全部吹き飛んでいた。
「燐…!」
早く手当てをしなければ、とそれだけを思った。
しかし、呆然自失の彼女の肩に触れた途端、メフィストの指はするり、とその細い肩を通り抜けてしまった。
「………!?」
通り抜ける。燐の姿は確かにそこに像を結んでいるのに。昨夜の夢のように。そこでメフィストはようやく気付いた。燐は血まみれなのにそれなのに血の匂いが一切しない。
燐はメフィストの呼びかけに答えることもなくそれどころか何の反応も示さない顔でただただソファの上に蹲っている。
「姉さんっ!!」
まさか自分が見ている残酷な幻か何かか。兄弟である氣の王アザゼルのよこした残酷なゴーストの幻か。メフィストはありとあらゆることを考え蹲り続けている彼女の姿を疑ったが、
急いで呼び寄せた雪男は迷うことなく燐に駆け寄り、「それ」は姉であると信じて疑わなかった。雪男はぼろぼろ泣いて座り込む燐の前に膝をついて、ただただ、姉さん、と呼び続けた。
燐はやはり膝を抱えたままぴくりとも動かなかった。それでも弟は、姉さん、と呼んで燐の肩にふれるような仕草をした。メフィストはその光景に呆然とそこに佇んでいることしかできなかった。
雪男が話すにはこういうことだった。
教会で一緒に戦ったというのは、どうやらこういう状態の燐が常に雪男の側にいたということだった、と。虚無界にいながら燐の魂は雪男の側であの教会で、
魔神と戦っていたのだという。
「信じてもらえるわけがない、と思ったので、」
と雪男は燐が座っているのとは別のソファに腰掛けて目を真っ赤にしながらそう告げた。メフィストはイスに座るのも忘れている。呆然と柳のように立ったままの悪魔に雪男は淡々と続けた。
「そして魔神を燃やし尽くした後、姉さんの気配もなくなりました。…考えたくないですが虚無界にいた姉さんの体は…きっともう」
その間にも燐の素足から滴り落ちる血の溜まりは溜まり続けるも、ある一定まで広がるとふと最初の雫の一滴から戻っている。痛々しい燐の姿はまるで再生される映像のように繰り返されている。
それでも燐に触れることはできなかった。包帯もまけない薬も塗ってやれない。雪男は血が出そうなほど唇を噛んだ。
「姉さんの魂…こんなに傷ついて帰ってきて…どんな形でも帰ってきてくれて本当にうれしいけど…でも…」
かわいそうな姉さん。
顔を手で覆ってまた泣き出した雪男にかける言葉など見付かるはずもなく。その前にメフィストは濁った泥のような燐の青い目をじいっと見つめ続けていた。そこには何も映っていない。
おまえのせいだ。
美しかった白い頬も足も見る影もなく焼け爛れて皮膚が垂れ下がり、憎しみのこもった悪魔の目をした女の子がメフィストに詰め寄っている。おまえのせいだ。とても痛い。
痛くて痛くて仕方ない。この嘘つき。この嘘つき、この嘘つき。
「…っ!」
知らぬ間にイスに座ったまま浅く眠っていたらしい。首筋に汗の流れる感触があって何故かとても不快になった。日の落ちてしまった理事長室はとても暗い。
人間ならば足元も確認できないほどだがメフィストの悪魔の目には全て確認できていた。
赤いソファに座る燐はそのままだ。
あの後、どれだけ雪男が呼びかけても駆けつけた仲間達が燐を呼んでも燐は返事もせず表情も動かさず、蹲ったまま血を流し続け、とうとうそれに耐えられなくなったしえみが倒れてしまったので、
とりあえず子ども達は寮に帰すことにした。雪男は最後まで粘ったが燐はソファから動こうとしなかったのでなんとか言い含めて雪男も寮に帰してから、メフィストは倒れるようにイスに座り込んでいた。
そして気絶するように眠り込み、先ほど見ていた短い夢。
さっきの燐こそ、夢であってほしい。
メフィストはそう思い、軽く首を横に振った。いや、あれこそ夢であってはいけないのかもしれない。自分は彼女になにをした? あれだけ責められても殺されても仕方がないようなことをした。
それなのに、燐は「やっぱり」と全てを見透かしていてただ笑っていただけだった。悪魔になることなく燐のままであった。メフィストを一言も責めなかった。
今から思えばあれがメフィストにはよほど辛いことだったのだ。
「…燐」
当然のように返事はなく、メフィストはイスから立った。がたん、とはずみで倒れたイスの音が嫌に耳に障る。
「…おまえは私を責めにきたのか?」
本当にそうであったらいいのに。メフィストはそう思った。自分は彼女に何をした。この腕に甘え擦り寄り笑って怒って我がままをいって寂しさを紛らわしていた小さな女の子に、
燐に、何をした。唯一悪魔を罰することのできる炎を持った悪魔の王はすでに消滅していて、神に悪魔は裁けない。もともと、メフィストは罰を望んだことも罰を恐れたこともない。
けれど、今はただただ恐ろしかった。消滅した悪魔の王に代わり唯一罰を与えられる権限を持つ燐に責められるのが。けれど、それと同時に望んでいる。
ゆっくり燐に近づく。やはり燐は身動きひとつしない。流れる血の匂いも音もしないことから、本当の意味で燐の肉体はここにはないのだと嫌でも理解できた。
あの時、部屋から出て行った燐こそが肉体を持った燐の最後の姿だったのだ。
燐の前で膝をついて濁った青い目を覗き込む。そこには何も映していない。
「…燐…」
雪男の言っていたことは全部本当だろうが、燐がこんな傷ついた魂で帰ってきたことを、メフィストはにわかに信じがたくそれでもどこか嬉しかったかもしれない。
「燐…許して欲しいなどと言いません…」
燐に触れようとした手は、すり抜けてしまうばかりだ。
「許さなくていい。けれど、謝りたい…燐、本当に…本当に…すまなかった…」
すまなかった。許さなくていい。罰してくれ。本当に、申し訳なかった。
力なく膝をついたまま悪魔は朝日が昇るまで、彼女に謝り続けた。それでも燐はただの一度もメフィストを罰してはくれなかった。うわ言のように謝罪を繰り返し、
しかし悪魔は己の胸の中にある歓喜を確かに感じていた。
「…燐…」
こんな形でも、こんな姿でも。それでも燐がここにいる。たとえ自分を責めるためだとしても最後に一緒に戦った弟の元ではなく、
自分の元に。お気に入りだった赤いソファの上に。
「…会いたかった…」
その事実に喜べてしまうメフィストは正しく欲望に忠実な悪魔であったが、同時に哀れなほど嘘つきの正直者であった。
朝日が昇る頃。
ようやく項垂れていた顔を上げたメフィストは気付いた。燐の頬から足から流れていた血が、止まっている。血の溜まりもいつの間にか消えていて、
白い頬を汚していた醜い火傷は気のせいではなく、少しよくなっていた。変らずその青い目は宙を彷徨ったままだったが、それでも血は止まっていた。
2012.4.11