六〇三

 

コミック収録前のSQネタバレ描写があるのでご注意。



求めるものが目の前にあっても、それは夢のように朧で掴めず。それでも求めて、その扉の向こうへいくのなら、きっと二度と戻ってはこれないのだろう。  

きっかけは小さなことであった。  

季節はようやく夏の山場を越え、けれど残暑が唸り声を上げて人々の涼への渇望をより一層引き出す。そんな油断せずに踏ん張っていなければ落ちる、下り坂のような季節の時。  
雪男と燐は、旧男子寮の六〇二号室で生活している。  
今は二人以外使用していない寮だけあってどこもかしこも古めかしく、床板などもぎしぎし怪しい音を立てる箇所が多いが、生活できないほどのものではない。ただ、エアコンは設置されていないので、夏場や冬場はそれなりにきつい思いをするが、もともと修道院に暮らしていた時からエアコンのない環境だったのである。兄である燐は時々、文句を垂れるが、本気で夏場の暑さに参っているわけでも、耐えられないわけでもない。それは弟の雪男も同じで、じんわりと背中やうなじや米神に流れる汗を自覚しながらも、熱を放つパソコンに向かう日々であった。  
そんなある日、六〇二号室の屋根の下に鳥の巣ができた。  最初に発見したのはクロで、日が沈んで夜になっても暑さの和らがない夜のことで、燐の机の上に乗りやたら窓の外を見ているなあ、と燐が思いクロの視線を追うと、屋根の下に鳥の巣が作られていることに気付いたのである。
「おい、雪男、見てみろよ、あれなんの鳥かな?」  
少しでも残暑の暑さを逃そうと開け放たれた窓から、身を乗り出して、燐は軒下の鳥の巣を指差す。生ぬるいだけで部屋の室温を下げてはくれない風を受けながら、燐の青みのある黒髪が揺れた。一心不乱にパソコンで明日の塾の準備をしていた雪男も顔を上げ、燐の指差す方向に目線だけを向ける。
「本当だね」  
確かに。燐の言う通り、軒下に鳥の巣があった。  
壁に張り付くようなそれは形状だけはツバメの巣に似ていたが、その中にいるヒナと思わしき小鳥は一羽のみ。  
まだ産毛も生え揃わず薄いピンクの肌が生々しく覗いた、痩せたヒナであった。  
卵から孵ったばかりなのだろう、そのヒナは珍しそうに身を乗り出している燐に気付くと、閉じていた目を開ける。その目は真っ黒で、窓から漏れる電灯の光を反射していて、まるでビーズのようであった。  
気のせいか、丸い目がわずかに細くなり、燐を見つめ返したような気がした。
「なんの鳥かな?」  
先ほどと同じ問いを、いかにも弟が正しい答えを出してくれることを期待した様子で、燐は雪男を振り向いた。その顔は単純に小さな生き物が目の前にいることに対しての子どものような好奇心に彩られている。
「そんなのわからないよ」  
言いながらようやくイスから腰を上げ、雪男も燐の机の側まで行ってなるべく近くでヒナを見ようとする。まだ羽も生え揃っていない裸同然のヒナの姿ではなんの鳥かまでは断定できそうになかった。巣の形からツバメのようにも見えるのだが、それだけでツバメとわかるほど雪男は鳥に関して詳しいわけではない。
ヒナはもう一人の人間に見つめられても大して動じた様子も見せず、黄色いクチバシをふあと大きく開けた。眠いらしい。そのあくび一つさえたどたどしさを見せる仕草に、燐の目が細まる。
「…懐かしいなあ、昔、修道院の軒下にも鳥が巣作ってたことあったよな」  
な?と同意を求められるように首を傾げられて、雪男はしばし記憶を探る。兄より記憶力が劣っているわけでは決してない。むしろ兄の学習に関しての記憶力の薄さには日々悩まされていることだ。意地になって思い出そうと腕を組んだところで、その思い出はすぐにぽろりと落ちてきた。
「ああ、あったね、そんなこと」
「だろー?あの時はツバメだったか?」
「うーん、どうだったかな?」  
それは双子が中学三年の時の夏休みであった。
あの時はまだ生きていた養父と燐と雪男と何人かの修道士が修道院にいて。覚醒前だった燐は何も知らず人間として生きていた時である。いつそれに気付いたのかは覚えていないが、確か最初に気付いたのは養父であったと思う。おいおまえら見てみろ、と先ほど巣を発見した時の燐のように、子どものような好奇心に満ちた目をして、双子の屋根の下に巣がある、と告げたのだ。それは修道院で使っていた双子の部屋のある軒下のことであった。  
ふわふわの羽に包まれた可愛らしいヒナは五羽もいて、つぶらな黒い目で興味津々に見上げている双子や養父を見下ろしていたものだ。  
そんなことを思い出し、自然、雪男の顔も柔らかいものになる。最近、燐の処刑命令も撤回されたばかりでようやく張りつめていた気を少し緩ませていた時だった。それでも、燐の半年後の祓魔師試験に合格しなければ処刑という命令は撤回されたわけではないので、相変わらず雪男は時々思いつめたように薄い緑と青の混ざる目を、どこかに漂わせていることがあって、そんな雪男を見ていた燐だからこそ、燐は久々に見た弟の柔らかな表情に安堵した。
「…昔みたいで懐かしいね…あの時はあの時で、色々大変だったけど」  
しかし、雪男のその言葉に燐は一瞬肺から息を吐き出すのを忘れた。  
残暑のうだるような暑さと常に纏わり憑いて離れない心臓の張りつめた感覚。それから雪男が逃れられるはずもなく、ほんの一瞬の懐古が魅せたほんの一瞬の現実からの逃避であった。  
けれど、雪男からしてみれば無意識のうちの何気ない一言だったのだが、その言葉は這い上がるように燐の頭の中を撫でていく。  
じわり、と。  
湿っぽい空気のせいで流れてくる汗が一筋背中を落ちる。
「…もう寝ようか」  
メガネを外して、雪男は燐の返事も待たずに机の電灯を切った。雪男から眠りにつくことは珍しいことで、いつもは必ず燐の方が先である。いつも以上に早いそれに、これ以上昔のことを思い出したくないのだ、と言いたげで燐は雪男には気付かれない程度に机についていた手に力を込めていた。昔と違って力加減はできるようになっているので、軋むこともしない。燐が返事を返さずにいても、雪男は特に気にする様子もなくごそごそと背後で布擦れの音を立てて、おやすみ、と一言。
「おやすみ」  
燐もそう返すと同時に、窓を閉めた。クロが名残惜しそうに目を輝かせていて、あれは捕っちゃダメだからな、と念を押すように言ってやればしゅんと垂れる耳が少し可哀想で、指先で軽く撫でてやる。ごろごろ、とクロが少し機嫌を直して喉を鳴らし始めたところで、燐も自分の机の電灯を消し、六〇二号室の電気も消した。  
周りに街灯もない、二人と一匹だけしかいない寮は、それだけで漆黒に染まる。今夜は月も出ていないようで、ことさら暗かった。そんな真っ暗な窓の外を見れば、裸のヒナは一瞬燐を見て目をまん丸にしたかと思えば、すぐに巣の中に潜り込んで姿を見せなくなった。眠ったのだろう。  
燐も、のろのろ、とベッドへ移動し暑いためタオルケットも被らずに横になる。  
隣の雪男の寝息は、聞こえてこなかった。  
いつ聞こえるのか、そんなことを気に掛けながら横になっているのはいい睡眠導入剤になったようで、燐は数分もしないうちに細い寝息を上げ始める。  

奇妙なことが起きるようになったのは、その日の夜中のことであった。  

よく眠れない。  
雪男は燐が寝付いたのを確認するとそっとベッドから抜け出す。先にベッドに入ったにも関わらず一向に眠りは訪れることなく、辟易していた。 眠れないぐらいならば勉強の時間に当てようかと思ったがどうにもそんな気分にはなれなかった。いつも熟睡している燐のことだから机の電灯をつけたぐらいで起きないことはわかっているけれど、問題は雪男自身がそうしたくはないという点である。  
窓の外の壁にはヒナがいる。  
ああいう脆弱な生物は周りの変化に鋭いから、電灯の明かりにもすぐに起きだしてしまうだろう。そして、あのビーズのような黒い目で机に座り雪男を見続けるのかもしれない。  
そんなことを想像してしまうと、とても机に向かう気にはなれなかった。  
雪男と燐が中学三年の時の夏休み、確かに双子の部屋の外壁に鳥が巣を作ったことがある。なんの鳥だったかまではよくわからなかったのだけれど、五羽の小さなヒナがぴいぴい鳴いては親鳥のエサを待ち身を寄せ合っていた。  
あの頃にはすでに、燐はケンカに明け暮れるようになり、雪男も雪男で祓魔師になって間もなくすれ違うことが多かったのではないだろうか。  
廊下を歩きながらその時のことを回想していて、雪男は軽く頭を振る。雪男にとってあの頃のことはあまり思い出したくないことの一つであった。確かにあの頃はまだ燐も覚醒していなくて、養父も生きていて。祓魔師の過酷な任務に心をすり減らしていたこともあったが、たぶん今よりは。  
いや、自分はきっとあの頃から何も変っていないのかもしれない。  
とくとく、とコップに冷たい麦茶を注ぎながらそんなことを思う。エアコンのないこの寮はどこもかしこも暑くて湿気に侵されている。いつも二人と一匹で食事を食べている場所もそうである。麦茶を飲んで眠れるなどと思ってはいないが、雪男はとりあえず喉の渇きを潤した。それから眠れるまでせめて横になっていようとコップを片付けてから、再び廊下を歩いて六〇二号室まで戻り、ドアのノブに手をかけた。  

雪男が、異変に気付いたのはその時である。  

雪男と燐が生活している部屋は六〇二。この寮には双子しか住んでいないが、当然、寮なので他にも使用していない部屋というのは多くある。むしろ六〇二号室と風呂とトイレと洗面所、厨房、食堂以外はまったく使用していないし、足を踏み入れてもいない部屋ばかりのはずであった。  
しかし、その日の夜、何故か六〇二号室の右隣の部屋六〇三号室。その扉の隙間からわずかに光が漏れているのを雪男は見たのだった。  
電気がついている?  
はて、今の今までこの部屋を使ったことがあっただろうか。簡単に記憶を巡らせるが雪男自身にはそんな覚えはとんとなく。ならば兄の燐しかいない。この部屋を使って電気を消し忘れていたのだろう。いつから電気がついていたのか、雪男が気付いたのは今だがもしかしたら数日前からついていたのかもしれない。それとも今日だろうか。何の目的で燐がこの部屋を使ったのかはわからないが、大した理由ではないだろうと思い、明日、兄に注意をしなければいけない、と雪男は考えた。  
とりあえず電気は消しておかなければ、と雪男は六〇三と表記されたドアを開ける。

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ぎい。  

幾分か錆付いた音を上げて、六〇三号室の扉が開かれた。

まず目に入ってきたのは、二段ベッドと二つの机である。  
新寮でもそうだがここ旧寮でも部屋は基本四人部屋だ。燐と雪男がいる部屋は四人部屋だったのを二人部屋に改装してあるのでベッドも二つ、机も二つしかないが、入ったこともない他の部屋は当然四人部屋の内装のままであるはずである。  
しかし、六〇三号室には二段ベッドと背中合わせになっている机が二つしかない。  
しかも、中の様子がかなり六〇二号室とは違っているだけには留まらず、雪男は数秒その部屋の中を見渡してから、ふいに思い出した。
修道院で兄と自分が使っていた部屋。  
まず初めに六〇三号室の内装と被ったのは燐と雪男が修道院にいた頃に使っていた部屋であった。
その部屋と酷似している。
いや、ほとんど同じではないだろうか。
二段ベッドに背中合わせになるように少し離れて配置してある勉強机。机の上には何もなかったが、ところどころ意図的にカッターなどで彫ったのだろう跡があった。あれは確か、兄の燐が夏休みの図工の宿題の時うっかりカッターナイフで机につけてしまった傷ではないか?二段ベッドの柱にある横に引かれた何本もの線は、自分と兄が身長を測る度に彫っていた傷ではないか?
気がつけば開かれたドアから少し身を乗り出して、中を覗き込んでいた。しかし、雪男は元来用心深い性格である。十三歳で祓魔師になったときからさらに培った慎重さと猜疑心。それが決して雪男の足を動かさない。部屋の中には入れようとはしないのである。
しばし、呆然と部屋を見渡していた。

「…雪男?」  

その時、燐に名前を呼ばれ雪男は弾かれたように背後を振り返る。しかしそこには誰も立ってはいなかった。おかしい。今確かに名前を呼ばれたはずである。兄の燐の声で。確かに。それなのに後ろに燐はおらず、廊下には誰一人として立ってはいない。
「雪男」  
もう一度、呼ばれた。  
それは六〇三号室から聞こえてきている。  
おそるおそる、今一度、六〇三号室に目を向けた。
懐かしい修道院の双子の部屋に酷似しているその空間。  
雪男の目の前に立っていたのは確かに、兄の燐であった。
明るい海のような青色の目とかち合う。透き通ったその目には、驚愕に目を見開いた自分の顔がぼんやりと映っていた。  
懐かしい修道院の双子の部屋に酷似しているその空間。
ドアを開けた雪男の目の前に立っていたのは確かに、兄の燐であった。

「兄さん…」  

いつの間に六〇三号室に、と言おうとしたが雪男は言葉を失くしてしまう。
懐かしい修道院の双子の部屋に酷似しているその空間。  
ドアを開けた雪男の目の前に立っていたのは確かに、兄の燐であった。確かに、兄の燐である。青みのある黒い髪。きょとんと雪男を見返す大きな青い瞳。まだあどけなさの残る輪郭は、何故かいつもより幼く見えた。  
しかし、短い髪から覗く耳が、通常の人間のものであったのだ。  
燐の耳は覚醒したときから鋭く尖るようになり、それは倶梨伽羅を抜いていない時でも変らない。けれど今、雪男の目の前にいる燐の耳は通常の人間のもので、丸みを帯びた柔らかそうな耳朶が電灯の光に透かされて、わずかに赤く染まっていた。
「雪男?」  

どうした? と。  

問う言葉を投げかける度に見える赤い口。その中にも覚醒した時から変わることのなかったはずの鋭い牙がなくなっている。普通の人間の八重歯であった。  

ばたん。  

扉を閉めた。直前に「人間」の姿をした燐はまた口を開いていた気がするが、雪男にはそれ以上何かを聞くことは無理であった。



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「雪男?」  
名前を呼ばれる。瞬間、勢いよく身を起こした。  
それに驚いて身をのけぞらせた燐の顔。窓か溢れる朝日に照らされているその顔の耳は尖り、雪男?と紡ぐ口には小さな牙が覗いていて。  

--------夢?

「おい、雪男どうしたんだ?」  
たった今見たはずの修道院の双子の部屋。そこにいた耳も歯も普通の人間のものだった燐の顔。しかし、今は確かに覚醒したときと変らぬ兄の姿があった。未だ夢と現実の区別が曖昧の雪男に、燐だけでなくクロもきょとんと目を丸くしている。  
雪男が寝ていた場所は間違いなく六〇二号室である。  
隣り合わせになっている二つの机も、ベッドも。間違いなくいつもの六〇二号室であった。部屋を出て扉の表記を確認してみるも間違いなかった。突然、身を起こして扉の表記を確認する雪男の奇妙な行動に燐は顔をしかめつつ、寝ぼけてるのか?と尋ねてきたので、雪男は、
「…うん、ごめん。少し寝ぼけていたみたいだ」  
と自分の口元を手で軽く撫でてから未だ怪訝そうな顔をした燐に、なんでもない、というように笑いかけた。  
夢だ。そうだ夢だ。いつベッドに戻ったか覚えていないし、そもそも本当に食堂まで行っていたのかも曖昧であったが、昨夜見たものは夢に決まっている。  
修道院の部屋で覚醒する前の燐が、六〇三号室にいたなんて。
「雪男、おまえ本当に大丈夫か?」
「…いや、本当に大丈夫」
「…暑さで熟睡できてなかったんじゃねえの?だから寝ぼけるんだよ」  
苦笑しながらも本当に弟は寝ぼけたのだろうと燐は信じたようで、ほら時間ねえし朝飯早く食うぞ、と足元にまとわりつくクロに急かされながら食堂に向かった。壁にある時計を見れば確かに時刻はいつも雪男が起床するより遅かった。遅刻するほどではないが、いつもは燐が寝坊している身であるわけなので、雪男は少し焦りながら着替えを済ました。
窓の外には朝日につられるように巣の中から顔を覗かせている、裸のヒナ。そのヒナは黒い目をぱしぱし瞬きさせていた。




「そういやあなんか懐かしい夢を見た気がしてさあ」  
燐がそのようなことを言い出したのは、朝食を済ませ、二人して少し慌てながら旧男子寮を出た時である。燐はたった今思いだしたとばかりに雪男の横を歩いていた。
「…夢」
「そうそう、なんか起きた後、懐かしいなあって思うような」  
直らない寝癖をかきながら燐はあくびをする。大きく開けられた口からはやっぱり悪魔の牙が覗いている。
「…どんな夢だったの?」  
自分の声がわずかに震えているような気がしていた。燐はそれに気付いた様子はない。
「んーなんだったかな…忘れちまった」  
数秒、考え込んだ後、燐はぼやくように答えた。  
でも懐かしいって思ったんだ、と燐は今日も今日とて残暑の厳しそうな晴れた青空を仰いでいる。







2012.8.19インテ サンプル