梟の骨 10

 

寮の602号室は案の定、明かりは消えていた。雪男は暗闇になってさらによく見えなくなった視界のまま手探りで電気のスイッチをつける。 ぱちぱち。何度か点滅して電灯がついた。奥の方から燐のうめき声と布擦れの音がした。が、起きる気配はないようだ。そもそも燐は電気がついたぐらいでは起きない。 それでも雪男はなるべく物音を立てないよう、部屋に入り、コートを脱いでハンガーにかけた。また燐の身じろぐ気配。しかし起きない。 今日は眠りが浅かったりするのだろうか。雪男のベッドと向かい合う燐のベッドを覗き込んでみた。やはり、燐はすやすやと涎を垂らして眠っている。その 腹の上にはクロが丸くなっていて、雪男に気付いたのかあくびをしながら、にゃあ、と鳴いた。クロのその頭を軽く撫でる。クロは眠いのと頭を撫でられて気持ちいいのとで、 目を閉じたまま喉を鳴らした。やはり燐が起きる気配はない。枕元には雪男のマンガがめくられた状態でそのままになっていた。それを見てため息を吐く。兄の燐は本当に自分の状況というのがわかっているのだろうか。 今は一分一秒も無駄にはできないのだ。ふつふつと腹から湧き上がるイラつきはあったが、それは燐の机の上に広げられたまま置いてあったノートを見たら消えてしまった。 ノートを見れば、課題もきちんとやってあったのだ。残念なことに字がきたなくて間違っている箇所は多いが、何度も消しゴムで消して直しただろう痕が見られた。 時間をかけながらもやり遂げていたのだろう。それで少しマンガを読んで寝てしまったわけか。しかし、燐は普段なら課題が終わったらマンガを読むことも忘れて、睡魔に負け、さっさと眠りにつくのだが。
もしかして待っていてくれてたんだろうか。
こういうすれ違いの夜は珍しくない。思えば兄に自分が祓魔師であることを隠していた頃から、夜を空けることは多かった。燐は別にそれを気にかけた様子はなかったし、 あの頃からは何もかもが変わった今現在でも、燐は雪男とのすれ違いの日々を気に病んでいる様子はない。そもそも夕食を一人で食べるのが寂しいとか一人で食べさせるのが忍びないとか、 そんなべたべたした兄弟観を雪男は持っていなかった。おそらく、燐もそうである。時間が合わない日々はこれからも続くだろうし、お互い成長して燐が生き延びることもできればもっとすれ違いや合わない時間というものは増えていくだろう。 兄弟とはそういうものだと雪男は思っている。それでも、それは例えばお互いが普通の人生を歩んでいけるような世間一般的な兄弟でだからこそいえることであって、自分たちはそれとは違うことも雪男は理解していた。 双子でありこの片割れの兄は、人ではない。燐自身は悪魔でも人でもない、と言っているのでそれは確かにその通りなのだろう。
燐の呑気な寝顔を見ながら雪男は思う。
こうして合わない時間とお互いの成長が重なれば、やがて兄と自分は離れていくことになるのだろうか。雪男はそんな未来を上手く想像できずにいる。 目が離せなくていつも世話をかけさせる燐が、自分と離れても大丈夫なほどに成長する姿が。自分が本当に必要でなくなる未来が。いや、今でも兄に自分は必要じゃないのかもしれない、と雪男は思い、疲れたような笑みが漏れる。
不浄王の一件のこともそうだが、燐は雪男の監視をふりきってあるいは抜け出して一人で勝手に行動し、そればかりか一人で強大な悪魔に挑み倒してしまうのだから。 今でもそうなのだ。この先、燐が魔神から継いだ炎を駆使し強くなっていくことは確実であるし、また強くならなければ生き残れない。燐に弱いままでいて欲しいなんて、そんなことを思っているわけではない。 ただ、何もかも燃やす炎を使い、自分の腕を振り切って、前へ進んでしまう兄に自分はいらないのではないか、という不安である。
兄の燐は、昔から自分ではできないことをやってのけ、自分よりひとつもふたつも前を駆け抜けそうして見えなくなってしまう、そんな存在であった。
その兄に置いてかれるのではないか、と雪男は常に不安に思っている。自分の隣をすり抜けて、自分の届かない遠くへ遠くへ。今でさえ人間と悪魔という隔たりがあるのだ。 普段はそんな隔たりを気にかけたりはしない燐と雪男だが、それでも、ふと、雪男は自分たちの間にある決定的な違いを考えることがある。雪男と燐の間には小さいけれど、 深い深い溝がある。その溝は真横に二人の間を裂いていて、終わりがない。ただでさえ、そんな溝が二人にはある。
それなのに、兄はいつか完全に自分を置いくのだろうか。
燐は安らかに眠っている。その寝顔を見ながら考える。 つい数ヶ月前まで形だけであっても普通の少年として生きていたなんて、嘘みたいだった。それでも、その間抜けに少し開いた口から覗く牙が、燐はもう人間ではないことを示している。 雪男はまた息を吐いて、腰に巻きつけていたポーチを外す。
いつか兄に自分は必要ではなくなるのだろうか。いや、今でさえ少し怪しい。自分の心配も守りたいと思ってしたこともすべてすり抜けて前へ走って行ってしまう兄なのだ。 その日は遠くないかもしれない。だったら自分という存在は兄にとって一体どのような意味を持つのだろう。燐のことだ、それを聞けば「俺の弟に決まってるだろ」と笑顔で答えてくれるだろうことはわかるが、 雪男が知りたいのはそういうことではない。兄にとっての自分の存在意義が、雪男は今でも不安定なのだ。
不浄王の件でもそうだったけれど、自分のしたことは結局意味をなさない。それどころか、兄の処刑宣言に自分でも思ってたほど静かに動揺して困惑して思考を停止させてしまったぐらいだ。 怖くて不安でひたすら不浄王へ銃を向けることで、現実から乖離していた。いざというときにあれでは、この先どうしていけというのか。一人で苦難に立ち向かい何もかも一人で抱え込む兄に、自分がしてあげられることはあるのだろうか。 あるいはもう、ないのであろうか。
厨房に移動して事前にメールであったように、テーブルの上にはラップにかけられたクリームシチューが置いてあった。空腹ではあるけれどあの鬼の死骸を思い出してしまって、 少し口元を押さえる。あんなのより無残なものいくらでも見てきたはずなのだが、何か異質さを感じるあの現場はこれまでにないおぞましさをじわじわ脳に伝えていった。 振り切るようにシチューの皿を電子レンジに入れる。スイッチを押せば中の皿がぐるぐる回った。
兄弟の間に必要な距離感というものを雪男は無意識に、あるいは意識的に理解している。燐も同じだろう。一人で何もかも抱え込もうとする癖がその証拠だ。燐は自分の胸の内というものをあまり雪男に語ったことがない。 何も考えてないだけかもしれないが、それでも悪魔でも人でもなくいつ処刑されるかもわからない己の身をどう思い、上手くコントロールできない炎に対してどう思うのか。 それが燐の中で結論を出したことであえて雪男に語る必要がないと考えているならば、雪男にはその先に踏み込むことはできないでいる。何故ならそれは雪男自身にも同じことが言えるからだ。
自分で解決できそうなことや自分の中で完結していることなどを、あえて話して何もかも知ってもらおうとするようなべたべたした兄弟観は、 少なくとも燐と雪男の間にはないし、雪男自身も自分の中で完結してしまったことは燐には話さないことが多い。 それは面倒だからとか心配かけたくなからだとか、そういうものない。自分の片割れともいうべき身近な相手。 世界で一番近い相手。だからこそそこには作るべき距離が必要で、 それがなければきっと血も距離も近すぎて何かが見えなくなったり、おかしくなったりするのだろう。おそらく、 そういう無意識から燐と雪男の「兄弟で必要な距離感」は出来上がっている。燐も雪男も無意識に。あるいは意識して。 兄弟だからこそ、近すぎるからこそ距離というのは必要で、だからこそ踏み入れることのできるものもあれば、踏み入ることもできないものもある。
けれど、雪男はその「兄弟の距離」を燐が明らかに意識して作ろうとしているのではないか、と感じることがある。思えば、燐が覚醒して少し経過してから京都での一件でさらにそれはあからさまになったような気がするのだ。 気がする、というのは雪男にも今一確信が持てないことだからだ。なんと言ったらいいのだろう。遠巻きに燐が自分を見ている、そんなことが増えた気がするのだ。
いよいよ自分を置いていってしまうつもりなのだろうか。
燐が意識してのことか無意識かはわからない。けれど、そんなことを考えてしまって雪男は一瞬動揺した。その瞬間に、ちん、とレンジがなったので慌てて皿を出す。少し熱かった。 スプーンですくって少し冷ましてから口に運ぶ。秋らしい鮭とキノコの絶妙な味わいに少し冷えていた体がすぐに温まり、ほう、と息を吐く。
「…気のせいだといいんだけど」
燐が自分を置いていこうとしているだなんて、気のせいだといいのだけれど。いずれ来る未来に用意されていることだとしても、考えすぎだといいのだけれど。 でも、いざ燐が本当に自分を置いていく日が来た時、自分は一体どうしたらいいのだろうか。
せっかく燐が作ってくれたのに、半分も食べられそうになかった。申し訳ないが残りは冷蔵庫にいれて、明日の朝に食べてしまおう。雪男はラップをかけなおす。 そうして602号室に戻れば兄の燐は寝返りを打ったらしく、仰向けから横に寝転がって布団を抱き枕のように手足で絡めていた。腹が出ている。呆れながら、ベッドの隅に追いやられていた薄い毛布をかけなおしてやった。 クロもベッドの隅に転がっていたが、寝ぼけながらのそのそ動いて毛布の中に逃げ込んだ。
机のスタンドライトをつけ、ポーチから何もなくなった硝子のケースを取り出し、眉をよせてそれを睨む。消滅してしまったキキョウの残骸。やはり悪魔であったのだろうか。 それにしてはやはり掴みどころのない、何かがある。消滅してしまったのでフェレス卿に見せることもできなくなった。雪男は今度は拾った鳥の羽らしきものも取り出した。 カラのケースと鳥の羽。それを交互に見つめていた。思い出すのは子どもの頃、枯れていたはずなのに綺麗に咲いたアサガオと死んだはずなのに翌朝には元気に鳴いていた梟のことだ。 寝ている燐を見る。
「まさか、ね」
思わずそう言葉に出ていた。しかし、思えばアサガオの時も梟の時も燐がそれを持ってきたではないか。元気になったぞゆきお、と笑いながら。そして、それからしばらくはなんとなく養父の獅郎の様子もおかしかったのではないか、と雪男は思い返して気がついた。 アサガオの時だって獅郎は誰かに電話をしていた。珍しく焦った様子で。知識の少なかった子どもの頃なら仕方なかったが、今ならわかる。あれはおかしい出来事だったのだ。雪男の中であれは綺麗な楽しい思い出として仕舞われていたから、今の今まで不審に思ったことはなかったが、 今思い返してみるとおかしな話じゃないか。
しえみの話に聞いただけだが、枯れていたはずなのに季節を越えて咲き続けたキキョウ。
そして、それが食い荒らされた現場に落ちていた鳥の羽。詳しく調べなければ確定はできないが、これはそうだ、その生き返った梟のフータの羽に似ている。 どこかで見た気がしたのはそのせいだったのだ。
一体、何が起きているんだ。
大きな事件だったわけじゃない。状況から考えて中級未満の悪魔である可能性も高い。それでも、とうの昔に起きたはずの綺麗で楽しかったはずの思い出に似通い、それに引っかかり、こんなにも不信感を抱かせるのは何であるのか。 そして、アサガオの時もフータの時も、キキョウの時も。その場にいたという燐。
まさか。そんな。
兄に引き継がれたのは悪魔や(燐が理性を失えばおそらく)人さえ殺せるそんな恐ろしい力のはずだ。
枯れた花を元に戻し、死んだはずのヒナを生き返らせる。そんな神のような力が果たしてあるのだろうか。
本当にあるとしたら、何故、兄は--------
「…兄さんにも話を聞いてみる必要があるな」
しかし、ただの偶然で気のせいだといいんだけれど。



雪男の静かな独り言は、602号室の隅にふき溜まっている影の中に呑み込まれていく。















2012.1.3