正十字学園旧男子寮事件

 

日曜の朝。 ここぞとばかりに朝寝坊するはずの燐が油断してちょっと寝坊した雪男より早起きをした。朝ごはんをさっさと用意してからもまだ台所にへばりつき、 何か料理を作っている。 顔を洗ってメガネをかけてもその光景に偽りなし。ならばこの珍しい兄の日曜の早起きは夢ではないということだ。たった今口にした味噌汁も美味いわけだし。 ふんふんふーん。とへたくそな鼻歌を歌いながら朝ごはんもそこそこに台所で料理の仕込み。じゃがいもの皮を剥く手つきも、ニンジンを切っていく包丁さばきもそりゃあもう手際がよすぎて見事である。 さすが兄さん。じゃなくて、と雪男は朝ごはんをもぐもぐ咀嚼して飲み込みながら考えた。兄さんやけに今日は早起きだね?と問うても、そうかー?と返事も適当。 食器を片付け歯を磨いてとりあえず602号室に戻り、いやな予感を消してしまいたくてさっそく来週の授業で塾生達に教える範囲をチェックするも、雪男はどこか上の空だった。 しばらくして部屋に戻ってきた燐からは、にんじんやたまねぎを切ったあとの独特な野菜臭さがまとわりついていた。が、雪男は燐の料理をしてきた後に残っている匂いが嫌いじゃなかった。 むしろ好きだ。たまねぎをよく炒めたあとについている匂いなど最高だ。とさえ思っている、こっそりと。しかしそんな兄の今朝からの落ち着きのない行動。
そして、ついに兄が弟に言われてもないのに課題に手をつけ始めたことで雪男は確信した。
兄が言われてもないのに自主的に課題に手をつけるなど。理由は限られているというか、唯一しかないというか。
「…兄さん?」
「んー?」
課題の最初の一行目ですでにうんうん悩んでいる兄に対して問う。
「もしかして今日、「あの人」くるの?」
燐は、よくわかったな、といわんばかりに目を丸くして課題から目を離し、雪男を見た。というか聞かなければあの人が来るまで黙っているつもりだったのだろうか。兄のことなので ただたんに言うのを忘れていただけだろうけど。なにせここのところ「彼」が訪れるのは頻繁だからだ。
「よくわかったな!」
今日、昼から来てくれるってさ!
さもうれしそうにケータイを取り出しそこに「彼」からのメールを見せてみる燐に、雪男はものすごく複雑な気分になるのであった。



朝に準備した料理、シチューがくつくつと丁度よく煮えてきたころ、 かくしてその人物は燐との約束通りのぴったり12時に現れた。外の木々を伝って窓から。玄関から入ってくればいいのにこっちの方が早いからとこの人物はよくこんな猫みたいな方法を取る。 着慣れた祓魔師のコートに、雪男より数センチ高い背丈。頑強というイメージは抱かないがそれでも肩幅は青年らしくしっかりしていてコートの上からでも、できあがった体を思わせる。 長めの黒髪が風に揺れていて、前髪に隠れ気味な両目は赤く、光加減によっては琥珀色に煌く、青年。
「あ!夜だ!」
午前中に結局、雪男に手伝ってもらいながらなんとか課題を終わらせた燐はその青年「夜」に姿を見るや否や席から立って、夜を出迎えた。青年の名前は「夜」といった。 名字もなにもない。ただ一つの単語の名前だ。夜は身軽に窓から(きちんと靴は脱いで)602号室にお邪魔すると、燐はさっそくうれしそうに彼のコートを握るような仕草で手を添える。
「よう、若君様ー、雪男ー、元気にしてたか?」
「おう、元気だったぜ、久しぶり!」
「…どうもお久しぶりです」
夜は、にか、っと燐によく似た無邪気な笑顔でまず燐の頭をぐしゃりと撫でて、いまだ机に向かったままの雪男にも同じことをする。さりげなく頭を振ってかわしたが。
「でも若君様なんて呼ぶんじゃねーよ!」
ぐしゃぐしゃにされた髪を撫でつけながら不満そうに言えば、夜は、
「悪い悪い、燐、怒るなよ」
とまた笑った。彼が「若君様」と燐のことを呼ぶのはからかい交じりなだけだ。
「一ヶ月ぶりだよな、なあ、今度はどこへ任務行ってきたんだ?また話聞かせてくれよ」
「今回はちょっと遠出でな。わかったわかった、ゆっくり話してやるから。先に昼飯もらっていいかー?朝からなんも食ってないんだわ」
切なげに腹をさする夜に燐は、その言葉待ってました、とばかりだった。朝から仕込みをしていたのだから、当然だろう。
「シチュー作ってあるぜ。夜の好きな具の大きめなやつ」
「お、マジか?ありがとうな、燐。じゃ、さっそくいただくか」
早く早く、といわんばかりに夜の袖を握っている燐を見て、雪男は黙っていたが、そんな雪男に、おまえも食うだろう?と燐が呼びかければ腰を上げずにはいられない。 本音、彼ら二人と食卓をともにはしたくない気持ちの方が大きいのだが、なにしろ「夜」という青年は特殊であったから監視の役割をしなければいけないんだし、と雪男は「言い訳」をごちごち心中で述べながら、 結局、ごろごろした具のたくさん入ったシチューを台所で三人で食すこととなる。



夜という青年はその正体、下級の悪魔である。燐のようにハーフではなく階級は違えどメフィストのような正真正銘の悪魔である。どんな経緯があって人の姿を借りているのか、彼の歴史は何せ燐と雪男が生まれるずっと前から 始まっているので、正確なところも雪男は知らなかった。けれどその正体が悪魔ということは祓魔師の間では割と周知の事実であった。その身の上のためか彼の活躍がどのようなものか周りの祓魔師にも耳に入ることは少ない。 大方、裏方的なことや単独の任務が多いためだ。それでも雪男が唯一知っている彼の功績は祓魔師の間で「深山鶯邸事件」と呼ばれているものだった。 この事件も燐と雪男が生まれるより前のものなので細かい内容はわからないが、上級悪魔の「パズス」を倒したという有名なものだ。それ以外に目立った話は聞かないが、 悪魔の身の上でありながら割りと上手く騎士団内で立ち回っているあたり、実力は相当なものだろうということは想像に難くなかった。雪男は夜と任務を共にしたことはないので正確なことは知らないが。
「深山鶯邸事件」の後の夜は、世界中を飛びまわって任務をしているとの話であって、それは時折こうして燐達の元を訪れるたびに旅先の話を聞かせていくので間違いないだろう。
さて、何故、元が下級悪魔であるはずの夜がサタンの息子である燐とここまで仲良しになったかというと、まず出会ったときからだという他ない。これは雪男が燐から聞いた話だが、 祓魔塾までの空き時間に中庭で昼寝をしていたらうっかり尻尾が出ていたらしく、そこへたまたま日本支部に用事がありヴァチカン本部からやってきた夜が通りかかり「おいおまえ、尻尾出してたら駄目だぞ」と起こしてくれたところから始まり、 何故か話が弾みお互い階級は違えど悪魔というところまで話してしまい、なんか気があってそして夜の話が楽しかったからという理由ですぐにケータイのメアドを交換して、 まだ夕飯を食べていなかった夜をその日の旧男子寮での夕食に招いたところから、今まで続いているのである。あの日、寮に帰ってみれば見知らぬしかし燐に似た大人の男が燐と夕食をかきこんでいたのを見て、 雪男は大層びっくりしたものだ。すぐには気付かなかったが
「お、あんたが燐の弟?初めまして、俺は「夜」っていうんだ。悪い、先に飯食って」
と自ら名乗ったところで雪男は思わず腰にある拳銃をかまえそうになったものだった。夜。雪男はとっさに悪魔でありながら祓魔師をしているという男だと気付いたからだ。何故、そんな男が燐と一緒に。身の上がなんであれ同じ祓魔師にいきなり銃をつきつける暴挙はなんとか理性で押しとどめ、 どういうことなの!?と燐を問い詰めれば、寝ているところを起こしてもらってうんぬんという経緯を知ったわけである。雪男は呆れた。なんて警戒心のない兄なんだろう、と。わかっていたが、ここまでとは。と その日は、夜が帰ってしまったあとに兄を正座させて説教したわけだが、燐は何故怒られているのかさえわかっていないようだった。

それからも夜は何故か、ここへ来るようになっていた。雪男はもう半ば諦めている。何を言っても燐は聞かないし、夜も燐に会いに来る。燐もそれを楽しみにしている。 こんな具が大きくてごろごろ入ったおいしいシチューを朝から仕込むぐらいに。僕は一口サイズの具が好きなのにいや兄の料理ならなんでもおいしいがそれでもシチューを作ってくれるとき、燐は必ず雪男好みの具の大きさにしてくれるのだ。 しかし、今はそうではない。
「今回はロシアに行ってきてなー」
「うっわー!ロシア!?すっげえ!」
「いやでもすげー寒いんだ。くしゃみが止まらなかったぜ…。でも料理は中々上手かったなー特に煮込み料理とか魚や肉料理が多くてさ」
「どんな料理だったんだ?」
「あー俺は食べる専門だからレシピとか聞いてねーな…。また今度国外に行くことがあったら聞いておいてやるよ」
と、大きな具を、ばくっと大口開けながら燐に聞かれるままに任務先での話をする夜。どう見たってこちらの方が兄弟のようだった(夜曰く、燐と「借りている体」が似ていたのは「たまたま」だったらしいのだが)。 学園内だけという限られた範囲でも二人がどこかへ出かければ必ず兄弟と間違われ、雪男はその「弟」の「友達」と見られることもあったぐらいだ。ぶち。そこまで思い出してしまいスプーンでじゃがいもを潰していた。いつの間にか。 食べ物をいじっていては燐が怒り出すので慌てて潰してしまった大きめなじゃがいもを口に入れるも、燐は夜の話に夢中になっていて気付いてもいなかった。思わず舌打ちが出そうになってこらえる。
「なあなあ、お土産ある?」
一頻りロシアでの観光の話や任務の話を聞き終えた燐は、やけにきらきらした目で身を乗り出した。メフィストに小遣いアップをねだるときもあのような目をしていることが多い。残念ながら通じたことはないが。 シチューをきれいに食べてしまった夜はそんな燐に、苦笑しながら、
「わかったわかった。後でやるよ。それよりさっさとシチュー食ったらどうだ?」
話を聞くのに夢中だった燐は皿の中のシチューが冷めていたことにも気付いてなかったようで、やべ!と慌ててそれをかきこんだ。
「雪男、おまえもだぞ」
といきなり呼ばれて我に返れば、その通り、雪男はさっきからぶちぶちを具を一口サイズに崩してただけで、口に運んでいなかったのだ。雪男は無言でなんとか一口サイズに潰してしまった具を食べた。 サイズは丁度よくなったが冷めてしまっていた。冷めても兄の料理は美味いが、なんだか残念な気分になってくる。意地になって一口サイズに具を崩していた自分がなんだが惨めじゃないか、と考えそうになって、無理矢理シチューをかきこんでそれ以上考えないようにした。
自分と兄よりも兄弟に見える夜と燐。もしかしたら自分よりもその身にある性質が同じかもしれない二人。というか実際「悪魔」という点では共通しているし、 燐は夜にとても懐いていた。それはもうそこが何かの拠り所であるかのように、という風に雪男には見えている。普段、俺が兄ちゃんだから!と兄貴面してくるくせにまるで今は「弟」になったかのように「兄」に甘えているのだ。
なんだよ、馬鹿。
どちらにそう思ったかはわからない。でもたぶん両方にだろう。そして、一口サイズの具じゃないシチューに対してだろう。もうこんなもやもやを、燐が夜と仲良くなってからずっと抱えている気がしている。 それを誤魔化すように最後の大きめなまま崩す気力もなかった鶏肉を頬張る。
その様子を見て、夜が苦笑していたことに雪男は気付かなかったわけだが。








2011.10.6
お昼にシチューはちょっと重いかなと思いつつ…なんか書いてる時に食べたかったので。