姉の遺骨を返された弟はもう泣くことはなかった。燐の葬式はやはりあげない、と決めていたようだ。ただ僕がいつか死んだら僕の墓に姉の骨も一緒に埋めてください、
という言葉に姉への全ての想いが集約されているようで、人というのはここまで人を想えるのか、とメフィストは羨望と少しの嫉妬を抱いた。
真の悪魔に骨は残らない。人の持つ人を想う心も持たない悪魔には、何も残らないはずだ。しかし今自分が消滅することがあるとしたら、後には何か残ってしまうのかもしれない。
悔いる想いと行き所のない燐への想いだけが。
燐がメフィストの目を見てくれるようになってからメフィストは燐の前でシルクハットを被るのは止めた。真っ直ぐこちらを見てくれる燐の青い目には最初の頃と違い、
確かな輝きが戻っていた。相変わらず赤いソファに座ったままだが、そこからデスクに向かうメフィストをじっと見ていることがある。
なあ仕事いつ終わんの?
以前、
そこに座ってメフィストの仕事が終わるまで退屈そうに寝そべっていた彼女の姿が蘇えってくる。今の燐は何も話さないがまるで同じことを言っているように見えた。
メフィストは苦笑しながら溜まりに溜まっていた書類にようやく手をつけるようになった。
仕事終わったら何する?
メフィストの仕事が終われば尻尾を子犬のように振ってソファから身を乗り出していた燐。そんな燐に自分は何て答えていただろうか。
「…これが終わったら一緒に紅茶でも飲みましょうか」
燐はその言葉に本当にわずかにだが、頬をピンクに染めた、そのように感じた。今の燐は食事を食べれないのはわかっていたが、それでも以前のようにメフィストは仕事が終わると本当に紅茶を淹れた。
燐の気にっていた黒猫の絵が描かれたカップで燐の好きだったストロベリーの香のする温かい紅茶。メフィストも同じものを燐の目の前で飲んでみると、燐はその様子をずっと見ていたかと思えば、
恐る恐るといった様子でカップに手を伸ばし、なんと、カップに触れようとした。
メフィストが呆然と見守る中、燐の手は確かにカップに触れ、持ち上げる。湯気の立つ紅茶に赤い唇をつけるとこくっと白い喉が上下した。
ことん。再びテーブルに置かれたカップの中身は少しも減っていなかったが、燐は本当にわずかにだが微笑んでいて、尻尾は機嫌がよさそうにふらふら揺れていた。
燐に大きな変化が見られるようになったのはそれからだ。ソファに蹲り続けていた燐の素足の怪我が完全に消えるころ、燐はソファからいなくなったかと思えば窓際に座り込んで、
日に当たっていることがあった。それはメフィストが目を離した一瞬の間で、燐はふとソファや窓際に現れて猫のように身を丸めて座り込み、時々、やわらかく目を閉じる。
寝ているのかと思えばそうでもないような。そうして日光浴に満足するとふらふらと理事長室を歩き回る。足音はしなかったが、その存在は確かにそこにいて、短い距離を移動していた。
食事も食べることはできないが、ちょっとしたものを燐の前に出せば食べようとする仕草をすることがる。
好みに叶ったものではないと手を伸ばさないが、メフィストが目の前で物を食べることをすると習うように同じことをした。
まるで卵から孵ったばかりのヒナのように。メフィストの日常的な行動を真似ていた。
そんな燐の変化のひとつひとつにメフィストは心臓を揺さぶられる。それは喜びなのか切なさなのか。おそらくどちらも同時にこの胸を襲っている。
燐が手を伸ばすのは燐が好きだったものばかりのようで、しかし、燐の好きだったものはなんだったろうか、と思い出そうとしても数個しか思い浮かばないのだ。
燐は感情豊かな子であったから、きっとこの世界の好きなものはたくさんあっただろう。それなのに、自分は数個しか燐の好きだったものを知らないのである。
「これ、姉さん好きだったんですよ。近所の老夫婦が営んでいるケーキ屋のもので、小さい頃本当にたまにですけど養父が買ってきてくれてたんです。いつも姉さんはおいしそうに食べていました」
燐の目の前でイチゴのショートケーキを少しフォークですくってみせた雪男は、懐かしそうに目を細めた。燐は雪男から伸ばされたケーキのカケラに首をかしげるような動作をした。
雪男は、ほら姉さん口開けて、と自分で、あ、と口をあけてみせる。燐は習うように小さく口をあけた。その覗かれた赤い舌にケーキを乗せるように近づける。
ぱくん。赤い口が閉じられてケーキを食べる。やはりケーキはカケラも減っていなかったが、燐はもごもごと口を動かしていた。姉さん子供に戻ってしまったみたいだ、と
雪男は笑った。
そして友人達がやってきては燐が以前好きだった燐の私物を持ってくる。桃色の花の飾りがついた髪飾りや青いリボンのバレッタなど。
持ってきたのはしえみと出雲で、髪が短くてもこれならつけられるでしょう、と笑っていた。しえみなど最初の頃の燐の姿に耐えられなくなって倒れてしまったほどだが、
女の子とは強いものだ。今は懸命に燐の反応を取り戻そうと健気に理事長室に通っている。おかげで理事長室にはいつの間にか燐のお気に入りだったという小物などに溢れるようになった。
そのひとつひとつを見ながら、メフィストは、そうか私はやはりこの子のことを何も知らなかったのだ、と改めて思った。いや、知ろうとしなかったのだ。
燐の好きなものを知らなくても彼女は自分の元を離れなかったし、この腕にすがり付いていた。
奥村燐はとても女の子らしい女の子だった。それは表面上のものではなく、ふとしたとき表れる世話好きなところ、前髪の分け目に悩んだりするところ、スカーフが綺麗なリボンにできなかった日は憂鬱になるところ、料理が好きなところ、
実は綺羅綺羅光るジュエリーも好きで塾の女の子達とあのショップの指輪がかわいいと、おしゃべりしていたり。
しかし、それらは本当に一部でしかなく、たったそれだけで燐を女の子らしいけれど寂しくて水溜りで溺れている哀れな子だと、ほくそ笑んでいた自分は燐のことを本当に何も見ていなかったのだ。
「私はあなたに甘えていたんでしょうね」
甘えるように縋りついていたのは燐だったのに。
燐はメフィストのその言葉にしえみと出雲が置いていったリボンのバレッタをじいっていた手を止めた。じっとメフィストを見つめる青い目からメフィストも目をそらさなかった。
数秒そうして目を合わせていたが、燐は、持っていたバレッタを持ち上げると髪につけるような仕草をした。メフィストは燐の隣に腰掛けると、これはこうやってつけるんですよ、とバレッタを燐の手から取って短くなった燐の髪に留めた。
ぱちん。ぽとり。
しかし留めたバレッタは燐の髪に飾られることなく、ソファの上に落ちてしまう。
燐はそれを悲しそうに見つめていた。
燐は少しずつ少しずつ日常の動作や表情を取り戻している。それなのに、燐の魂には何も留まらない。お気に入りだった紅茶もケーキも髪飾りも。
「…燐」
少しずつ少しずつ、取り戻していく表情にもう二度とこんな悲しいものをさせたくない。メフィストはそう思った。
以前、燐はこんな顔を見せることはなかった。笑ったり怒ったりはしていたし、時折、その顔に寂しさという影が落ちることはあっても。こんな、悲しそうな顔をすることはなかった。
メフィストの前では見せなかったのだ。
触れられない燐の頭を包み込むように腕を回す。
燐はわずかにだがメフィストの胸に顔を埋めるように擦り寄ってきた。
少しずつ少しずつ、取り戻していく表情にもう二度とこんな悲しいものをさせたくない。そう思うのも本当なのに、それなのに、もっと見せて欲しいと相反する思いもある。
見せて曝け出して燐という女の子のことをもっと知りたい。燐という子の本物の何かに。
この感情は悪魔独特なのだろうかそれとも人にもあるのだろうか。メフィストにはわからなかった。
お気に入りだったバレッタも留められない燐の髪は、最初の頃より少し伸び始めていた。
真の悪魔に骨は残らない。人の持つ人を想う心も持たない悪魔には、何も残らないはずだ。
しかし今自分が消滅することがあるとしたら、後に残るものがある。
悔いる想いと行き所のない燐への想いだけが。
しかし、メフィストの胸の中に確かに芽生えたそれを、燐にどうすればあげることができるのか。
体も燃え倶梨伽羅も燃え、魂だけになった傷ついた燐にどうすればあげることができるのか。
これは何も燐がこのような形で見付かってからの話ではなく、燐と共にいたあの頃からだった。
メフィストは本物のあげかたをずっとわからずにいる。知る必要もなかったし本物を悪魔が持つ必要もなかったからだ。けれど、今のメフィストは胸をかきむしりたくなるほど、
その方法が知りたかった。自分はそれをずっと。
そうして季節が過ぎていく。
燐は少しずつ少しずつ表情を取り戻していく。メフィストと会話を繰り返す度に触れられないけれど穏やかな時間を過ごすうちに。
燐がこんなことになってしまっていても、流れていく時はひどく穏やかであった。傷ついていた燐は表面的にはもう傷も火傷も消えていた。しかし
未だ燐の魂を包むのはぼろぼろの祓魔師のコートである。それが燐の魂の逃げ切れない恐怖と傷を表しているようで、メフィストは着れないとわかっていながら燐に白いワンピースを贈った。
いつかでいいのであなたの心が癒えるときがくれば、その時はこれを着てくださいね。というメフィストの言葉に燐は白いワンピースの裾をいじるように指を伸ばしていた。
燐は理事長室や時にメフィストの屋敷にも現れて、
以前、燐が気に入っていた場所を眺めていることがあった。食事を作っていたキッチン。お気に入りだった白いシーツのベッド。ベッドでは時々、胎児のように身を丸めていることがあった。
以前の燐と同じであった。その時の燐の瞳はせっかく光を取り戻したのに最初の頃のように濁っていて、メフィストはそんな燐をいつも抱き込むように共に眠ることにしていた。
燐はまだ自分を治そうと必死なのかもしれない。誰か他の人の仕草を見て真似てみせようとすることも、食べれないのに好きだったものを口に運ぶのも。
以前の自分を取り戻そうと必死なのかもしれない。しかし、燐の体はもう燃えている。心臓もどこにいったのか知れない。
燐がどれだけ必死になっても取り戻せる範囲は限られているだろう。メフィストはそんなほの暗い燐の未来に顔をゆがめてしまいそうになるが、
堪えていた。今はもう燐から顔を逸らすことはしなくなったので、燐を不安にさせたくなかったのである。自分がそうするようになってメフィストはようやく気付いた。
以前の燐がメフィストに不安や恐れを見せることがなかったのは、もしかしたら同じ気持ちだったからだろうか。それとも、悪魔が不安や恐れなど理解してくれるはずのないという諦めからだろうか。
どちらにせよ。燐はメフィストに本当にの意味で愛されてはいないことを知っていた。全てを見透かしていて、それでも、メフィストの側にいたのである。
『嘘だろうな、って』
けれど、全てを失ってしまってから嘘つき悪魔は本当の恋をした。燐に恋をした。遅すぎたのかもしれないが、それでも、燐は今だメフィストの側にいる。それなのに、
悪魔はこの想いの与え方をわからずにいる。体も燃えて心臓もない。
実体がないに等しい燐に何があげられるのだろう。
出口のない自作の迷路に迷い込んでしまった愚かな工人のように。
迷い続けるメフィストの前で、ある日、燐が消えてしまった。いつの間にか過去った季節は冬の終わりを迎えていて、新しい草が芽吹き始めていた頃だ。
燐がこうなってしまってからもう一年近く経過しようとしていた。
その日、どこを探しても燐はいなかった。理事長室にも寝室にもキッチンにも。屋敷中探しても見付からず、メフィストは狂いそうなほどの恐怖に駆られならが燐を探した。
穏やかな日々を過ごしていたが、燐はいつ消えてしまってもおかしくない存在で。しかし、笑うようになり物事に興味を示し始め、メフィストや弟や友人達の言葉に反応するようになった燐を見ているうちにいつの間にか
このままずっと燐が側にいてくれるような、そんな錯覚をしていたのである。そんな保証などどこにもないのに。
思えば以前、燐と共にいた頃から。燐がずっと自分の側にいるという保証なんてなかったのに。
「燐!」
燐の現れそうな場所を探し、メフィストはまさかと思い、かつて共に短い花見をした場所まで燐を探して。
そして燐はそこにいた。
首を上げてただ老木を見つめている。その姿を見つけてメフィストは安堵するが同時にどうしようもなく不安になり、燐の体を抱きしめた。
するり、と。その腕は燐をすり抜けてしまう。
燐はそんなメフィストに何も反応は返さず、ただただ枯れかけた桜の老木を見上げていた。
そろそろ他の桜も咲き始めている時期なのにその老木はみすぼらしい蕾を数個つけているだけで、それが咲くかももうわからないほどやせていた。
とうとう死んでしまったのだろうか。
「…燐…よかったここにいたんですね…」
行き場のない己の腕を諦めたように仕舞いこんで、メフィストは燐に呼びかける。それでも燐はメフィストに目を向けなかった。
同じだ。メフィストはそう思う。いつの間にか、二年も前になってしまった体もあって心臓もあった彼女との思い出と。
あの時の燐も、桜に夢中でメフィストを見ていなかった。目を離すとすぐにどこかへ行ってしまう盤上の駒。
ああそうか。メフィストはようやく気付く。あの時の自分は燐がこちらを見てくれないことが不満で、寂しくて、恐かったのだ。
燐は目を離すとすぐにどこかへ行ってしまう盤上の駒で、気をつけていないとそこから落ちて砕けてしまう駒であって。
それなのに、あの頃の自分は見ていてあげていなかった。だから燐は落ちてしまったのだ。自分の手元から。彼女の愛したこの世界から。
「…私はあの頃からずっと恐れていたんだと思います」
老木を見上げるばかりの燐の横に立つが、やはり燐は目を向けてくれない。何か本当に強い思い入れがあるかのように、死んでしまった老木を見ている。ねえ燐。と
呼びかけてもその細い肩に手を伸ばしても。触れられないすり抜ける。
「燐…あなたが今度こそ本当に消えてしまったら、私は耐えられない」
燐がいなくなって何にも楽しくなくなってしまった。燐が本当に消えてしまったら。
「そんなことになったら…私も消えます」
燐の肩に触れるように手を伸ばす。彼女の肩は細くて小さいままだった。
「燐、私を見て、声を聞かせて、私はまだあなたに何も---------」
衝動的に懐から小箱を取り出す。思い入れのあるものにしか触れられない燐の代わりにそれを開けると中には指輪が入っていた。
本当は随分前から、燐がようやく表情を取り戻していた頃から購入していたのだが、迷路に迷い続け本物のあげかたがわからない悪魔はそれを渡せずにいた。
しかしもうなんでもいい。なんでもいいから何か燐をこの世界に繋ぎとめられるのなら。そう思い指輪を燐に見せたが、燐はようやくメフィストに目を向けつつも、
困ったように首をかしげて指輪を見つめるだけだった。
指輪には紛い物などではない本物の宝石が飾られている。薄い緑に輝くそれは美しく可愛らしかったが。
「燐、あなたを愛しているんです」
すきですよあいしてますよ。紛い物を与えて一時的でしかない寂しさの虚無を埋めて。そんなことでどうして燐が、メフィスト・フェレスに思い入れを残せたのだろう。
「本当ですよ、もう嘘ではない。いえ、あの頃から本当は嘘じゃなかったのかもしれません」
燐はじっと本物の宝石の指輪を見つめている。そして恐る恐る手を伸ばすが、燐の手はその指輪に触れることすらできなかった。
指にはめることはできない。
燐の顔が悲しそうに歪む。
メフィストは思わず燐を抱きしめるようにその儚い魂に身を寄せた。そのせいで指輪が地面に転がってしまったが、
メフィストも燐も拾おうとはしなかった。
「燐…あなたの心臓はどこへ?…あなたはどこにいるんですか?」
燐は答えない。
「…燐、教えてください。……どうしたら、悪魔は本物をあげれるんでしょうね…」
嘘をついていたのに、愚かでしかない悪魔だったのに。
嘘を貫いていたあの時から、ずっとメフィストは本物をあげる術をわからずにいる。
本物をあげたかった。
自分はずっとそれを望んでいただけだったのだ。
しかし、本物の指輪は虚しく地面に転がっているばかりである。
2012.4.15