ぼろぼろ。
何か腐って柔らかいものを踏んづけてしまったらそこから僕の泥の体が腐り始めた。うわあ、なんだこれ。さすがに不快に思ったのでねとねとと足から上へまとわり憑くそれを、
手で鷲掴んでべりべり剥がして、足で踏んづけた。ぐちゃ。泡を吹き出しながらなんだか体の痒くなる瘴気を吐き出してそれは潰れた。
『おいおまえ、なにをやっている』
咎める声に振り返れば、長い手足をもって全身からぶくぶく泡を立てて腐敗しているような澱んだ黄土色をした塊がいた。全身から穢れきった瘴気を放っていて僕は肌が痒くなった。
そいつは頭からでかい角が生えていて、鼻づらは長く、口はぱっくりと裂けていて牙が覗いていた。背中には黒い大きな翼が生えていた。
赤い小さなでも鋭い目で僕を見ていたから、僕はそれで、ああこいつも僕の兄弟なのか、と察した。案の定、そいつは首をかしげて僕を見ると、
『最近できたやつか?』
と問うてきたので、はい、と頷いておいた。
『創られてからどれぐらいだ?』
『…さあ?ああ、でも空という上に浮かんでいる紫に燃えるまあるい塊があちらから昇ってあちらに沈むのを四回ほど見ました』
僕は僕達の上に浮かんでいる紫に燃えるまあるい塊を指差した。メフィスト・フェレスの兄上がいうところあれは「太陽」というものらしい。
でも、虚無界では兄上以外の誰もあれを「太陽」とは呼んではいないけれど、一応あれがこの虚無界で「時間」という概念を測るための基準らしいのだ。最も、
その「時間」を測りたいと思うような悪魔はそういないらしいけれど。
『そうかなるほど、創られてそう経っていないか』
ぶくぶく腐った手足を振って僕に近づいたそれからは悪魔の死骸が腐った臭いがした。僕がぽっかり二つ穴の開いただけの顔をしかめると、ふん、とそいつは黒い息を吐き出す。
それが顔にかかるともう痒くて僕は遠慮なく爪で自分の顔を引っかいた。その拍子に顔が崩れたけれど、また創ればいいだけだ、それより顔が痒いほうが我慢ならなかった。
『あなたが近づくと痒いです』
隠さずに言えば、赤くて小さな目が、細くなった。機嫌は損ねたようだがそう言われることに慣れているだろうという目だった。
『メフィスト・フェレスは俺に近づくと鼻が痒いと言いやがったが…おまえもしかしてメフィスト・フェレスに世話になったのか?』
『ああ、はい、そうです』
『ふん、通りで生意気そうなところが似ている』
ち、っと舌打ちするとそれはずるずる足元を這いずる黄色い泡立つ泥の塊のようなそれを摘み上げた。ぞうぞう。と蠢く黄色い塊のそれは僕でも気味が悪いなあと思った。
どうやらこいつのペットらしい。
『あなたは誰ですか?』
そこでようやく僕はこいつの名前を知らないと気付いて訪ねた。そいつは摘みあげたペットらしいそれを、あん、と口を開けて呑みこんでしまってから、
『俺に与えられた名はアスタロトだ』
と答えた。
『へえ、…アスタロト…』
ギロっと睨まれたので、
『…の、兄上』
と訂正しておいた。どうやらこいつはメフィスト・フェレスの兄上が言っていたような「上下関係に敏感」な奴らしい。
『ペット食べちゃっていいんですか?』
『こいつは俺のペットのほんの一部だ。一部分逃げ出したから罰として喰ってやった。放っておくと無法に巣を作るからな』
アスタロトの兄上が目線を横に流したのでそれを追えば、なんで気付かなかったのか、城みたいな形を作った大きな粘菌のような塊がそびえ立っていた。真ん中にはまあるい大きな塊がうごうごと蠢いていて、今にも破裂しそうだったが、
なんとなく破裂するのは当分先のことであるように思えた。これがペットらしい。
『定期的に瘴気を吐き出す。それがこのペットの役割だ』
『なんでそんなことするんですか?』
『穢れた空気の方が俺が過ごしやすいからだ、だからこうして穢すのだ、弟よ。…それよりおまえの名はなんだ?』
むしろ俺より先に名乗るべきだったろう、躾けのなってない、さすがあのメフィスト・フェレスに世話になっただけあるな。
とアスタロトの兄上は眉間にシワを寄せる。どうやらアスタロトの兄上はメフィスト・フェレスの兄上が好きではないらしい。
『ああ、はい、僕はアマイモンです』
与えられた名を紡ぐ。そうするたびに悪魔というのは己の存在を縛っていくのだ、と以前、メフィスト・フェレスの兄上が僕にはよくわからない難しいことを言っていたなあと、ちょっと思い出した。
『そうか、では何から創られた?』
『父上の青い炎と父上の「破壊衝動」と虚無界の「一握りの土」からです』
『ほう、ならばその破壊衝動というものはもう感じたか?』
『はい、時々、何かをぶっ壊したくて仕方がなくなります』
それは僕というものが創られてから少し経過してのことだった。僕が軽く地面に手を着けば、ぐらぐら、揺れて簡単に溝ができてしまうと知ってから僕は壊すことに夢中になっていた。
ここでは誰もそれを咎めないし、僕がそんなことをしたところでこの虚無界にはなんら影響はなくて、衝動は吹き上がるままだった。どこを壊しても構わないので僕は最近ではそんなことばかりしている。
といったこともアスタロトの兄上に話せば、アスタロトの兄上は、
『ほう、まあ、まだおまえは若いからな。しばらくは虚無界を破壊することで事足りるだろうが…』
とどことなく、いつかここにも飽きるだろうということを思わせるようなことを言ってきた。そういえばメフィスト・フェレスの兄上は、とっくにここには飽きていると言っていた、とアスタロトの兄上に話せば、
『まああいつは変わり者だからな』
呆れたように嗤った。そうしてまだ足元で逃げ出そうとしていた蠢くペットの塊を摘むと、口に入れて呑みこんで行く。とてもおいしそうには見えない。その前にこの虚無界にはおいしいものなんてほとんどないけれど。
『あなたは何から創られましたか?』
僕が問えば、アスタロトの兄上はしばし思い出そうとするように首をひねってから。
『俺は父上の炎と父上の「中傷癖」と虚無界の「最初の悪魔の腐乱死骸」からできたのだ』
と答えた。
『そうですか…あなたは創られてから長いのですか?』
ぱくぱく、とペットの一部分を喰っていくアスタロトの兄上の横で僕の足に纏わりついてくる塊の一部をこっそり足で踏み潰しながら僕はさらに尋ねた。
『まあ長いかもしれないな。俺の上にはメフィスト・フェレスとその上のもう一体の兄、つまり俺は三番目だ』
『へえ、メフィスト・フェレスの兄上の上にもう一体いるなんて知らなかったなあ』
メフィスト・フェレスの兄上からはそのことは聞いたことがなかったので、僕は単純に驚いた。アスタロトの兄上は、あいつらは仲が悪いからな、と言った。
『へえ、僕はメフィスト・フェレスの兄上には色んなことを教えもらえるから、仲は悪くないとは思いますが』
たびたび僕に「物質界」という世界のことを話してくれるメフィスト・フェレスの兄上のことを思い出してそう言えば、アスタロトの兄上は嫌そうに赤い目をぎらつかせた。
『先ほども言ったが、メフィスト・フェレスは変わり者だ。あんまり奴に影響を受けるなよ。奴は物質界被れしすぎている』
『「物質界」被れしすぎるとよくないのですか?メフィスト・フェレスの兄上はあそこは楽しいところだ、と。退屈なんてしない、と』
いつもメフィスト・フェレスの兄上はそう話していた。僕はまだ物質界へ憑依をしにいったことはなかったので、あちらのことはほとんど知らない。
あの父上から創られたとき虚無界と僕達悪魔というものに関しての知識はある程度備わって僕は生まれてきたわけだけど、虚無界と合わせ鏡のように存在する物質界という世界については、
メフィスト・フェレスの兄上から聞かされるまではほとんど知らなかったのだ。メフィスト・フェレスの兄上曰く、僕達を創りだした父上に物質界の知識がほとんどないためそうなるらしい、ということだった。
『確かに悪魔は退屈を覚えると物質界に行きたがるものだ。俺も何度か行っているし、暇つぶしにはなる』
『…僕もいつかそうなるんですか?』
『そうだな。おまえもいつか退屈を覚えるさ』
今のところ虚無界の大地を壊すことで満足している僕だけど、確かに最近、それでは物足りないようなむず痒いようななんだか満たされない気持ちを覚え始めているのも確かだった。
そういう意味で悪魔達はそのうち物質界を求め始めるのだと、メフィスト・フェレスの兄上からも聞かされていた。けれど、アスタロトの兄上は言うのだ。
『メフィスト・フェレスは虚無界で自分の居場所とやらを求めてそれを見つけられなかったから物質界に入浸っているんだ』
アスタロトの兄上は忌々しそうだった。摘み上げたペットの一部分を喰わずに手で潰してしまった。
『…居場所?』
僕は意味がわからなくて首をかしげた。
『奴は一度そういう話を俺にもした。「居場所」が欲しいのだ、と。「還る場所」が欲しいのだ、と。俺にも意味がわからないがな。ただそれを聞いて酷く苛々したのは覚えているさ。
そんなもの、悪魔が求めてどうするというんだ。不毛だ。無意味だというのにな。我々は父上に創られたその時からそういう存在以上でもなければ以下でもない。
それが我々の全てだ。与えられた自分というものを否定もできなければ肯定もできない、しても意味がない。だが、奴はそれをしようとするんだよ。なまじ父上の「虚言」と虚無界の「虚構」から創られたからそうなってしまったのかもしれないがな』
居場所、と僕はまた呟いてから考えてみたけど、やっぱりよくわからなかった。確かにメフィスト・フェレスの兄上はそんなようなことを言っていたかもしれない。僕はその時、意味がわからなくて聞き流していたんだろう。
『還る場所?』
もう一度、首をかしげれば、アスタロトの兄上は退屈したように黒いため息を吐いた。
『考えても無意味だ。いいか、あまりメフィスト・フェレスに影響を受けるなよ。ああいう変わり者の…哀れな悪魔になるだけだからな』
僕はアスタロトの兄上の忠告らしいものさえも聞き流しながら、還る場所、かあ。と呟いた。僕はどこから来たのだろう…あ、あの青い炎からか。と僕達を常に囲っている青い炎を目を向ける。それは常に空を覆っていてごうごう尽きることなく燃えているのだ。
そういえば、父上は物質界を欲しているのだという。もしかしたら父上も、メフィスト・フェレスの兄上みたいにそういう場所が欲しいのだろうか、と思いそのことをアスタロトの兄上に言ってみれば、アスタロトの兄上は呆れたように僕を見た。
『我等の父上の意図を汲み取ってみようとは…おまえも大概、馬鹿だな。そういうのは無意味だぞ。
父上は己の欲望に従うまでだ。…しかし、最近の父上の物質界への猛攻はそれなりに理由があるらしいがな』
『へえ、なんですか、それ。メフィスト・フェレスの兄上からも聞いてないです』
僕が尋ねればアスタロトの兄上は、しばらく黙ってから、そうだとは断言できないが、と始めに言った。
『父上はこれまでにない新たな「弟」を創りだそうとしているという話だ』
『…「弟」?』
『そうだ。物質界で「弟」を創るのだそうだ』
『へえ…物質界で…父上の炎と父上の「何」と虚無界の「何」から創る気なんでしょうね?』
なんだか僕は酷く驚いて続いてアスタロトの兄上の話を聞いていた。
『物質界では虚無界とは異なった方法で生命を創りだす。そこを利用するらしい』
聞けば物質界では「女」という存在と「男」という存在で命を創りだすそうだ。まあこのあたりの話は長かったので割愛するけど、用は「女」の胎に「赤ん坊」というものができればいいらしい。
アスタロトの兄上は言うのだ。その「女」にできた赤ん坊に、
『その「女」にできた「赤ん坊」に父上は自らの「心臓」で創った「悪魔の心臓」を与えて子を成してみるという話だ』
『………』
『つまり、今、父上が創り出そうとしている「弟」は父上自らの「心臓の一部分の肉塊」と物質界の「女」と物質界の「男」を使って創りだしてみようとしているらしい。
我等には考えも及ばないことだ。今はそれに耐えられるだけの「女」も「男」も揃ってはいないようだが、揃うことがあったとして、一体、どんな弟が生まれるのやら。俺は考えただけでなにやら恐ろしいよ』
『…炎は?』
僕は思わず聞いていた。アスタロトの兄上は怪訝そうに赤い目を細めた。
『僕達悪魔はあの青い炎から生まれました。その「弟」は青い炎を使わずに生まれるんですか?』
『使わずに生まれるんじゃない。そういう次元の話ではないな。次に創られる「弟」というのは』
アスタロトの兄上はどこか遠くを見るように近くで燃え盛っている青い炎を見つめた。
『その「弟」がいつか創りだされることがあったとして、その「弟」は物質界でも存在できる青い炎と神の心臓そのものになるのだよ。
つまりその「弟」が創りだす存在になるのだ』
2011.11.27 加筆修正