青陽炎

 

以前、短編で書いた「青陽炎」を本にしたものです。
燐は虚無界育ち、雪男は何も知らずに獅郎に育てられたパラレルです。



オペラ座法廷での出来事である。
磨きぬかれた大理石の床。 天井には煌びやかなシャンデリアが吊り下げられており、幾重にも重ねられた硝子で形を成しているそれは、まるで本物のダイヤモンドのような輝きを放っている。 円を描く舞台を中心として、三階にまで及ぶ見事なボックス席にはこの舞台の本来の目的であるオペラを楽しもうとして来たものなど一人もいない。 群集の中、そのほとんどは黒いコートを身に纏っていて、一部のものは白いマントのついたコートにピエロのような燕尾服など。 思い思いの格好をしているものもいるようだ。 その舞台の中でも中央に位置する三階の席には顔を布で覆い隠した三人の人間がいた。グリゴリ。正十字騎士団最高顧問である。 その三人を正面としてその右側には白いマントのコートを着た金髪の男が一人。その左側には白いピエロのような燕尾服を着て、さらに大きなシルクハットを被った珍妙な男が一人。 誰もがこの場でどこか怒気や苛立ちや不安に恐れを抱いた雰囲気と表情でありながらも、その珍妙な男だけはクマの濃い垂れた目をにんまりと細めている。
「…一体、いつ「こちら」来るんだ。そろそろ「あちら」の告げた時間になるぞ」
硬質な声を発したのは白いマントの男である。
「まあまあ、そう焦れることはありませんよ。そろそろ来るでしょう」
懐から金の懐中時計を取り出して時間を確認しているらしい珍妙な男。やたら鋭い八重歯の除く口元は消えぬ笑みだけを浮かべている。
「…なにせ、「あちら」と「こちら」の住人では少々時間の感覚といったものがずれることがありまして」
道化の男が頬杖をつきながらそう言った時である。
法廷内の空気が変わった。
どう変わったのかその感覚を正確に言い表せるものはいなかっただろうが、ただ肌に熱を感じたというのは誰しも覚えたことである。 顔を撫でる熱。それは幻のようにかすかで、春の地面から吹き出る陽炎にも似た、はっきりと掴めない何かであった。 熱いのか温かいのか冷酷なのか優しいのか。あるいはその全てなのか。ざわざわと人の肌を撫で神経を逆立て内の臓までねっとりと舐め上げられる。 それはおよそ人が与えられる感覚ではなかった。
「来た」
誰が最初にそう呟いたかは知れない。
磨きぬかれた舞台の上に、ぼこぼこ、と黒い泡が吹き出てきた。 ぼこん、ぼこん。と成人男性の頭ほどの大きさの泡、または拳ぐらいの大きさの泡。 蟲のように小さくぽこぽこと煮えたぎる泡。黒い泡が次から次へと吹き出てきては、この世のものではないかのような臭いを運ぶ。 獣の毛皮のような肉の腐ったような臭いだ。そして泡の一つ一つには顔がある。苦痛に歪む顔。 悦楽に笑い狂う顔、怒りに崩れている顔。 それらが同時に、けたけた笑っていた。 その泡の中心が、めり、っと盛り上がった。ざわざわ、と何かを取り囲むように盛り上がるそれは170センチほど伸びると、その中から、手が、 出てきた。青白く筋肉はついているがまだ若さを証明する細さがある。その腕から先に、黒い泡の中から何かが現れた。 それは少年であった。祓魔師の黒いコートとは正反対の白く飾り気のないコートを身に纏い、 耳は尖り舞台の正面を睨む瞳は青く輝き瞳孔は日に当たる猫のように細く、悪魔の尻尾も尻から生えている。間違いなく悪魔であるが、まだ成長途中を思わせるその面影は ひどく人間染みているようでしかしそれは一瞬のことだった。 少年の体から青い炎が吹き出る。 ちりちりと火の粉を飛ばし、ごうごうと少年の体を包んで燃え盛る。舞台の誰もが息を呑んだ。あるものは悲鳴まで上げて後ずさり、またある者は舞台から逃げ出したりもした。
「サタンの息子だ…」
そう呟いたのは誰だったか。それともこの舞台の誰もが思った言葉が形となって出てきたのか。その誰かの言葉に少年は尖った八重歯を見せて不敵に笑っていた。
「父上の使いとして来たものだが、誰に向かって話せばいい?こんなに人がいるなんて聞いてなかったからな」
誰を見たらいいかわからないせいなのか、舞台天井のシャンデリアに向かって少年が叫ぶように声を発した。 声変わりの少し前を思わせるまだまだ若い声だ。大きく開けた口から鋭く尖った八重歯が覗いている。ぎょろり、と青い目玉が舞台を一階から三階までねめつけて、その視線に誰もが竦みあがった。 唯一、グリゴリと白いマントの男、道化の男、以下数名のものは身じろぎ一つしなかったが、道化の男を除いて誰もが忌々しいと言いたげに少年を見下ろしている。
「こちらの三人に向かって話せばよろしいかと」
ざわめきながらも妙な沈黙の訪れた舞台の中で最初にまともな言葉を発したのは、道化の男である。少年はちらりと道化の男を見て、何か言いたげに口を開いたが、思い直したかのように閉じてしまった。 そして顔を隠したグリゴリに向き合う。顔を隠した格好であることが不思議なのか少年は不躾にも首をかしげた。白マントの男の米神がぴくりと動いたが、事前に手を出さないよう言われているのか、 腰につけた大剣の柄を握るだけに留めている。
「…不本意ながら我等が父上の伝言を伝えにきた。『物質界を寄越せ』それだけだ」
前置きも駆け引きもなしに単調直入に放たれた言葉に、今度こそ舞台の殆どのものが悲鳴を上げ、または罵倒した。白マントの青年まで上品な顔に似合わず舌打ちをし、 だからすぐに殺してしまえばよかったんです、と不穏な言葉をグリゴリに向ける。ざわめき波になる言葉の中でも少年はどこか呆れたように顔をしかめて、ちょっとまて、と片手を上げた。
「父上の考えていることは至って簡単だ。物質界が欲しい、そんだけ。でもあんた達も知っての通り父上はそれに見合う器がないと十分も物質界には留まっていられない。 そんな父上がどうしてこの時になって俺を使ってまでおまえら人間に伝言を寄越したか。それは俺が父上をこちらに通せるゲヘナゲートを造れる上に、 父上の器になりえるからだ」
「ならば今すぐここで貴様を殺せばいいだけの話だろう!」
ついに白マントの青年が荒く声を上げ、舞台から飛び降りた。その後はもう刹那の時間だ。一瞬、少年が青い目を見開いたかと思えば、大剣は少年の首に食い込む寸前であった。 ぎりぎりで押し留めたのは、まだグリゴリの許しが出ていないからである。そもそも散々協議を重ねた上で催した場だ。 それを自分の激情一つで壊すほど青年は見境がないわけではないようだ。ただその品のいい整った顔は嫌悪に歪んでいる。
「すっげー早い!全然、見えなかった!」
対して少年は拍子抜けするほど無邪気であった。しかし、青年は悪魔の感情とは両極端なところもあり無邪気でもあり邪気の塊でもあると知っているので態勢を崩すことはなかった。 何がすごいですよ彼が本気だったら首が飛んでましたってまあ首が飛んでも再生できるんですけど、とため息をついたのは道化の男だったが誰も彼の言葉は拾えていなかった。
「えっと、とりあえず落ち着いてくれよ。確かに父上がこっちに来るには俺が必要だけどまだその時じゃないんだ。 俺は器として成熟してない。でもそろそろその時期だから…そうだなあ、あと一年もないかもしれない」
一年もない。その言葉に青年の顔さえもさすがに歪んだ。少年の体から吹き出る炎が熱く、大剣まで、あつい、と悲鳴を上げ始めている。 人どころか悪魔さえ燃やす炎である。数多くいるサタンの息子達の中で唯一青い炎を引いた少年。サタンの器にさえなれる可能性のある脅威の悪魔。
「…でも、俺は物質界が好きなんだ」
炎を熱に煽られながら腕を下げない青年に向けて少年はまっすぐ青い目を返した。その時、炎の熱がぬるくなったことに青年は気付いたがそれが何を意味していたのか、 青年は考えたくはなかったし悪魔に気を使われているとも思いたくはなかった。
「あんた達の中には知ってる奴もいるだろうけど、俺は人間とサタンのハーフだ。だから俺は物質界に縁もゆかりもないわけじゃないし、正直「下」から何度も見てた。 だからそれなりに愛着はあるし…ここは滅んで欲しくない」
信じる信じないはあんた達の勝手だけど、と少年は前置きをして、少し息を吸った。
「俺の今から言う条件を飲んでくれれば…俺の願いを聞いてくれれば物質界への侵攻を延ばす。っていうか確実に延びる。上手く言えばサタンの脅威は永遠に燃え尽きる。 約束する。なんだったら、契約を交わしてもいい」
しん。
音が一瞬にしてなくなった。もともと、舞台のためのオペラ座の中はかすかな音でもよく響くように造られているが、この時、本当に何の音も打たなかったのである。 あるのはごうごうと燃え盛る炎の息吹だけ。その音だけが舞台に響いていた。それは手の平で耳を覆ったときに聞こえてくる、血管が血を流れる音にも似ていた。
「条件はただ一つ。これから俺が言う人間を見つけて欲しい。理由は問うな。問うたら契約はしない」  
少年の声変わりも終えていない高い声が響く。
「その人間はおまえら祓魔師を裏切って逃げ出した前聖騎士…藤本獅郎!」








奥村雪男は田舎に住む普通の高校生だった。 否、普通というにはかなり頭がよく身長も高くて生真面目で、誰からも褒められるような優等生だった。 ただ身よりはなく自分の両親の名前すら知らない。そんな雪男にとって、藤本獅郎という田舎町の教会に勤める神父が親代わりだった。 寄宿も兼ねているその教会の部屋を一つ使いながら、雪男は神父と数人の修道士と共に暮らしていた。十二月に入り冬の寒さも本格化してきた田舎では雪が降るのも都会に比べると早く、 たくさん積もる。その日は先週丸一日続いた豪雪の残りがようやく解け始め、十二月にしてはそれなりに温かい日であった。雪男は近くの高校に行くため、 いつもどおり神父たちと共に朝早く起き、修道士の誰かが作ったのだろう、沸騰させてしまってしょっぱい味噌汁と少し焦げてしまった卵焼きで腹を満たしていた。 「雪男、受験の方はどうだ?」 赤いメガネをして灰色の髪を持ち、今年もう五十を越えた男が雪男の養父でありこの教会の神父である藤本獅郎だ。 獅郎は、焦げた卵焼きをちょっとばっかり眉間にシワを寄せつつ口に放り込んで、茶と一緒に流し込んでいた。男所帯なので所詮料理の腕は期待できない。 雪男も料理の才は残念ながらなくて、かつ受験生なので無理はするなとやたら気遣われ最近ではほとんど料理をしていない。
「うん、大丈夫だよ、神父さんは何も心配しないで」
「…そうか」
普通の高校生ならば、実は偏差値が足りなくて、としかめ面をするかもしれないが、雪男にはそんな心配はずっと無用だった。 希望している大学への偏差値も充分だった。奨学金も取るつもりだ。今通っている高校は獅郎が学費を出してくれているが大学までお金を出させる気は雪男にはなかった。 養父は気にするなと何度も言っているけれど、医者になるにはお金がかかるのだ。 雪男の将来の夢は医者である。だから、いい医学部のある東京の大学を希望している。
「まあ、無理はするなよ。おまえは小さい頃から風邪引きやすいからなあ。あと生真面目すぎてそれが逆に心配っつーかなんつーか」
「心配性だな、神父さんは」
雪男は、ころころ笑いながら食器を片付け、カバンを持って黒いトレンチコートを着て、学校に行く支度をした。玄関まで見送ってきた養父は、おい雪男わすれもんだぞ、と 十字架、正銀のロザリオを渡してきた。
「あ、ありがとう神父さん」
そのロザリオを首から下げるのは幼い頃からの雪男の習慣であったが、どうにもそれには信仰以外の何かがある気がしている。 問い詰めたことも問い詰める気もないのだが。
「じゃあ行って来ます」
「行ってらっしゃい」
いってらっしゃい、という言葉は台所に集まっている数名の修道士も共に。毎朝、養父と彼らの声に見送られて雪男は高校に行くのである。




雪男が常にない何かを見たのは、高校へ行くための道を歩いていた時であった。
田舎の道は舗装もされてなく、さすがに高校へ行くにつれて道はアスファルトで染められているが、そこに行くまでは田んぼに沿ったあぜ道である。 稲もとっくに刈り取られ枯れた黄土色に染まる田んぼには、まだ溶けきっていない雪を乗せている。足を踏み出せば朝の寒さに凍った地面がぱりぱりと音を立てた。 溶けた雪が凍結しているのだ。転ばないように慎重に。
雪男が見たのはそんな凍った冷たい道の向こう。ふと、行く先に、陽炎のように立ち上る蒸気を見た。
おや、と雪男は首を傾げる。
陽炎というのは春に出てくるものではなかっただろうか、と。 しかし雪男より数十メートルは先に湧き出たそれはゆらゆらと空間を歪ませて、何故か、青く染まっているように見えた。気のせいだろうか。 雪男は思わずメガネを一度外して瞼をこすったが再びメガネをかけた時、青い陽炎の向こうに人影を見た気がした。
「………」
ただ人の影があったような気がしたのでそれが本当に人であったかは、わからなかった。背格好も明確ではなく。けれど、揺れる空間の向こうから雪男を見つめる、青い二つの目を見た気がした。
「…あ、」
しかし、その揺らぎは一瞬の後に消え去った。雲散していく雪のように、ちりり、と空気に溶けていった。
「…なんだったんだ、今の」
不思議に思いながらも雪男は足を速めた。腕時計を見れば急がなければ出席に間に合わないと気付いたからだ。歩調を速め、陽炎に見えただろうあたりを通過しても何も起きなかったし、もう見えなかった。 ただ通り過ぎた際に、この身を包むような温かさを感じたのは気のせいだったのだろうか。








「いた、見つけた」  
少年の白い頬が紅潮していた。日に当たるのも忘れた血の気のない頬は、生きる血潮が流れ始めている。  
少年のその様子に、道化の男は、にんまり、と嗤った。  
重厚な黒光りする素材で作られていながらも、柔らかなで滑らかな革で覆われたソファ。道化の男はそこに座り長い足を組んでいる。手元には琥珀に輝く紅茶。赤い絨毯の敷かれた部屋は、中世の海外貴族の豪邸を思わせる内装で、豪勢かつ華美な家具に彩られている。その割に男のデスクに上るのは、繊細な造りのフィギュアなど。現代の娯楽物が飾られている。どこかアンバランスな部屋。道化の男の執務室であった。
「いたんだ、周りに結界があって、あっちで見てた時よりわかりにくかったけど。元気そうだった」
「そうですか、健康に育ってそうで何より」  
うろうろと部屋を落ち着き泣く行き来する少年に、落ち着くように、と紅茶をカップに注いで手渡した。少年は冷ましもせずに一気に飲み干す。口を開けたときそこから青い炎がわずかに噴出して、じゅう、と紅茶が蒸発する音がした。
「一芝居打った甲斐がありましたねえ。練習どおり、まあまあの演技でしたよ。あれでこの先何が露呈しても、条件としてかなり有効でしょう」  
人を見下した、実際あの場に呑まれた祓魔師達を嘲笑っているのだろう、そんな笑みを浮かべながら道化の男は頬杖をつく。
「でもあんなに人がいるなんて聞いてなかった。誰に向かって話せばいいのか、わかんなかったじゃねえか」  
少年は不満も露にガラスのテーブルに盛られていたお菓子に手をつけた。ピンクの包装紙に包まれた丸いチョコレート。
「人は皆、」  
こりこり、とチョコレートを噛み砕く音。
「上やら下やらと上位関係をつけたがりますが、悪魔のそれと違って実は脆くて曖昧だ。縛られる必要など本当はないのに、自ら手首足首に鎖をつけるようなもの」
「…ふーん」  
少年は特に興味もなさそうだった。道化の男はため息をつく。
「あなたも似たようなものですね、燐」  
燐、と呼ばれた少年は顔を上げて、道化の男を睨みつける。
「もう決めたんだ、サマエル」  
道化の男はサマエルと呼ばれた。
「わかってますよ。手続きはすませてありますので、好きになさい」
「わりぃな」
「いいえ、これも物質界の平和のためですから」  
サマエルの言葉に燐は、小馬鹿にしたように牙を見せて嗤った。
「嘘つきだな、サマエルは。あんたはいつも自分が楽しめるかどうかしか考えてねえくせに」
「…悪魔なんて皆、そうですよ」
 燐が違いすぎるだけですから。








ざわざわ。
 昼休みに入り一斉に話し出す生徒の声に混じって、イスを引く歪な音。教科書をさっさと机にしまう音。その雑音の波の中で奥村雪男は静かに席を立ち、ナプキンに包んだ弁当箱を取り出した。
「あ、あの、奥村くん」  
また来たか。内心雪男はため息をついたが、決してそれは表に出さずに、なんですか? と努めて笑顔でいることにする。目の前にはもじもじとピンクの弁当箱を抱えた女子生徒。全校生徒数もそんなに多くない学校なので、見たことはあるがまったく知らない子だった。でも同じ三年生だろう。
「あの、よければ、お弁当、作ってきたんだけど」  
これもよくある光景だった。雪男は今度こそ本当にため息をついた。女子のやたら細いばかりの肩が揺れる。
「お弁当、あるからいいですよ。ありがとう。じゃあね」
「え、で、でも!朝早く起きて作ってきたのに!」
「そんな時間があったら勉強すべきですよ? …僕達受験生なんですから。時間は大切にしないと。…君のためでもあるんだよ」  
にこにこ、と。張り付いた笑顔。けれど、傍から見れば不自然には見えないだろう優等生の笑顔に発言。女子は、実は手酷く振られているというのに少しだけ気を遣わせたように思わせる言葉に、ぽ、っと白い頬を赤く染めた。  
なんだよあれ。  
感じ悪い。  
そう? あの子を気遣ったんじゃない? 本当に真面目よね奥村くんって。  
背後で割れる女子と男子の意見。雪男はそれも聞くこともなく背を向けて、教室を出た。  
雪男は、教室で昼をすませたことは一度もない。  
購買でパンを買うためかわざわざ教室を移動して、友達と弁当をつつくためか。昼休みになると廊下まで生徒が溢れて騒がしい。その中を雪男は通り抜け、時々かけられる声に対しても適当にかつ無難な返事をして、目的地の静かな場所へと向かう。
「ああ、君か」
「こんにちは、先生」  
雪男がたどり着いた場所は、保健室である。中には白髪が目立つ五十歳ほどの白衣を着た男がいた。この保健室の保険医である。むすっと真横に結ばれた口は滅多に微笑むことがなく、額に刻まれた深いシワに、鷹のように鋭い小さな目。そのような一見優しさを感じられない容姿のせいか、この保険医はあまり生徒達には好かれていない。雪男も特に好いているわけではないが、余計なことは決して詮索してこない相手なので、居心地はよかったのだ。  例え、生徒達の喧騒を避けるため、ずっとここで昼を過ごし続けていたとしても、他の教師のように「それは不健康なことだよ奥村君。君はもっと同い年の子達と関わらないと」という薄っぺらい言葉を投げかけることもない。そういう意味で、最適な場所だっただけだ。  適当に空いてるイスを引いてそこに腰かけ、弁当箱を開く。教会の修道士達が交代で作ってくれている弁当は、朝晩の食事と同じくお世辞にも美味しいと言えるものではなかったが、雪男は残さず平らげる。少し焦げてしまったハンバーグ。茹ですぎてふにゃふにゃの野菜のサラダ。
「……」  
その間、雪男と保険医は特に言葉は交わさない。  真っ白で清潔なベッドは二つ。しきりのカーテンも真っ白。ただ窓のカーテンだけは春の息吹を思わせる爽やかな若草色だった。雪男はこの三年、昼だけはここに通い続けているが、このカーテンの色は変わらない。真っ白なシーツも。  部屋に満ちるのは消毒の匂いと焦げたハンバーグの匂い。聞こえるのは保険医が書類にボールペンで何か書き込んでいる音と、雪男が弁当を食べる音。  静かだ。一歩ここを出れば逃れられない喧騒とは、まるで別空間だった。  雪男は、人と関わるのが昔から苦手だった。  正確に言えば関わることは関わるし、外面だけを繕うのは幼い頃から得意だった気がする。しかし、深いところまで他人を介入させたことはなかったし、して欲しいとも思ったことがない。中には何か勘違いした同級生の男子や女子が、雪男の心の扉(と彼らは言っていた)を開かせようと、積極的に関わってこようとしたことがあった。だが、大抵はにっこり優等生の笑みを浮かべて一つ二つ気遣いの言葉を掛ければ誤魔化すことはできたし、勘違いさせたままでいることもできた。大人に対してもそうだった。唯一、通じないのは獅郎ぐらいだろう。  賑わいは好めない、懐に他人が踏み込んでくることに嫌悪さえ抱く。  どうして自分はそんなことを思う人間なのか、雪男は何度も考えたことはあるが明確な答えを得たことはないし、原因さえ思いつかなかった。  ただ、ふと、した時に感じる。自分は他人とは何かが違うのではないかと。頭がいいだけあって理論性を重要視する雪男なので、直感などというものは、あまりあてにはしていないが、それでもこの感覚に関しては揺らぎない何かを感じていた。  雪男は、他人とは何かが違いすぎる。  けれど、それが何であるのかはわからない。考えようとするといつも掴めない靄のように雲散して、雪男の前から消えてしまうのだ。  生まれつきこうだったような気がするし、そうでもないような気がする。  ただ雪男にとって、あの教会の中以外の世界は、ピースの足りないパズルのようであり、朧気な蜃気楼のようなものだった。  ぱらり。保険医が書類をめくる音。開け放たれた窓からまだ冷たすぎる風が入り込んできているせいだった。けれど、暖房の効いているこの部屋では丁度いいぐらいだ。  弁当を食べ終わった雪男は、また何も言わずに勝手に二つあるうちの一つのベッドへ腰掛けた。しゃっと音を立てて仕切りのカーテンを引く。それは雪男を完全に外界から隔離する、真っ白な空間。弁当を食べ終わると雪男はいつもこの白い空間の中で、参考書を広げている。昼休みが終わるまで占領できる、空間。それは昔、「怖いもの」が出てくる夢を見て飛び起きた時、あまりの恐怖に布団の仕舞われている押入れに潜り込んだ時の安堵感と不安感と焦燥感に似ていた。今ではもう「怖いもの」が出てくる夢を見ることもないけれど。  特にこの保健室のベッドを使用する生徒がいるわけではない。たまに具合を悪くするか軽い怪我をした時に尋ねに来る生徒もいたが、そういう者達は保険医に簡単な処置を施されると礼も言わずにさっさと退散するばかりだった。皆、この仏頂面の保険医が苦手なのだろう。だから、この日も心置きなく参考書を読むことに集中できるはずだったのだが、  
がらり。  
扉の開く音がした。  
思わず参考書から顔を上げる。  
仕切りのカーテンの向こうで、保険医以外のもう一つの影がぼんやりと映し出された。
「ベッド、使っていい?」  
聞こえたのは声変わりが始まったばかりであろう、やや高めの男の声だった。
「ああ、構わないよ。そっちの空いている方を使ってくれ」  
空いている方とはもちろん雪男がいない方のベッドである。雪男のベッドと並んで右側に置いてあるそれ。とことこ、と人の近づく足音がして、すぐにぎしりとベッドのスプリングが軋む音がする。仕切りのカーテン越しなのでよく見えないが、右隣のベッドで確かに横になっている人の影が映っていた。
「見ない顔だね。私服だ」  
保険医の声だ。珍しく興味を持ったのか、保険医のその言葉でそうかこの隣にいる人は私服なのかと雪男は知った。
「うん、明日からテンコーってやつをするの」
「ああ転校生なのか」  
転校生? 雪男は首を傾げる。この受験間近の時期に、こんな田舎の学校に?
「具合が悪いのかい? 熱でもはかる?」  
保険医は珍しく保険医らしい発言をしている。
「熱はないと思う。ただ眠くてちょっと疲れただけ。さっきまで学校の中案内されてたんだけど、」  
答える声は無邪気で弾んでいた。
「『こっち』の空気、慣れてないから」  
ふう、と息を吐く音。
「ほう、都会にでも住んでいたのかい? 田舎の澄んだ空気はちょっと慣れないのかな?」
「うん、そんなところ」  
何が可笑しいのか、くすくす笑う声。ぎしぎし、と弾むスプリングの音。ベッドの上ではしゃいでいるのだろう。話し方といい、高校生というよりは中学生のような幼さがある。  
それから一言、二言、保険医と「転校生」は言葉を交わしていたが、やがて静かになった。「転校生」は眠ったのだろうか。カーテンの仕切り越しではベッドに横たわっているらしい人影しかわからない。  
どんな人なんだろう。
 いつの間にか雪男は「転校生」に強い興味を抱いていた。引力に引き寄せられるようだ。気がつけば参考書を読むのもすっかり忘れて、向こうと自分を隔てるカーテンを握っていた。シワが寄る。じわりと手の中に汗をかいた。
 キーン、コーン、カーン、コーン。
 は、っと我に帰る。鐘の音。昼休み終了五分前の予鈴だ。いつの間にか時間の経過を忘れていた。雪男は慌てて参考書を仕舞い、ベッドから抜け出そうとしたが、
「んじゃ、俺もう行くよ」  
先にベッドから降りたらしいのは向こうの「転校生」だった。雪男は何故か自分が出て行くタイミングを逃していた。  ぎしり、と軋む音。スリッパでも履いているのか、床をする音。「転校生」が遠ざかっていく気配。  雪男は、気がつけばそっとカーテンを引き、そのわずかな隙間から目を覗かせた。  
ぱちん。  
と弾ける音がしそうなほど、目が合った。保険医のではない。釣り上がった大きな青い目。カーテンの隙間からでは目しか確認できなかった。
(あ…)  
その青さに何故か、今朝見た青い陽炎を思い出した。  陽炎に中にあったような気がした、雪男を見つめる二つの青い目。  わずか数秒の間だっただろう。「転校生」の青い目と見つめ合っていたのは。  最初はきょとんとしていた青い目は、笑ったのか、すうっと細くなる。
「明日から、」  
かけられた言葉は雪男へだったのか、保険医へだったのか。
「よろしくな」  
振り切るように逸れた青い目は、あっという間に雪男の視界から外れていった。  
ぱたん、と扉を閉める音が、先ほどの予鈴の音よりも大きく響いた気がした。








「奥村燐です」  
雪男が「転校生」の姿を見たのはその翌日だった。  朝の出席を取る前に、教師が教室に入れた少年。  雪男は、あ、と声を上げそうになった。  日に焼けていない青白い肌に、青みのある黒髪。  そして昨日、保健室で雪男と視線の合ったあの青い目。  それを持った「転校生」は、奥村燐、と名乗っていた。  さわさわ、と内緒話のようなざわめきが起きる。生徒達の視線のいくつかは転校生だけでなく雪男にも注がれていた。  
奥村だって。  
名字同じだよな。  
身内かしら?  
勝手な推測も雪男の耳には入らなかった。黒板の前、正面に佇む転校生をじっと見つめている。対して、転校生の青い目はきょろきょろと落ちつきなく彷徨い、生徒一人ひとりの反応を楽しんでいるようにも見えた。同い年なのにそれがひどく幼く見える。  特に転校生についての詳しい説明もないまま、教師が空いている席につくように指示する。転校生はそれに従い、空いている席。雪男の左隣の席に座った。雪男はその一連の動作に目を離すこともできずにいた。  転校生が席につくと、教師が出席を取り始める。さわさわ、と浮いていたざわめきはそれだけで静かになった。その間もずっと転校生は興味深そうに教室を見渡していたが、席についた途端その青い目の先は雪男の緑の目に留まった。  に、っとやけに長い犬歯を見せて転校生は笑った。  どきり、と何故か自分の心臓が跳ねるのを雪男は感じていた。
「俺、奥村燐っていうんだ! なあ俺と友達になろうぜ!」
「…は?」    
突然の言葉に雪男は間抜けな声を上げていた。  
転校生は勢いよく手を差し出し、無理矢理雪男の手を取る。ぶんぶん、痛いぐらいの力で振られるので、呆然とした次には、かあ、っと一気に顔に熱が集まるのを感じる。他の生徒達は唖然と二人を見ていた。
「ちょっと、いきなり何を言って…離してくれ!」
「べっつにいいだろうー握手って挨拶じゃねえの?」
「そうだけど、なんでいきなり友達なんて…!」
 力強い手がぎゅっとさらに雪男の手を握る。
「雪男と友達になりてえんだ!」
 ふと。  
至極、真剣で真っ直ぐな目を向けられた。  
青くて澄んでいて宝石のよう。雪男は昨日の登校中で見かけた陽炎の中の青を思いだした。
「よろしくな、雪男!」
 そういえば、何故自己紹介もしてないのに自分の名前を知っているのだろうか。教師とクラスメイト達の視線を集め、初対面の転校生に手を握られながらも、雪男は頭の片隅で考えた。
 こうして時期はずれにやってきた転校生、奥村燐は初見からクラスメイト達に「変わり者」というレッテルを貼られることとなり。
雪男の、凍結した雪のように凍っていた何かをいきなり足で踏みつけてヒビをいれた。

氷の解け始める春の始まりのように。







2013.3.17 春コミサンプル