ぼちゃん。
私の「肉体」はどこかへ投げ出された。ああ、捨てられたのだ、と理解した。
私には何も見えないし聞こえないが、何か「肉体」に纏わりつくどぶどぶした泥に沈んで、
流されていくのを感じた。ああ、父上。と私は叫んだつもりだったが私の叫びは声にもならず、
「父」にはその声は聞こえていたはずだったのに、返事はなかった。ただどこか遠くで「父」の嗤う声が木霊しているだけであった。
私はどこかへ流された。
何か掴んで留めようにも私は何も持たずに生まれてしまったので、
流されるままにどぶりどぶりと呑まれていく。底の底へ呑まれていく。
視力のない私の視界は生まれたときから真っ暗であったが、それさえ呑み込むほどの暗闇へ。
いやだ。
私は叫んだ。しかし、誰も聞いてはくれない声にさえならない。
いやだ、父上、私を捨てないで。捨てないで。あなたが望むのならちゃんとした
「肉体」を持ちます。あなたが望むのなら鋭い牙も爪も持ちます。あなたが望むのなら青い炎も。
いやだ、父上、捨てないで。父上、父上、父----------------
父さんっ、俺を捨てないで!!------------------------
はっ、と夢から覚めたような心地になる。窓から差し込む朝日と枕元の携帯から時刻がすでにそろそろ起きなければ学校に間に合わない時間帯だと告げている。
向かいのベッドに雪男はいない。洗面所で身支度でもしているのだろうか。それより、やばい弁当に朝ごはん。寝坊はしたが、朝ごはんと弁当を作る時間はありそうだった。
燐は焦りながら着替えるためにシャツを脱いだ。
ベッドからヒゲに見事な寝癖をつけたクロが這い出てきた。シャツをベッドの上に放る。まだ若い成長途中の胸板を見て、燐はつり目をわずかに上げる。
まだ残ってる。
左胸にあの鳥の悪魔に傷つけられた鉤爪の痕。あれから三日経過しているが一向にその痕は消えることなく、燐の左胸に刻まれていた。
燐は悪魔の血を引いているが故に治癒力も人のそれではない。一度、腹に穴を開けられた時でさえ痕も残らず治ったのだ。また魔障の影響も受けない、はずなのだが。
りん、そのきずなに?
ベッドの上で首を伸ばしてクロが燐の左胸の痕を睨んでいた。クロが心配するといけないので見せないようにしていたのだが、うっかり目の前でシャツを脱いでしまったのでバレてしまったようだ。
いやなかんじがするよ。
クロはひょいと身軽に燐の肩に乗ると、そこから手を伸ばしてちょいちょいと傷痕を触った。くすぐってえよ、と笑ってみせて寝癖のついたヒゲを撫でてやる。
りん、このきずすごくつめたい。
クロが、うう、とうなる。そうだな、と燐は傷痕に触れた。傷を受けてから三日も経過しているが、治るどころか、そこだけどんどん体温を失っていくような気がするのだ。
触れた箇所は普段の体温より1度ぐらい低いのではないか、という感触を返す。あれから三日経過した。雪男はこの三日間、あらゆる手を尽くそうとしていたが痕は消えることもなく、また下がり続ける体温を止める術も見つからない。
体温が下がっていくこと以外に特に痛みもないので、燐は気にかけてない振りをしていたが、雪男はそうではなかった。一度、やっぱりフェレス卿に見てもらったほうがいい、と雪男がとうとう言い出したのが昨夜。
燐もメフィストとはすぐに話したかったのだが、事後処理だのなんだの、とあのピエロはのらりくらりと三日間かわしているような気がする。話さなければいけないのに。燐はじわりじわりと追い詰められているように感じている。
じわりじわり、と。傷を受けた時、確かに感じたあの冷たい泥沼に沈むような感触。闇の悪魔の嘆きのようなもの。あの悪魔の欲望。絶望。羨望。飢餓。執念。燐は確かにあの悪魔の何かに触れたのだ。
相手がこちらに触れたように。そして、梟の悲しそうな鳴き声。
フータ。
ぽつり、とかつて助けた梟の名を呼ぶ。クロが足元で首をかしげた。
「…兄さん?」
いつの間にか部屋に戻っていた雪男の呼びかけに我に返り、慌てて制服のシャツを着た。けれど今だに消えない痕は見られてしまっただろう。雪男はすでにきちんと身なりを整えていた。
「わりぃ、寝坊した。今から朝ごはんと弁当作るから!」
普段と変わらぬ調子でそう言っても、雪男の重苦しい視線が痛い。背中に突き刺さってくる。雪男の返事はなかった。
シャツのボタンをかけながら、弟には背を向けたままだった。二人を隔てる何かはこうして三日間積もるばかりだった。雪男はあまり燐に話さなくなり、ただ傷をどうにかしようと躍起になっていて、
また燐も雪男に踏み込まれたくない雰囲気を出して弟を避けてしまっている自覚がある。あの二週間と少し前のケンカからなし崩しに仲直りしたつもりだったのだが、振出しに戻ってしまったようだ。
燐は、雪男に何も話してはいなかった。
あの悪魔に傷つけられた時、流れ込んできた冷たい思考。確かに耳に届いた梟の鳴き声。いや、雪男もあの黒いタールに覆われた鳥の姿を見たのだから、ある程度察しているのかもしれない。
けれど、どうして信じられるだろう。あのかわいい梟だったフータがあんな。
「そうえいばさ、あの人、手騎士のおねーさん、もう大丈夫なのか?」
フータのことを振り払うように、背中に傷を受けたハーフの女性を案じる。雪男の顏は見ないまま部屋を出て、食堂に向かう。雪男がゆっくりとついてくる気配はあった。
「大丈夫らしい。兄さんほど治癒力はない人だったみたいだから、まだ日本支部の医療施設で安静にしてるけど」
「…そうか」
目の前で舞った血の飛沫。小さい頃からケンカをして血など見慣れている燐だが、あれは恐ろしかった、と雪男に気づかれないように腕をさする。
ヴァチカン本部の手騎士だった彼女。負傷したこととあの悪魔のことを本部にどう報告するかはわからない。
あるいはもう彼女はヴァチカンの捨て駒だったから気にかけられていないのだろうか。しかし、それよりも燐は、彼女が目の前で死んでしまうのかと思うと気が狂いそうだった。
自分の目の前で誰か死ぬ。自分の無力のせいで死ぬ。そんなのはもうたくさんだ。
ジジィ…と燐は自分を助けるために心臓を自ら突き刺した養父を思い出す。その直前まで命の鼓動を刻んでいたはずの、心臓をブローチで刺してしまった獅郎。
「…兄さん」
ぼんやりして、弁当を詰めることにも集中できない燐を見て、雪男は、
「今日ぐらいお弁当、いいよ…購買で買う」
いやでも、と燐は無理にでも弁当を作ろうとしたが、うまくいかない。おかずを詰めるだけなのに、何かに囚われて、どうしても手の動きが止まってしまっていた。
朝ごはんは普通にご飯と昨夜の味噌汁と冷蔵庫にたまたまあった漬物しかない。雪男は燐の腕に手を添えて、動かなくなったそれからそっと菜箸を取り上げる。燐は、
眉を寄せて雪男を睨んだが、雪男はもう燐を見てはいなかった。朝ごはんを無言で片付ける弟。自分と弟の間で深くなりつつある溝を燐はわかっている。
それが主に自分のせいだということも。それでも、
雪男に話すわけにはいかない。
燐はそう考えている。これは人間が関わるべきことじゃない。何かの直感がそう訴えている。いや、これは燐のわがままだった。これ以上、あのおぞましいものに弟を関わらせる。
その先にあるのは暗く恐ろしく人間には到底背負いきれないものだと、燐はあの悪魔の姿を見て悟った。弟に両肩にこれ以上何かを背負わせてどうする。自分が自分の正体を知らず、
普通に日常を送っていた時には、すでに雪男は。背負わせ続けて、想わせ続けて、その先にあるものは-----------
(弟は自分を捨てるだろう。)
朝ごはんを片付けたからどうやって学校まで着たのは記憶は薄れていた。ただ、登校中、弟との会話は一切なかっただろうことは覚えている。作れなかった弁当箱のさみしい姿も。
いつ学校の授業が始まりいつ眠ってしまっていたのか、わからない。腕の中で顏を埋めて、しかし、胸の冷たさに目を覚ました。自分は今、どんな夢を見ていたんだろう、と燐はぼんやり考える。
しかし、それは掴めない。何かとても寂しいことを考えてしまった気がするのだが。燐は授業が終わると、保健室に行くことにした。
もう授業を受ける気にはなれなかった。バレたら雪男に怒られるだろうが、その時はその時だ。妙に体もだるいのだ。胸の冷たさがじわじわと手足に響いているようだった。
保健室に行けば幸い、保険医もいなかったので、都合がいいとばかりに勝手にベッドのなかに入り、布団をかぶる。消毒液の匂いが染み込んでしまっている真っ白な布団は、どこか義務的でそっけない。
入り込めばひんやりと冷たくて、燐は舌打ちをした。寒い、冷たい。暖かい布団が欲しい。おでこを撫でる温かい手が欲しかった。
ジジィ。
今日は変に獅郎のことを思い出してしまう。彼のことを忘れたことは一日だってないけれど、それでも今日はよく思い出す。目尻にシワを寄せながら笑う顏。
雪男と自分を軽々抱えてくれる腕の強さ。暴れる自分をアバラを折られながらも止めてくれた、あの養父の姿。そして、今のように(あの頃のベッドはとても温かだったけれど)、ベッドの中でまどろむ自分の
頭と額を撫でながら、諭す、姿。
いいか、燐。一度亡くなったものっていうのはもう二度と元には戻らないんだ。おまえの触ったアサガオもかわいがっていたフータも。あれはな、
アサガオのためにもフータのためにもならないんだ。父さんは思うんだけどな、あれはもう違うものになっちまったんじゃないかな。アサガオでもないものに、
梟でもないものに。何になったのかは父さんにもわからないが、でも、あれはやっちゃいけないことだ。ん?そうだな…雪男は確かに喜んでくれたな。
でも、あんなことをし続けても雪男はそのうちきっと喜んではくれなくなる。雪男が泣くのは嫌だろう、燐。おまえが同じことを続ければ、きっといつか雪男は悲しむことになる。
だから、燐。もう二度としようなんて思うな。「もとにもどる」ものがあるなんて思うな。何にも、戻らないんだよ。亡くなったものは、元に戻ることなんてないんだ。
そうだな、例えば、父さんが父さんじゃないものになっちまったら、おまえ嫌だろう?嫌だよな…。
いいか、燐、どんな終わりを選ぶのかはその生き物自身の選択なんだ。そうやって死んでいけることは、その生き物に与えられた最期の運命だ。
それを奪って違うものにしていい権利なんて、誰にもないんだよ。神様にも---------
いいか、燐、約束してくれ。もう二度と、「もとにはもどさない」と約束して、そしてできれば自分にそんな力があるなんてことは、忘れて二度と思い出すな。
その力を使いたいっていう欲望に耳を傾けるな。
血まみれになった獅郎が自分を睨んでいた。燐は怖くて悲しくて震えているしかできなかった。その血まみれの養父からは青い炎が吹き出している。ああ、父さん。と燐は叫んだ。
大丈夫、今なら自分は炎を操れるんだ、きっと助けてあげられる、父さんみたいなかっこいい人がそんな姿で死ぬことない、父さん、今助けるから、父さん!
しかし、獅郎は歪んだ笑を見せながら、面白そうに何よりも冷酷にこう言い放った。
『できそこないめ』
いやだ父さん、手を伸ばして、こっちに来て、今なら助けてあげられるんだ!そんなひどいこと言わないで!俺を捨てないで!父さんっ、俺を捨てないで!!--------------
ぼちゃん。
場面が変わり、今度は自分に背を向ける弟の姿があった。燐はそれに手を伸ばすが、弟を背を向けたまま「どうして神父さんを助けてくれなかったの?」と静かに言い放った。
弟に伸ばした手が止まる。空を掻く。雪男、俺は、と何かきっと言い訳じみたことを言いそうになってその前に弟は「兄さんならきっと神父さんを助けてあげられたのに」と。
雪男。
弟の背中が遠ざかったいく。伸ばした手が力なくだらん、と。雪男は行ってしまう。しかし、弟が自分を捨てるというのなら、それを止める権利が自分にあるだろうか。
そんなのない。自分さえ捨てれば弟は。
いやだ。
けれど燐は叫ぶ。浅ましいことだ、と誰かが囁いた気がした。
いやだ、雪男、捨てないで、俺を捨てないで、いやだ、雪男、雪男、雪男も父さんも…!!
ぼちゃん。
いやだ、父上、私を捨てないで。捨てないで。あなたが望むのならちゃんとした「肉体」を持ちます。
あなたが望むのなら鋭い牙も爪も持ちます。あなたが望むのなら青い炎も。
いやだ、父上、捨てないで。父上、父上、父----------------
汗をぐっしょりと流していた。
すでに放課後なのだろう。どこかで物寂しい終礼の鐘が鳴り響いていて、それがぐわんぐわんと頭の中を揺らす。保険医はいつの間にか戻ってきていたみたいで、
あらようやく起きたのさぼりもほどほどにね、と呆れたような声。カーテンを隔てていたので燐の身を起こした気配を察しただけだったのだろう。それがありがたいと思った。
きっと今、自分はひどい顏をしている。もしかして本当に具合が悪いの?と女性の保険医の優しい声。いいえ、なんでもない、です、と慌てて流れる汗を拭って乱れたシャツを直し、
上着を羽織って、ベッドを抜け出した。まだ体中がどくんどくんと脈打っている。携帯の表示する時刻を見れば、もう塾に向かわなければいけない時間帯であった。
人気のない廊下で足を止め、数秒迷った後、燐は電話をかける。獅郎から貰った携帯に最初から登録されていた番号。
三回目のコールの後、ぶつ、っと電話に出る音。
『…はい?』
間延びしたピエロの悪魔の声。電話越しでもきっと面白そうに笑っているのだろうな、と燐は思う。
「今夜、話したい」
前置きのなしに要件だけ告げる。悪魔は、くくく、と嗤った。
『では、今日の塾が終わってから…理事長室の扉は開くようにしておきます』
それだけ聞いたら切るつもりだった。しかし、メフィストの声がさらに響く。
『奥村、くん』
「………」
『何か、見ました?』
燐はそれには答えずに、電話を切った。
「奥村くん!?」
背中から子猫丸に呼ばれて、燐は思考の波から浮き上がってくる。なんでもないように笑ってみせて、振り返ると、心配そうな顏をした子猫丸と憮然とした顏の勝呂と、そんな勝呂に苦笑している志摩がいた。
「おう、京都三人組!どうした、っていうか志摩、おまえもう大丈夫か?」
「志摩さんはもう大丈夫です。いっそ入院して看護士さん達と仲良くなりたかったのに、って言ってました」
「ちょ、子猫さん!?俺の代わりにそんな答え方せんといて!」
嘆く志摩を無視して、子猫丸は、志摩さんずっと元気でした、と呆れ顏だった。思わず笑ってしまう。三日ぶりの塾であった。あの件以来、学園内を徹底的に調べるために塾は休みになっていたのだ。
しかし、結局、あの悪魔は見つけることはできず、今は厳重警戒状態である。効かないとわかりつつも結界を強化し、
学園内でも祓魔師が一般の教師に紛れて巡回しているという話だ。
祓魔師の間でもどこかずっとぴりぴりした様子で、三日ぶりにこうして塾の仲間と掛け合いができるのは何より癒しになった。
「志摩さんなんかより奥村くん…大丈夫ですか?坊から聞きました。怪我しはったって…!」
事前に子猫丸からはメールで怪我を心配されていたしその時も「大丈夫だ」と答えたのだが、それでも尋ねてくれる仲間に燐は、ほっこりとした気持ちになる。
志摩は「志摩さんなんかよりってひどいー!」と泣き真似していたが。
「おお、全然大丈夫!大したことねーし、すぐに治っちまったよ!」
とん、と軽く左胸を叩く。気のせいか、またそこが冷たくなった気がした。しかし、燐の答えに勝呂がますます表情を険しくする。子猫丸は、よかった、とほっと息を吐いていた。
自分だけついていかなくて、勝呂も志摩も燐も危ういことになりかけたことを後悔しているのだろう。誰もそんなこと責めないというのに。その坊主頭をぐりぐり撫でると、やめてください、と嫌がられたが子猫丸もみんな無事だったことに安心したのか、
笑っている。
「…もうええやろ。いくで…」
しかし、その和やかな雰囲気を壊すように勝呂の低い、珍しく感情のないような声。
「勝呂?」
答えずに勝呂は燐の横を通り過ぎた。
慌てて子猫丸と志摩がその後を追う。燐は一人廊下に取り残された。じわり、と。引いたはずなのに嫌な汗がまた背中を伝った気がした。今の勝呂の雰囲気が、
自分の正体がばれて気まずくなった、あの頃と似ているように思えたのだ。
俺、なんか、したかな?
思い返してみても心当たりはない。廊下を向こう側を見ても、勝呂は一度も振り返らずに教室の中に入っていった。すでにしえみと出雲はいたのか、彼女達と会話する志摩の声が聞こえる。それを咎める勝呂のいつもの怒った声。
自分、だけ。あの楽しげな「人」の世界にはやはり馴染めないのだろうか。仲良くなれたと、仲直りできたと思っていたけれど、本当は、みんな、
(みんな自分を捨てるだろう。)
それから塾での記憶も曖昧だった。ただ、しえみや出雲にも怪我のことが伝わっていたのか、大丈夫?と言われて、やはり大丈夫だ、と笑って答えた。そんな燐にますます勝呂が眉間のシワを深くしたのがわかったが、
燐は傷の本当の状態を告げる気はなかった。余計な心配はかけたくなかったのだ。それに傷痕とそこがわずかに冷たいことに変わったことはない。それ以外にあることをどう説明したらいいか燐にはわからない。
悪魔薬学にはやはり雪男が教壇に立っていたが、上の空だったのはわかってしまっただろう。数度「奥村くん」と注意されたが、それも三度目以降はなかった。
そうしてあっという間に、塾は終わって。燐のノートにはミミズのような字が踊っているだけで、いつも以上にひどい状態だった。雪男にばれたら怒られるかな、と思いつつも、
すぐにそれをカバンに仕舞いこみ、塾の仲間に何か聞かれる前に、教室を出た。しえみ達の視線が背中に突き刺さるのを感じる。今朝の雪男のように。
「…兄さん」
教室を出れば、やはり雪男はそこにいた。自分の授業が終わって講師用の教室でずっと待っていたのだろう。
「晩飯、」
「……」
「ごめん、今日は作れそうにない」
「…フェレス卿と話をしにいくんだね?」
うん、と頷けば、雪男が縋るように燐の左手首を握ってきた。
「兄さん、僕には何も話してくれないの?」
「………」
「…兄さん、気づいてる?左手までこんなに冷たい」
雪男の温かい手が燐の手をさする。そこからじんわりとした熱の伝達はあるのだが、どうしても皮膚の下までは浸透していかなかった。
燐は軽く頭を振ると、雪男、と懇願するように弟の名を呼ぶ。雪男はしばし逡巡していたが、力なく燐の手を握っていた手を解いた。
だらん。と宙に垂れる雪男の腕が、弟らしくないように感じた。
朝までには戻るから。と告げる。雪男は何も言わなかった。ただ、置いてけぼりにされた迷子のような幼い顏をした気がした、一瞬。それを振り払うかのように背を向け、暗い廊下を抜けていく。
「ようこそ、」
悪魔の領域へ。
高価な素材でできているのだろう茶色く光る装飾の繊細な扉を開けば、すでに白い悪魔はそこにいた。背後の美しい窓から堕ちる月の明かりの創り出す影が、
悪魔の目元を深い闇で覆っている。
2012.1.22