夜のきみ

 

以前書いた短編「夜のきみ」が元ネタ。

コミック収録前のSQネタバレ描写があります。








月明かりの美しい夜のことであった。  
初めは鏡を砕くような不器用さだった。  
荒々しい手つきと共に破られた結界から理事長室へ。ゆらり、とまるで支えがなければ折れてしまいそうな細い枝のように体を揺らして、部屋の主の前に現れたのは裸足のまま無地の黒いコートとサタンから継いだ青い炎を纏う、青白い少年。  
珍しい客がきたものだ、と部屋の主は口の端を上げて、その少年をねめつける。実に十四年ぶりに目にしたその姿は、ひどく頼りなく小さく見えた。
「メフィスト・フェレスか?」  
少年が顔を上げる。まだどこか幼さを残すも鋭角的な兆しを見せ始めている少年と青年の狭間の輪郭。生気のない青白い顔。悪友、藤本の写真で見せてもらった時はまだ日焼けをしていて健康的な顔色であったのに、あの頃の面影はない。これは五歳の時、虚無界に連れ去られてから一度も太陽の光を浴びなかったせいだろう。そのような不健康さがある。今名前を呼ばれた部屋の主、メフィスト・フェレスと大差ない顔色だ。
そして、つりあがった青い目。
その青い目は霧に覆われた湖のように、どこか不透明だがそれさえ晴れればきっと極上の深い深いしかし夏の空のように透き通った青を見せるだろうことを思わせる輝きがある。
それを見てみたい。
メフィスト・フェレスが自分の末の弟にあたるこの少年を十四年ぶりに目にして最初に感じた欲望がそれであった。  
青白い唇が、ゆるり、と開かれる。さて、あの口から飛び出す言葉が己の父サタンからの己の抹殺命令かなにかだとすれば、その言葉を吐いた瞬間に柳のようなその身をねじ切る寸法であった。もともと「サタンを倒す武器」としてユリ・エギンの腹から取り上げ、魔剣倶梨伽羅にその悪魔の心臓を封じたのである。面白いことになるのを楽しみにして。それなのに、当時の目論見とは逆方向に行く存在になったのならば、用はない。この身がなければ物質界のことを楽しむもなにもない。あの青い炎は悪魔の本体を容赦なく燃やす。虚無界にて、サタンが己の思うままに残虐に炎を駆使してきたのをメフィストは目にしているのだ。  
さて、どんな言葉を言い出すのやら。メフィストはイスに腰掛けながらもそっと手元のペット、ピンク色をした蝙蝠のような生き物の頭を撫でる。その悪魔のペットはそれで了承したとばかりに、主の手の中に納まった。
「…あんたに協力して欲しい。物質界をあのクソ野郎に渡さないためにな」  
しかし、青白い唇から放たれた言葉に、メフィストは不覚にも理解するのに数秒かかった。そして理解した数秒後には、盛大な笑い声が学園を中心とした正十字都市に響くことになる。  
理事長室の大きな窓から月明かりが零れ落ちる。淡く部屋を照らすそれに、青い炎はますます幻想的に燃え上がっているように見せた。神々しい。虚無界で見てきたサタンの炎とはまるで正反対の何かを内包しているような、美しさである。
腹を抱えて笑うメフィストを睨みつける、つりあがった青い目。
その青い目は霧に覆われた湖のように、どこか不透明だがそれさえ晴れればきっと極上の深い深いしかし夏の空のように透き通った青を見せるだろうことを思わせる輝きがある。
それを見てみたい。
その虚勢を張り虚構に満ち、本当の心は深い深い海の底に隠し、泥にまみれながらも毅然といようとする。その偽りの姿を暴いて。何もかも暴いて。己の手の中に堕としたい。
メフィスト・フェレスが自分の末の弟にあたるこの少年、奥村燐を十四年ぶりに目にして最初に感じた欲望がそれであった。



空気も風も肌も菌糸に纏わりつかれ、呼吸が苦しくなってくる。肌から菌糸に侵されるこの感覚は不快だと思うことさえできない。侵食された肌から内部へ。確実に人間を侵して殺す。周りに満ちるのは酷い悪臭である。眼前にはぶくぶく煮えたぎる胞子。それは見ている側から見る見る膨れ上がり、ぱん、と風船のように破裂したかと思えばまるで生き物の内臓のように生暖かく毒に満ちた肉片が、肌に張り付く。人々の狂ったような悲鳴。多くの人間が蟻のように群がって今まさに破裂しそうなほど膨らみきった不浄王の胞子を燃やそうと手を尽くすが、全てロウソクの炎のように頼りない。もともと祓魔師といえど人間が召喚できる炎の悪魔程度では、あの不浄王を消滅させることはできない。ウチシュマーでさえ、今の今まであれを消滅させることはできなかった。
「人間程度にどうにかできるものじゃあないさ」  
その絵図を高い宙からまさに見下ろしているメフィストは、ゆったりと柔らかなソファに身を横たえながらなんとも呑気に呟いた。その顔は、必死に足掻く眼下の人間達に向けられてはいるがミニチュアの人形達で作った虚構の演劇でも見ているかのように、冷めた目であり、遠い。その人形達の中には藤本獅郎と奥村雪男の姿も見られる。最強の聖騎士と名高い藤本さえ、不浄王の瘴気の範囲には手を焼いているようで、奔走している様が、ああやはり彼も人間だな、という諦めや落胆ではないが小さな存在としてメフィストの目に映る。ただメフィストは口の端に相変わらずの人を食ったような笑みを浮かべている。  
そんな悪魔の本当に待ち望んでいるものは、人間達の健気な努力による勝利ではない。そんなもの、ありえないし、あったとしても心を揺さぶられることはないのだ。
「我等の末の弟はどうするか…」  
嬉々としたものを含ませて、あと数時間で明け方を迎えるだろう、薄暗い夜空を見渡す。京都、金剛深山を下界とする空は、開け放たれていて霞んでいく星達の様子がよく見えた。それさえ濃い瘴気で食われそうになってはいるが。

 その穢れようとしている空に、めらり、と燃える炎の気配を感じた。  
ざわざわ、と沸き起こり、空と大地を覆いつくすように青が広がる。それは大地に張り付く胞子を包み、空に広がりつつあった瘴気を燃やす。まるで酸素を燃やすように容易く、それは広がり覆いつくす。それらに呑まれていく人間達は、初めはサタンの象徴たるその炎に狂乱し逃げ惑っていたが、人間を覆いつくす炎は人間は焼かずに、肌に張り付いた菌糸だけを浄化した。
「ほう…これは、これは」  
メフィストは思わず声を上げる。横たえていた体を起こし、身を乗り出す。  
青に燃え盛る空の中。いつの間にやら、一人の少年が佇んでいた。揺らめく炎に包まれたその横顔。目を見開きながら眼下を睨み、むき出している悪魔の牙。人間を焼かぬように、菌糸だけを焼くように一心を注いでいることは見て取れる。さすがに少し難しいのだろう。青く黒い髪から汗が流れ、それが頬を伝い顎を伝い、下界に落ちていく。無地の黒いコートに覆われたその体から際限なく炎が生まれ、地に広がり空に広がっていく。オーロラのように噴出すそれは、やはり美しい。  
ついに巨大な胞子が崩れ、中から蛾のような蚕のような丸々肥えたなんとも醜い化け物が現れた。一気に放出されるこれまでにない濃い瘴気。しかし、それらも全て青い炎に燃やし尽くされる。
それを見て、少年は白く青く輝く倶梨伽羅を一つ、振るう。
刀から溢れ出る炎の波に、成す術もなく、巨大で醜悪な悪魔は呑まれていった。一瞬であった。まるで紙が燃えるように燃え盛り、跡形もなく消し飛んでいく。
青いベールが空を、地を走る。全ての菌糸を不浄王の体を嘗めつくし、呑み込んで、浄化して。
ふう、と。全てを消滅させてからようやく呼吸を思い出したかのように、少年、燐は息を吐く。明け始めた空。青の炎に代わり、太陽の明るい光が燐の横顔を照らし出す。汗の流れるその顔を見て、メフィストは背筋にぞくぞくと欲が走るのを止められない。
「……」  
燐は言葉もなく、少し離れた場所でずっと事の次第を傍観していたメフィストを睨む。青い目の中の赤い瞳孔が怒りで燃えているようだ。  
何が起きたか、未だに理解できない人間達が身を起こし、ざわめく中。燐と似ても似つかないが確かに血を分けた兄弟である奥村雪男が上空を見上げていた。いつも掛けているメガネは戦いの最中どこかへやってしまったのだろう。視力は極端に悪いと聞いているが、青みのある緑の目は真っ直ぐ空に浮かぶ燐にだけ注がれている。そして驚愕に見開かれる。兄さん、と。悪魔の聴力だからこそ聞き取れるが、遠い遠い下界で確かに紡がれた呼びかけに、燐は顔を歪めた。切なそうにいかにも未練があって仕方ないという風に。  
そうだ、とメフィストは思う。  
そうだ、その虚構の仮面の下に隠されたそのなんとも人間臭い顔こそが。  
そして藤本も空の少年の影に気付いたところで、燐はもう耐えられなかったのだろう。背を向け目くらましのように一度、ごう、と勢いよく炎を纏うと、後にはもう燐の姿はなかった。




「いい夜ですなあ」
大きな牡丹の繊細な刺繍が施されたイスに白い服に身を包んだ悪魔がいる。悪魔が座っているのはイスではあるがそれの位置する場所が普通ではない。宙を浮いている。夏の終わりを告げる冷たさを含み始めたさらりとした夜の風に流されるわけでもなく、ふよふよ、と風船のように宙を漂っているのである。最も、それは目的なく漂っているわけでもなく、イスに腰掛けている悪魔が常にこの夜景を楽しめるような規則性を持っていた。風にふかれ白いマントの端がゆれ、悪魔は先ほどまで被っていたシルクハットを脱いでいるのでその風が直接肌と髪を撫でていく。憑依体の肌から髪から感じるそれは心地よい。肉欲の始まりに感じる欲にも似ている。その仄かな快楽に細める瞳は金を交えた緑色にぎらついていた。  
悪魔が感嘆を漏らすほど、確かにいい夜である。  
悪魔の眼下には要塞を思わせるほど、建物と建物が密集し合いしかし絶妙なバランスをもって一つの小高い峰のように形成されている町がある。町の造りはこの国、日本の昔ながらの家屋を思わせるものはあまりなく、どちらかというとドイツの古い町並みを思わせる石造りのものがほとんどだ。その要塞の中央にそびえ立つ古城のような建物。それこそが悪魔の本拠地ともいえる場所。正十字学園である。悪魔はその学園の一等高い場所で先ほどからふよふよとイスを漂わせて夜景を眺めているのである。建物の窓から漏れる光は一等高い場所から見下ろせば、はるか天に焦がれつつも昇れる力がないため下に留まり子孫を残す、一瞬の蛍の光のように見えた。目指す天は遥か遠い。悪魔にとっても遠すぎる。見上げれば、町の光に消されることもなく金色に輝く丸い満月が浮かんでいた。悪魔、メフィスト・フェレスは先ほどから下界と天界の間を浮きながら、カップ(白とピンクが混ざり合う色合いである)を片手に優雅な動作で琥珀色の紅茶を喉に落としているのである。中身がなくなれば同じく宙を浮いている繊細な花柄のポットから新しく湯気のたつそれが注がれ、白い皿に乗ったスコーンやクッキーなどといった菓子が「わたしをたべて」といわんばかりにメフィストの手元の近くでふよふよと浮いていた。
「いい夜ですねえ」  
メフィストは今一度同じ言葉を夜景の向こうに飛ばす。それを拾うものは誰もいないと思いきや、メフィストはある一点を見つめたまま、にやり、と鋭い牙を唇の端から覗かせた。
「まるであなたと出会った時の夜のようだ。そうは思いませんか?我等の小さな末の弟よ」

 ぼう。

何も存在しないはずの空中に円を描くように青い光が舞う。それは炎のようにめらりめらりと燃え上がり、人一人が潜り抜けられるほどの穴を開けた。  
その何かを切り取ったらしい円の向こう側から、一人の少年が顔を覗かせる。  
ひょっこりと現れた顔はまだその線にどこか幼さを残しつつ、青年への成長を思わせる鋭角的なものも見え始めている。色は白い。というよりどこか青白い。血色のよさを感じさせないそれは、メフィストもそのような肌色であるのだが、少年の場合は長年太陽に当たっていないため肌が光に焦がれて悲鳴を上げているように見えた。その青白い顔にある薄い唇も血の気がなく、白い。通った鼻筋に、鋭いが大きな青い目がある。その青い目は霧に覆われた湖のように、どこか不透明だがそれさえ晴れればきっと極上の深い深いしかし夏の空のように透き通った青を見せるだろうことを思わせる輝きがある。ただしメフィストもその霧の下に隠れている青の輝きを見たことはない。  
それを暴きたいと、悪魔はずうっと思っている。  
少年はゆったりとした動作で青の円を潜り抜けてきた。右手には青い炎に覆われる日本刀。黒い無地の裾の長いコートを羽織っていてその下はまだまだ成長することを思わせる、少年の体があるのだろう。こちらも見たことはないのでメフィストは知らない。こちらもいつか暴きたいと目論んでいる。

「…兄上」  

血色の悪い唇が紡ぐ音は、変声期をほぼ終えながらまだ大人の疲労を含めた声よりは若いものである。
「結界を破るのは実にお上手になりましたね」  
ぱちぱち、と紫の手袋をした手で拍手を送る。少年は無反応だった。能面のように動かない顔はいつも通りであるのだが、その下に隠す憤りをメフィストはしっかり把握している。なんだかんだで感情を隠すのがあまり上手くない弟なのだ。
「そんなところで浮いていないで紅茶とお菓子でもいかがですか? いい茶葉が手に入ったんですよ-------燐」  
ぱちん、と指を鳴らせばもう一人分のカップが出現し(これは白と青の混ざり合う色合いである)、ポットがそこに温かい茶を注ぐ。いい香りが鼻腔に流れ込んでくる。しかし、少年、燐はカップに一瞥もくれてはやらなかった。
「メフィストの兄上、今回の不浄王の件だが、どういうつもりだ…」  
ここで初めて燐の能面のようだった表情が動く。きゅっと吠え出す前の子犬のように幼いシワが鼻先に寄る。
「どういうつもりと、いいますと?」  
空惚ける悪魔に燐は、ち、っと舌打ちをした。
「もう少しで京都とやらが壊滅するところだったんだぞ。不浄王討伐に駆り出されていた…なんだったか…ああ、「祓魔塾」とやらの人間達も…奥村雪男と藤本獅郎も死ぬところだった」
「あなたが出て行かなければ確かに京都は壊滅でしたでしょうね、たくさん人間が死ぬところでした」  
メフィストの遠まわしな言い方に苛立っているのか日本刀の柄を握る手がさらに白くなる。
「…おかげで俺は雪男と獅郎に見られた」
「それの何が都合の悪いことで?」  
青い目が二、三度左右に漂い、ひたり、とメフィストを見据えてくる。
「…次期、魔神として振舞う正しく悪魔のご自分を愛しい家族に見られたのがそんなに、」
「黙れ、その減らず口を閉じろ」  
ぼう、と青い火玉が飛んでくるがメフィストは軽い動作でそれを避ける。イスから立つこともしていない。それが燐とメフィストの今の力量差を表していて、燐はもう一度舌打ちをした。
お行儀が悪いですよ、とメフィスト自身の眉間をとんとんと叩き、シワの寄りすぎです、とついでにからかう悪魔。燐は、ますますシワを濃くした。
「案じずとも、最低でもあの二人は理解していると思いますよ。あなたが京都を…あの二人も含め多くの人間を救ったのだ、と。まあ、表向きは脆弱な人間達の努力と明陀の使い魔である伽樓羅の甲斐あってというやや無理矢理な理由で不浄王討伐を成しえたということになってますがね。全てを浄化したのはあなただ、いやあお見事でしたよ!人間の体に入り込んだ菌まで浄化させるとは!また格段と炎の扱いが上手くなった!」
「…おかげでアスタロトの兄上の機嫌は最悪だがな。ペットを焼かれてしまったんだ。しばらくは俺の中傷でも漏らし続けるだろうさ。虚無界がますます陰気になる」  
苦虫を噛み潰したような顔をするが、その奥ではまだ愛しい二人に信じてもらえているのではという希望の輝きが見えた。
メフィストはそれを滑稽だとも哀れだとも思う。  
そんな一瞬の輝きを見られたことに気付いたのか、燐は、また表情を繕った。固い糸で無理矢理自分の顔を縫っていくように。

「…あんたは一体何を考えている」

 にやり、とメフィストは暗く歪んだ笑みを浮かべた。一見して無表情に見える燐だが注意していればその下に隠れる感情の波は読みやすいのである。それは若さ故か、それとも元々の「人間性」のせいか。対してメフィストはどこまでも本心を読ませない悪魔であった。いや、メフィストはある意味自分の感情を偽ったことがないのかもしれない。だが、そうだとしたらより一層恐ろしい。メフィストはどこまでもただ楽しんでいる。偽ることなくその享楽を前面に出しているほうが、よほど性質が悪いというものだ。総じて悪魔にはそういったものが多いのだが、メフィストは魔神の「兄弟」達の中で最も頭が切れるため厄介であった。
「利害一致はしているはずですよ、あなたと同じだ」  
肩をすくめる様に燐は牙をむいた。
「あんたは明らかに、俺が不浄王を燃やしに出るしかないように仕向けた。このことが父上にばれれば…何もかも水の泡だぞ!」
「そうならないように、私がちゃんと父上には目くらまししておきましたし、父上も父上で楽しいことが大好きな悪魔です。あなたが時期魔神としてふさわしくない行動に出たとしても、ゲームの余興だとしか思わないですよ。むしろ、その反抗的な行いを躾けようとすることさえ、楽しむかもしれませんねえ」

 びゅ、

 鋭い風が舞い、白く青く輝くむき出しの刀身がメフィストの太い喉に向けられていた。鋭い切っ先。それが首に走る血管にぎりぎり触れていた。
「あまり父上を見くびるな。炎(血)を継いだモノとして俺は奴を他の兄弟よりも理解しているつもりだ。あれは、紛うことなく神だ」
「……」
「聞け、メフィスト・フェレス。この先も悪魔と人間の戦いは激しさを増す。気がついた頃にはもうあんたの遊べる玩具は全てあのクソ野郎の玩具になって青い炎に覆われ、足元に転がっているのかもしれないんだぞ、その中にはあんたもいる!」
「おやおや、私の心配まで、」
「するわけがないだろう、バカが」
「……」
「あんたが死ねば、俺はこの世界を守りきれなくなる。俺も、いつ理性を失い次期魔神になるかもわからないんだ」  
すうっと美しい線を描いて刀身が喉から離れた。薄い喉の皮は少し切れて赤い血が一筋首を伝ったが、それは数秒後には塞がり消えていた。その間もずうっとメフィストは笑みを消さない。
「もし、あなたのいうくだらない理性を失い…今のような虚勢ではない本物の悪魔に成ったときはどうされます?」
「その時は、あんたが俺を殺せ」  
迷いなく告げられる言葉にメフィストの口元からようやく笑みが消えた。だがそれは一瞬で、次には引きつったような高笑いが夜空に呑みこまれていく。燐はただ氷のような表情でそれを見つめていた。
「…くく、くくくくくっ! 本当はバカなんじゃないかと十四歳の時私の元に来た挙句、物質界を守るための共謀を求めたあなたを見てから思っていましたが、今ので確信しました! あなたは本物のバカですねえ!」
「…ああそうだ。今頃気付いたか」  
ふ、っと自嘲のような笑みを浮かべて、燐は再び空中に円を描くように刀を振るう。おやもうお帰りで?と未だ腹を抱えるメフィストには頷きも返さなかった。
「…俺は、」  
少年は炎で焼かれた空間の向こう、寒くて暗い悪魔の巣窟へと還るため一歩踏み出す。
「都合のいい駒として、あんたに利用されていようと構わない。俺も所詮は、道化だ」  
すう、っと暗い底へ身をくぐらせる。
「それで守りたいものを守れるのなら、俺のことなどいくらでも差し出してやろう、メフィスト・フェレス」



「…いやあ、いい夜だ」
腕を組み、足元に広がる弱い人の光を見下ろす。その光は密集していて天へと昇ろうとする愚かな罪人のようで、その世界を守ろうという末の弟も結局この足元にいるのだろうか。それとも。夜空を見上げる。金色の月は雲に隠されることもなくそこにある。はるか遠い遠い向こうに。人にも悪魔にも届かない。
ならば悪魔であり人であり、それなのに人でありたいと未だ願い続ける燐はどこに位置しているのだろう。どこを求めているのだろう。  
ぞくり。  
先ほど吐かれた言葉を反芻して、震える背筋が止まらない。それは今まさに肉を喰らう直前のあの弾ける寸前の情欲にも似ている。似ているのだ。メフィスト・フェレスは醜く顔を歪めて嗤った。
「ああ、早くあの夜の君が私の手に堕ちてくれればいいのに」

 楽しいお遊戯はこれからだ。







2012.8.19 インテ サンプル