「しえみ!」
塾へ向かう廊下を歩いていた背中に呼びかければ、きゃあ、と大げさに叫ばれた。振り向くその子は大きな目をくりくりさせて、声をかけたのが燐だとわかるとほっと息を吐いた。
「燐?ごめんなさい急に呼ばれたからびっくりしちゃった」
照れたように微笑むしえみはかわいいが、燐は、わるい、と軽く謝るだけで済ませた。
「どうしたの燐?こんな時間に塾に来るなんて珍しいね」
しえみは祓魔屋での手伝いがないときは、早めに塾に向かっている。燐も、もしかしたら今日は、と早めに来ていた。なるべくこれから話すことを他の塾生、ましてや雪男に聞かれたくなったのだ。
秋の気配が深まる中、廊下は少し寒かったが燐はその場で話すことにした。
「しえみ、おまえの家で何かあったんだって?雪男から聞いた」
燐の言葉に数秒しえみはきょとんとしていたが、すぐに、ああ、と声を上げる。
「うん、昨日雪ちゃんに調べてもらったの」
「花壇が荒らされてたとか」
「確かにそうなんだけど、でも荒らされてたのキキョウだけで、ほら、燐が6月になる少し前に手伝ってくれた花壇にあった」
枯れていたキキョウを思い出す。確かにあれは燐が花壇を手伝った直後に元気に咲いていたらしい。
「…変なキキョウだったって、しえみから聞いたって雪男言ってたけど…」
何故か不安になりながらしえみに尋ねると、しえみは、少し目を伏せて考えているようだったが、顔を上げたときの彼女は、ううん、と首を横にふった。
「確かにちょっとおかしかったけど…でも、私、あの子にはなんだか悪いものを感じなくて」
はにかむしえみに、燐は何故か苛立ってしまう。
「おまえ、そんなこと言ってたら…前だって悪魔に憑かれかけたことあったじゃねーか」
「雪ちゃんにも似たようなこと言われた。雪ちゃんは怒っちゃうかな、ってあんまり言わなかったんだけど、でも私、あの子は悪いものだったって言い切ることができなくて」
しえみ自身もどう話したらいいのかわからないのか、うーん、と首をかしげる。以前悪魔に憑かれたというのに、怪しいキキョウをすぐに処分しなかったなんてほんと呑気なのか優しいのか、と燐は内心呆れていたがあのキキョウが一体しえみに対してどうであったのか、
燐は知りたかったのだ。あのキキョウの正体がなんであったのか。それがわかればアサガオのこともフータのことも今起きているという事件のことも、おのずとわかるかもしれない。
そして自分が本当に関係しているのか、いないのか。
しえみはこう答えた。
「燐、あのキキョウ綺麗だった。雪ちゃんは悪魔かもしれないって言ってたし燐みたいに心配もしてくれたけど
…それでもあのキキョウ優しいような気がして…私、何故かとてもうれしかったの。
私にはわかるよ。あれは悪いものなんかじゃないって。きっと優しいものだったんだって」
そうだね、なんだか燐みたいで。
頬を赤くしてそう告げる少女は愛らしかった。花が咲いたような笑顔だった。
しかし、燐は、背筋にぞわりと何かが這い上がっていくのを感じた。
「………」
「…燐どうしたの?」
しえみが薄い金髪の髪を揺らして燐を覗き込んだとき、ず、っと二人の側に誰かが近寄ってきたのを感じて、二人は驚いて顔を上げた。
「え?」
「あ、あれ?」
二人は同時に間抜けな声を上げていた。
隣に来たのはてっきり塾生の誰かかと思ったのだが、
そこにいたのは灰色の切れ長い目を瞬かせたブロンドの髪の女性であった。
背が高く、肌が白い。それだけで日本人ではないだろうということを察することができる。年は燐達より少しだけ上のように見える。
そして、そして祓魔師のコートを着て胸には祓魔師であることを証明するブローチをつけていた。
「あ、あの、えーと」
おどおどするしえみを灰色の目が見て、何やらよくわからない言語で話しかけてくる。薄い赤を塗った唇が艶かしく動き、意味不明な言語を連射してくる。
どうやら何かを尋ねているようだ。しかし、二人には全然何を言っているのかわからない。
そして、言語を紡ぐ口。
そこから覗く並びのいい歯の中に鋭く尖ったものを見つけ、燐は、まさか、と一瞬思ったがそれより意味不明の言語の方に焦った。
「り、燐、この人何話してるんだろう!?」
「お、俺だってわかんねーよ!っていうか誰こいつ?新しい講師か?」
だらだら変な汗をかきながら二人はブロンドの女性を見ていたが、女性は言葉が通じないとわかるとため息をついてゆるくウェーブのかかった長い髪を手でなびかせた。
ふわり、と控えめな甘い香水の香がした。
「おん、おまえら何やっとる?」
渡りに船。すっかり困り果てている二人にまるで言葉が通じなくて同じく困っている女性。そんな奇妙な光景を目撃したのは、丁度、塾へ向かおうと廊下を歩いてきた勝呂と志摩と子猫丸だった。
少し後ろには出雲もいた。
「おお、勝呂!丁度いいところに!なんかわけわかんねー言葉で話されてさ、困ってんだよ!なんとかしてくれ!」
すぐに燐は勝呂に泣きついた。勝呂は女性と固まっていた燐としえみを交互に見て、ため息を吐いたあと、勇敢にも女性に話しかける。
女性の祓魔師がまた燐達にはわからなかった言語で話し出したが、なんと、勝呂はそれに答えていた。同じような言語で。呆然とそれを見る燐としえみの前で、数秒話終えた後、女性は、
thank you 、と微笑みかえると塾の教室とは反対側へと歩いていった。
そしてその際、ちら、っと燐へ視線を向けると、女性はふよふよ動く燐のしっぽに気づき大きく目を見開く。
燐はそれに首をかしげたが、女性は何故か戦くように目を震わせると、軽く頭を下げた後、燐の横を歩き過ぎていった。燐は、なんだったんだ?と目を瞬かせる。
「勝呂すげーなー!外国語ぺらぺらじゃん!」
「阿呆、あれは英語やったぞ!しかも相手の人学生でもわかるように話してくれとったわ!一言もわからんかったのかおまえは?」
ここで「おまえらは」と言わないのが勝呂の優しさだが、燐としえみは二人揃って、項垂れる。中学も碌に行っていなかった二人で燐は普段授業をまともに聞いていない。
いくら中学生にもわかるように簡単な英語で話してくれていたとしてもわからないだろう。女性はすでに廊下から去っていた。未だ志摩が名残惜しそうに向こう側を見ているのを勝呂は頭をどついて、我に返させる。
「羨ましいですわー坊!あんな美人な外国のお姉さんと話せて!携帯番号も聞いてくれたらよかったのに!」
「おまえこそ阿呆か!坊主の癖にほんまにそんなんばっかりやな!聞きたかったら自分で聞けや!」
「え、無理無理ー俺英語のテストで30点以上取ったことありませんもん」
ちなみに燐は10点以上取ったことがないのだが、それは黙っておいた。志摩のいつもの癖に子猫丸は苦笑し、出雲はサイテーと心底嫌そうな顔をした。
「…あの人、なんて話してたんだ?」
教室に入りながら燐は尋ねた。
「なんや、ヴァチカン本部から任務の関係でこの日本支部に用があって来たんやけど理事室がわからんくてうろうろしとったらしいで。急なことやったし、
充分案内されんまま単独でこっち来てたせいらしい。で、理事長室への道教えただけや」
机の上にすでに教科書と暗記ノートを広げる勝呂に、変態、とぼやいた志摩の頭へ再び拳がめりこむのを見ながら、ふーん、と燐は席についた。
今から追っかけてあのお姉さんの電話番号聞こうかな坊ー「携帯の番号とメアド教えてください」って英語でどう言うん?と懲りずに呟く志摩に出雲はまた、サイテー、と吐き捨てた。
燐はばさばさと教科書を机に置いて、考える。
「…あのおねーさんってさ…てハーフ、だよな?」
きょとん。としえみと京都三人組は目を見開いた。出雲だけは猫のような紫の目を細める。
「ほら、悪魔と人間のハーフって意味で」
「え、そうやったん?坊、あのお姉さん、そんなこと言うてました?」
子猫丸は首をかしげた。
いや言うてない、と勝呂は否定する。
「いちいち言わないでしょう、そんなこと」
出雲が頬杖をついてそう言った。
「あんたなんでわかったの?」
「いや…話しているとき、牙見えたし、」
こんなのが、とあーっと燐は口をあけて自分の牙をみんなに見せる。人とは違う鋭い牙。
「尻尾は出してなかったから確信できなかったけど、でも、なんとなーく、そうかなって。…なんか俺見てびびった感じでさ…なんでかな?」
しえみと勝呂達は黙ったが、出雲は、ふん、と何故か尊大に腕を組んだ。最近わかってきたことだが、出雲がこうして強気な態度を取るときというのは何か不安なことがあるときか、それとも誰かをなるべき気遣おうとしているときだ。
燐はそれを知っていた。そしてこの場合後者だろうな、とも。
「それはあんたが魔神の息子だから本能的に怖くなったんでしょう?」
おい、と勝呂が咎める声を上げたが、いいって、と燐は笑って制した。出雲のはっきりした物言いを燐は気に入っている。それに、それを性格が悪いとかデリカシーがないとかそんな否定的に思ったこともなかったのだ。
勝呂は違うらしいが。燐にとってはこういう潔さがむしろ優しさになるときがあった。
「…俺以外のハーフの人って初めて見たけど…そうかー俺はハーフの人達にも嫌われてんのか」
はは、と笑い飛ばしたが、急に教室が、しん、と静まり返ってしまった。京都の一件から新たな絆を結びつつあるが、やはり直接的なことがあると妙に気を遣ってしまうのだろう。別にそんなのいいのに、と燐は思う。
「嫌われてるっていうか、本能だって言ったでしょ?悪魔はあれでも上下関係がはっきりしてるのよ。ハーフの人達の中にも意外とそういう傾向があったりするの。
半分流れる悪魔の血がどうしてもそういうことに反応しちゃうって話。だから、あの女があんたにびびったりしてもそれは仕方ないわよ」
沈黙を破る出雲の言葉に、燐は、へらっと笑う。ありがとうな出雲、と言うと、ふん、とそっぽを向かれた。しかし耳が赤かったのがわかる。自分の正体のことでみんなと気まずくなった時、
一人だけ燐を恐れなかったのは出雲だった。本当にいい奴だよな、と燐は胸の奥に感じたわずかな寂しさが雲散していくのを感じた。それは出雲の言葉以外にも、ま、あんま気にしよるな、と珍しくばんと背中を叩いてくれた勝呂のおかげで、
「燐、私達は燐のこと怖くなんかないよ」
と微笑んでくれたしえみのおかげだった。燐は、つん、と鼻が痛くなるのを感じたが耐えた。
みんな本当に優しくて、いいやつだ。
燐は強くそう思う。幼い頃は忌み嫌われてきた自分が今こうして仲間に囲まれて自分を信じてもらえているなんて、それこそ信じられないような話だった。だから燐は思うのだ。
みんなを守りたい。やさしいことのために力を使いたい、と。
だから、なるべく俺だけでなんとかする。
勝呂には一人で全部背負うなと散々言われてきたし今の自分の考えていることを言えばきっとまた怒るだろう。それでも燐はそうしたほうがいいと直感的に思った。
アサガオ、フータ、キキョウ。そして悪魔を食う悪魔。これについて「人間」を巻き込んではいけない、そんな嫌な予感を燐は強く感じていたのだ。
これは人間が及ぶにはきっと遠すぎる。
悪魔でさえ及ばない、深い深い、泥の底に埋まっていたおぞましいものが這い上がってきたように。
足りない。足りない。足りない。この梟のくちばしで抉り呑みこみ私のカラの心臓の糧とするが、それは弱い悪魔程度では足りなくなった。
だがそれは私が変化しつつある証拠であった。私の体は肉塊をつけ膨らみだし私のカケラほどしかない心臓は片割れを求めて渇いている。
最早、弱い悪魔程度では足りないのだ。それにはあの片割れに近い心臓を持つものからまた糧にしなければなるまい。近く、その片割れに遠くも近い存在がいることに気付いた。
この要塞の中の結界は私には効果がないが、それでも感覚が鈍くなる傾向にあるのでその近い心臓を持つものの存在も感じ取りにくい。特に、
私の片割れは同じ要塞の中にいながら居所が掴みにくかった。まだ私のものとするには早いが、あれには接触しておきたい。しかし、おそらくこの要塞を守る悪魔によって固められているのだろう。
片割れの居場所はよくわからない。焦ることはない。私は隠れるのが上手い。闇に潜み、汚泥にもぐるのには慣れている。焦ることはないのだ。
まずはカラの心臓をさらに大きくしていかねばならぬ。私は次の獲物を求めて、そう、っと隅の影の中を漂った。誰にも何にも私を阻むことはできまい。何故なら、私には何も与えられなかったからだ。
2012.1.15