ハムスターというネズミの一種は地中に巣を作って暮らすということを選んだので、その過程の中で尻尾は退化して短くなってしまい、
普通のネズミなどのように尻尾で体のバランスを取れないため木の上とか柱の上とかそういう足場の不安定な場所を走ることを不得手とする。
ということを僕は兄上から聞いていた。確かにまあ色々ありまして今現在ハムスターに憑依しているしかない僕は、柱の上などに上ることも上手くできないので、
今、こうして床下を這っているわけです、はい。ほこりも多いし、クモもゴキブリもその他の虫もやたらでかく見えるし襲ってくるしで大変です。
…正直、こんな体になっていることさえ屈辱なんですけど、
こんな場所を這うしかない現状ももっと屈辱で情けないんですけどね。小さいしかない体と四足でちまちま動いて僕は床下を這っています。どこのって?
それは奥村燐が暮らしているという旧男子寮のです。兄上と奥村燐との会話を盗み聞きしていたので、この寮にいるってことはわかってるんですけど、果たして寮のどこにいるのやら。
兄上に黙って抜け出してきているので早めにどうにかしたいんですが。
さて、僕が何故、こんなハムスターというネズミの形になって苦労しながら旧男子寮に忍びこんでいるのかというと、
それはずばり、奥村燐へ報復するためです。こんな姿になって地の王のプライドも何もあったもんじゃないこの状況。元はと言えばあの奥村燐のせい…というか僕はまだ負けていない、
とハムスターの姿まで追い詰められておきながらもそう宣言します。ええ、負けてないですよ。ハムスターの姿といえどまだ僕やられてないわけですし。そういうのを負け犬の遠吠えというんだぞ、
と兄上は呆れていましたけど、関係ないです。だって今、イヌじゃなくてハムスターですから。僕はまだ負けていない。だから奥村燐に報復しにいってるんですよ。果たして、
こんな姿で何ができるかと言われれば、まあ確かにその通りなんですけど、ほら色々できると思います。足に噛み付いてやるとか寝てる間に眉毛を全てこの鋭い歯で抜いてやってしまうとか。え、それはもう報復じゃなくてただの仕返し?
いいんですよ、なんでも。奥村燐に仕返しでも報復でもなんでもできれば。でないと僕の気がすまない。ああはい、僕負けず嫌いなんです。兄上にもよく言われます。
意外と執念深いんです。
さて、そんな執念深い僕は苦労してやっとこさ旧男子寮のおそらく台所だと思われる場所の床下まできました。何故、台所だとわかったって?…なんかすごくいい匂いがしたからです。
バターやフルーツの焼ける香ばしい匂い…。台所におそらく何かが置いてあるんでしょう。ここまで這ってきてお腹も空いてきましたし、何かあればいいなあ、と思い僕は床板の隙間を探して、
そこから台所に顔を出しました。ちょうどテーブルの下でした。鼻をふんふんさせて匂いを嗅げば…なんとほんとにとてもいい匂いが…一気にお腹が空いてきました。…僕はそこで油断してしまったわけです。
いい匂いに夢中になって、床から這い出した僕を狙う大きな影。
ばく!
っと気がついたときには体が宙に浮いて…うわあああ!ネコに捕まってしまった僕です…。マジですか。ここまで来ておいてまさかネコに…しかもこれがただのネコならまだなんとかしようがあったんですけど、
僕を捕まえて咥え上げたネコは…なんと猫叉。しまった。不覚です。残りわずかな悪魔の力でも使えば逃げられたかもしれないのに、猫叉となると話が違う。認めたくはないけれど、
絶対今現在の僕より力がありますから。それでも抵抗しないのもダメなので必死に鳴いて体をばたつかせて逃げようとしたんですが、びくともしません。
にっくき猫叉はご機嫌にぐるぐる喉を鳴らすばかりです。
ああ、僕はどうなってしまうんでしょうか、と思いました。このまま猫叉のエサに…八候王の1人ともあろう僕がまさかのハムスター姿で猫叉の胃袋の中でゲームーオーバーだなんて…。
ああ、父上、兄上達…先立つ不幸をお許しください…って言うんでしたでしょうか、こういう場合?
と暴れながら考えていましたら、頭上から
「だから、クロ、生き物は取ってきちゃダメだって言ったろ?」
声が降ってきたわけです。あ!この声は奥村燐!?と僕が気づいたときに奥村燐は猫叉の口から僕を摘み上げてしげしげと眺めだしました。青みのかかった黒髪にちょっとつり気味の青い目…そして悪魔の子であることを主張する牙に尻尾。
間違いない奥村燐!…正直、助かった!と思ったんですが…仇に対して感謝はしませんよ、ふーんだ。
「…ハムスターだ」
奥村燐は僕を掴んだままそういいました。…確かに僕は今ハムスターですが…。そしてテーブルの上に降ろされた僕は奥村燐をにらみ上げました。こいつのせいで…僕はハムスターの姿をするしかなくて、
床下を這い、あろうことかネコに食われかけたわけで。おもいっきり睨んでやってるのに、奥村燐はどこ吹く風。おまえどこの子だ?と僕の頭を撫でようとしてきたもので、僕は、がぶり、と噛み付いてやったわけです。
いて!と思わず叫んだ奥村燐。やーいやーい!痛いだろう!でもこれだけでは終わりません、さあ奥村燐、勝負です、僕はまだ負けてない!と僕はその時自分がハムスターだということを忘れてしまっていて、戦闘態勢を取っていたわけですが。
奥村燐は急に何かを思い出したように、僕を無視して…台所のオーブンを開けたわけです。僕は無視されるの嫌いです!と叫んでやったのに(たぶん、ちー!としか聞こえてなかっただろうけど)、奥村燐と猫叉は…なんとすごくおいしそうなケーキを持ってきたんです。
しかも焼きたて。僕は口の中に唾液が溢れるのを感じました。猫叉がそのケーキをねだっていましたが、奥村燐は焼きたては棚の中にしまって…代わりにこっちもとてもおいしそうなケーキとクッキーを取り出してテーブルの上に置いたんです。
正直に申し上げますと、僕はそれを見たときもう勝負とか仕返しのこととか忘れてました。お腹空いてましたし。すごくおいしそうでしたし。しかし、奥村燐は菓子を作るだなんて、意外でした。しかもとてもとてもおいしそう、いい匂い。
ふんわりとケーキは山を作っていてバナナの甘い香もしてきて、クッキーはハーブのちょっとスパイシーな香と混じって…もう僕はさささ!と移動してそれにかぶりつこうとしたわけです。しかし、寸前、取り上げられるケーキ。虚しく宙を噛んだ歯。
僕はおやつを取り上げられるのも嫌いです!とまたちーちー叫んでいる僕に
「おいおい、待てって!いくらなんでもハムスターにケーキ丸かじりなんてさせらんねーだろ!?今、切ってやるから!」
なんと奥村燐は僕でも食べやすいようにケーキを切って目の前に置いたんです…。僕はもう何故?とか思う前にそれにかぶりついてました。がぶ。前足で掴んで口に押し込めました。
もう…めちゃめちゃおいしかったです…!
今まで兄上の食べていたような高級だというケーキだって僕は食べたことありますけど、そのどれよりも一番おいしいんですよ、これ。
僕はすっかり夢中になってそれをかじっていました。奥村燐は、
「うわー、こいつかわいいなー…」
と言いながら僕の背中を指先で撫でてきました。もう僕はそれもどうでもよかったんです。とにかくケーキに夢中でして。なんだこれほんとにおいしい。バナナとケーキの割合が最高です。
「なあ、こっちも食うか?」
そしてさらに奥村燐は僕にクッキーまで差し出してくれました。…僕は悪魔ですけど、このときばかりはあれです、奥村燐が神様みたいに見えました。お菓子の神様。兄上が聞いたら、なんだそれ?と呆れそうですけど、
僕にとってお菓子は重要ですからね。ケーキの残りは頬袋に詰めて後で食べるとして(このとき初めてハムスターに憑依したことを便利だと思いました)、差し出されたクッキーにもかじりつきました。がぶ。おお!
さっくりなのに中はしっとり。ハーブの香もたまらない。まさに僕好みのクッキーでした。
そして夢中で食ってる間に、いつの間にか兄上がイヌの姿で呆れ顔で僕を見ていました。僕がいないのに気付いて探しにきたんでしょう。しかし僕は構っていられませんでした。兄上を尻目にケーキもクッキーも
胃袋の中に詰め込んでいく作業に夢中でした。ハムスターの体ではさすがに食べられる量は人に憑依していた時ほど多くはないんですが、なにせ僕が憑依しているんでそこらへんのハムスターの胃袋と同じにしてもらっては困りますね。
お菓子を食ってる横で、人型に戻った兄上は奥村燐と何やら会話をしていました。なんか指を消毒だと言って舐めてたり…我が兄上ながら変態だと思います。会話の方は、
僕はほとんど聞いていませんでしたが、
「なななななにが消毒だ!?そういうのほんとはえーせーじょうよくねえから怪我とかの手当てはぜってえ雪男以外にさせちゃダメだって、雪男言ってたんだぞ!」
と言う言葉にだけちょっとツッコミたいと思いました、はい。うーん、兄上も大概、奥村燐をかわいがっている節がありましたけど、奥村燐の弟はきっと病的なんだな、とわかりました。
変な兄(と弟)に囲まれて奥村燐も大変ですねえ。その変な兄は僕の兄上でもあるわけですが…。しかし、何故、父上も兄上も奥村燐の弟も奥村燐に夢中なのか…今なら少しだけわかる気が…だってお菓子おいしいですし…何気にお菓子くれたから優しいなあ、と。
と、無心でお菓子を食べていましたら、クッキーはなくなってしまいました。全然足りないのでちいちい鳴いて奥村燐におねだりしてみました。
「お、なんだ?っておまえもうクッキー食っちまったの?」
そしてまたケーキをくれたんです。それを素早く頬袋に詰めながら…やっぱり優しいなあ…と。そして僕を見つめる青い目が慈愛に満ちていて(ハムスターだからだろうけど)
…あれ、なんだろうこの変な鼓動は…。僕はケーキの甘い匂いに酔っただけではないような感覚になりました。そんな僕に奥村燐はさっき噛み付かれたというのに、指を伸ばして僕を撫でてきたんです。僕は何故か抵抗する気も起きなくて…
それどころかお菓子を作ったばかりだから、甘い匂いの染み付いた温かい指に撫でられるのが気持ちよくてですね…ついつい鼻先で指を撫で返していたんです。一体、僕はどうしてしまったんでしょうか。
「おーわーかわいいなー…俺も小さい動物飼いたいかも…」
どきん。ああなんだろう、また謎の鼓動が。すごく柔らかい笑みを浮かべて奥村燐はそう言ったんです。慈愛に満ちた青い目。僕は悪魔ですけど、きっと聖母ってこんな感じじゃないだろうか、と真剣に思いましたよ。
…奥村燐になら…飼われてもいいかも…。
と僕が一瞬そう思った途端、兄上は僕を摘みあげてポケットに押し込みやがりました。ああ、何をするんですか兄上!そして兄上の服は…いつも控えめではあるんですけど、今はハムスターになって嗅覚も前と比べれば断然よくなっている僕にとっては、
香水の匂いが鼻にきついというか。すぐに息苦しくなったのでポケットから顔だけ出しました。兄上はお別れの挨拶をしていて、それを聞いた奥村燐は棚からさっき焼き上げたフルーツたっぷりのケーキまでくれたんです!
「作りすぎちまったし、半分だけどやるよ。そっちはバナナ以外のフルーツ。ブルーベリーのやつとリンゴのやつ。よければ食えよ。そのハムスターもまだ食いたそうだしさ」
そして、にか、っと元気に…とてもかわいらしく笑ったんです。
きゅん。
僕の小さな心臓が確かに大きく跳ねました、その瞬間。あれ、僕どうしてしまったんでしょうか…すごくこう…奥村燐に引き寄せられそうでした。思わず「きゅう」という変な鳴き声まで出てしまうし。
き、君になら飼われてもいいです!
僕は叫んでみました(たぶん、きゅう!としか聞こえてなかっただろうけど)。毎日おいしいお菓子を作ってくれて、かわいいなあ、と撫でてくれる。悪魔で確かに僕らの末の弟に当たるのに、
悪魔にはないその明るい無邪気さ。…あれえ、僕は本当にどうしてしまったんでしょうか。奥村燐になら飼われてもいい…今かなり本気でそう思います。
そしてもう一度、ポケットの中から叫ぼうかと思ったら、兄上に押し込まれて香水臭いポケットに詰め込まれました。惜しいけど、仕返しもできてないのに…まあいいです。
帰ればまたフルーツケーキがあるわけですから。…でももうちょっと奥村燐と話したかったなあ(会話は成り立っていませんでしたが)と思った僕はそんな僕自身に首をかしげるしかありませんでした。
「まったく…急にいなくなっているから、てっきり奥村燐に報復でもしにいったのかと思って様子を伺ってみれば…おまえ何餌付けをされているんだ」
兄上がなにやらぶちぶち言ってましたが、僕は頬袋に詰め込んだバナナケーキを食べながら思ったわけです。また奥村燐のところに行きたいな、って。仕返しもできてないとかそんなことじゃなくて…ああ、こういうのを
本当に今しがた兄上が言ったように餌付けされてるってことなんでしょうか。
うーん、でもあの時感じた鼓動はそんなことではないような。
考えたらまたお腹が空いてきたのでフルーツケーキの方を兄上におねだりしてみました。そっちもとてもおいしそうなので。しかし、兄上はにやっと意地悪そうに嗤って。
「散々、食っておいて、おまけにかわいいかわいいと撫でられておいて、まだ奥村燐のケーキを食うか。ふーん…まあそこまでいうなら、少し分けでやってもいいぞ」
ブルーベリーひとつぶだけくれたわけです。ああもう、もうちょっとくれたっていいのに。僕は不満でしたが、まだケーキはあったし、何より甘く煮詰められたブルーベリーも食べてみればなかなか。
甘いのに、すっぱい。なんだか妙に胸の中に浸透していくみたいでした。
もうお腹いっぱいとかではなくて…胸がいっぱい…この感じは…。
なんという感情なんでしょうか、僕にはさっぱりです…。
なんて、ぼーっと考えながら食べていたのがいけなかったんです、気がついたときには兄上は大口あけてケーキを全部、胃袋に放り込んでいました。
ずるいです、兄上ーーーー!!!!
僕の胸の内にある妙なむずむずした感情はしばし保留。まずはケーキを全部食べてしまった兄上への仕返しを考えなければ!
2011.8.24