愛し者への幸福

 

転がった本物はそのままに、 メフィストは燐に顔を近づける。燐は目を閉じなかったが構わなかった。 瞼を閉じた先にある自分の顔はあの頃のような悪魔の顔にはもうなれない。
そうして幻のような燐の唇に自分のそれで触れても彼女の体温は感じない。 甘いジャンプーの香も。何もない。枯れ欠けた老木から落ちてくるわずかな桜の花びらがメフィストが息を吸い込んだときに、 ひゅ、っと口に入り込んだ。それが燐の唇の代わりだとでもいうように、メフィストはさらさらしたそれを舌で転がし飲み込む。ごくり、と。 これと同じように燐を飲み込めたらどれだけいいか。その欲望は確かに悪魔のそれであるが、燐のこちらを見上げる目を見るとそんなことはとてもできそうになかった。
縋るように、救いを求めて寂しさと恐怖に喘いでいる。
触れられないのに白い手がメフィストの腕を掴むように伸びてくる。メフィストはそれを握り返してやることもできずにいる。











それから燐はメフィストの寝室に篭るようになった。
胎児のように身を丸めて。何もかもから自分を隠すようにぼろぼろのコートに身を包んで。ただ最初の頃と違うのがもう青い目が濁ってはいないことだった。 震え潤んでいるように揺らいではいるが、きつく寄った眉と輝きを失わない赤い瞳孔が、燐は必死に自分を取り戻そうとしているということを物語っていた。
メフィストはそんな燐を見て、まず初めにドアの内側から鍵をかけた。燐に何かあったらもう物質界に戻るつもりなどなかったので外側からは決して開かない特別な鍵を。 学園がどうなろうが騎士団がどう言おうがもうどうでもよかった。全て終わってから。どんな結末があろうと全て終わってからそれから考えればいいし、 考える必要もなくなるだろう。 自分と燐の二人だけの空間で。燐には弟も仲間も必要かもしれない。けれど今の燐に必要なのはそういうものではないような気がしていた。悪魔が人の心なんて。 わかるはずもない。悪魔であり心は人である燐のことを本当に理解してあげられる日がくるかもわからないが、それでも今だけは二人だけにして欲しかった。 人はこれを狂気と呼ぶか。呼ぶなら呼べばいい。悪魔は初めから狂っている存在だ。



ベッドの中で震える燐の抱きしめるように包み込む。今ほど燐に触れられないことをもどかしく感じたことはない。燐、側にいますよ。ここにいますから。と 身を丸める燐に呼びかける。燐はぎゅっと自身の腕で小さな細い体を抱きしめながらもメフィストの言葉に耳を傾けているようだった。 声も発せない。お気に入りだったものにも触れられない。そんな今の燐の目に映る世界とは聞こえる音とはどのような形なのか。ちゃんと届いているのか。 会いたかったという言葉も自分を見て欲しいという言葉も愛しているのだという言葉も。本当に燐に届くまで何十回と何百回と言い続ければいいだけだ。
「燐、もう独りで水溜りで溺れることはありませんよ」
苦しい苦しいと自ら水の中で喘いでいる子の顔を上げさせて、呼吸をさせてやらねばならない。丸まっている燐の顎に指を添えるようにしてみせる。 燐はつられるように顔を上げた。揺らいだ青い目がまっすぐメフィストを見返してくる。
未だ燐の魂を包むのはぼろぼろの祓魔師のコートである。それが燐の魂の逃げ切れない恐怖と傷を表している。足を砕かれ、炎に焼かれ。綺麗に伸ばしていた髪も失い。 そんな燐の体の最後が想像などしなくてもよくわかる。それでもメフィストは思うのだ。燐はきっと最後まで泣かなかったに違いない。
「私を見て、声を聞いて、顔を見ていてください。恐怖も不安も全て見せてそして捨てて、曝け出して、あなたの魂はそんなものに包まれていていいものじゃない」
少し力強くそう訴えれば、燐は、顔を歪め声のでない口を動かしていた。

メフィスト。

燐は確かに自分を呼んでいる。











メフィストの体の下で組み敷かれた燐は一糸纏わぬ姿をしていて、それは窓から零れる月光の照らされこの世のものではないかのように、白く、なまめかしい。 若い体の線は青く輝いているようにさえ見えた。 まだ未成熟さを感じさせる張りのいい丸い乳房は男の手にすっぽりと覆えるほどでなだらかな曲線を描く腰は脂肪のつきが悪く触れれば骨の感触の方が強いが、 手に伝わる皮膚は吸い付くように瑞々しい。手の平を滑る白い肌のわずかな産毛の感触は、たんぽぽの綿毛のようにやわらかいのだ。そう感じる。それはあくまでメフィストの記憶の中の燐であって今、目の前の燐の感触であるかはわからない。 自分は想像の中で燐を抱くのとかわらないのかもしれないが、それでも燐の魂はいつの間にか全てを曝け出していた。ならばそれで充分だ。 燐に体があって服を剥いで抱いていた時でさえ、燐はメフィストに全てを曝け出してはいなかったのだから。 戸惑い彷徨う青い目に、私の目をみて、と留まらせて。メフィストは引き寄せられるようにその細い脹脛から太腿へ手を這わす。触れているのか触れていないのか。そんな曖昧さは すぐにどうでもよくなった。 燐もそうであったようだ。くすぐったそうに身をよじって尻尾を揺らす様子が、 いつまでも初々しい燐のままであった。
くすぐったい。
かつて燐は腕の中でよくそう言っていて、抱き心地に不満のある猫のようにもじもじメフィストの中に細い身を収めていた。
なあ、なんかこういのって恥ずかしいないつまでもずっとはずかしい。
頭の中で録音機のように蘇えってくる燐の言葉にメフィストは目を細めた。
でも不思議なんだ、はずかしいのにたえらんねーって思うのにいつまでもこうしてたいなって思うときがある。



『ええ私もですよ』
『嘘、おまえ、終われば俺の隣にはいないくせに』



「これからはずっといますから」

自身も纏うものは全て脱いで、曝け出して。胸元で焼けた指輪がちゃらっと音を立てた。燐はじっとそれを見つめている。そして手を伸ばす。 そんな彼女ごと抱きこむように胸を合わせる。焼けた指輪が互いの胸に挟まれたように、そう感じる。触れているのかいないのか。そんなことはもうどうでもいいのだ。 燐の魂を抱いている。その真実だけでメフィストには充分だった。

広い胸に縋る震える体を抱きしめて甘い言葉を囁くだけで、ほう、と安心したように息を吐く。 その姿を可愛らしいと思いはするがずっとずっと愚かだとしか思っていなかった。

「本当に愚かなのは私で、」

『じゃあな、メフィスト。紛い物だったのかもしれないけど…けっこー…楽しかった』

「私も楽しかった、あなたと共にいることができて」

吸い付くように燐の首筋に魂に唇を寄せる。確かに燐は、体を震わせ喉をそらせた。憑依体の喉を通り胃に落ちていくものは何故かひどく甘く、苦い。 その甘さと苦さは己の罰への願望である。

「燐、本当に…本当に…すまなかった…」

メフィストの頭に触れるように燐は腕を伸ばした。まるでそんな言葉望んでいないというように、きつく睨んでくる。曖昧な、けれど本当の交わりの中で、 赤く色づく頬と胸がその見据えてくる青の目に戦慄するほどの色香を与えている。肉欲でもありそれよりも燐の本質に、悪魔は確かな情欲を動かされた。 あわせる肌を擦り付けあう時、メフィストの胸にしみこむものは何であるのか。やわらかく、しみこんでいくそれはきっと悪魔を殺す毒なのかもしれない。 悪魔には必要ない温かさで静かに犯す聖水にも似たものかもしれない。その毒と燐の素肌に思考と体は侵食されて、メフィストは燐の体を本当に暴き始めた。
唇に吸い付いても唾液は絡まないが、確かにお互いの舌がお互いを探りあい、燐の中に侵入すれば不思議と以前よりももっともっと深く繋がっている気がした。 否、気のせいではない。確かに繋がっている。もう体のない燐と。以前よりも、もっと深く深く。

やわらかく、しみこんでいく。

幸福だ、と悪魔は本当にそう感じた。

神にも罰することはできず祝福もされない悪魔は、今確かに本物の幸福を全身で与えられている。たった一人の少女に、いや、女性にだ。

今、初めて燐に触れている。

笑って怒って時に我がままを言ったり、寂しそうにこの腕に擦り寄ってきて、この腕で抱いてきた。そういうことをたくさん繰り返してきたのに、 今、初めて燐に触れたのだと思った。そう感じる。自分の額から滑り落ちる汗が、同じように汗を流している燐の頬に落ちた気がした。 決して目を閉じることなくメフィストを見上げる青い目の端には、今にも零れ落ちそうな雫が溜まり、メフィストは長く舌を伸ばし彼女の目の端を舐める。 塩辛ような気がした。燐は目を細める。汗の流れる若く細い体は生々しい性に彩られている女なのに、どこか幻想的でもあった。それでも、確かに今、メフィストは燐に触れている。
絡んで溶け合って。そうして本当に混ざり合ってしまえばいい、と望む。誰にも到達できない、深い深い場所で。

やわらかく、とけあっていく。

「……愛してますよ」

自分で発して情けない惨めな声だと思ったが、構わなかった。燐の目がじっとメフィストを見上げている。白い腕がメフィストの首を囲うように伸びてきたので、 引き寄せるように顔を近づけた。輝く青の中にはこれまで見たこともないような顔をした自分がいる。

「こんな嘘つきで欲深く肝心なところで正直者にもなれなかった愚かな悪魔ですけど、本当に、」

どこか頭の奥で何かが崩れていくのを感じた。それはこの世界の境界線であったのかもしれない。物質界と虚無界の境界がぐちゃぐちゃになったよう。 その瞬間の中でメフィストは確かに燐に触れていた。



『顔を見て、目を見て。隠さないで。迷わないで。俺を見て、俺を見て。本当に愛して。なあ、メフィスト、おまえこそ隠さないでよ』



唐突にメフィストは気がついた。
なんだそうか、と。
嘘つき悪魔は本当は自分自身にずっと嘘をついていただけだった。
思わず笑ってしまう。腕の中の燐も赤く染まった頬のまま女のような女の子のような、境界の曖昧な十代の若い笑みを浮かべていて、 少し胸と胸と離した二人の間には焼けた指輪が鈍く輝いている。鈍くでも確かに青く輝いていた。

「ああ、燐…あなた、ずっと」



ここにいたんじゃないか、と。











そのまま眠った夜、夢を見た。
ふと、夢の中で目を覚ますと青い蛍のような光を纏った燐がメフィストを見下ろしていて、 やわらかく微笑んでいる。夢の中のメフィストは数度瞬いてから、燐、と呼んだ。 燐はそれに頷くと身を乗り出してメフィストに覆いかぶさるような態勢になる。 あの日、燐が部屋を出て行った日よりも少し短くなっているが青く輝く髪は蔦のようにメフィストの頬を撫でた。 そこでメフィストは気付いた。燐は真っ白なワンピースを着ていて、その足元にはぼろぼろの祓魔師のコートが落ちている。 何もかも脱ぎさって新たに着て。確かにそれは燐である。 メフィストは思わず彼女に手を伸ばす。その指はするりと。確かに燐の頬に触れた。

「燐」

呼べば燐が顔を近づけてくる。
そのまま引き寄せられるようにキスをした。
合わせた唇は、
あたたかくなじんでいく。
その感触が、幸福だ。

「愛してますよ」

ぽろり、と湧き出る正直な言葉に、燐は嬉しそうに微笑んだまま、ちらり、と牙を覗かせてこう言った。

「やっぱり」















「…おはよう」



顔を少し赤くして涙の流れた痕のある目を細めて、はにかんでいる燐が目の前に溢れている。
メフィストは閉じていた瞼を上げ、数度瞬きした。部屋にある唯一の窓から朝日が差し込んでいてシーツから出ている燐の裸の肩がとても白い。 けれど頬と抱きしめている細い体は温かだった。確かに温かくメフィストの肌に馴染んでいる。皮膚と皮膚で隔てて溶け合ってはいないけれど、 肌と肌は確かに温かく触れあっている。
「おはようございます」
そっと抱きしめれば腕の中の燐はあまり身動きのせずに大人しく収まっていた。寝起きからではないだろうぼんやりとした顔は珍しく色々考え込んでいるようで、
「…どうしたんですか?」
と意地悪く問いかければ、ううん、と燐は呻る。
「なんか…すっごく長い夢見てたみたい」
どんな夢で?と燐の髪を指先でいじる。その髪も確かにメフィストの指に絡みついた。頭に鼻先を埋めると甘く安っぽいシャンプーの香がした。
「んーっとな…なんかそう…ジジィに会った」
「ほう」
予想外の答えにメフィストは声を上げる。燐は顔を上げて上気した頬のまま続ける。

「そんでいっぱいいっぱい褒めてくれたんだ。がんばったなって頭撫でてくれてさ、俺、すっげえうれしくてそれだけで全部報われた気がしたのに、ジジィったらヒデーんだぜ! 『でもテメーがここに来るのはまだ早い!』っていって俺のこと放り出しやがった!そんで『一番生きていたい場所に戻れ!』って」

燐は身をよじろうとするがメフィストは長い腕で燐の体を囲う。燐は、少し目を伏せて考えこんでいた。

「でもどこに行ったらいいかぜんぜんわかんなくって…。ずっと歩いてたと思う。そしたらさ、メフィストが俺のこと呼んだ気がして、」

燐、って。

「気がついたらおまえの側にいたんだ。でもなんでかわかんねーけど全然体動かなくて声も出せなくてすごく痛くて苦しくて恐くて寂しくて。 ずっと俺、動けないでいた。おまえも…雪男もすごく話しかけてくれるし、優しくしてくれてた… 雪男なんか俺の好きなケーキを、小さい頃みたいにあーんして食べさせてくれるし、しえみ達も遊びに来てくれるし、俺のことすげー心配してくれて……おまえなんか…」
「…私なんか?」
わずかに震え始めた体をさらに抱き込めば、燐はメフィストの胸に顔を埋める。

「すまないって…別にいいのにすげー謝るし。俺のことずっと見てくれて側にいてくれて…愛してるって言ってくれて。 それなのに、俺…全然恐いのが取れなくてどうしても言葉返せなくって…」

そういう言葉が全部本当に、夢、みたいで。

「でもおまえが泣きそうな顔して愛してるって言ってくれたのに俺何にも返せなくて…触りたいのに触れない……。 そんなんじゃダメだって思えたら…すげー苦しかったけど…でも、おまえ、 ずっと俺のこと抱きしめてくれてた…」

燐はそこで言葉に詰まってしまった。掠れた声が喉の奥から漏れる嗚咽にも似たものが聞こえて、メフィストはただ燐の頭を撫で、その身を強く胸に抱きこんだ。 鼻先をかすめるミルクの石鹸の香は決して幻でも夢でもない。

「…辛くて寂しくて恐かったけど……幸せな夢だった…」

「…夢なんかじゃないですよ」

静かにそう返せば、燐は、弾かれたように顔を上げる。幼さを残しつつ女性への成長を昇り始めている整った顔は、泣き出しそうに崩れかけていた。 確かに輝く青と穏やかな緑が合わさる。

「…ほんとに?」

燐はメフィストの胸に顔を埋めてしまったが、だんだんと自分の胸にしみこんでくる温かい雫にメフィストは何も言わないまま、燐を抱き込んだ。

「…本当ですとも」
「…………」
「愛してますよ」
「…やっぱり」
「おや、あなたは本当に何でもお見通しだ」
「だって言ったじゃねーか。おまえ、変なところで馬鹿正直だったから…でも…」

本当に嘘じゃない?

「全部、本物ですよ」

やがて。
部屋に響き始めた嗚咽にメフィストは耳を傾け続けた。
燐はよく笑いよく怒り寂しそうに腕に縋りまた笑い、悪魔を殺しに戦場を駆け、そうしてあの時、出て行った。 恨み言も泣き言も一度も言わずに。一度もそんなところをメフィストには見せずに。
燐の髪を撫でれば、あの時の名残なのか、 黒い髪に薄い桃色の花びらが絡まっていた。窓の外は明るい日差しが入り込んでいて、けれど、どれだけ時間が経過したかはよくわからなかった。 あの年老いた桜の木はまだ、生きているだろうか。ふとそんなことを思った。でもしぶとく生きているのではないか、とも思う。燐が泣きやんだころ、 彼女の背中を撫でながらそんなことを言ってみると燐は、
「生きてるよ。だって約束したから」
と微笑んでいた。



「なあ、俺、なんか今、すげー幸せ」
「私もですよ」



燐の左の薬指には焼けた指輪がはめてあって、緑と青の脈が確かに彼女の心臓を動かしている。















2012.4.18 完結 ありがとうございました!
結論をいうと獅郎さんGJ的な。