ずいっと差し出されたおにぎりに雪男は顏をしかめた。
「おまえなあ、遠足やないぞ」
雪男の代わりに勝呂がつっこみを入れる。だが燐は、腹が減ってはタタカイはできないっていうだろ、と勝呂にもタッパーに入れたおにぎりを差し出してきた。
それを言うなら、いくさ、や、戦。と訂正しながらもおにぎりを受け取る勝呂。なんだかんだで若い食欲には勝てないらしい。勝呂も燐の料理の腕は知っているので、
食べてみたい、という純粋な食欲だろう。
雪男も同じだったので仕方ないという風を装っておにぎりを受け取る。
深夜。すでに0時を回った頃である。
例の仕掛けをほどこした教室で、燐と雪男と勝呂はなるべくひとかたまりになって教室の隅に潜んでいる。向いの隅には湯ノ川と志摩と手騎士の女が座り込んでいた。
湯ノ川と志摩はすでに燐お手製のおにぎりを受け取って食べてしまっていたが、女はそれを受け取ろうともしなかった。それを思い出して雪男はおにぎりにかぶりつく。
ほどよい塩加減に中身は雪男の好きな鮭が詰まっていた。この間、結局残してしまった鮭のシチューのことも思い出してしまって残さず食べる。満たされる小腹が逆立った気持ちを撫で付けていった。
教室の真ん中には鬼が二匹とスズランの緑男が一匹。緑男は落ち着いた様子で座り込んでいたが、鬼のほうは不安げに檻の中をうろうろしていた。
「いつ来るんだ?」
さすがに眠そうに燐はまぶたをこすっていた。
「そんなのわからないよ」
雪男は腕時計を確認する。時間を示す盤面が暗闇のなかぼんやりと浮かび上がっていた。悪魔が警戒して逃げないように一切の明かりはついていない。窓もカーテンを閉め切っている。
すでに燐達がこの教室で待機して二時間は経過しようとしていた。目的の悪魔がやってくる気配はない。他の講師達とも交代制だがいつでも駆けつけられるようには準備してあった。
「勝呂ー子猫丸と伽楼羅はよかったのか?」
自分で作ったおにぎりを食べながら燐が尋ねる。
「ほんまは俺だけでもよかったんやけどな。志摩と子猫丸がせめてどちらか連れてけってやかましいし。そんな大勢で行動もできへんから志摩だけきた。…
あの女が来るってわかったら強引にな…。
奥村先生や湯ノ川先生もおるし二人とも連れてくのは大げさやろう。
伽樓羅は暗闇では目立つしな、今ここにはおらんけどいつでも呼び出せるようにしてある」
勝呂はどこかうんざりしたような顏で向いの志摩を見た。外国人の美人な女性に顏がだらしなくなっているのがわかる。勝呂を守らなければならない立場だというのに、
思い切り私情でついてきたということは丸わかりだ。女は燐以外の人間にならば割と愛想はよかった。先ほどまで志摩と(ほとんど言葉は通じていないようだったが)笑い合っていたぐらいだ。
本来そういう性格なのだろう。
「君たちのことは責任もって僕達講師が守りますが、足元の結界からは絶対出ないようにしてください」
雪男が腕時計から目を離して再度言い聞かせてきた。雪男のいう結界は燐達と志摩達を囲っている円型のものだ。メフィストが特別に仕掛けたものらしく、
悪魔からこちら側を隠匿する効果があるらしい。ほとんどどんな結界さえも効果のないと思われる悪魔だが、メフィスト曰く「これが効果のない悪魔はほぼいないですよ」
ということらしい。燐は訝しんでいたが、あれでも名誉騎士で純正の悪魔であるメフィストだ。メフィスト自身がそういうならば、間違いないのだろう。ちなみに、燐がメフィストも魔神の息子にあたる悪魔なのだと知ったのは、
不浄王討伐の直後だった。それはなぜか「そろそろ、そういう時期なので」とメフィスト自身から告げられていた。
燐は断固としてあれが兄にあたるのだということは認めてないが。
その大悪魔であるメフィスが仕掛けた結界の中、全員は目的の悪魔の出現を待っていた。悪魔が現れ下級悪魔を捕食して結界や床にまいた薬品の効果が出てきたら、
雪男と湯ノ川が先行して相手を捕獲なり祓魔するなり仕掛ける。万が一、悪魔が暴れたら燐と勝呂の伽樓羅で押さえ込む。魔神の青い炎と上級悪魔である伽樓羅の赤い炎に焼かれない悪魔はいないだろう。
そういう意味でも(雪男は不本意だが)燐と勝呂は適任であったかもしれない。なにせ、相手の正体がほとんどわからないのだ。
燐の夜食を食べ終えてしまえば、あとはひたすら沈黙だった。
燐はまっすぐ檻に閉じ込められた下級悪魔を睨んでいる。暗闇だがその前を睨む青い目はまるで水晶のように浮かび上がってくるようだった。
教室は闇に包まれている。
床も壁も天井も。真っ黒な墨で塗りつぶしたようで、立体感のない世界にいるようだった。
今夜はやたら闇が濃い。
雪男はそう思う。
祓魔師として二年と少し活動してきている雪男なので夜の世界で悪魔を祓うことは当たり前で慣れているはずなのに、それでも今夜は暗いと感じる。心無しか、
檻の鬼もまるで闇に怯えいているようだった。悪魔のはずなのに。唯一、緑男だけが闇の中で座り込んでいる。スズランの花が白く浮き上がっていた。
そうしてさらに数分待ち、そろそろ交代の時間にさしかかったころ、闇の中で浮いていたスズランの花が揺れた。
向いの手騎士の女が、きゅっと、ルージュを引いた口を結ぶ。湯ノ川がジェスチャーで「来た」と伝えた。
雪男は銃を取り出す。音を立てずに銃を扱うそれは子供でありながら洗練された手つきだ。燐も背中に負った倶利伽羅に手を伸ばす。
妙だな、と燐は思った。悪魔の気配をまるで感じない。それは雪男達も同じなようで、目線を教室の隅から隅まで走らせるが、気配が掴めない。物音もしない。
それでも何か掴みどころのない煙のような異質な空気が充満しているようだった。だからこそ、出処がわからない。檻の中の鬼が落ち着きなく、がうがう、と鳴き出した。
ぽたり。
唐突に燐の肩に何か液体のようなものが落ちた。なんだ、と思って手に取ってみれば、
「…なんだこれ?」
べったりと粘着性のある黒い液体みたいなものが手に張り付いていた。それはぞっとするほど、冷たい。
「兄さん、」
それに気づいた雪男が、どこからそれが、と言おうとしたとき。
鬼の悲鳴が上がった。同時に檻の壊される凄まじい金属のひしゃげる音。
いつ入り込んだのか。檻が何か黒いものに、覆われていて、ぐしゃりと潰されたそれから鬼が二匹飛び出した。
しかし、ず、ず、ず、ず、ず、と液体が引きずるような音がしたかと思えば二匹の鬼は何か黒いものに絡め取られ、悲鳴も上げられないままその黒いものに包まれる。
数秒して、ぽい、と吐き出された鬼は胸の辺にぽっかりと穴があいていた。それを見て、燐は思わず、うえ、と呻いた。雪男達は必死に目を凝らしたが、
闇の中にうごめいているのだろうその悪魔は、影という影に同化しているようではっきり輪郭すら見えない。
鬼を食い終えたらしい悪魔は、次にスズランの緑男に飛びかかった。緑男は特に抵抗もせずに呑み込まれる。
ごくん。
やけに生々しく個体の呑み込まれる音がした。
その時、床に仕掛けた魔法円が浮かび上がり、燐とハーフの女にとって少し嫌な匂いのする薬品がじゅわりと蒸発した。
黒い塊が、ぎょ、っと身をすくめたのがわかる。
今だ、と雪男が叫ぼうとしたときだ。
ぽたり、ぽたり、ぽたり、ぽたり、ぽたり、ぼたぼたぼたぼたぼた、びしゃん。
肩から背中にかけて何かが落ちてきた。驚いて肩に落ちたものを見れば、それは粘着性のあるあのタールのような液体だった。
「なんだこれは!?」
向こうで湯ノ川の声が聞こえた。はっとして天井を見れば、そこからあの液体がまるで雨のようにこぼれ落ちてきていたのだ。
「なんやこれ?!」
勝呂の抑えた声も聞こえたが、それに触れないで!と雪男が小声で返した。
「雪男!」
燐は気づいた。身をすくめたはずの黒い塊が、まっすぐ、志摩達のいる隅の辺りを見ていたのだ。どこに目があるかもわからない姿をしていたが、それが燐にはわかった。
見えている。あの悪魔にははっきりこちらが見えているのだ。
ず、ずずずず、ずっ、ずっ、ぞぞぞぞぞぞっ。
引きずるようにしかし凄まじい速さでそれは志摩達に向かっていく。薬品も魔法円も効いてないのは一目瞭然だった。はじめに動きが止まったのは床に何か仕掛けられていると気づいて、
警戒しただけだったのだろう。
「志摩ぁ!!」
それに気づいた勝呂が叫ぶ。雪男は銃を発砲した。どん。それは確かにまっすぐ悪魔の体と思われるものに当たったはずなのに、悪魔は止まらずそのまま志摩達に襲いかかかった。
三人の悲鳴が上がった。
どしん、と人間一人が壁に当たる音。湯ノ川だろう。ぼんやりと体に絡みつく液体を振り払おうともがき、聖水をばらまく姿が見えた。
しゃらん、と志摩の持っていたキリクが鳴る音がした。
そして、絹を裂くような女の悲鳴。
「離せえ!!」
志摩の叫ぶ声が聞こえた。闇が異常に濃くなった中、最早人の視力程度では何がどうなっているのか確認できなかった。雪男達はすでに効果などなかったとわかった結界から抜け出し、
三人の元へ駆け出していたが、天井から床から湧き出る液体がまるで意思を持っているかのように足に絡みつく。進めない。雪男は聖水を取り出すと床にぶちまけたが、
しぶとくそれは足に絡みつく。その闇の中でも悪魔の視力を持つ燐は、はっきりと見た。
黒い口のような空間を開ける闇の塊が、女の細い足を絡め取って、引きずっている。
その手は志摩が持っていたキリクを掴んで志摩が必死に引っ張っていたが、どんどん、引きずり込まれていく。黒いものがキリクを振り払ってしまい、
志摩は勢いで床に投げ出された。女の手入れされた綺麗な爪が床を引っ掻いたが、爪が哀れにも折れただけだった。ブロンドの髪が、恐怖に叫ぶ女の顏が、
闇に浮かぶ。
「た、…すけ、て…!!!!」
慣れない日本語での叫びに、燐は、兄さん!という雪男の声を振り払って倶利伽羅を抜いた。
ぼう。青い炎が闇を照らす。燐の耳がさらに尖り、悪魔の目つきになる。
虚無界でも物質界でも恐れられるその炎は、濃すぎる闇を暴いていった。足元の液体が燃える。燐は同時に駆け出していた。
「兄さん、やめろ!!!!」
「やめろ、奥村ぁ!!!!」
燐は闇の悪魔に向かっていくと、今にもその中に引きずり込まれそうな女の腕を掴んだ。女は青い炎の吹き出る燐の腕に、目を見開いたが、優しい炎は女は焼かずむしろ暖かく包み込む。
「掴め!!」
燐が叫ぶ。日本語はわからないはずだが、女は直感でわかったらしい。爪の折れた手が燐の腕を掴む。
しかし、凄まじい力で女の体が引きずり込まれていく。燐もだ。雪男の発泡する音と聖水がぶちまけられる音もしたが、悪魔は聖水と銀の弾に体をじゅわりと焼かれながらも、
微動だにしない。雪男達の周りにはいつのまにそんなに潜んでいたのか、次から次へと黒いタールが噴出し行く手を阻んだ。勝呂が必死に伽樓羅を呼ぶ声が聞こえたが、
伽樓羅は現れなかった。それどころか。あきらかに異常事態であるのに応援の誰一人も駆けつけてこなかった。ただ、燐の鋭い耳には教室の向こう側で「なんだこれ!?開かないぞ!!」と叫ぶシュラと他の講師の声が聞こえた。
両手はしっかりと女の腕を掴んでいる。倶利伽羅も握っているが、今片手でも離せばあっという間に引きずり込まれるのがわかった。離せない。倶利伽羅が振るえない。しかし、
青い炎は倶利伽羅を抜いているので燐の体から際限なく吹き出す。燐は炎を走らせて絡みつく闇を焼いた。
その炎にぼう、と体を焼かれた悪魔が、叫ぶ。耳をつんざくような高い、まるで、鳥のような悲鳴。
だが燐は聞いた。その悲鳴の中に確かに歓喜し、狂ったように笑う低い声が。
ずずずずずずずずずずずっずずず。
青い炎に焼かれながら、闇が伸びる。そしてその闇の中から、ずるり、と。
成人の男の頭ぐらいならばたやすく掴めるほどの巨大な鳥の脚が現れた。
瞬間、その鋭い鉤爪が女の背中を裂いた。
「やめろおおお!」
布の裂かれる音と肉の引き裂かれる音。凄まじい女の悲鳴が響いた。ぶしゃ。血が舞うのを燐は見た。鉤爪は女の背中、心臓のある辺りをえぐっていく。
心臓を取り出そうとしているのだ。なぜだ。下級悪魔だけじゃなかった。闇からはおぞましいほどに心臓へ対する執念を感じた。下級悪魔だけじゃなかった。
ハーフまでも。
闇の悪魔はありとあらゆる「悪魔の心臓」が欲しいのだ。
燐の頭が真っ赤に染まった。
「離せっつってんだろ!!!!」
叫ぶ。青い炎がぼうと蛇のように闇に絡みつく。一瞬、相手の動きが止まった。闇の中に浮かぶ、青い二つの輝きを、見た気がした。
燐はその隙に渾身の力で女を引きずり出し、足に絡みつくタールを焼くと素早く女を抱え上げた。すでに女の体はぐったりと重く、意識がないようで背中から溢れる血の滑りがあった。
すでに足首まで埋まるほどのタールが床を侵食している。燐の炎に焼かれながらもまとわりついてきた。燐は咄嗟に、
「勝呂ぉ!!!!」
勝呂のいる方向に向かって女を放り投げた。
勝呂がぐうと呻いたが、闇の中で確かに勝呂が全身で女を受け止めたのを確認して、燐は、ほっと息をつく。
「…兄さんっ!!」
だが、雪男がさらに発砲する中でも、動きを取り戻した闇は今度は燐の胴体に絡みついた。ぐん、と引かれる。急なことに踏ん張れずに後頭部を床に思い切り打ち付けた。
かつてクロの突進も受け止めたほど石頭の燐だが、不意打ちにぐらっと視界が揺れ手足から力が抜けてしまった。その一瞬を闇は見逃さなかった。
「兄さん!!!!」
雪男の声がどこか遠い。
闇はぐわりと波のように燐を呑み込んだ。
2012.1.16