ぼちゃん。
私の「肉体」はどこかへ投げ出された。
ああ、捨てられたのだ、と理解した。
私には何も見えないし聞こえないが、
何か「肉体」に纏わりつくどぶどぶした泥に沈んで、流されていくのを感じた。
ああ、父上。と私は叫んだつもりだったが私の叫びは声にもならず、「父」にはその声は聞こえていたはずだったのに、
返事はなかった。ただどこか遠くで「父」の嗤う声が木霊しているだけであった。
私はどこかへ流された。
何か掴んで留めようにも私は何も持たずに生まれてしまったので、流されるままにどぶりどぶりと呑まれていく。
底の底へ呑まれていく。視力のない私の視界は生まれたときから真っ暗であったが、それさえ呑み込むほどの暗闇へ。
いやだ。
私は叫んだ。しかし、誰も聞いてはくれない声にさえならない。
寒い。冷たい。
まるで冬の凍った水の中に放り込まれたみたいだ。
体の感覚はすぐになくなり燐は自分の体を包むように丸まった。寒い、冷たい。体が氷になっていくようだった。
脳さえ凍るような冷たさの中、やがてその感覚さえ失っていった。残るのは思考のみ。
果てのない暗闇の中、思考だけが残っている。「私」はどれほど長く長くこんな風に漂っていたのだろうか。何か自分のものではない思考が流れ込んでくる。心臓。心臓。心臓。
父上。父上。父上。青い炎。青い炎。青い炎。「私」の片割れ。「私」の片割れ。「私」の片割れ。「私」のカケラ。
『ミ、ツ、ケ、タ、ゾ』
ほう。
悲しそうな梟の鳴き声を聞いた気がした。
鋭い痛みを左側の胸に感じた。
燐は叫んだ。痛みと寒さに。鋭い鉤爪が燐の左胸に食い込んでいた。みしみし。骨の軋む音。肋骨を破ろうとしている。心臓を取り出そうとしている。
いや、心臓か?こいつは自分の何が欲しい?
「あああああっ!!」
燐は悲鳴を上げた。防衛本能のごとく青い炎が一気に吹き出す。ごおお。とそれは闇の悪魔を竜巻のように包んで燃やしていく。燐を覆っていた闇が晴れた。
しかし鉤爪は今だ胸に食い込んでいる。ぎしぎしぎしぎしぎし。まるで何かを刻むつけようとしているように。青い炎は効いているはずなのに、
それでも離さない。燐の両手が空を掴む。倶利伽羅は頭を打った時、手から離れてしまって床に転がっていた。
体が再び闇の中に引きずり込まれる。左胸から、ぶわ、と血が噴出して燐の制服と鉤爪を染めていた。
燐の空を掻く手を、がっしりとした手が掴んだ。
「兄さん!!」
雪男だ。燐は必死にその手を握り返す。離せ!と雪男の叫び。どんどんどん。と銃を撃ち込む音も響いたが、鉤爪は燐を離さない。がしゃん。弾切れだったのか銃を放り出した雪男は懐から銀のナイフを取り出すと、
鳥の鉤爪をそれで引き裂いた。血は吹き出さず、ありえないが、黒い水のようなものが、ぶしゃ!と吹き出した。ぎいいいい。悪魔の悲鳴。ついに鉤爪が離れ、雪男は燐を引きずり出した。
兄さん!と血の吹き出す胸を雪男の手が抑える。燐は胸の痛みと出血にあえぎながら、しかし、はっきりと悪魔の姿を見た。
二本の大きな鉤爪の脚。茶色い大きな鳥の羽を広げて。羽の隙間という隙間からどろりとした黒い液体が垂れ流れていて、ぼたぼた、と床を侵食していた。
まるで頭からタールを被ったように頭部はそれに覆われていてはっきりわからないが、そこから覗く青く輝く二つの目があった。そして、ぽっかり穴の開いた左胸には、
肉の塊がどくどくと脈打ちながら口を開けているかのように、蠢いている。これまでに食った悪魔の心臓の塊であったのだろう。腐った肉のような匂いがした。
タールに覆われた頭部から、鋭いくちばしが見えた。紫の長い舌が、ちろちろ、動いている。
『ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛』
そのくちばしから轟然たる大音量で、
鳥のような猫のようなあるいは赤子の泣き声のような、
音が鳴った。びりびりと空気を揺らす。頭を揺らす。鼓膜が破けそうだ。全員が思わず耳を塞いだ。にやり、とそれが嗤ったような気がした。
鉤爪が再び燐に伸びたが、鼓膜を突き破るような痛みに耐えながら燐を鉤爪から庇おうと、雪男が咄嗟に燐の上に覆いかぶさった。しかし、次の瞬間、黒い塊はぐうと呻く。
『ゲッ、ゲッ、ゲェ!?』
胃の腑から喉の奥から喘ぐと、ぼたぼた、緑色をした液体を吐き出した。ぽとん。とくちばしの中から先ほど呑み込まれたはずのスズランの緑男が飛び出してきた。
胃液のような緑の膜に覆われながら、体は半分溶けていたが、もぞもぞと動いていた。ぎぃぎぃぎぃ、と悪魔は苦しそうに喘ぐ。ぼたぼたぼた、と口からスズランの花を吐き出した。
スズランは姿こそ美しいが実はその花にも葉にも根にも毒のある有毒植物である。この緑男はわざと呑み込まれたのだ。悪魔の憑いたスズラン。弱い緑男だからこそ、身を守るために憑いた植物の特性を伸ばす傾向がある。
その毒は同じ悪魔にさえ有効になっているらしく、通常より何倍も強いのだろう。しかし、さすがにこの正体不明の悪魔に対しては効き目が出るのが遅かったようだ。
致命傷には至っていない様子だが、燐達の目の前で苦しそうにそれは喘ぐ。狂った羅針盤のように、くるくるくるくる、とよろける。さらには青い炎に焼かれた部分がぱさぱさ欠落していった。
黒い悪魔は、ぐあ、と一声鳴く。すると、
ずるずるずるずるずる、と天井に床に壁に張り付いていた黒い液体がそれに集まると、それは完全な闇の塊となり、ざざざざざざざざ、と床を這いあっという間に姿を消した。
カーテンの隙間から月の明かりがほのかに教室を照らしていた。それで今までの異常な暗さがわかった。闇の深さを不審に思ったときからこの空間はあの悪魔に覆われていたのだろう。
「みんな、大丈夫か!?」
シュラと他の講師がようやく開くようになった扉を蹴破って入ってきた。そして教室の惨状を見て言葉を失う。志摩と湯ノ川は体をひどく打ち付けていたらしく、背中や腹を抑えて呻いていた。
勝呂に抱えられたヴァチカンの手騎士は背中をえぐられ血まみれだった。燐は左胸だ。
どくどくと止まらずに溢れるそれを、雪男の手が押さえつけている。
「兄さん、傷、見せて」
制止する間もなく、雪男は引き裂かれた制服を脱がすとえぐられた左胸を見て顏を歪めた。
「俺より、あのおねーさん大丈夫かよ…?」
さすがに、ぜ、ぜ、ぜ、と息を吐きながら背中を引き裂かれた手騎士を案じる。雪男は、唇を噛むと、シュラさんが見てる、と言った。確かにシュラはすぐに駆けつけて勝呂の腕からその体を受け取ると、
背中の布をはいで止血を施していた。横に寝かされた彼女はもう意識は戻っていたらしく、痛みに歪む灰色の目が空をさまよっていた。それを見て、燐は自分の怪我ではないどこか他の箇所が痛んだ気がした。
「…見た目はひどいが…大丈夫だ。さすがハーフだな、もう出血は止まってる」
シュラは何か英語で珍しく優しい声音で語りかけていた。たぶん、励ましているのだろう。先ほど半分悪魔に食われたはずの緑男も体を再生させて心配そうに主に寄り添っていた。
早く治るといっても痛みや出血による不安はあるはずだ。昔から怪我や血を流すことを経験してどこか麻痺してしまっている燐だがそれは自分に関してそうなっているだけだ。
志摩は勝呂に腕を抱えられていたが、顏をしかめながら背中を撫でていてどうやら打撲程度で済んだようだ。勝呂はようやく現れた伽樓羅に怒鳴っていたが伽樓羅はいつものすまし顏で
『阻まれて入れなかった』と言っていた。湯ノ川はまとわりついたタールに聖水をかけられている。顏は真っ青だが、大した怪我はないらしい。
「…よかった…みんな…無事で…」
「何がよかったんだよ」
雪男の声が震えている気がした。布を取り出して燐の傷を洗う。少し染みたがもう血は止まっていた。
「雪男…もうへーきだ…。血だって止まってるし」
「…もう話さないで」
勝手なことばかりして。
雪男はそれきりぎゅっと口を結ぶと、黙々とえぐられた左胸を治療した。確かに血は止まっているがなぜかふさがるのが遅い。タールもまるでヒルのように張り付いているが燐に聖水は使えないので、
手袋をした手で少しずつ剥ぎ取っていく。その手つきと固く結ばれた表情から相当怒っていることぐらいわかる。
「わりぃ…」
「兄さんは…いつだって自分のことは二の次…それ以下だ…」
だって俺は早く傷だって治るし、と言いかけたがそれを言うとさらに怒ることはわかりきっていたので、燐は何も言わなかった。少し血が流れすぎていて確かに頭はぼうっとしていたが、急速に回復する自分の体の血液がようやく頭に回る頃、
燐は、あの冷たい水に沈んだような感覚を思い出す。
あれは、あの感情はなんだったんだろう。
そして闇の中で聞いたような、梟の鳴き声。青い二つの目。
ぎゅっと拳を握った。
フータ。
燐は声に出さずに昔助けた梟の名を呼ぶ。
あれは、フータだ。
「おやおや、皆さん!ご無事なようでなにより!」
燐の思考を払うかのように聞こえた道化の声。ぽん。とふざけた音を立ててピンクの煙が上がり、月明かりだけが照らす教室にやたら目立つピンクと白を纏う長身の男、メフィストが突然現れた。
「メフィスト!てめえ、今頃現れやがって!何をしてたんだ!?」
シュラが怒鳴るがメフィストはひょいと肩をすくめると、これでも忙しい身でして、と誤魔化すとまずヴァチカンの手騎士を覗き込む。女は上級悪魔であるメフィストを見て、
肩を震わせた。心臓が取られかけたがしかし命に別状なないとわかると、メフィストは、にや、っと口の端を上げる。次いで燐に視線を向けた。
その眠そうなクマの絶えないタレ目。何を考えているのか一度もわかったことのない目を見て、燐は思い出す。
『体の頑丈で…ぶっちゃけどうなっても構わないハーフが適任ってわけだ。
もしかしたら、メフィストが呼び寄せたかもしれないがな。ヘタに日本支部内を探られないように考慮して』
教室の外で盗み聞きしたシュラの言葉。闇の悪魔に触れたとき流れ込んできた、悪魔の欲望。あれはありとあらゆる「悪魔の心臓」を欲しがっていた。
心臓。心臓。心臓。父上。父上。父上。青い炎。青い炎。青い炎。「私」の片割れ。「私」の片割れ。「私」の片割れ。「私」のカケラ。
「…メフィスト…」
雪男の抑える手を静かに振り払って立ち上がる。目の前の道化を睨む。炎こそ出していないものの燐の青い両目の中はごうごうと燃えているようだった。
「おやあ、あなたもご無事でなによりですなあ、奥村くん」
「メフィスト、てめえ、」
結界も効かなかった。ハーフの女性が心臓を取られかけた。聞きたいことはこの悪魔に山ほどある。そして話さなければいけないことも。
ずきり。血は止まったはずなのに胸の傷が疼いた。兄さん、と雪男が肩を掴んで止める。幼い覚醒しても間もない悪魔の殺気が漏れる。
正気を保った状態での燐が何かに向けて殺意を抱くのは初めてであった。雪男がメガネの奥で目を見開く。勝呂達は呆然と二人の悪魔を交互に見ていた。しかし、
女の傷の痛みに呻く声を聞いて、燐は冷静になろうと、と一つ呼吸をする。
「おまえに話が、ある」
メフィストは面白そうに目を細める。
「…ここではあれですので、理事長室で…」
シルクハットを深くかぶり、マントをばさりと靡かせてメフィストは背を向けた。それについていこうとする燐を雪男が止める。
「待ってください、兄の治療がまだ…」
「雪男、俺ならもう大丈夫だ」
肩を掴む手をやんわりと離させるが、逆に雪男はその手を強く握ってきた。雪男は首を縦には振らなかった。ずきり。しかし本当に傷が痛む。いやこれは痛みか?燐は不審に思った。普通、傷があるならそこは熱を持つはずなのに、
なぜか妙に冷たいのだ。
「…そうですね、傷をきちんと治療してからまた来なさい。私も事後処理がありますし、ゆっくり話せる時間を持ったほうがいいでしょう。…
しかしその傷、人間程度でどうにかできるものではありませんけれど」
メフィストの長い指が燐のえぐれた左胸を指す。
そこを見れば、えぐれた箇所は新たな肉を再生して治ってきていた。だが、そこには赤い鉤爪の痕がくっきり残っていた。
まるで、あの悪魔の執念を表すかのように、はっきりと。
その痕は燐にだけ残っていた。背中をえぐられた手騎士の女にはそんな痕は残っていない。ぞっと背筋に寒いものが走っていく。雪男も顏を青ざめさせて傷を睨んでいた。握られた手の力が強くなる。
医務室行こう、とやけに静かな声で弟は言って、やや強引に燐の手を引っ張った。燐は今すぐにでもメフィストと話したかったのだが、
妙に体が寒く重かったので雪男に手を引かれるままだった。
教室を出る時、シュラに支えられながら身を起こしていた手騎士のハーフが、燐を見て、戸惑いながらも初めて微笑んだ。そして、
「………あ、り…がとう…」
紡がれるルージュを塗った口。少し年上に見えた彼女は、本当は燐達とそう年が変わらないのかもしれない。微笑んだ顏は、まだ幼かったのだ。それは、しえみの笑顔と似ていた。
しかし、燐は、ぐっと口を結ぶと痛々しそうに目を固く閉じて、彼女を振り返ることもできないまま、雪男の手をわずかに握り返した。
2012.1.19