「すごい、アサガオ、すごくきれいだね、にいさん!」
青く咲き誇ったアサガオはきらきら煌いて水の露を湛えていた。
まるでこの世のものではないかのような、美しさを持って雪男を喜ばせた、笑わせた。
「にいさん、さっきはごめんね…」
弱々しい声で謝る雪男に燐は、
「ううん、いいんだ、…なあでも俺のこときらい?」
「きらいなんかになるわけない!」
そんなわけない!
と言ってくれた弟に兄は幸せそうに、笑って、小さな白い手を握った。
あの頃の思い出は楽しく美しいものとして雪男の中にずっと仕舞われていた。それを掘り起こした今、
人がいつまでも子どものままではいられないように、もうあの頃のように純粋ではいられなくて、
綺麗なアサガオも元気になったフータの思い出も疑うべき過去として再び解いてみなければいけないことが、悲しくないと言えば嘘になる。
「昨夜遅かったのか?」
寝癖でぴんぴんあちこち跳ねた髪のまま、燐はぼんやりと雪男に話しかけた。燐は今フライパンで卵焼きを作っていて、
テーブルではすでに身支度を整えた雪男が朝ごはんの食器を出している。まだ半分寝ているような状態なのかふらふら揺れながら卵焼きを焼いていく燐に雪男はいつもなら、ちゃんと顔洗え、
と洗面所に押し出すのだが今日はそれを言う余裕がなんとなくなかった。
「うん、日付が変わった頃だったから。でもなんで?」
「さっき冷蔵庫見たけどシチュー残ってた」
「ああ、ごめん…なんか食欲あんまりなくてさ」
夕飯を残したことを特に怒っているわけでもなさそうで(それより眠いのだろう)燐は、そうかあ、とまるで寝言のように呟くともう卵焼きを手際よく弁当箱に詰めていた。
半分ぐらい寝ているはずなのに朝ごはんと弁当を作る手は正確だ。毎日見ていることとはいえ感心するぐらいだった。雪男はまだゆらゆら眠そうに頭を揺らしている燐に代わって冷蔵庫から昨夜仕舞っておいたシチューを取り出し温めなおすことにした。
朝ごはんはすでに用意してあるが、昨夜はなかった食欲が少し戻っていたので全部食べきることはできるだろう。雪男がシチューを温め直す様子を燐は目をこすりながら見つめていた。
「…大変な任務だったのか?」
「ああ、うん…そうだね。少し…」
二人とやっと起きてきたクロと一緒にテーブルを囲んで、いただきます、と手を合わせる。雪男は温め直したシチューを口に運びながら、考えている。
まだ瞼をぱしぱししながら目を覚まそうとしている燐。いつもの朝。いつもの食事。特に変わったことが日常で起きているわけではない。しかし、
昨夜思い起こしていたように雪男は目の前の兄と開きつつある何かに自分が揺らいでいるのを感じていた。
「…奇妙な任務でさ」
燐がバターを塗ったトーストを頬張って飲み込んだとき、雪男は呟いた。ん?と燐は首をかしげる。
「悪魔を捕食するらしい悪魔が学園にいるみたいなんだ」
「…へ、なんだそれ、大丈夫なのか?」
雪男の言葉に目が覚めたのか半分閉じられていた青い目が一気にクリアになった。ぱちぱち、と瞬きを繰り返している。
食事を続ける振りをしながら雪男は兄のそんな表情の変化を見ていた。まるで何かを読み取ろうとしていた自分に気付いて、朝ごはんの味を失った気がした。
また昨夜の鬼の死骸も思い出して食欲も失せていく。
「フェレス卿の結界があるから何か入り込んでるとしても中級以上はないだろうし…」
燐が顔をしかめたのがわかった。雪男と同じで以前のネイガウスの件を思い出しているのだろう。そもそも燐はメフィストのことをあまり信用してない。
「…悪魔を食う悪魔なんているのか?」
コンソメで煮込んだベーコンとキャベツをを咀嚼しながら燐が尋ねる。
「あるよ。珍しいことじゃない。悪魔の中には自分のテリトリーに敏感なのもいるし力関係もはっきりしてるのが多いし、
強い悪魔がその領域を侵した弱い悪魔を捕食するのは稀でもあることなんだ。…普通の動物にもあるみたいに共食いだって起きることがある。昨夜の任務は、
授業用の鬼の、心臓が食われてた」
ぽろ、っと燐の口の端からベーコンのカケラが転がった。顔をしかめて嫌そうにしている。
「おい、おまえ、飯食ってるときにそういう、」
「心臓だけなんて妙な話ではあるよね」
おい、と燐の咎めるような声が自分に届かないような気がした。一体、自分は何をこんなに焦っているのだろうか。手は最早止まっていて、やっぱりシチューも他の朝ごはんも残っていた。
トーストが冷えていくのが目にみえてわかるようだった。
「それにね、食われたのがたぶん鬼の心臓だけじゃないみたいなんだ。…しえみさんの庭にも被害があった」
「おい、それ!」
「大丈夫、その場で調べたけどしえみさんの家に被害らしいものはないよ。今日、もっと詳しく調べるけどね。でももっと、妙だったのが」
大丈夫だった、という言葉で燐がほっと胸を撫で下ろしたのがわかった。この兄は、いつだって自身のことは二の次だ。そんな兄の性格を尊敬していたこともある。
今でもそうだと思う。けれど、幼い頃よりその想いは純粋ではないことぐらい雪男にはわかっていた。そうだ、自分はいつだって悔しいのだ。燐も朝食を食べる手を止めていた。
雪男はひとつ息を吸う。
「…しえみさんの家に奇妙なキキョウがあったって、聞いたんだけど、」
一瞬。燐の顔から表情が無くなった気がした。失せていく食欲のように。そして雪男はしっかりそれを見ていた。
「しえみさんの家で食われたのはそのキキョウだ。同じ悪魔がやったことかわからないけどたぶん似たような状況だったからそうだと思う。
僕が行ったときにはもう残骸しか残ってなかったし、サンプルもダメになってしまったから調べようがないんだけど…
枯れてたはずなのにまた綺麗に咲いたんだって。しかも、数ヶ月ずっと」
頭の中に蘇えるのは、あのアサガオとフータの思い出である。燐も同じだったのだろうか、いつもはまっすぐ人の顔を見る兄が珍しく視線を伏せていた。
残っている朝ごはんを見ているわけではあるまい。
「しえみさんから聞いたよ、兄さん、そのキキョウが枯れたとき、花壇、手伝っていたんだってね」
何か知ってる?
燐の睫が震えた気がした。この兄は隠し事が本当にヘタだと思う。小さい頃からそうだ。小さい頃から兄は純粋で、人は成長していくとやがてそれを失う人達がほとんどなのに
(それには自分も含まれている)、兄は変わらずその心を持ち続けている。兄の中であのアサガオとフータの思い出は今でも綺麗で楽しい思い出のままなのだろうか。あるいは。
「いや、別に変わったこととかなかったと思う」
「兄さん、正直に答えてくれ」
これはなんだまるで尋問だ、と雪男は思った。伏せられていた青い目が雪男を見た。傷ついたような揺らぎがわかったが、雪男は止めなかった。
「そのキキョウの話を聞いて初めて僕は不信に思ったんだけど…昔あったよね、枯れたはずのアサガオが元に戻ったり、死んだはずの梟のヒナが元気になってたり。
しかも、しえみさんの庭や鬼の食われた場所には鳥の羽が残ってたんだ。確信はないけど、なんとなくあの梟の羽に似てた」
「………梟の羽?」
燐が小さく呟いた。
「今回のキキョウはあの時の出来事と似てるんだ。しかもそれが他の悪魔に捕食された。昔僕達が保護してた梟とよく似た羽を残して。何かおかしなことが起きてるとは思わない?何か起きてるならその原因を過去から探ってでも調べる必要があるんだ。
そうすればおのずと学園に入り込んでるらしい悪魔のことだって何かしら対策のしようはある」
違う。話しながら雪男は思った。違う、自分は本当は不安なだけだ。それを早く取り除きたいだけだ。あの頃の、アサガオもフータのことも、綺麗に輝く思い出のままにしておきたいのだ。
「…兄さん、こんなこと改めて言いたくないけど、兄さんは人間じゃない」
ぴくん、と燐の肩が揺れた。
「継いでしまった力だって普通じゃないんだ。もしかしたら、兄さんの中で何か起きてる可能性だってあるし、」
「雪男、バカなこというな」
燐がふるふると首を横に振った。どこか沈んだ声で、それが兄らしくないと雪男は思った。兄らしくない。目を逸らす。それが兄らしくない。
「俺が継いだのは…悪魔やヘタすりゃ人を殺せる力だぞ。そんな…何かを「元にもどせる」っていう神様も持ってないような力があるわけねーだろ。考えすぎだ。
気のせいだよ…そんなのがあったら…」
燐は口篭った。燐らしくない。雪男は思った。目を逸らす。見るべき何かから目を逸らそうとしている。何故だ。兄の燐はこんな兄ではなかったはずだった。
見るべき事実から逃げるようなそんな兄だったろうか。誰が兄をこういう風にした?
「兄さん…本当に、」
何もしてないんだね?
燐の青い目が、一度大きく見開かれてから、すう、っと細くなった。
「やめろ、雪男、そんな目で俺を見るな」
そして急に立ち上がり半分も減ってなかった朝ごはんを片付けだした。雪男はまだイスに座ったままだった。荒々しく食器を洗う兄の背中を見る。
「そんな目ってどんな目だよ」
自分の声に苛立ちが含まれているのが自分でもわかった。
兄は答えずに食器を簡単に洗ってしまうとそのまま弁当箱を引っつかんだ。この場から去ろうとしているのがわかったが、雪男は強引に引き止めるのも忘れていた。
いつも時間が合えば一緒に登校しているけれどその意志がないのは明らかだ。それを見て、もういい、と雪男はため息をついた。
ずっと呼吸を止めていたような気がした。
「…何か思い出したらすぐに僕かフェレス卿に言うんだよ。それだけは約束して」
燐はやはり答えない。
代わりに弁当箱をやや乱暴にカバンに入れて雪男に背を向けながら、
「…俺の向こうで何を見てるんだ、雪男」
と呟いてから出て行った。
にゃあ。
不安そうなクロの鳴き声で我に返る。ずっと燐と雪男のやり取りを見ていたのだろう、大きなアーモンド形の目がまっすぐ雪男を見上げていた。
そっと頭を撫でてやっても昨夜のように気持ちよさそうに目を細めてはくれない。雪男にクロの言葉はわからないがきっと、りんとけんかしたのか?と尋ねているのかもしれない。
「ケンカ、になるのかな」
こんな嫌な気持ちしか残らないケンカはもしかしたら初めてではないだろうか。ケンカをしたときだって兄の方が先にそのことを忘れるか、もういいって、と笑って許してくれることがほとんどだ。あるいは、
弟とは戦わない、と銃を向けられても自分を弟として見てくれるように。燐とのケンカは後腐れがないのがほとんどだった。けれど、今のは違うだろう。
兄の燐が、今までない態度を取っているのだ。長期戦になりそうだ、とぼんやり思った。朝ごはんはほとんど残っていた。燐に申し訳なかったが、
片付けてしまうことにした。まだ登校まで少し時間があったので、食器も洗っておく。洗剤の泡で皿の汚れを洗いながら雪男は考える。
…俺の向こうで何を見てるんだ、雪男
「そんなの…兄さんを見てるに決まってるじゃないか」
果たして本当にそうだったか、と別の自分が問いかける。雪男はそれに答えられなかった。雪男の足元でまたクロが悲しそうに、にゃー、と鳴いた。
あるいは、兄の中であのアサガオとフータの思い出は、最初から綺麗な思い出ではなかったのだろうか。
あの頃の思い出は楽しく美しいものとして雪男の中にずっと仕舞われていた。
それを掘り起こした今、人がいつまでも子どものままではいられないように、
もうあの頃のように純粋ではいられなくて、綺麗なアサガオも元気になったフータの思い出も疑うべき過去として再び解いてみなければいけないことが、
悲しくないと言えば嘘になる。
2012.1.4