その男のような言葉遣いと素行から誤解されがちではあったが奥村燐はとても女の子らしい女の子だった。それは表面上のものではなく、
ふとしたとき表れる世話好きなところ、前髪の分け目に悩んだりするところ、スカーフが綺麗なリボンにできなかった日は憂鬱になるところ、
料理が好きなところ、
実は綺羅綺羅光るジュエリーも好きで塾の女の子達とあのショップの指輪がかわいいと、こっそりおしゃべりしているところや、
実は寂しがりで誰か大人の腕に縋りたくて仕方がなくていつも不安に押しつぶされそうなところとか。最後の点に至っては彼女自身決して億尾にも出さなかったが、
彼女はいつも孤独に喘いでいた。大口をあけてからから笑いスカートも短いのに大股で歩いてはしゃいでその辺りの男よりよほど人を守り肌を傷つけてきた燐は、
メフィストがあの墓の前で対面したときから、寂しさという水溜りに自ら顔を突っ込んで苦しい苦しいと悶えているようなそんな哀れな女の子だった。
そんな女の子だったので、大人の男の腕で手を伸ばせば、それをあっさり取ってしまったのだ。少なくともメフィストは、自分が燐に初めて手を出したときそのように思っていた。
メフィスト・フェレスにとって物質界とは実に都合のいいおもちゃが溢れるおもちゃ箱のようなものだった。適当にその箱に手を突っ込んで取り出したものにつまらないものなんてないぐらいで、
否、たとえつまらないものであっても自分で面白いものにいじくりまわすことも大変楽しいものだった。だからメフィストはもう随分前からこの物質界という盤上で、
人間達時には自分の兄弟に当たる悪魔をも駒にして常に進むゲームを楽しんでいた。そういう悪魔だったのである。その盤上の上の駒はメフィストの指が動かす通りに動いてくれて、
時にはどこか外れてしまうけれど決してその盤上からはみ出ることはない。そうなるようにはさせていない。メフィストはそれをすることが可能な悪魔だった。
盤上から落ちてしまったものは手の中で砕いてしまうのだから当たり前といえばそうで、しかしそれができるのもメフィストがそういう悪魔であるからだった。
自分が楽しいのならば手段は選ばない。平然と嘘をついて周りを振り回すこともその場を凌ぐことも騙すことも利用することも傷つけることも殺すことも。そういう悪魔であった。
16年前、
その盤上に青い駒が生れ落ちたときもメフィストはどうやってその駒を動かしてやろうかそればかりが毎日の楽しみだった。ところがその駒やっかいなことに、
なかなか手綱を取りにくいものだったのである。ちょっと目を離せばすぐにどこかへ消えてしまい、おや?と思って探してみるとまったく思いもしない場所から現れて予定してなかった敵側の駒を倒してしまう。
それはそれで大変面白かったのだが、盤上からこぼれ落ちてしまえば砕くしかない。けれど滅多に、いやもう二度と手に入らないだろうこの駒を簡単に砕くのも惜しい。ならば自ら手綱を握ればいい。
そして何より彼女には悪魔としての本性を目覚めさせる必要があった。
だからメフィストは燐に手を出した。己の楽しみのために、いずれ訪れる時に彼女が深淵を覗き、魔神と対抗できる悪魔へと変貌させるために。
寂しさという水溜りに自ら顔を突っ込んで苦しい苦しいと悶えているような哀れな女の子は簡単に悪魔の手を取った。広い胸に縋る震える体を抱きしめて甘い言葉を囁くだけで、
ほう、と安心したように息を吐く。その姿を可愛らしいと思いはするがずっとずっと愚かだとしか思っていなかった。
すきですよあいしてますよ。
「…俺も」
燐は自分の気持ちを認めてしまえば存外素直な子だった。メフィストの言葉に頷き不器用だが自分の気持ちも吐露しようと必死になる。大きな腕で包めば猫のように擦り寄ってきて、
そっとキスを贈れば大げさに恥ずかしがる。最初の頃、緊張して手を握るだけで騒いでいたころよりは格段の進歩であったがそれでも燐はいつまでも初々しかった。
けれど、日を重ねるごとにその華奢な胸の中に染みこんでいくメフィストの存在に、メフィストは彼女の髪に唇を寄せることで顔を隠して、ほくそ笑んでいた。
やわらかに、燐に染み込むそれは本当はただの毒であるなんて燐は思いもしていないだろう。無邪気に笑い、メフィストの腕に擦りより寂しさを紛らわしてまた同族を殺しにいく。
全て順調だった。全て思い通りだった。もともと本当の意味でメフィストの思い通りにならないものなんて盤上には存在していなかった。額にキスしてくすぐったそうに笑う顔を見る度にメフィストはシルクハットの端を引いて隠れたその目元で、
ずっと燐を嘲笑っていた。口にキスするたびに閉じられる瞼の向こうでずっと悪魔はたただの悪魔の笑みを浮かべていただけであって。ただそれだけであって。
そこの燐が本当に求めていたものなんてカケラもなかったので。
「花見ですか?」
「そうそう花見!」
燐が祓魔師になって初めの春。
まだ着慣れていない黒いコートの袖を大げさにまくって最近伸ばし始めたらしい髪は後ろで一つに束ねていた。
髪留めは控えめながらも可愛らしい桃色の花の飾りがついていて、彼女が動くたびにしゃらんと揺れる。意外と燐に似合っていた。
理事長室の立派な赤いソファにだらしなく寝そべっていたかと思えば急に起き上がってそんなことを言い出す。
「花見。三食団子作ってさ弁当も作ってさ、酒はー、俺まだ未成年だから無理だけどそういうの囲んで騒ぐのって楽しくねー?」
「ええまあ、楽しいといえば楽しいかもしれませんが」
メフィストと燐の間には暗黙のルールみたいなものがあった。明確に言葉にしたことはなかったが、抱きしめてキスをして体を重ねて。それが世にいうどういう関係であるかなんて、
燐もわかりきっているはずで、だからこそ燐は自分達のその関係を誰にも話したことがない。燐はそういう点では意外と聡い子供だった。自分の立場というものをよくわかっていたのだろう。
理解していなければメフィストの立場も危うくなるとバカなりにわかっていたに違いない。だから二人だけでどこかへ出かけたことがない。会うのはいつも雪男とシュラがいなくて監視という名目の下、
メフィストのところへ預けられるときのみで。それでも燐はその短く繰り返されるだけの逢瀬に文句をいったことはない。
贅沢だとさえ思っていたのかもしれない。そしてメフィストにとっても燐のその遠慮がちな態度は実に都合がよかった。
つまり燐がメフィストと外へ出かけたいと言ったのはこれが初めてだった。
「…無理だってわかってるけど…」
自分で言っておきながらしかしすぐに否定しようとする。伏せられたその目には確かな寂しさがあって、
メフィストはそういえばそろそろ飴を与えておかねばな、と考えた。だから、いいですよ、と返事を返すことにした。
「いいですよ」
「…え、マジで!?…でもさ、おまえ」
「桜のある公園でも適当に理由をつけて一般人は立ち入り禁止にでもすればいいでしょう?」
「いやさ…そういうことされると逆に…なんてーか…」
メフィストの色よい返事にぱっと一瞬顔を輝かせた燐だったがある意味情緒の欠けた提案に、呆れている様子だった。おや、なぜだろう喜ぶと思ったのだが。
メフィストが首をかしげると、燐は、そうじゃなくて、と再びソファに身を沈める。
「そういう…作られた感じのはいい」
思案気に告げる燐に、メフィストは内心嗤う。作られたものといえば自分達が一番そうだろうに。そして来るべきときにそれを知った彼女はどんな顔をするだろう。
「ちょっとでいいんだよ。豪華なもんじゃなくっていい。…だからさ、おまえがよければ…しょぼいかもしんねーけど、
旧男子寮の裏庭はどうかな、って思ってさ」
「旧男子寮の裏庭?そんなところに桜の木ありましたっけ?」
記憶をめぐらすが浮かんでこない。もともとつまらないことはすぐに忘れる性質だ。
「あるよ。俺も蕾つけはじめてから気付いたんだけど、年とって痩せてるのだけど一本だけ。でも…おまえとそこで立ってみたいなーなんて…」
それだけでいいんだ。
それきり燐は黙ってしまった。察するに、メフィストがOKしてくれるかどうか緊張しているのだろう。だらしなくソファにもたれるふりをして。胸中は不安でいっぱいである。
メフィストは口元を手で隠して、にたり、と嗤った。
ああ、こうして彼女は悪魔に溺れていく。やがて後ろから頭部を掴まれて水に沈められるなんて思いもせずに。
旧男子寮の裏にあるという桜の木は本当に一本だけで、しかも年老いて痩せていた。雪男とシュラのいない時間を裂いてのことだったので二人が任務に出かけている夜のこと。
真っ暗な闇の中に浮かぶ痩せた木は、お世辞にも豪華とはいえなかったけれど、浮かび上がる痩せた桜の花は何故か存在感が強かった。それ一本だけだったので痩せていても年老いていても、
ひとつだけという特別な状況のもと存在感が増しただけかもしれない。そうであっても、
「きれーだな!」
「ええ、まあ、綺麗ですね」
日本にきて随分経過しているメフィストなので花見はこれが始めてではない。有名どころのものは全部見ているぐらいだ。しかし、これはどこの場所にもなかった、むしろ偏屈気味な美しさがあるな、と
感じる。突っ立っているメフィストを置いて燐は、きゃっきゃっ、と騒いで散りゆき落ちてくる桜の花びらを手に取ろうとはじゃいでいた。本当に子供のようだった。
取れた時間がこんな夜中なので結局花見団子も弁当も用意できなかったし燐もリラックスできる部屋着のままだが、それでも満足なようだ。こんな程度で満足できてしまうのは裏を返せば常に彼女が、人間としての居場所に飢えている証拠でもある。
仲間ができても弟がいても。
メフィストは自分そっちのけではしゃぐ燐に苦笑しながら彼女に近づく。
「こういうのもたまにはいいかもしれませんね」
「だろー」
辛気臭い夜中に浮かぶ薄い桃色の花は、目の前でどんどん花びらを散らしさらに痩せていく。
まるで、燐のようだ、とメフィストは思った。咲かせられる花なんて本当は大して持ってないくせに、まだ自分は咲けるのだと、最後まで足掻こうとするその滑稽でも----
美しい姿が。
おや?
メフィストは自分の思考に疑問を抱いた。抱いた瞬間吹き荒れた風に、燐の黒い髪と桜が巻かれそれと同時にすぐにそんな思考も雲散してしまった。
花びらが舞い散る中、呑み込まれそうな深淵の中、細い足で立ち続けている燐の横顔は、いつもの幼さがないようだった。じい、っと少し上を向いて痩せた木を見上げている。
「燐?」
「え、あ、なに?」
思わず燐の肩を抱いてしまえば急な行動に燐は我に返ったようだ。それを見てメフィストは笑む。ただその顔をすぐに燐の髪に鼻先を埋めることで隠してしまった。
どうしたメフィスト、と燐はくすぐったそうにくすくす笑っている。燐の髪からはシャンプーの甘いけれどありきたりな安っぽい香がした。
桜の香よりも安っぽいけれどこの髪の香のほうがいいかもしれない、とメフィストは思う。
「なんだよー、一応花見なんだから桜見ろよ!」
身じろぐ燐はそれでも意識は未だに痩せた桜に向けられている。一緒に見たいと言ったくせに、相手を置いてけぼりにする。最初の頃の予想外に動き回る駒のままのようで、メフィストはわずかに眉をひそめた。
無論、身長差からその顔も燐からは確認できない。メフィストは、まだ予定じゃなかったが、と思いつつ懐から無造作に入れてあった小箱を燐に渡した。
「あなたへ」
「…なにこれ?」
開けていい?と聞かずにぱかっと開けられたそれの中身に、燐は、わ、と声を上げた。
箱の中身は薄い緑の小さな宝石がついた、指輪だった。
「あなた、欲しいって言っていたでしょう?」
ぽかん、と口をあけたままそれを見つめている燐は、メフィストの言葉に弾かれたように顔あげた。青い目が零れそうなほど見開かれている。
なんてことはない。以前燐が塾生の女の子達と雑貨屋によったとき、いいなあ、と思った指輪だった。でも自分には似合わないし料理だってするし刀も持つから、
ああいうのつけれないよなあ、と以前確かにメフィストの前で呟いていたのだ。メフィストは自分でも意外なことにそれを覚えていて、
先日購入していたのである。なんてことはない。メフィストのとってそれは子供のおもちゃも同然の値段だった。一見、ペリドットに見える宝石もただのイミテーションだ。
本物を与えてもよかったのだが、変に遠慮がちな燐なのであまり高価なものは受け取らないだろうと思い、そして燐にとって本物の価値なんてわからない。
何もかも紛い物なのに、
その中で、こうして、嬉しそうに紛い物の指輪を手に取るように。
「…いいの?」
「もちろん」
まだ予定ではなかったが飴を与えるのにはいい時期だったから。メフィストは悪魔の本音を隠して、頬を赤らめる燐を見下ろしている。
「…で、おお、ででも、…これってそのどこにつければ…」
動揺する燐の言いたいことはおそらくどの指にはめればいいのか、ということだろう。お好きな指に、と言えば燐は更に顔を赤くした。白い手と指輪を交互に見て、
呻いている。どの指にはめればいいのか迷うその様子は先ほどとは違いひどく幼かった。
「や、やっぱ指はいい…仕事中に壊すかもしんねーし…料理するとき汚れるし…はずいし…」
「まあ、都合のいいようでよろしいので」
指にはめて欲しいなどと、悪魔はこの時微塵も思わなかった。
結局後でチェーンにでも通して首に下げておく。と燐は手に取った指輪をしばらく眺めていた。
小さな緑色の紛い物の宝石を見つめる燐に、メフィストはまるで自分の目を見つめているみたいだ、と思った。
そして、ふわり、と今度は穏やかな夜風が吹く。地におちた花びらが舞い二人を包む。
「…ありがとう、メフィスト」
やさしく微笑む燐の目。それを見て、メフィストは彼女を抱きしめていた。いつまでたってもあまり肉付きのよくならない体は薄くて儚かった。メフィスト?と腕の中で燐がこちらを見上げる気配がしたので、
メフィストは深くハットを被って目元を隠してしまった。
それから時間が流れるのは早かった。
燐は強くなりそして美しくなっていった。けれど決して昔の彼女の気質を失うこともなかった。よく笑いよく怒り
相変わらず弟や塾の男性達にも世話を焼き世話を焼かせて、前髪の分け目に悩んだり、スカーフが綺麗なリボンにできなかった日は憂鬱になったり、
料理が好きでどんどん上達し、
綺羅綺羅光るジュエリーも好きで一気に増えた友人達と普通に買い物にでかけたり。
メフィストの隣で笑い時に怒りすねたり我がままを言ったり甘えたり、寂しいそうに寄り添ってきたり。
そういうことをたくさん繰り返してきたように思えた。けれどそれは唯一燐と外へ出かけたあの夜の花見から一年にも満たなかった。
燐は強くなった。
それこそメフィストの盤上の遊びで充分な役割を果たせるほどであった。そして彼女の中でメフィストは決して消えない黒いインクの染みのように浸透していて、
メフィストは燐と共にいて初めて心が満たされた心地になった。全てが熟され計画は順調で、最後の仕上げにあとは真っ黒に染め上げるだけとなり。
「やっぱり」
悪魔を殺すには己も悪魔にならなければ、己も同等の化け物にならなければ魔神は殺せない。メフィストはずっとそう考えていたしそれは虚無界における事実であった。
燐の中に染み込ませたやさしい毒は膨らんであとは突いて弾けさせ、燐という女を犯させればいいだけだった。メフィストはそういう悪魔であった。
平然と嘘をついて周りを振り回すこともその場を凌ぐことも騙すことも利用することも傷つけることも殺すことも。末の妹に当たりずっと紛い物だったけれどこの腕で確かに抱いた女を裏切ることも。
「やっぱり」
しかし、全てを告げられたとき燐の最初に発した言葉がそれであった。
その瞬間まで得意げに残酷に嗤っていたはずの悪魔は初めて燐の前で表情を失くしてしまった。正確にはどういう顔をすればいいのかわからなくなり、またそこまで考えることもできなかったのだ。
「…やっぱり?」
バカみたいに鸚鵡返しをする。燐は俯いていたが寂しそうに微笑んでいる。
「…だっておまえ…俺といるとき一度もちゃんと顔見せてくれたことなかったから」
あれからまた少し背が伸び、体つきも女らしくしかしどんな男よりもしなやかな屈強さを秘めていて、そんな体を隠すように燐はいつも祓魔師のコートを着ていた。
メフィストのいうままに飛び込んでいった戦場の多さを物語るようにコートは所々直せないほころびがある。
「…一度も…ちゃんと目を見てくれたことなかったから」
嘘だろうな、って。
「おまえさ…本当は自分や周りが思ってるよりずっとわかりやすい悪魔だぞ。嘘つきなのに変なとこすげーバカ正直」
「………」
燐は赤いソファに座りいつまでも床を見つめていた。メフィストも向かい合って座りながら瞬きも忘れていた。不思議なことに物音も一切聞こえなかった。
「…安心しろよ」
何に?と聞き返すこともできなかった。
「今まで強くなろうって頑張ったのもたくさん悪魔を殺してきたのも…全部あんたに気に入られるためなんかじゃない。そんな風に思ったことは一度もない。最初から雪男と仲間とジジィのためだった。
今更それを変えようなんておもねーし。俺は最後までちゃんと戦う。それはあんたの思い通りになるってことだろうから、だから安心していい」
燐はそれだけいうと倶梨伽羅を手に取っていつも任務に向かうように背を向けて理事長室の扉を開けた。
「じゃあな、メフィスト。紛い物だったのかもしれないけど…けっこー…楽しかった」
ばたん。
ようやく聞こえた世界の音は扉が閉められる音だった。
メフィストが燐を見たのはそれが最後だ。
「…姉は…あなたには全部話したと言っていたんですが…」
燐が姿を消して数日。
虚無界の魔神の気配が消えた。本当に紙切れのように燃やし尽くされたのである。メフィストは自分の悪魔の心臓が感じ取る気配でそれを悟った。何故。
メフィストにはわけがわからなかった。突然消えた燐のこともわけがわからず、姉が行方不明になったというのに嫌に落ち着いていた弟に詰め寄った。しかし、
雪男は数度瞬きをしたかと思うと、そのように言ったのだ。
聞けば燐は虚無界に行き、魔神を倒すことをもう随分前から計画してたのだという。
「…去年の…桜の咲いた時期でした。もちろん僕は反対しましたしそのことでたくさん姉と喧嘩もしました。それでも姉の…姉さんの意志は変らなくて。僕も最後は折れて。
そして姉さんは七日前に自分の血を使って虚無界の門を開いて虚無界にいってしまいました。僕はこの通り人間なので虚無界まで一緒に行ってあげられませんでしたけど
僕も一緒に戦いたかったので、ええ、はい…そうです。虚無界と物質界は変なところでリンクしているでしょう? 姉さんは最後に戦う場所をあの教会にしたいって。
僕たちの育った修道院です。ええ、ここのことです。…細かいことは誰にいってもわかってもらえないと思うので話せませんが、ここで僕は本当に姉と一緒に戦いました。ええ、本当に。
僕自身なにも傷つくことはありませんでしたけど、それは姉さんが僕を守ってくれたからです…。結果はこの通りですよ。…でも意外でしたあなたが何も知らなかったなんて。
てっきりいつものように高みの見物を決め込んでいると思っていたのに、」
最後の最後で蚊帳の外だったなんて。
ほんの少しの嫌味と皮肉を込めて雪男は言った。そしてそこに虚無界の門があったのだという修道院の床を睨んでいた。
何も知らなかった。
メフィストの隣でその腕の中でよく笑い時に怒りすねたり我がままをいったりしていた燐は、全てではなかったのである。弟とそのような諍いを起こしていたことも知らなかった。
燐は億尾にも出さなかったし言わなかったのだ。ずっとずっと本当に言いたいことを相談したいことを燐はメフィストに話すことなく、胸に秘め続けていたのだ。
そうして燐は燐のまま、悪魔に染め上がることもなく真っ直ぐな彼女のまま、全てを成し遂げたのである。深淵を覗くこともなく、悪魔に成ることなく魔神を倒したのである。それは可能なことだったのだ、
唯一燐にとっては。盤上で突然消えたと思った駒は気がついたら敵側のキングを倒していた。
そうして盤上から落ちてしまった。
自分は彼女の何を知っていたのだろう何を見ていたのだろう。
ああ、違うか。
私が見ていてあげてなかったのだ。
葬式などしなかった。雪男がそんなことをしない、といい続けたのもあったし燐の師と塾生達も含め燐は絶対に帰ってくると誰も信じて疑わなかったからだ。
燐が生きている証拠もないが死んでいる証拠もない。けれど閉じられた虚無界の門は再び現れる気配もなく時間だけが過ぎていく。
メフィストは気がつけば自分の使い魔を駆使して虚無界中、燐の行方を追っていた。時には学園を放り出して自ら探しに行くこともあった。
それでも燐は見付からなかった。倶梨伽羅も見付からず燐が虚無界にいたという証拠もない。
全て燃やし尽くされてしまったのだろうか。メフィストは何もない虚無の広がる世界でただ呆然と暗い空を見上げていた。
魔神が倒されて全てが変った。悪魔は相変わらず残党が残っているので騎士団と悪魔の戦いはこれからも続くだろうが、
それでももう魔神に物質界を取られる心配はなくなったのである。物質界は本当の意味でメフィストだけのおもちゃ箱になった。今やメフィスト以上に強い悪魔も存在せず、
メフィストは欲するままに物質界で振舞えるはずだった。悪魔を咎める悪魔の神はもういない。人の崇める神など悪魔を咎めることはもともとできない。
それなのに、最後のショーを見逃してはしまったが、全てが上手くいったはずなのに、メフィストは何にも満たされなかった。
極限まで飢えた餓鬼のように虚無界を彷徨い部下に連れ戻されて物質界に戻っても、何にも感じなくなってしまっていた。
楽しいこともない。面白いこともない。はて、物質界とはこんなにつまらない場所だったのか。何故だろう。何故。こうなってしまったのだろう。
燐がいなくなって数ヵ月後。唯一燐の残したものを見つけたのは彼女の使い魔であったクロだった。クロは何故かそれを咥えて雪男のところではなくメフィストのところへ行った。
ぼんやりと桜の咲き始めた学園の庭を見つめていたメフィストの机にそれを落とした。
それは焼け爛れて原型さえ失くした丸い輪のようなもの。
「…指輪?」
呆然とそれを見つめるメフィストにクロは、うん、と頷いた。りんがあんたにもらったっていってた りんはいつもそれをみていた、と。
メフィストはそれまですっかり忘れていた。去年の桜の咲いた頃、燐にイミテーションの宝石で飾られた指輪を渡したことを。思わず手に取ってみるとそれは最早何が飾られていたのかもわからないほど燃やし尽くされていた。
よく形だけでも残っていたものだ。弟の話によると燐は倶梨伽羅以外はすべて物質界に置いていったというので、これだけは持っていったということなのだろうか。
雪男はついぞメフィストと燐の関係を知ることはなかった。燐が最後まで話さなかったからだ。それを唯一知っていたクロだったので指輪をメフィストのところへ持ってきたのだろう。
燐はいつもこれを見ていたのだという。
もういちどりんをさがしてくる、と健気に虚無界に向かう猫叉を見送ってからメフィストはふらふらと外へ出ていて、気がつけば去年燐と花見をした旧男子寮の裏庭に来ていた。
もう来年まで持たないだろうと思っていた桜の老木は未だそこにあって、去年よりも花の数は減っていたがそれでも咲き続けていた。去年の今頃、また来年見よう来年こそ三食団子でも食べながら、なんて約束もしなかったのに。
それなのにまだ生きていたのか。メフィストは思わず老木に向かってそのように話しかけていた。当然、老木は答えない。
真っ暗な闇の中に浮かぶ痩せた木は、お世辞にも豪華とはいえなかったけれど、浮かび上がる痩せた桜の花は何故か存在感が強かった。
はずだった。しかし今のメフィストには何にも感じなかった。桜の色合いの美しさも香も、思い出すのは燐の甘ったるくてありきたりな髪の香だけで、それ以外何も感じず何も思い出せなかった。
何故去年自分はこんな痩せた木の桜を美しいなどと思ったのか。ただ燐のようだ、とは思った。咲かせられる花なんて大して持っていないのにまだ大丈夫だと、
懸命に咲き続けるその姿が。
焼け焦げた指輪は握ってしまうと本当に崩れそうだったので、手の平の上に転がす。指輪に飾られていたはずのイミテーションの宝石も、
全部燃えてしまっていた。燐はずっとこのニセモノの宝石の指輪を見ていたのだという。
『…一度も…ちゃんと目を見てくれたことなかったから』
何故、自分は燐のことを何も見ようとしなかったのだろう。
本物をあげればよかった。
ニセモノの指輪を見つめてメフィストはそう思った。紛い物なんかじゃない本物を燐にあげればよかった。そして左の薬指にはめて欲しいのだと言えばよかった。
もっと共に色んな場所へ出かければよかった。人に見られるなんてこと関係なく花見をしてまた来年の約束をすればよかった。
もっと側にいてあげればよかった。燐の秘めた本心を本当の不安に気付いていれば、こんなことにはならなかったのに。
よく笑いよく怒りずっと弟や塾の男性達にも世話を焼き世話を焼かせて、前髪の分け目に悩んだり、スカーフが綺麗なリボンにできなかった日は憂鬱になったり、
料理が好きでどんどん上達し、
綺羅綺羅光るジュエリーも好きで一気に増えた友人達と普通に買い物にでかけたり。
メフィストの隣で笑い時に怒りすねたり我がままを言ったり甘えたり、寂しいそうに寄り添ってきたり。
そういうことをたくさん繰り返してきたのに。メフィストは何一つ気付かなかったのである。
もう燐は隣にいないのか。
燐がいなくなって初めてそれに気付いた気がした。
本物をあげたかった。
自分はずっとそれを望んでいただけだったのだ。
そうして嘘つき悪魔は初めて本当の恋をした。
2012.4.8