というわけで、当然、燐はその後の授業も欠席、雪男は雪男で授業中いきなり燐を(お姫様抱っこで)抱えて飛び出してきてしまったのだから、授業に戻るに戻れないというか
戻るつもりなどなかった。燐の看病が最優先であった、雪男にとって。塾生の何人かからお見舞いに行けるか?といった言葉ももらったが、全て断る。
メフィストによると人に感染することはないそうだが、それでも万が一、ということもあるし。とりあえず、ただの風邪だけどみんなにうつるといけないので、
と言い訳しておいた。そして雪男はメフィストから一週間の有休を半ば無理矢理もぎとった。メフィストが早い段階でこの悪魔インフルエンザのことを燐に
忠告していれば、何らかの感染予防対策ぐらいできたのだ。それを放棄したメフィストが悪い。よって兄の看病のために休みをもらうのは当然だ。というのが雪男の主張であった。
間違っていないかもしれないが、強引ではある。しかし、雪男は都合よくその多少の強引さを自覚するのはやめておいた。
ぐったりした燐を抱えて寮に戻り、とりあえずベッドに寝かせる。二人が急に帰ってきてしかも燐が頭から湯気でもふきそうなぐらいの病気を抱えてきたもので、
留守番をしていたクロが足元で燐の側で何やら、にゃあにゃあ、と鳴いていた。雪男にはクロの言葉はわからないが、燐は辛そうに目を細めつつも、
へら、っと笑ってクロの首元を指で撫でてやっていた。やはり燐のことを心配してくれているのだろう。そしてクロは平気な様子だったので、おそらく、
この悪魔のインフルエンザは猫叉には移らないようだった。
「兄さん、気分はどう?」
「さいあくだ…」
かろうじてそれだけ答えると、燐は深く息を吐いた。…その吐息さえぶっちゃけお湯の沸いたヤカンが上げる蒸気のように熱かったりしたのだが。
「ゆきお…とりあえず、きがえ…あせ、すごくてきもちわりーんだ…」
ぜいぜい、と息を吐きながらの訴えに、不覚にも雪男は少しばっかり、どき、っとしてしまった。主に、着替えというワードに。いやいや、
何をときめいているというのだ、雪男よしっかりしろ、兄はただ単に汗をかいてキモチワルイから着替えたいといっているだけではないか、
と自分を叱咤する。とりあえず、燐の使っているタンスからてきとうに服を取り出して、ついでにお湯で絞ったタオルも用意した。
しかし、燐はとても独りで着替えができるようには見えなかったので、雪男が燐を着替えさせることになった。
燐はそれについて抵抗する気力もなかったらしく、
「兄さん、着替えさせるけど、いい?」
と律儀に聞いてくる雪男に、
「おお…も、すきにしてくれ…」
となんだか怪しい感じの台詞で言い返してくるもんだから、雪男は、内心、え兄さん本当に好きにしていいのかい?と血迷ったことを考えてしまったが、
ぱん!と自分の頬を軽く叩いてその煩悩を追い出した。だから何を考えているのだ雪男よ、しっかしろ、兄は別に僕のことを誘ってるとかそんなのでは
全然なくてだな…。とひたすら自分に言い聞かせて燐の汗だくの服を脱がせて体を拭いてやる。しかしこれがかなりの拷問にさえ近い試練であった。
熱のせいでうっすらと赤くなった燐の体は触るととても熱くて、ぜいぜい、と苦しそうに息を吐いている。
その体にタオルをはしらせて、流れてくる汗を拭いてやっているのだから。
…ああ神様、あなたは雪男の何を試しているんですか、
そりゃあ確かに実の兄に対して邪な想いを抱いて、実はまだその気持ちを告白もしていない僕ですが、これはあんまりだ、僕だって15歳の男子です。
ぐるぐる葛藤する雪男の気持ちなど露ほども知らず、燐は最早着替えもなされるがままであった。体の汗をすっかり拭われて、渇いたシャツにまで着替えさせられると、
ようやく少しばっかり気分がマシになったらしい。安心したように、ふ、と息をはく。…その吐息が偶然なのだが雪男の耳にかかってしまったので、
雪男が内心、のたうちまわりたい気分であったことを燐は気付きもしなかったが。
「ゆきお、すまん」
「いいよ、もうしばらく寝てなって」
名残惜しいがこれ以上触っていたら自分の中の(煩悩という名の)悪魔が出てくるとも限らないような危機感を抱いた雪男は、そっと、燐をベッドに寝かせた。
すっかり安心したようにベッドに身を沈める燐を見て、
とりあえず、これから燐が治るまで看病をしなければならない。という現状を実感した。そして雪男は、
そういえば僕はこれまで病気になった人の看病というのをしたことがない。
と思い当たる。いや、正確には医工騎士の資格を持っているので現場で負傷した仲間の手当てなどもしてきたし、何より自分の将来の夢は医者なので人の看病もできなくてどうするとも思うのだが、
医者といのも医工騎士というのも治療まではもちろんするが、その後の看病につていはそれほど長くは関わらないことが多いし、
何より燐は別に魔障を受けたわけでもない。しかも悪魔独特のインフルエンザなので人のそれにするような薬やワクチンがあるわけもなかったし、
人用の普通の風邪薬や解熱剤が効きもしないだろうことは明白であった。薬もワクチンもない。ならば医者のできることなんて何もないようなものである。
治療と看病は別問題だ。しかし雪男はなんとなく不安に思うところは、人の看病をしたことがない、ということではなくて、正確には「兄の看病をしたことがない」
という点である。怪我の手当ては数え切れないぐらいしてきたが、看病となると一度だってなかった。燐は昔から風邪など引いたこともなかった。
つまり、これほどまで弱々しくなって着替えもろくにできないほど、ぐったりしている兄を見ることさえ弟は初めてなのであった。いつも馬鹿みたいに元気でぶっちゃけその元気さと料理の腕だけが取り得のような兄が。
今は自分で着替えもできない。顔は相変わらず赤いんだか青いんだかよくわからない複雑な色をしているし、
苦しそうに、ぜぇぜぇ、と息を吐いている。
雪男はその瞬間、ものすごい不安感に襲われたが、僕が兄を守ってあげないと、と改まった気持ちにもなった。
そうだ、僕が兄を守るんだ、随分、小さい頃からそう誓ったじゃないか、ならば悪魔の病気ぐらい看病できなくてどうする。
「兄さん、安心して今はゆっくり休んでいてね!大丈夫、僕が兄さんを守るから!」
がしい、とどさくさに紛れて燐の手を握る。その手も熱すぎて思わず「あっつ!」と叫んで離してしまったわけだが。
「お、おう…?」
なんかよくわからないが、看病に対して妙に気合を入れる弟に兄はとりあえず頷いておいた。
とりあえず、看病のために必要なものをそろえないといけない。雪男はその優秀な頭をフルに回転させて、考える。
まず、水分を得るための飲み物は絶対必要である。さっき冷蔵庫を確認してみたのだが、ミネラルウォーターはあるけれど、
あれよりスポーツドリンクの方がいいだろう。でもとりあえずミネラルウォーターだけもで先に与えておいて。
よし、ではまずはそれだ。そして冷えピタとか少しでも冷やせるもの…いやダメだ、冷えピタレベルではたぶん燐の馬鹿みたない高熱で溶けるか焼けるかしてしまう。
ならば氷それしかない。しかし、冷蔵庫で作ってあった氷だけで果たして足りるのであろうか。いやたぶん足りない。ならば氷も買ってきたほうがいいだろう。
幸い、今は夏も近いので氷も手に入りやすいだろうし、いっそ氷屋で氷の塊を買ってきたほうがいいかもしれない。薬は人間用の市販物や抗インフルエンザ薬では絶対に効果はないだろうし、
メフィストも言っていたが具体的に熱を下げる方法もないので、高い熱は耐えてもらうしかない(ああかわいそうな兄さん…)。あとは何がいる?考えろ雪男。
あ…そうだ、食事。
食事をどうにかせねばならない。というとこまで考えて、雪男は、思わず、え?と声を上げた。
この場合、僕が料理をしなければいけいない、ということだろうか。
いや、もちろんそういうことだろう。今の燐は自分で着替えもできないので、料理などできる状態であるわけがないし、そんな無理を雪男は許せない。
ということは、雪男が燐のために食事を作る、ということだ。しかも、病人のための食事を。
…果たして僕にそれができるのだろうか…。
今まで朝昼晩の食事はずっと燐が作っていてくれた。それは修道院時代の時もあまり変わりがなく、みんなに食事を作ることを燐は楽しんでいたので、
小さい頃から雪男に料理を作る機会というものがなかったのである。寮生活になったときからも、雪男は教師に祓魔師の任務にと、あまり燐と時間が合わないことが多かったので、
寮に帰ればすでに食事が出来上がってる場合がほとんどであり、これがまた燐は新妻のように仕事帰りの自分を待ってくれていて「雪男、先に風呂、飯?どっちにするんだ?」
とまさに新妻なことをいつも尋ねてきてくれて、何度「先に兄さんが欲しい」という手垢つけすぎのべったべたな台詞が出掛かっては呑みこんだことか、って
何を余計なことを考えている雪男よ。そうではない、思考を戻そう。
つまり僕は、料理についてはさっぱりということだ。
うわあ、どうしよう…。という言葉はかろうじて呑み込む。いや、落ち着け雪男よ。病気の人のためのご飯は、ほらあれだ、お粥、お粥が定番ではないか。
売店でもお粥のインスタントは売っているけれど、苦しむ兄への料理がインスタントのお粥だなんて…どこまでも完璧主義の雪男はそれも許せない。
第一、兄の燐はいつもいつも毎日毎日、自分の食事にインスタントはおろか冷凍食品だって使ったことはないのだ。一品一品、すべてが手作り。
ああ、そういえば、昔はよく風邪を引いていた僕のために、兄は、卵粥、時にはミルク粥などを作ってくれた、あれ、すごいおしかったなあ。
ならば自分も手作りにしてあげるのが当たり前だ。
と雪男は少々ずれた真面目さを発揮していた。
お粥ならば米を水で炊いて、やわらかくして、卵とか入れてみればいいだけなんじゃないかな。うん、よし、できると思う、僕でも。
雪男は微妙に拳を握って、よしやってみせるぞ、と気合を入れた。ならばまずは買い物に行かなければならない。ちらっとベッドに横たわる燐を見る。
燐はぐるぐる目を回しながら、あー、とか、うー、とか謎のうめき声を上げていた。
待っていてくれ兄さん、この僕が少しでも兄さんが楽できるようにがんばってみせる。
雪男は再び気合を入れなおすと、とりあえず、燐にミネラルウォーターを与えて、冷蔵庫に作ってあった氷を袋に入れて額に当てておいた(ものの数秒で溶けてしまったけれど…)。
そして燐の枕元で、心配そうに見つめているクロに「僕が買い物に帰ってくるまで兄を頼むよ!」と言い聞かす。「にゃーん!」という返事が返ってきた。雪男にはクロの言葉はさっぱりだが、
その力強い鳴き方から「まかせろ!」と言っているのだろう、と雪男は予測する。
「兄さん、ちょっと今から必要なもの買ってくるけど…待っててね、兄さん。僕が兄さんの病気が治るまでずっと側にいるから、離れないよ、絶対。兄さんを独りにはしないから」
「お、おう…わるいな、ゆきお」
なんというか、メフィストがこの場面を見れば、コールタールのインフルエンザで何を大げさな…と呆れていたかもしれないが、燐は燐で朦朧としていて雪男が、
まるでどこぞのドラマで不治の病にかかった恋人を見守る男のように熱っぽすぎる視線を送っていることに気付いていない。…通常の状態であっても鈍い燐は気付かないかもしれないが。
そして雪男はとりあえず、買出しに出かけた。優秀なその頭の中で、聞きかじり程度でしかないお粥のレシピをぐるぐる繰り返しながら。その考えながら眉間にシワをよせて
売店に向かう姿は、傍から見れば、まるでこれから悪魔退治の前線にでも出るような、鬼気迫るものに見えたとかどうとか。
2011.7.18