燐はよく笑いよく怒り子供のような我がままを言ったり寂しそうに身を寄せてくる少女であった。しかし、そこに燐の本心はどれだけあったのだろう。
もしかしたら自分の前で本当の姿を見せてくれたことは一度もなかったのかもしれない。燐はよく笑いよく怒りくるくると万華鏡のように表情の変る子で、
けれど寂しさに喘いでいた。メフィストの姑息な悪魔としてそれを見抜いていたがあの頃はただ燐の寂しさを利用してただけで、
彼女の孤独はずっと血を流し続けていたのかもしれない。
赤いソファに蹲り続ける燐はあの頃のように笑いもしないし怒りもしない。ただどこともわからない場所を見ているばかりで、濁った目には何も映さず、
ぼろぼろのコートを纏ったままで、綺麗に伸ばしていた髪は見る影もないほど焼かれて短くなってしまっている。
燐はずっとそこに座り続け動くことはなかった。どんなに話かけてもなんの反応もしない。
メフィストはそんな状態の燐を見つめ続けることしかできず、自分を映してもくれない青い目から自分の目を逸らしてしまいたい衝動にかられたが堪えていた。
今目を逸らしてしまえば、今度こそ燐は消えてしまう。そんな気がしていたからだ。
燐はとても不安定な状態であるようで、触れることもできなければ、昼の光の中に夜の闇の中に飲みこまれて、時折、消えることがあった。数秒ですぐに戻ってくるのだが、
そんな時メフィストはいつも息が止まりそうなほどの苦しさを覚える。燐、と呼びかけても手を伸ばしても燐を引き止めることもできなければ呼び止めて振り向かせることも今はできないからだ。
燐に会いたかった。弟の側よりも自分の側にいるという残酷な事実に悪魔として歓喜してもいる。けれど、それ以上に再び燐が自分の前からいなくなるという揺らいだ未来が、
どうしようもなくメフィストの皮膚の下を這い回り纏わりつく。肌をかきむしりたくなるほどのその衝動は確かに恐怖であった。
「燐…私は恐ろしい…」
蹲る燐の隣に腰掛けてメフィストは決して燐から目を逸らさないまま、告げる。そのぼろぼろの髪に触れて汚れを取って綺麗に整えてあげたいのに、
指先は虚しく宙を掴むばかりだ。
「もうあなたにいなくなって欲しくないんです」
あの時のように。
何にも言わずに、ただ「じゃあな」と。あの時、扉が閉められたときおそらくメフィストの世界も終わったのかもしれなかった。
「姉さん、今日は顔色がいいね」
どうしたらいいのかどうするべきなのか。誰にもわからず日々が少し過ぎた頃。燐がこのような状態で見付かってから毎日理事長室に燐の様子を見に来る雪男は、そんなことを言った。
雪男にも学校や祓魔師としての任務があるのでここへ来るのは朝や夜の短い時間だけだが、それでも雪男は毎日姉の元を尋ね、返事もないのに話しかけていた。
今日学校でこんなことがあった。塾のみんなも姉さんに会いにきてくれるしみんな元気だ。シュラさんも明日来るってさ。と、雪男は燐に話しかけ続けていて、
以前より会話がとても増えてしまって皮肉ですね、と悲しそうに少し笑っていた。
「ほら、もう頬の火傷もほとんどないし、足の傷も治ってきてる」
雪男の言った通り、最初のとき、凄まじい傷を負っていた燐だが何故かそれは少しずつ少しずつよくなってきているのである。メフィストが思うに一番の変化を見せたのは、燐に謝り続けて
会いたかった気持ちを吐露したあの夜だった。あれから燐の体の傷はよくなってきていて、確かに今日は顔色もいいように見えた。白い頬には血の巡りが蘇えったかのようで、
うすいピンクに染まり始めている。
「…本当ですね…今日は元気がいいみたいだ」
重厚なデスクで腕を組んで、双子を見ていたメフィストもそう感じる。傷のこともそうだが、一体何が燐に作用しているのか。それすらわからない状況の中で、
不安定な燐のささいな変化は確かに小さな希望でもあった。それにメフィストは縋っている。おそらく雪男も。
「フェレス卿…倶梨伽羅はまだ見付からないんですか?」
触れられない姉の髪に触れるような仕草を繰り返す雪男に、メフィストは、ひとつ息を吐く。
「ええ、まだ、何も」
今の燐はとても不安定な存在であった。
ある意味、物質界と虚無界の摂理を飛び越えている状態なのではないかとメフィストは推測している。虚無界において悪魔は物質界のものに憑依しなければ干渉はできず、
物質界に至っては人間が虚無界に干渉できる手段はない。唯一それができる存在が燐であった。人でありながら悪魔で、その体は確かに一度虚無界に行き魔神を燃やし尽くしている。
けれど、今現在の燐は肉体がそこにあるような状態ではない、ならば、今、メフィストの目の前にいる燐は何であるのか。
雪男の言った通りそれは魂であるのだろうが、ならば、虚無界にあるはずの彼女の体は。倶梨伽羅に閉じ込めた燐の心臓は。どこへいったのか。
未だ燐がこんな形でも「生きている」といえるのならば、虚無界にはまだ燐の体か倶梨伽羅が残っているはずである。何が燃えてしまっていても倶梨伽羅だけは、
燐の心臓の媒体をしている倶梨伽羅だけでも残っていなければ今の燐のここには存在しえないはずである。
燐は一体どこにいるのか。
「じゃあね。姉さん、また来るから」
ふと気付けば雪男は帰り支度をしていた。やはり今日の燐も何の反応も返さなかった。雪男はメガネの奥で眉をよせると、ぽんぽん、と姉の頭の撫でる仕草だけをしてみせる。
「フェレス卿、姉のこと頼みます」
もちろん、と答えるつもりが喉に引っかかって出てこなかった。自分にそれを言う資格はないだろうと思ったのだ。自分がもっと燐を見ていれば、
見てあげていれば、こんなことには。
「…姉さんは、ここにいたいみたいですから」
メフィストは目を見開いたが、雪男はもうメフィストには背を向けていて振り返ることはなかった。
「わかるんですよ。姉さんは望んでここにいるんだってこと。だって弟ですからね…姉一人守れなかった弟ですけど」
雪男の声は少しだけ寂しそうであった。
見ていれば何もかも告げていれば気付くのがもっと早ければ。今でも燐は隣でこの腕の中で笑っていてくれたのだろうか。
「…ねえ、燐」
ぎしり、と音を立てて燐の蹲るソファの隣に腰掛ける。沈むソファは大人一人分の深さで、彼女の体重はソファに干渉していないようだった。
その事実にメフィストはまた息ができなくなりそうであった。ふ、と一度大きく呼吸をする。オレンジのランプをつけただけの夜の理事長室。
作り出される影はメフィストのものしかなかった。最も、メフィストも影というものを持ったのは物質界に来てこの体に憑依したときからが初めてだった。
虚無界に「影」はない。世界を照らす太陽のようなものがもともとないからだ。
そんな世界で、燐は何を思って立ち向かっていったのだろう。
オレンジのランプの光さえ返さない燐の白い横顔を見つめつつ、メフィストはたどたどしく話し始めた。雪男を習うように合間を縫っては燐に話しかける習慣は、もう七日続いている。
一度も燐は反応してくれたことはないが、それでもメフィストは話続ける。しかし、思えば燐に話してやれるようなことが自分にはほとんどないのだと気付く。
自分には何があるだろう。悪魔としての力も物質界にて揺るがぬ地位もあるのだけれど、それでも自分にはきっと何もなかったのかもしれない。
だって独りの女の子に話して聞かせてやれるようなことが一つもないのだ。
自分は今まで、何がそんなに楽しくて、物質界にいたのだろう。
「ねえ…燐…情けない話なんですけどね…。私達が一緒に居た頃、私はあなたに何を話していたんでしょうね」
思えば、何も話してあげていなかった。
話をしてくれるのはいつも燐だった。燐は些細なことでもまるで綺羅綺羅輝く宝物を発見したように楽しそうに話してくれて、メフィストはそれを聞いて頷いていたぐらいだった。
燐の話を聞くのは楽しかった。学校や塾でドジをした話でも雪男に叱られた話でも今日の料理が美味くできたという報告でももっと任務に行きたいというわがままでも、
燐が話す話は何でも、
「あなたと話すのは楽しかった」
けれど今は返事もない。
「燐…もっとあなたと話たいですし、もっと色んなところへ出かけたいですよ、二人でね…」
もっと話したいし色んな場所に出かけたい腕の中で囲ってまた笑って怒ってわがままをいう燐の声が聞きたいし、それに、
「花見ね、来年の約束もしたかった」
今年はもう散ってしまったけれど、来年も再来年もその次の年も。できればずっと。その先も。
「燐」
しかし、燐の濁った目はメフィストを見てもいない。今の燐には何も見えていないのだろうか。それとも、もっと恐ろしい何かを見ているのだろうか。
燐は今、一体どこにいるのだろう。
「ねえ、燐…私を見てくださいよ」
自分の目を顔を、声を聞いて、腕に身を寄せて笑って怒って話していて欲しい。
「燐…私を見て、声を聞いて、顔を見ていてください。こちらを向いて欲しいんです」
今の燐には何も見えていないのだろうか。それとも、もっと恐ろしい何かを見ているのだろうか。
燐は今、一体どこにいるのだろう。
「…あなたも…ずっとこんな気持ちだったんでしょうね…」
赤いソファに蹲り続ける燐はあの頃のように笑いもしないし怒りもしない。ただどこともわからない場所を見ているばかりで、濁った目には何も映さず、
肌の火傷こそ治ったもののぼろぼろのコートを纏ったままで、綺麗に伸ばしていた髪は見る影もないほど焼かれて短くなってしまっている。
燐はずっとそこに座り続け動くことはなかった。どんなに話かけてもなんの反応もしない。
メフィストはそんな状態の燐を見つめ続けることしかできず、自分を映してもくれない青い目から自分の目を逸らしてしまいたい衝動にかられたが堪えていた。
今目を逸らしてしまえば、今度こそ燐は消えてしまう。そんな気がしていたからだ。
「燐…私は恐ろしい…」
メフィストは決して燐から目を逸らさないまま、告げる。そのぼろぼろの髪に触れて汚れを取って綺麗に整えてあげたいのに、
指先は虚しく宙を掴むばかりだ。
「もうあなたにいなくなって欲しくないんです」
あの時のように。
何にも言わずに、ただ「じゃあな」と。あの時、扉が閉められたときおそらくメフィストの世界も終わったのだ。享楽だけに満ちた手前勝手で残酷で無慈悲な悪魔の世界は終わったのかもしれなかった。
それなのに、悪魔は欲張りにも請うている。独りの女の子に与えてやれなかったものを与えて欲しいのだと請うている。メフィスト自身もそれをよくわかっていて、
けれど望む言葉は止まらない。ああ、やはり自分は欲深なただの悪魔であった。
「私を見てください」
倶梨伽羅に宿った心臓さえ燐の体さえ見付かれば。
そんな小さな希望はあっさりと打ち砕かれた。翌日、虚無界で燐の遺骨が見付かったのである。見つけたのはやはり燐の使い魔のクロで、クロは悲しそうに大きな目に涙を溜めて、
小さな指の骨を持ってきた。それは燃やし尽くされる直前だったようで、黒くすすけてしまっていたが、確かに十代半ばを思わせる細い女の指の骨だった。
メフィストは無言で指の骨を受け取った。
崩れそうなのでそっと。クロに聞けば指輪を見つけた場所の近く。虚無界の泥の中に埋まっていたのだという。これが燐の指の骨という確証はなかったが、それでもクロもメフィストもこれが燐のものだと、
わかっていた。普通の骨にはありえない。青い炎の脈を確かに感じていたからだ。これ以外、何も見付からなかった。他の骨も倶梨伽羅も。
もう燐の体も倶梨伽羅も跡形もなく燃やし尽くされてしまったのだろう。指と指輪だけを残して。これはどちらの手のどの指なのか。メフィストは光にかざしてみたが、
すすけた骨はその判別もつかなかった。
体も倶梨伽羅も燃えた燐は。ならばどうして未だ赤いソファの上にいるのだろう。
「…燐?」
ソファを見れば燐はいつも膝に埋めていた顔を上げていた。その変化に驚きつつも燐の視線が一心に注がれているものに気付く。指の骨だった。
「…燐…体も倶梨伽羅もないのに…一体あなたは今どこにいるんですか?あなたの心臓はどこへ?」
燐は答えない。じいっと視線は留まっている。
「…わかってますよ…これはあなたの弟にちゃんと返しておきます」
燐は悪魔の欲望を見抜いたのだろうか。骨ひとつでも彼女を自分の元に置いておきたい。けれど、燐と雪男の絆を知っていて燐の弟への想いの大きさを知っているからこそ、悪魔は思い留まった。
自分には指輪と燐の魂がここにある。なのに姉を守れなかったと未だ自分を責める弟には何もない。ならば、せめてたったひとつだけ見付かったこれだけは返すべきであった。
メフィストは引き出しからもう使っていなかった宝石箱を取り出した。瑠璃色に染められた小さな宝石箱だ。以前これに何を入れていたか。そうだ、遠い遠い昔。
当時友人といえる人間からその時愛用していていたのにどこかに失くしてしまったチェスの駒の代わりを貰ったときの箱だったと思い出す。失くしたチェスの駒はなんだったか。
渡してくれた友人の顔も忘れていたけれど、何故かこの箱はずっと気に入っていたのだった。
からん。
瑠璃の箱の中で黒く染まるほど燃えてしまった骨が跳ねる。
燐の体は虚無界で一体どんな最後を迎えたのか。
燃やし尽くされて熱かっただろう痛かっただろう苦しかっただろう。
今の燐の姿がその証であった。燐の体はもう燃えてしまったのに、魂は未だ傷ついてどこにもいけずにソファの上だった。
燐はよく笑いよく怒り子供のような我がままを言ったり寂しそうに身を寄せてくる少女であった。しかし、そこに燐の本心はどれだけあったのだろう。
もしかしたら自分の前で本当の姿を見せてくれたことは一度もなかったのかもしれない。燐はよく笑いよく怒りくるくると万華鏡のように表情の変る子で、
けれど寂しさに喘いでいた。メフィストの姑息な悪魔としてそれを見抜いていたがあの頃はただ燐の寂しさを利用してただけで、
彼女の孤独はずっと血を流し続けていたのかもしれない。そうだ、今の姿が痛々しいように。
今の燐は彼女の心の姿そのものなのかもしれない。
「…燐?」
しばらく骨を入れた箱を持ってぼんやりしていた。クロは燐の隣に丸まって離れたくないとばかりに燐の魂に寄り添っている。
そんな燐は以前のようにクロを撫でてやることもないけれど、しかし、未だにその目が一心にこちらに注がれているのにメフィストは気付いた。
燐の目を見れば昨夜まで濁っていたはずの青は、日光に当てられてわずかな輝きを返していた。
そこには青白いメフィストの顔が映っている。
燐は自分自身の骨ではない、ずっとメフィストの目だけを見ていたのである。
2012.4.13