手足の軽い凍傷、脱水症、軽い栄養失調、そして聖銀の弾の破片が右肩の骨にまで食い込んでいたためまずは手術で破片を取り除く。
燐がメフィストに救出されてからすぐに正十字病院に連れ込まれて下された診断結果がこれである。
燐自身はメフィストに抱きかかえられて「あいたかった」と伝えた直後に意識を失ったので、気がついたら肩の手術も終わっていて正十字病院の温かいベッドの中だったため、
自分の怪我の経過もさっぱりだったのだが。
悪魔にでも効果のある特殊な麻酔を打たれてもものの数時間で意識を取り戻した燐は、とにかく大変だった。
ふと、目を開ければこちらを覗き込んでいた養父と雪男に抱きつかれて散々泣かれてしまった。意外と涙もろいところのある獅郎はともかく、三歳の頃から泣き顔なんてみたことのなかった雪男まで、
泣きついてきたのには正直驚いたが、それだけ心配させてしまったということである。僕のせいだ姉さんがもうちょっとで死ぬところだったごめんねごめんね、と何故か謝る雪男を宥めるのも時間がかかったし
「死ぬなんて大げさだな、俺はもうぴんぴんしてんだぞ」と軽い気持ちで言えばこれまた獅郎に頭をぐりぐりされてしまった。馬鹿野郎、と泣かれながら。
二人の話によると燐はどうやらロシアの辺境地にあるかつて使用されていた、騎士団の中継地点の小屋に飛ばされていたらしい。
そこはかつて候補生の訓練所だったらしく、夏場しか使用はされていなかったがより本格的な訓練のため、町は数キロ離れた場所にあるものの、針葉樹林は広大であった。
しかも、訓練のために飼いならされていたはずのグールが何匹か行方不明になっていたこともあったので、燐を襲ったグールはそれの生き残りだろう、という話であった。
「もし姉さんがただの人間だったら、あんなコート一枚で、あんな極寒地で、一晩ももたなかったはずだよ!」
聞けば燐は五日間も行方不明だったというのだ。
これにはさすがに燐も驚いた。五日も経過している感覚はなかったし、五日間も飲まず食わずであんな寒いところにいておまけに聖銀が骨に残っていたので炎も出せないぐらい弱ってしまったのによくもったものだ、
と自分のことならがなんてゴキブリ並なんだと変な感心を抱くほどである。
その後、やっと二人が泣き止んでから燐が扉に落ちてしまった後何があったのかと問い、あの夫婦の夫の方は妻に撃たれて数時間前ようやく意識を取り戻したのだと、ということだった。
燐は驚いた。まさか旦那を撃つだなんて。そしてこの件に関しては獅郎も雪男も苦々しい顔をして、
「…あの女…旦那を撃ったのは自分だって認めようとしないんだ…。今まで何度か騎士団に依頼していた重要な依頼人でもあるし、
本部はもしかしたら全部姉さんのせいにするつもりかもしれなくて」
あの時の状況は、雪男も新人二名も必死に本部に訴えたのだが聞き入れてもらえないらしい。
「だが、おそらく大丈夫だ。メフィストがこの件に関して本部に呼び出されてるがあいつのことだ。おまえの不利にならないよう、こっそり…ま、裏で色々やっていただろうさ。
だからおまえは何にも心配するな」
頭を撫でられながら告げられたメフィストの状況に、燐はすぐに飛び起きてしまいたかったが、もちろん二人に止められた。そして、止められなくても体に力が入らない。
思った以上に疲労しているしまだ麻酔も残っているらしい。離して任務を勝手に入れたのは俺だしメフィストは何にも悪くない自分でなんとかする、と言っても獅郎は首を横に振るばかりだ。
「これぐらいのことはさせてやれ。おまえがいなくなってからなあ、あいつ見てらんなかったぜ、正直」
さらに話を聞けば、この五日間メフィストは本当に鬼気迫る状態であったという。唯一燐の居場所を知っているだろう裏切り者の祓魔師をありとあらゆる手で追跡し、三日目でようやく捕獲し、
どこかの密室に連れ込んだかと思えば数分後には「燐の居場所がわかりました」と告げると、部屋の中でどれだけ恐ろしいものを見たらこうなるのか、と思うほど恐怖で顔を染め一気に老けたような男だけが転がっていたという。
ちなみにその男は今でも何かに怯えているかのように身を竦ませ続け、
永遠に心の平穏を失ってしまったまま本部に突き出されそこで相応の処分を受ける予定である。
そして鍵の繋がっていた地域がわかっても男の方も小屋の場所まではわかっていなかったらしい。何せもう20年も前に使用されなくなった場所なのだ。
おまけに例年より気温も下がり吹雪も増し、小屋の場所も上手く特定できないままで捜索は難航したそうだ。だから居場所が判明してから燐が見付かるまで2日もかかったのである。
吹雪の中ではとても人間には捜索できない状態で、
それでもメフィストはひたすら燐を探し続けていた。
小屋の場所は結局特定できなくて、燐を見つけられたのは本当に偶然のようなものだったらしい。
「…そっか…」
メフィストが。と燐はあの腕の中に抱えられたときの安堵感と愛しさを思い出して、俯いた。そして今は燐のために本部に赴いている。だから目が覚めるまで側にはいられなかったのだが。
それからひとしきり養父に今回の無茶を叱られてから、もう一度抱きしめられた。養父の腕の中は力強くて熱いぐらいだった。そうして今は回復に専念しろ、と言われて五日振りの食事を口に運んでいると、
今度は燐が目を覚ましたと連絡されて駆けつけた塾の生徒達に泣きつかれた。しえみと出雲は泣くし、なんと勝呂も泣いてはいなかったが目元を真っ赤にして、
死ぬほど心配したんやぞアホんだら、とそっぽを向かれてしまったが後で志摩に、
「坊なあ、ほんまに燐ちゃん先生のこと心配しとったんよ。先生達に危険やからって止められてたのに探しにいかせえって騒いでなあ。
まあその後すぐにみんなで燐ちゃん先生のこと探すことになったんやけどね。……ほんまに無事でよかったわあ」
とこっそり耳打ちされたのが勝呂にばれて拳骨を食らっていたのだが、そこまでみんなに心配かけてしまって退院したらすぐにお詫びとしてご飯をご馳走しようと燐は誓うのだった。
面会時間が終わって、みんな名残惜しげに戻っていった後、医者に傷口を診てもらったがなんともう抜糸できる状態だという。
明日には抜糸してもう退院できそうだ、と医者は言いながらハーフとはいえ燐の驚異的な回復力に舌を巻いていた。
そうして消灯時間になり、真っ暗になった病室が恐くて、燐の部屋は個室だったため、遠慮なくサイドテーブルの上にあったランプをつけて眠った。
五日振りの安眠にぐっすり眠り込んでいた燐だが、それでも髪を撫でられる感触に目を覚ましたのは夜中であった。
ぱちぱち、と寝ぼけながら瞬きをすると、
「ああ、寝ていていいですよ」
と言われて逆にすっかり目が覚めてしまった。
「…メフィスト」
ランプのぼやけた飴色に照らされて、メフィストがベッド脇のイスに腰掛けながら燐の短い髪を撫でていた。
ランプの暗い飴色のせいでメフィストの顔には暗い影が落ちていて、
ただそれは燐を助けた時のような悪魔のものではなく、泣き出しそうでそして穏やかだった。
面会時間は終わっているのにどうして、と思ったがメフィストならばそんなの関係なく入り込むことぐらいできるだろう。
「…怪我は、もう大丈夫ですか?」
「…うん、お医者さんも明日には抜糸して退院できるって…」
「…そうですか、よかった」
髪を撫でていた手は手袋をしていなくて、素の手が今度は額を撫でる。燐の存在を確かめるようにじっくりと撫でるその感触が、燐はとても切なかった。
「…ごめん」
「…なんで謝るんですか?」
「だって…色々迷惑かけたし、今だって本部に呼ばれてたんだろ?」
いたたまれなくて布団の中に隠れてしまおうとしたが、メフィストの手でそっと止められる。
「あなたは何も心配することはないですよ。本部のことも心配しなくていい。あの女、自分の夫を撃ったことは自分できちんと認めましたし、お偉い方々の前でもそう証言しました。
あなたの処分は今回何もありませんから」
そうするために一体メフィストがどんな手を遣ったのか、燐は想像したくなかったが、なんとなく浮かんでくるのはあのグールを殺した時のまさに悪魔であったメフィストの顔だった。
「ほんとに…ごめん…出て行った上にこんなになって」
「燐」
それでもなお謝る燐の口を、メフィストはそっと指を添えて止める。
気がつけば鼻先が触れ合いそうなほど近くにメフィストの顔があって、
燐の心臓がひとつ大きく跳ねた。
「謝るのは私の方です」
そのままいつの間にか後頭部に手を回されていて、一体何故そんな風に触れてくるのか燐にはさっぱりわからなかったが、とつとつと話し始めるメフィストの言葉に耳を傾ける。
「…あなたが行方不明になってこの五日間…本当に生きた心地もしなかった。グールに殺されそうになっていたあなたを見て、私は…本当に恐ろしかった。…
たくさん後悔しましたよ」
「お、俺も、」
メフィストの言葉を遮るつもりではなかったが燐は言わずにいられなかった。
「俺もたくさん後悔した…。俺みたいな奴に父さんがいて雪男がいてメフィストがいて、今まで無事に生きてこられてそれだけで幸せだったのに、なんで自分から手放すなんて…馬鹿なことしたんだろうって。
なんでそれだけで満足しなくて、もっと、もっと欲しいなんて…」
「…燐、少し黙っていなさい」
怒っているような口調ではなかったが、それでも強い光のある緑の目に見据えられて燐は口を閉じた。
「本当に後悔したんです、どうしてあなたが屋敷を出て行ってからすぐに連れ戻さなかったのか、
どうしてあなたから目を離してしまったのか、どうして、」
瞬間メフィストは言葉に詰まった。浮き出ている喉仏が一度、こくり、と上下する。
「愛している、と伝えなかったのか、と」
メフィストの言葉を理解する前に、そ、っと燐の唇にメフィストのそれが重ねられる。
目を見開いて何をされたか何を言われたか瞬間的に理解できていなかった燐に構わず、もう一度、キスをされる。
今度は少し長く重ねられていて、ようやく燐は自分が何をされたのか何を言われたのかということが頭に入ってきたが、
体を動かせなかった。覆いかぶさるようにしているメフィストの肩にそっと手を添えたが、それが押し返そうとしてそうしたのかただ抱きしめて欲しくてそうしたのか、
自分でもわからなかった。ただメフィストは燐のその仕草をどう解釈したのか、燐の背中に腕を潜り込ませてぐっと引き寄せてきた。
隙間なく抱きしめられる。一度唇は離れたが今度は少し角度を変えて、ついばむようにキスされる。優しい穏やかなキスだったけれど、燐がここにいることを確かめるようなそれに、
胸が締め付けられるほど切なかった。そして耳に届く、唇の触れ合う音がどうしようもなく恥ずかしい。
「ま、待って」
唇がもう一度離れたときに顔を逸らしてそれから逃げたが、後頭部をしっかり抱きこまているため、あまり距離を取れなかった。
目の前にあるメフィストの顔は、熱に浮かされたようにそれでも真っ直ぐ燐を見つめている。
「お、俺、匂い…出してる?」
不安だった。どうしようもなく。あの時みたいに匂いに惑わされているからだから今、キスしてくれたのか、と。そんな不安に揺れる燐に、メフィストは一つ頷いた。
見る見る顔を青ざめさせて肩に添えていた手を突っ張って逃げようとする燐を、逆に強く抱き込める。
「ええ、少しですけど、いい香りがしますよ…」
「だ、だったら離れないと…!」
「…でも関係ないんです。私は何も見失っていない」
自分の意思で今あなたを抱きしめて、キスしたんですよ。
「…わかりますよね、どういう意味か?」
「………」
「…燐」
覗き込むように。燐の目の中に入り込むような眼差しに、きゅう、と肺が縮み上がるような痛みがあった。それがなんと名のつく感情から起因しているのか、
燐にはわからない。わからない、が。
「…もう一度、言って」
気がつけば縋るようにメフィストを抱きしめ返していた。愛してますよ。と耳元でしっかりと囁かれて、もっともっと、と思ってしまう。
それに怯える燐のことをわかっていたのか、それでいいんです、とメフィストは燐の後頭部を撫でてもう一度キスをした。
今度はすぐに離れていくそれに、
「いや、もっとキスして」
と強請れば、返事の代わりにもう一度キスをされる。
「もっと、ぎゅーってして」
ぎゅう、と強く抱きしめられる。肩の傷を気遣うような優しささえ本当はいらなくて、もっと、と言えば今度は何も気遣うことなく欲望のままに抱きしめられた。
さすがに少し肩が痛んだが、そんな痛みなんでもなかった。
「もっと、言って」
「愛してますよ」
「もっと、」
キスして抱きしめて、愛してるって言って欲しい。
際限なく溢れて零れるそれをどうしたらいいのかわからなくて、体が震えるぐらいだった。こんなのを燐は知らなかった。
溢れて零れるこの気持ちをどうしたらいいのかわからない。けれど、今はメフィストが全て受け止めて叶えてくれる。それはメフィストに助け出された時よりも、
深く深く、心が落ち着いていく感覚だった。
「…今夜はずっと一緒にいて」
「…今夜といわず、これから先もずっと一緒にいましょう」
それがどんな意味を含めた言葉だったのか、自分の中で溢れるもののせいで完全には理解仕切れていなかった燐だったが、こくこく、と何度も頷いた。
際限なく溢れて零れるそれをどうしたらいいのかわからない。こんなのを燐は知らなかった。
溢れて零れるこの気持ちをどうしたらいいのかわからない。けれど、今はメフィストが全て受け止めて叶えてくれる。それは、
深く深く、愛しいものである。
そして翌朝、そのままベッドで抱き合って眠っていた燐とメフィストを、朝一番に見舞いに来た養父が目撃してしまい、
メフィストが5階の窓から放り投げられたというのは余談である。
2012.7.22