かぜっぴきあくま

 

燐の様子がおかしい。
ということに雪男が気付いたのは祓魔塾、2限目、自分が担当している悪魔薬学での授業中のことだった。最初はまた居眠りしているのかと 思ったのだ。微妙に机に突っ伏すような形で、項垂れている兄の燐。隣のしえみは、また寝ちゃってる、と少し微笑ましそうに見守っていて 、後ろの席の京都三人組は呆れた様子、勝呂などは米神に青筋を立てていた。塾の始まって最初の頃は、勉強することが根本的に向いていない 燐なので居眠りもそりゃあ多かったものだが、勝呂とのケンカを通して、これでも以前よりはマシになったほうだったのである。そう、以前 よりは、なので今だにたまーに居眠りはあったりしたのだが。
「奥村くん」
わざと怖いぐらいの爽やかな笑顔で、項垂れている兄を呼ぶも…返事がなかった。完全に眠りの世界に足をつっこんでいるらしく、 僕の授業で居眠りとはいい根性だ、と雪男も勝呂のように米神に青筋が立ちそうな気分であった。
「奥村、くん」
最後通告。といわんばかりに、強めの口調で再度呼んでみる。これで起きなかったら手に持っている分厚い辞書で、頭を叩いてやるぐらいしてたかもしれないが、 そうなる寸前、燐は、ゆっくりと顔を上げた。
雪男がそこで、おや?と思ったのは、その燐の顔が心なしか青ざめているような、赤いような、とにかくよくわからない複雑な顔色をしていたからである。 しかも目がかなり、ぼんやり、としていて焦点が合っていない。 隣のしえみも気付いたのか、
「燐?…だ、だいじょうぶ?」
と声をかけ、肩をゆすろうとした瞬間、燐は、がたん!とイスから転がり落ちて、そのまま、床に、ばったん!と倒れてしまったわけである。



「フェレス卿!!」
と雪男が珍しくノックもなにもせずに(何故なら片腕に燐を抱えていたので)、理事長室になだれ込んできたのは、燐が教室で倒れてしまってから数分後のことであった。
急に燐が倒れてしまったから、一体なにが!?と騒ぐ塾生達を置いて、とりあえず燐を抱えて保健室にまずいってみた雪男が「僕の兄さんが!!兄さんしっかり 気をもって、死なないでくれえええ!!」となんとか声には出さずとも内心めちゃくちゃ焦っていたのは内緒である。 普段、祓魔師として鍛えているためか双子の兄を抱えることぐらい雪男には実はそれほど苦でもなく、 何故か、横抱き…所謂お姫様抱っこで兄を抱えて猛然と保健室まで走っていた雪男の姿は、後ほどしばらく学校内でアヤシイ噂を立てられることになるのだが、それは余談なのでさておき。 まず、雪男は燐を保健室まで連れ込んで、そこで自分で診られるだけ診てやったのである。ベッドに寝かせても、燐は、顔を真っ赤にしたまま、うーうー、 とうなされるばかりであった。いよいよおかしい。とりあえず、触診のつもりで額に手をやってみたら、これが馬鹿みたいに熱かった。あんまり熱いので雪男は「あっつ!」 と思わず手を放して自分の耳朶掴んでしまったぐらいである。慌てて最新体温計で熱を測ってみるも…これがあまりの熱の高さに機械が狂って、終いには、ぼん! と振り切って壊れてしまったのであった。これはもう異常事態以外のナニモノでもない。熱の高さにうなされる兄は、馬鹿みたいに熱が高いというのに、さむいさむい、 と悪寒を感じているらしく、青ざめたり赤くなったりだらだら汗を流したり。熱の異常な高さを除けば、人でいう風邪の症状に近いように見えたが、そうえいば、 兄の燐は少なくとも雪男が物心つくころから一度だって風邪など引いたことはなかったのである。それが燐が悪魔であるせいだとは思うけれど、 そうであれば、なおさら風邪を引くなどおかしいではないか。これはもしや、悪魔独特の病気か何かか。
もう雪男はめちゃくちゃ焦った。
そのまま燐を保健室に放置するのも危険な気がして、燐を脇に抱えて次に飛び込んだのは、燐と同じく悪魔の身の上であるメフィスト・フェレスの部屋である。 フェレス卿!と常の冷静さはどこへやら、蹴破るような勢いで扉を開いて、中に入ってみれば、そこで雪男は実に珍妙な格好をしたメフィストを目撃した。
「フェレス卿!兄が、兄が…!なんかよくわからないんですけど、とにかくものすごい熱を出して!ってフェレス卿、その格好なんですか!?」
いつも理事長室の立派なデスクに肘をついてあの奇妙なピエロのような白い服を着ているはずのメフィストなのだが、今日は、違っていた。 悠然と肘をついているところは変わらないのだが、まず、どこからその格好について説明すればいいのだろうか。
とりあえず、メフィストは、以前、不浄王の目玉の発する瘴気に包まれたビルを捜索するときの任務で雪男達が着ていたような、隙のないつなぎの 全身スーツとマスクに似たもの…いや、あれよりももっと厳重であった。いっそ、宇宙飛行士のそれに近いようで、全身分厚いスーツを着て、なんだこれから 火星へでも行くんですか?というような分厚い顔面マスクをしていて、シュコーシュコー、と呼吸音がいやに響いていた。 しかもこれがメフィストの趣味にでも合わせたのかスーツがピンク色という強烈さである。目に痛い。色んな意味で。 その怪しい風船みたいなスーツの中身がメフィストであると雪男がわかったのは、おそらく銃で撃っても弾き返すであろうほどの強化硝子でも使ってそうなゴーグルの奥に、 あの眠そうなタレ目が確認できたからである。
「どうかしました、奥村先生?」
という声も分厚いマスクを通しているせいで、こもっている。
いやおまえの方こそどうした?これから腐海の深部にでも行くんですか?と雪男は一瞬意識を飛ばしかけたが、それどころではない、腕の中の兄はぐったりしていて、 きもちわりー、と弱々しく訴えている。それを見て、メフィストはもう状況を把握したらしく、
「おや、やっぱり奥村君、罹ってしまったようですね?」
とすでに訳知り顔で言ったのだ。
「か、罹ったって何にですか!?やはりこれは悪魔独特の病気か何か…!?」
「んーまあそうですね、悪魔独特といえばそういうものです」
今度は雪男が顔を青ざめさせた。燐が、悪魔独特の病気。祓魔師として悪魔につては散々習ってきたつもりの雪男だが、悪魔が罹る病気など聞いたこともなかったのだ。 そもそも、悪魔というのは病気になるものなのだろうか、初耳だそんなの。知らないということが余計に雪男の不安を煽る。
「あ、兄は…兄はどうなってしまうんですか…!まさかこれって不治の病とか…兄は助かるんですか…死なないですよね…!」
ぎゅう、と腕の中の兄を抱きしめる。ぐえ、っと燐が呻くも、雪男は若干冷静さを失っていたので、気付かない。
「とりあえず、奥村先生落ち着いて。まず腕を離してあげてください。それではお兄さん窒息死してしまいますよ。まあ…病気といえばそうなんですが… 安心してください。人間でいうところのインフルエンザみたいなものですから」
インフルエンザ?いや、インフルエンザだって充分、危険なことになりえる病気ではあるのだが、とりあえず、もっと恐ろしい病名とか不治の病であと三ヶ月の命とか というふうには告げられなかったので、雪男は、少しだけ肩の力が抜け、同時に、ゆきおくるしい…、と兄が訴えていたので慌てて腕の力を緩めた。
「に、兄さん!?意識は戻ったの?っていうか大丈夫、兄さん、目の焦点合ってないんだけど!しっかりして兄さん!!」
「ゆ、ゆきお…とりあえずみみもとでさけばないでくれ…み、みみなりもさっきからひでーんだ…」
とへろへろな状態の燐をみて、ああ兄さんかわいそうに!と抱きしめたかったが、一応、理事長の目の前のわけだし、なんとか思いとどまる。
「えーっと…奥村先生?落ち着いてくださいね。とりあえず、その病気なんですが、」
とメフィストが説明するのはこうである。

「その病気はですね、人でいうところの流行性のインフルエンザと似てまして。固体によっては感染しないものもいますが、今、悪魔の間で大流行してるんですよ。 インフルエンザウイルスに憑依するコールタールのちょっとした突然変異みたいなのが原因でして。何年かの周期で物質界でも大流行するのと同じくね、虚無界でも大流行することがあるんですよ。 まあその周期は200年に一回あるかないかぐらいではあるんですけど、それが今年だったみたいなんです。先生気付きませんでしたか? 周りのいる悪魔のほとんどがその風邪のでせいで弱々しくなってしまっていることに」
言われてみれば最近の悪魔の様子はどうだった?と思い返してみれば、実際、ここ2、3日の間に雪男が出向いた任務で祓魔対象だった悪魔も、 やけにふらふらよろよろしていて中級だったにも関わらず、やたら倒すのが楽だったではないか。さらにやけに弱々しく空中をさまようコールタールとかよろよろしながら 壁にぶつかっていたゴブリンなどを見たような気がしなくもない。はっ!そうえいばテイマーの祓魔師の何人かがここ最近、呼び出す悪魔がことごとく弱っているのばかりだ、と 愚痴っていたような気が…と雪男は思い出していた。
「で、私はいち早くそろそろ流行する時期だろうな、と思いまして、こうしてスーツに身を包んで完全予防対策をしていたわけなので、いまのところその病気には 感染してはいませんが…いやあ、奥村君にも気をつけるようにと言うつもりだったんですが、遅かったようですね」
ちなみにアマイモンもこの悪魔インフルエンザに感染してしまい、今は療養のために実家に帰っていた。
「何でもっと早くに話してくれなかったんですか!?」
今、燐を抱えていなくて両腕が使えていたら間違いなく、理事長といえどその胸倉つかんでいたところである。つまりは、その200年に一度という周期で 流行する悪魔インフルエンザに燐は見事感染してしまったというわけだ。ならば、物質界では特に風邪の流行るような時期でもないし、一体どこから もらってきたのかその感染ルートが学園の生徒内ではなさそうだったのも納得がいく。もっと早くに知っていればたとえ兄が嫌がろうと、あの 宇宙飛行士のようなスーツを着せていたところだが、罹ってしまったものはもう仕方がない。
「…とりあえず…その悪魔のインフルエンザの症状と適確な療養法とかワクチンがあれば…」
「あ、ワクチンとかはないですよ。悪魔に医者など不要ですからね、こうして200年に一度といえど風邪が流行するわけですが、それで死んでしまうような ことは一切ありませんから。悪魔ですし、所詮、病で死ぬようなことはありません」
それで雪男は少し安心するも、症状が出て苦しむのに変わりはない。
「ならばどんな症状が出るのかだけでも」
「突発的な高熱と、あーあと、悪寒、全身倦怠感、頭痛、吐き気、目眩、筋肉痛、鼻汁、鼻閉、咳、痰、腹痛、嘔吐、下痢、といった気道炎症状と消化器炎症状 がありますね。あと高熱のせいで幻聴、幻覚も…。ほとんど人のインフルエンザと同じではありますが、まあ、悪魔が弱るほどのものなんで、症状の重さは人と比べて約50倍はあると思います」
「そんなので本当に死なないんですか!?」
「悪魔ですから。人でいうところの死の定義の中にはいませんよ」
「もっともらしく言ってますが…。要するに死にはしないけど、死んだほうがましかもしれないぐらいめちゃくちゃ苦しむってことですよね…!?」
「そのあたりはご覚悟を。だから私も徹底的に予防してるわけじゃないですか」
メフィストは肩をすくめてみせる。
「個体差もあるんですが治るまで大体、一週間ぐらいかかります。まあ、お兄さんは若いですから、意外とすぐに治るかもしれません、よ」
ゴーグルの向こうで何故か、ばっちん、とウインクしてみせるその面を見て、その強化硝子のゴーグルを割るかスーツを引き裂くかしておまえも感染させてやろうかこの野郎、 と雪男はかなり本気で考えたのだった。











2011.7.14

インフルエンザの症状についてはウィキ参考