燐と雪男が育った修道院の周りは、二人が幼いころはあまり周りも開発されていなくて、コンビニとか簡単にお菓子を買いにいける場所はなかった。唯一あったのが修道院から歩いて10分ぐらい先にある、
上り坂の向こうの駄菓子屋だったのだ。小さな子ども、またはあまり体力のない子ども、そしてお年寄りには少々きつかもしれない坂の向こうであった。幼い頃、体の弱かった自分にとってもその坂は少々きつかった。
成長した今から思えばそれほどきつい坂でもなかったはずなのだが、一回、風邪気味だったのに気付かなくて兄の燐と一緒に駄菓子屋目指して坂を上っていたとき、過呼吸を起こしてしまいやれ救急車かと大騒ぎになりかけたことは確かにあった。
あの時、上手く呼吸ができなくなったしまった自分を見たときの兄の顔を、雪男は今でもはっきり思い出せる。あの自分にはできないことをあっさりやってのけて、
憧れだった兄の初めて見た恐怖に染まった顔。苦しそうに呼吸する自分を小さな背中でかついで、とうさんとうさん、と泣きながら修道院まで駆けて行ってくれた兄。
懐かしい。15歳になった今、久々に修道院に戻ってきた週末の現在、例の坂を見つめならがそう思った。その事件以降から自分は坂を越えることを養父に禁止され(今から思えば大げさだったと養父も自分も笑うのだが)、
兄は兄で坂の途中で弟が倒れてしまったのは自分のせいだと妙な罪悪感を持ってしまっていたらしく、あれから駄菓子屋でお菓子を買ってくるのは兄の役目になっていた。ゆきおなにがほしい?と少ないお小遣いを握り締めて、坂の一歩手前で自分に問う兄の笑顔。
目を閉じてそれを思い出す。自分を坂の手前で置いて、一人だけで駄菓子屋を目指す兄の燐。ぼくもやっぱりいっしょにいきたい、と泣きべそをかく自分を兄は、
困った顔して笑って、頭を撫でてくれた。
ゆきお、なにがほしい?
あのね、あのね、ラムネとあとそれから、
あとおかしもおもちゃも買えるかも。
お、おかしは、あれがいい、よーぐると?みたいなやつ
わかったおもちゃはなにがいい?
お、おもちゃ、わかんない…
よし、じゃあにいちゃんがゆきおのぶんも、おもちゃ買ってくるな、だからそこでまってろよ
……やっぱりぼくもいっしょにいきたいよ。
小学校に上がって二度目の夏休み、最後の日のことだった。なんとか学校の宿題を終わらせたご褒美だと、100円玉を何枚か握らされて、二人で交わした坂一歩手前の会話。
坂の向こうはアスファルトから噴出した湯気のせいで、蜃気楼が出ていてゆらゆら揺れていた。今でもはっきり覚えている。日差しがまだまだ強くて、みんみんみん、と蝉が最後の鳴き声を上げていた。
丁度、今と同じであった。あの時の兄は、笑いながら、待ってろよ、と。祓魔師のコートのポケットに手を突っ込んだ。そこに入っている丸いものを取り出す。青いビー玉。それを手の上でコロコロ転がした。
兄の瞳も、これと同じような色だった。
いっしょにいきたい。
駄々をこねる自分を慰める兄の声は、少しも記憶から掠れたことはない。幼い高めの声で、なくなよゆきお、と兄は笑っていた。
ゆきおがもっとつよくなったらいっしょにいこうな。
兄は笑ってそう言ってくれた。
…ほんとに?ぼくがつよくなったらいっしょにいってくれる?
おう、いっしょにいく!やくそくだ!
約束だ、と。小さな小指を自分たちは絡めあった。
だから、いまはそこで、まってろよ。
100円玉を握り締めて、兄は簡単に坂を越えて行ってしまった。相変わらず、にいさんはすごいなあ、と坂を見上げていただけの自分。暑かったので近くの日陰に入って、
ラムネとお菓子とおもちゃを買ってきてくれる兄を待っていた幼い自分。にいさんまだかな、と。にいさん、まだかな、と。すっかり日が暮れてしまった時間になっても愚かにも、
兄は必ず帰って着てくれる、と待っていただけの自分が。
兄の燐は、それから二度と、戻ってきてはくれなかった。
「近々、サタンの息子を送り込んでくるという情報がありまして」
「…確かなのか?」
「そんなことよりクーラーぐらい買ったらどうですか?相変わらず居心地の最悪な修道院だ」
「ふざけるな、メフィスト、真面目に答えろ!」
養父の剣幕が険しくなる。どんなに言われてもふざけた態度を崩したこともない道化の悪魔は、やれやれ、と肩をすくめて出された麦茶に口をつけた。
暑い暑いというならそのふざけた正装のせいだろう、と思うのだがそう言う割りに彼は汗の一つも流していなかった。修道院の教会でのことだった。
秘密裏の話し合いをしているというのに、何故この場所なのか、同席している雪男にはよくわからないが、養父とメフィストは気にしていない様子だった。案外、
あの学園の方が盗聴される危険性が高いのかもしれない。あるいはメフィストの気まぐれか。その可能性の方が高いだろう。教会に悪魔を呼ぶ、そして悪魔のことを話し合う。
「確かだと思いますよ。いよいよ、サタンの息子の初陣といったところですかね。何せもう8年だ。大分、力もつけてきたはずですよ、頃合かと」
メフィストの言葉に養父、獅郎は目を堅く閉じると、額に手をおいて、項垂れてしまった。まるで懺悔室に訪れる人のようだ、と雪男はどこか遠くで思う。
「…場所は、わかるのか?」
メフィストは肩をすくめた。
「さすがにそこまでは。しかし、可能性があるのなら、直接ヴァチカンか…祓魔師を育成している私の学園か。もし後者ならいくら末の弟でも容赦はしませんけどね、私も」
「おいメフィスト、おまえ」
「わかってますよ、殺したりはしない。できるかぎり生け捕りに。…しかし、あなたまだ諦めきれてないんですね」
にやり、と口の端から牙を覗かせて道化は嗤った。獅郎は堅く拳を膝の上で握る。燐がいなくなってから8年。その間に、彼の手にも目じりにもシワが目立ち始め、髪には白いものが多く混ざるようになっていた。
この8年の獅郎の苦労がそのシワと白髪に刻み込まれているように見えた。雪男は思わず自分自身の手を見つめた。随分、大きく逞しくなった手がそこにある。
祓魔師の訓練のためにタコもできて決して綺麗とはいえない手だが、まだまだ可能性という若さを秘めているのだ、と。獅郎は雪男の手を見て、よくそう言ってくれるのだ。
その若い手の平には、青いビー玉がある。それを手の上で転がす。教会のステンドグラスの虹色を反射して、青をベースにしたなんとも不思議な色合いを作り出していた。しえみさんの庭の花畑のようだ、と雪男は遠い思考の中でそう思う。
その雪男の様子を、メフィストは横目で見ていたのだが、すぐに逸らした。
「…当たり前だろう…諦めきれるはずがない…。あいつは、俺の息子だ」
深い深い、獅郎の声が、重く重く、教会の赤い床に落ちていった。
雪男、燐はどうしたんだ?!
すっかり日が暮れた坂の一歩手前に座り込んでいた自分の肩を掴んで、養父は叫んだ。養父に叫ばれるのは初めてだったので、怖かったが、それ以上に兄がまだ坂の向こうから戻ってきていないことの方がずっと怖かった。
怖くてどうしたらいいかわからなくて、自分はぐしゃぐしゃに泣いていた。にいさんもどってこない、と半ば混乱した自分の言葉に養父は、さあ、っと顔を青くして坂の向こうを越えていった。
しばらくして戻ってきた養父は正に絶望といった色を顔に乗せて、兄が買ってきていたのだろう、駄菓子屋の袋だけを持っていた。
中にはラムネが二本と二人分のお菓子と、そして青いビー玉が入っていた。
「雪男」
ノックもしないで修道院時代に雪男が使っていた部屋に、久々に横になっている成長した雪男を見て、獅郎は、
「おまえ、大丈夫か?」
と、声をかけた。雪男ははっと我に返る。回顧に捕らわれて随分、ぼうっとしていたようだ。メフィストと獅郎が必要な情報のやりとりと今後の対策を話し合っているのをただただ聞いていただけの雪男は、
あれから数時間経過していたことを知る。手の平のビー玉が滑って床に転がってしまった。かつん。ころころころ。獅郎の足元まで転がったそれを、獅郎は拾い上げる。
「大丈夫だよ、なんで?」
雪男は笑って答えながら、早くそれを返して、とばかりに手を突き出した。獅郎は黙ってすぐにビー玉を返した。電気をつけることも忘れていて、雪男の部屋は薄暗くてベッドに腰掛けている雪男の姿は半ば影のようだった。
ぱちん。獅郎は電気をつけた。その眩しさに雪男は少し目を細める。そこの浮かび上がってくる部屋の様子に、獅郎は切なそうな顔をした。
小学校に上がったときに、この部屋を双子の部屋にした。すぐに成長するから、とちょっと大きめだったけど、勉強机二つと二段ベッド。結局、双子の片割れはこの部屋を1年も使うことはなかったのに、
部屋は当時のままであった。机と二段ベッドを片付ければもう少し広くなるのだが、雪男は一度もそれを提案したことさえなかった。随分体も大きくなった雪男は、その二段別途の下に腰掛けている。
獅郎はその隣に腰掛けた。ぎしり。と古いベッドが軋む音。
「メフィストの話、だがな…」
「…兄さん、こっちに来るんだ」
「たぶん、な」
獅郎は、雪男の机の上に飾ってある写真立てを見る。幼い双子。兄の燐は全開の笑顔でピースまでしていて、雪男は大人しそうに控えめに笑っていて、獅郎はその後ろで双子の肩を抱いている。
この春にメフィストの学園で寮生活となったとき、雪男は兄との写真のほとんどを向こうに持って行ったはずなので、この写真立ては夏休みの数日間だけここに戻ってくると決まったとき、向こうの荷物と一緒に持ってきたのだろう。
燐が、坂の向こうから戻らなくなったあの日から。肥大していくばかりの雪男の兄への未練を、父親としては切なく悲しくまた愛しく思いながらも、祓魔師としては危うい執着だと、警告していた。しかし、雪男には直接をそれを言えたことがない。
つくづく、兄のことも含め駄目な父親だと獅郎は思っている。
「兄さん、どんなふうになってるのかな?」
口元にわずかな笑みを乗せて、雪男は言った。兄をサタンの息子として危険視するそれではなくて、遠く離れた場所で育った兄に8年振りに会う、ただそれだけのことのように言っている。
手の平のビー玉が電灯の光を反射して、きら、っと光った。
「雪男」
「もう8年だものね。背も伸びて顔も少し変わってるかな?」
雪男の中で兄の姿はあの8年前から止まったままだ。それは獅郎も同じであった。坂の向こう。息子を守ってきた獅郎を嘲笑うかのように燐を攫っていった悪魔達。獅郎が気付いたときには何もかも遅かった。
修道院に神隠しの鍵で隠してあったはずの倶梨伽羅まで消えていて、残されていたのは、
弟のために燐が駄菓子屋で買って来たのだろうビー玉と坂の一歩手前で泣いていた雪男だけだった。あれから獅郎は逃れられることのない罪悪感と深い後悔を抱えているが、
きっとそれ以上に雪男は。
あの日から、雪男は毎日泣いて過ごした。にいさんがどこかへいってしまったいっしょにいかなかったぼくのせいだ、と幼い子どもが抱えるべきではない責苦を毎日毎日懺悔室で伏せって叫んでいた。そんなことはない全部父さんのせいなんだ、と言っても雪男は泣きやまず学校にも行かなくなった。
そんな雪男に対してもともと悪魔であった燐から魔障を受けていたため悪魔の見えていた雪男に、苦しむ幼い息子にために、と雪男に祓魔師への道を歩ませた。
獅郎は、それが正しかったのかどうか、実は自信が持てていない。
「でもね、僕にはわかるんだよ神父さん。顔が変わっていても背が伸びていたとしても、兄さんは、たぶんあの時から何も変わってないだろうなって」
「雪男」
「僕にはわかるよ。だって僕の兄さんだから」
「雪男…!」
成長した雪男の肩を掴んでしまえば、手の平にあったビー玉が再び床に落ちてしまった。からん、ころころころ。雪男は眉を寄せる。しかし、獅郎は許さなかった。
「雪男…燐のことだがな…」
そこで獅郎は言葉に詰まってしまう。雪男にこの道を歩ませたのは自分である。兄を失い悲観にくれる息子のために、とただそれだけを考えて導いてやっていたつもりだった。
けれど、こういうとき、雪男が燐の買ってきていたビー玉をぼんやりと眺めているときに、獅郎はこれで正しかったのかどうかどうしても疑問に思うのだ。つくづく、子育てにマニュアルなどないのだろうと実感する。
何せ、1人の人間を育てるのだ。それは当たり前で、いや違う俺が恐ろしいと思うのはそれじゃない、と獅郎は思った。
「燐のことは…」
「………」
諦めきれないんですね、とからかような道化の悪魔の言葉がいやに頭に響いていた。
「燐のことはもう、俺に任せ」
「神父さん」
遮るような雪男の呼びかけ。雪男の顔はメガネの奥に隠れてよくわからなかった。いつの間にこのように表情を隠すのが上手くなってしまったのだろうか、と獅郎は思う。
「僕はね神父さん、兄さんを取り戻すために強くなったんだ。確かにその道を教えてくれたのは神父さんだけど選んだのは僕だ。だから、僕は、後悔なんてしてない」
「………」
「たとえそれがどれだけ困難でも、不可能でも。兄さんと戦うことになっても」
力なく肩を掴んでいた手を放す。雪男はすぐに腰を上げて、床に転がってしまったビー玉を拾い上げた。
「大丈夫、神父さん。僕は、強くなった。もう坂の手前で泣いてるだけの子どもじゃない」
にこり、と笑う。獅郎はしばらく黙っていたが、やがて、苦笑しながら、
「ああ…そうだな。…頼りにしてるぞ」
と、ようやっと搾り出すようにそう言った。雪男は微笑みながら、指先でビー玉をくるくる動かしていた。
「ありがとう、神父さん」
結局、息子に何もいえなかった自分を、あの道化の悪魔は、愛とは愚かで滑稽だ、と嗤うのだろうな、と獅郎は思った。
2011.9.11