弟がこの世の終わりというような顔で帰ってきた。
そう例えざるを得ない顔というのは本当にあるんだな、と燐は初めて実感することとなる。今日はちょっと遅くなるかも、と朝食の時に聞かされていてその通り、9時過ぎにようやく
旧男子寮に帰宅した雪男は、まるで明日地球に隕石が落下して人類は滅亡します、と突然告げられた人類代表のような顔をしていたというか、これでは規模が大きすぎて逆にわかりにくいかもしれないが、
燐は帰宅してきたときの雪男の顔をそれ以上に上手いこと例えようがなかったのだ。いつもなら帰宅が遅くなるときだけはちょっと前に夕飯のリクエストをする弟だが、
何故か今夜はそれがなく。仕方がないので適当に(といっても大変手の凝った)天ぷらをささっと作ってじゅうじゅう揚げていたところであった。
我ながらタマネギと桜海老の天ぷらはさくっと美味しく揚げれたと思う。天つゆも、もちろん手作りで。総菜はあっさりとしたものを小鉢に入れて。あとは食卓に並べるだけ。
そんなグッドタイミングで帰ってきた雪男だが、如何せん、顔がグッドではない。
「…お、おかえり」
最後に揚げあがった天ぷらの余分な油をとりながら盛り付けていた手も止まった。
「……」
いつもならちゃんと「ただいま兄さん」と返してそのまま「今日も疲れたー」と自分の腰に腕を回しすんすん髪の毛の匂いを嗅いでくる甘えん坊の弟が、今夜はそれすらない。
いや、普通兄弟でそういうのがないということぐらい、いくら友人のほとんどいなかった燐でもドラマやアニメの受け売りから知っている。なし崩しにこのままであったが、
物心ついた時から自分の弟はこうだったのである。
「…ど、どうしたんだ雪男?」
顔を覗きこむと真っ青だったのはわかったが、メガネに光が反射してその目がどうなっているかわからない。燐もどうしたらいいかわからなくてしばし、兄弟二人厨房で突っ立っていたが、そこはやはり大らかな性格のお兄ちゃんである。
とりあえず座って飯食えよ!と笑顔で弟をイスに座らせ、茶碗にたんまりふわふわのご飯をついでやる。雪男は無言でそれを受け取った。
「今日はタマネギと桜海老の天ぷらだぞ!すっげえさくさくに揚げれたからたんと食え!」
「…うん…」
「ああ、そうそう味噌汁も用意してあった。朝の残りだけどさ、今温めてやるから!」
「…うん…」
よし、よくわからないがちょっと回復してきたようだ。燐は味噌汁を温めて雪男の腕に注いでやった。さくさくの天ぷらに雪男が(なんだかもうヤケっぱちのように)かぶりついて、
ごくごくを味噌汁を飲み干す姿を見て、燐は少し安堵するも依然顔が真っ青である。
「な、なあ…雪男…一体何があ」
「頼む兄さん…今は何も聞かないでくれ。僕にも僕の身に何が起きたかよくわからないというかわかりたくないというか、認めたくないというか、今ね、全力で頭の中を削除中なんだ。
頼む兄さん。何も聞かないで」
最後になるにつれて語尾が泣きそうに震えていたのは勘違いではあるまい。一体、弟の身に何が起きたというのか。燐は非常に気になったが雪男がこれほどに拒むのなら聞かないほうがいいだろう、と元来物事をあまり深くは考えない燐なので早々に聞きだすのは諦めた。
というか、聞いたらなんか自分にとってもよくない事である気がする…という悪魔的第六感がさりげなく働いていたりしたのだが。
ならば知らぬがお地蔵さんだな、と燐は割り切った(兄さんお地蔵さんじゃなくて仏だよ)。
「そ、そうかーなんだあれだ、腹でも減ってたんだろ!ほれ、まだ一杯あるから食え!」
と、さりげなく自分の分であった天ぷらも雪男に献上する。雪男はがぶりとそれを食った。なんだやっぱり腹減ってただけなのかなーと呑気に考えた燐は、すでに頭の中で明日の献立を考えている。
そういえば最近寒くなってきたし、ふと、あれがいいのではないかと思い、
「なあ雪男ー明日は何が食いてえ?最近すっげえ寒くなってきたしさ、雪男鍋なんて久々に」
「うっわあああああああああああああ!!!!!」
黙々と天ぷらにかじりついていた雪男がここで悲鳴をあげた。がたん!とイスを倒して立ち上がりながら。燐もびっくりして思わず立ち上がる。
「な、なんだ雪男!何があった!?」
「兄さん!相談なんだけど、もう「雪見鍋」のこと「雪男鍋」っていうの止めない!?」
必死すぎる形相で肩を掴まれ訴えられる。正直、ちょっと怖かった。
「はあ?今更何言って…つーかおまえ顔必死すぎ!近い近い!一体どうしたんだよ雪男!今日のおまえなんかおかしいぞ!」
「僕はさっき自分はやっぱりおかしいんだと自覚したばかりだよ!ああもうそれは置いといて!とりあえずもう雪見鍋のこと雪男鍋っていうのやめようよ!
ちゃんと雪見鍋って言おうよ!本来正しく雪見鍋っていうんだからさ、やっぱり僕の名前入れて呼ぶとかおかしいもんね!それはおかしいことなんだよ兄さん、治さなきゃいけないんだよおおおお!!!!」
うわあああ、と兄の胸にすがって叫ぶ弟の背中を反射的に撫でながら、わかったわかったもう雪男鍋っていうのやめような!と燐は言うしかできない。そもそも何故、
この兄弟が雪見鍋のことを雪男鍋と言っていたのかというと、幼い頃、たまたま修道院の誰かが作った初めて食べた雪見鍋を雪男が甚く気に入って、その頃にはもう料理を始めていた燐にねだったときから始まる。
弟に喜んでもらおうと雪男の好みの味にアレンジし、好物の魚も大根おろしもたっぷりいれて作った燐の雪見鍋はそりゃあ修道院のみんなにも養父にも雪男にも好評だった。
その時誰だっただろか。養父だっただろうか。とにかく誰かが「これは雪男のために作ってもらえたから雪男鍋だなーなんちゃって!」と言ったその時からだ(
今思い出してみたらやっぱり発端は養父だった)。以降、なんとなくふざけあってずっと雪男鍋といい続けていたのが、治さずに今に至っただけなのだが。
今更なんでそこにスイッチが入ったのか燐にはさっぱりわからない。むしろ好んで使っていたのは雪男の方ではないか。
しかし、必死に訴える弟をなんとか宥めるためにわかったわかった!といい続けるしかなかった。
「とりあえず座れ!そして飯を食え!…おまえやっぱり疲れてんだよ…腕とか手とかマッサージしてや」
「うわああああああやめてくれええええええ兄さんーーーーーーこれ以上僕を追い詰めないでくれええええええ!!!!」
「わかったわかった!何が今地雷だったのかさっぱりわかんねえけど、もう腹いっぱい食って風呂入って寝ろ!」
マッサージ効果も無駄だったか。いつもなら、「ねえ兄さん、銃撃ちすぎて手が疲れた、もんでー」と甘えてくるのに。今日はこれもだめなのか。
雪男な…改め雪見鍋のことといい…もしかして弟はついに「甘えん坊」を脱する決意でもしたんだろうか。ぐすぐす、泣きながら天ぷらをかき込む弟を見て兄はそう思い至った。
それは兄として喜ぶべきことじゃないか!
燐は自分の弟が異常に甘えん坊だということはちゃんと知っている。世間的にちょっとおかしいのではないか、というレベルなぐらいなのも。
誰も信じてくれないのだが、小さい頃のくっつき癖が今だ治らなくて二人でいるときは自分にくっついてばかりいることが多いし、ドSな癖してちょっときついこと言ったらすぐ泣くし、
夕飯のメニューをおねだりするときも自分の料理を異常なぐらい褒め称えるし。そして極めつけは…雪男の自分宛へのメールであろうか。高校に入学するまでケータイを持ってなかった燐は養父の形見でもあるケータイを受け取って、
雪男とメールで連絡するようになってから初めて知ったのだが、これが弟のメールはっきりいってすごくキモイのである。なんかかわいい顔文字連発するし。「兄さぁん」と高確率でちっちゃい「ぁ」入れてくるし。
それに五分以内に返信しないと、その日の夜は問答無用に同じベッドに入り込んできて無駄にべたべたくっついたまま寝ようとするし。メールというものをそれまでしたこともない燐だったが、それでもこれはちょっとおかしだろう、と
いうことは薄々感づいていた。そして塾生のみんなとも仲良くなって、勝呂や志摩や子猫丸ともメールをするようになってからその疑いは確信に変わったわけだが。
これでも兄らしく何度かキモイメールも甘え癖のことも注意してきたのだ。しかしその度に雪男は、
え、別に兄さんに甘えるぐらいよくない?プライベートなことだし、兄さんにしか甘えてないんだから別にいいじゃない。疲れて帰ってきた僕の癒しを奪うの兄さん、酷いね。
と言い返してくる。ならせめてメールは普通にしろ間違って誰かに見られたりとか誤送信することがあったらどうする、と訴えても、
普通?普通のメールってなんなの兄さん?僕にとっては To 兄さん のメールはこれが普通なんだよ。大丈夫だよ他の人にはこんなメールしてないし。
そもそも僕がメールを誰かに見られたりとか誤送信してしまうようなミスをすると思うの?兄さんじゃあるまいし、ないない。
と、むかつく反論をしてきてから燐は雪男を説得するのを諦めて、ずるずる甘えん坊の弟を甘やかすままであったのだ。
でも、もしかしたらこの弟は今夜それを脱しようとしているのではないだろうか。
燐は甚く感動した。心境的には初めて一人歩きをした赤ん坊を見守る母親に近かったかもしれない。
これが甚だしく勘違いなのだが気付かぬまま、燐は、うんうん、と感無量に頷いた。そうか弟よ。おまえもついに兄ちゃん離れしてくれるのか。ぶっちゃけちょっと寂しい気もするけど、これでもおまえの将来が心配だった俺は今、
すごく安心したぞ嬉しいぞ。
燐は今度は自分の総菜をそっと弟に分け与えた。雪男は無心でそれを食う。まるで何かを忘れようとしているかのように。
そして満腹になったのか、さっきよりは幾分顔色も回復させて、雪男は風呂に入っていった。燐は雪男がようやく兄離れしようとしているという勘違いのもと、鼻歌交じりに食器を片付けながら、ふと思い出す。
あ、しまったそういえば冷蔵庫に今日帰ってきたから作ったプリンがあった。雪男が「おいしい!まさにパーフェクトだよ!」と褒め称えたプリンが。
明日塾のみんなに配るまえに雪男にあげようと思っていたのだが、すげえ天ぷら食ってたしな、今夜はもういいだろう。明日渡せばいい。そうだな、明日は雪男独り立ち(?)のお祝いに腕によりをかけて夕飯作ってやろう。
いやはや、知らぬが仏とはこのことである。
2011.12.4