梟の骨 18

 

「メフィスト、てめえ!!」
勢いのままメフィストのスカーフを掴む。それでもメフィストはにんやと鋭い牙を覗かせていた。
「まあまあ、奥村くん、落ち着いて」
ぱちん、と指を鳴らせばアンティークのカップとポットが宙に浮いていた。琥珀色の液体がカップに注がれているはずなのだが、 何故か照明もついていないこの部屋の中でまるであの悪魔のように黒く染まっている。そして燐から吹き出る仄かな青い輝きも、 際立っているようで。胸ぐらをつかまれながら、メフィストはうっそりと目を細めた。燐は注がれたカップも無視する、当然だ。
「メフィスト……おまえ、あの手騎士の人、囮にしたんだろう!?」
ぐい、とスカーフが破れてしまいそうなほど力が篭る。燐があの時、メフィストに殺気を放ったのはこれが原因だった。 ヴァチカンに爪弾きにされ、周りに味方のいないも同然だったハーフ。まだ年若い故か血の中に流れる悪魔の本能に抗うことができず、怯え、そして メフィストの命令にも従順だっただろう女。メフィストはにやけた表情を変えない。ただスカーフを掴む燐の腕を取って、かなり力の強いそれに、腕を離される。 燐は許せなかった。闇に呑み込まれそうになり、背中を切り裂かれ恐怖に叫ぶ、まだ幼さを残したあんなハーフを囮にするなんて。関係ないはずのものを巻き込むなんて。
「囮とは人聞きの悪い。ただ、「あれ」がどの程度までの悪魔の心臓を求めているのか確かめたかっただけですよ」
「そういうのを囮っていうんだ、この悪魔が!」
「悪魔に悪魔と言ってもねえ」
興奮状態の燐をなだめるように椅子に座ることを勧めても、このままでいい、と燐は結局目の前に佇んでいた。ふーふー、と息を吐く様が猫のようだ。
「関係ねーやつを巻き込むな!」
だん、と重厚なデスクを叩く。ぼう、と。燐の叫んだ口から青い炎が吹き出たので、メフィストは、おっと、とわずかに身を逸した。
「関係ない、ねえ…」
呆れたように、目の前の青いハーフを見やる。
「結界が効かなかったのもわざとか?」
「いえ、まさか。私としたことがあれは完全に予想外でした。確かに、ハーフの心臓にあれがどう反応するか調べる必要がありましたし、本部も報告を得ようと適当なものを選べと言ってきた。 だから彼女を呼び寄せたんですけど、 いくらハーフでもヴァチカン本部所属の祓魔師を無駄に傷つけていいことはない。怪我人は出てもあのように命の危機まで陥れるつもりはありませんでしたよ、本当に」
なおも食ってかかろうとする燐の気を逸らすように、メフィストは、引き出しの中から黒い液体の入った試験管を取り出した。
「…それ」
「これは最初の鬼の件から霧隠先生と奥村先生が採取したものです。人間では到底扱いきれないものなので、私が預かっていました。けれど私自身もこんなものは初めて見ましたよ」
その試験管の蓋には祓魔の術が施された札が貼り付けてある。 月光に照らされて、中身の黒いタールのようなものが、ぞぞぞ、と試験管の中を蠢いている。忘れるはずもない。あの悪魔の体の一部分のようなものだ。触ると冷たく、 入り込むと、何かを見せる。そう見せるのだ。
「…それは、何なんだ?」
「その前に、あれにつけられた傷を見せてください」
燐は憮然としながらも、シャツを上のボタンだけ解いて、傷の残っている左胸まで露にする。そこにはやはり消えることなく薄れることもなく、赤い鉤爪の痕が残っていた。 燐が自分で触れてみれば相変わらず体温も低くなりつつある。メフィストはそれを見て、珍しく表情を無くした。その様子から、メフィストでもこれをどうにかすることはできないのだろう、と燐は察する。 事実、そうであった。メフィストは数秒その傷を睨んだあと、もういいですよ、となんの処置もしなかったのだ。なんとなくこれをどうにかすることはできないだろう、と燐もわかっていたので治療の方法については追求しなかった。 それにこの傷はきっと今後必要なのだ。
「あなた、これに触れてから、この三日間何を見ましたか?見たはずですよね?」
無表情だったメフィストはもういつもの人を小馬鹿にしたような悪魔の笑みだった。燐はボタンをかけ直し胸の傷を仕舞う。
メフィストの言葉に蘇るのが、あの時から、ずっと自分の思考の隅に流れているあの悪魔の欲望。絶望。羨望。飢餓。執念。 燐は確かにあの悪魔の何かに触れたのだ。相手がこちらに触れたように。そして、梟の悲しそうな鳴き声。そう梟。
フータ。なんであんな化け物に…。
勧められた椅子には座らず、ソファに腰を下ろす。やたらふかふかした布で覆われたそれは、なんだか馴染めないし居心地も良いとは思わなかった。燐は目元を覆う、両手で。 その蹲る燐の様子を黄色を帯びた緑の目がじっと見据えていた。







『できそこないめ』
生まれたばかりの私が最初に聞いた声がそれであった。 私には何も備わっていなかった。ただ目の前に暗闇が広がっていて、何もわからなかった。何も聞こえない感じられない何も見えない。ただ、私を創った「父」の声だけが私の中に響いていて、その重く低く歪んだ声に私は押しつぶされそうだった。私はひどく未完成なものとして生れ落ちてしまったのだ、と。私は理解していた。そして「父」に気に入られなかったことも。
『やぁっぱり、俺の心臓だけでガキは創れねえか、けっ、心臓の一部を削って損したぜ』
まあ時間はかかるが回復するからいいけどな。
「父」は考えあぐねいているようだった。自分以外の悪魔を創るにはどうしたらいいか、自分の炎を継いだ悪魔を創るにはどうしたらいいか。私はそれの失敗作なのだと私は理解して、その途端、一体私は何で創られたのは気にかかった。しかし、私は声も出すこともできない。何も見えない。何も見えないのだが確かにそこにあると感じる「父」の青い炎に縋りたかったがそうすることさえできない「肉体」であった。ああ、私は「父」の心臓の一部の塊でしかなくそれなのに意志を持ったことが、今でも恨めしい。私の縋るような「呼びかけ」に「父」は気付いてくれたのか、しかし、けたけた嗤ってこう告げた。
『おまえには何にもねーよ』
ぼちゃん。
私の「肉体」はどこかへ投げ出された。ああ、捨てられたのだ、と理解した。 私には何も見えないし聞こえないが、何か「肉体」に纏わりつくどぶどぶした泥に沈んで、流されていくのを感じた。ああ、父上。と私は叫んだつもりだったが私の叫びは声にもならず、「父」にはその声は聞こえていたはずだったのに、返事はなかった。ただどこか遠くで「父」の嗤う声が木霊しているだけであった。 私はどこかへ流された。何か掴んで留めようにも私は何も持たずに生まれてしまったので、 流されるままにどぶりどぶりと呑まれていく。底の底へ呑まれていく。視力のない私の視界は生まれたときから真っ暗であったが、それさえ呑み込むほどの暗闇へ。
いやだ。 私は叫んだ。しかし、誰も聞いてはくれない声にさえならない。 いやだ、父上、私を捨てないで。捨てないで。あなたが望むのならちゃんとした「肉体」を持ちます。 あなたが望むのなら鋭い牙も爪も持ちます。あなたが望むのなら青い炎も。 いやだ、父上、捨てないで。父上、父上、父----------------







そんな、悲痛な叫びだった。
薄暗い部屋の中で燐は自分が見たものをたどたどしくもすべて語った。メフィストはその間、何も語らずに尋ねずに燐の話を聞いていた。 それはぼろぼろの布のように、途切れながら入り込んできたもので、部分的にしか捕らえられないし、語れないが、メフィストにはそれで充分だったようだ。 試験管の中のタールを、揺らす。
「…まさか、そこまで「できそこない」の悪魔だったとは。そんなものがいるということすら、 私でも知らなかった」
燐は訝しむように目を細めた。この悪魔がどれほど長く生きているのかは知らないが、燐の想像にすら及ばないほど長いということぐらいはわかる。 そんな悪魔でも知らないことがあるのか。燐のそれを読んだかのように、メフィストは、
「虚無界というのはね、ひどく退屈な場所ではありましたが、それこそ底の計り知れない場所でした」
と、どこか遠くを見ているように目を細める。この悪魔がなぜ、虚無界を捨てて物質界に加担しているのか燐は知らないし、知ろうとは思わなかった。半分悪魔ではあるけれど、 心は人間でありたい燐には理解できないことのような気がしているからだ。
「奥村くん、他に話したいこともありますよね?」
「………」
「奥村くん?」
燐はぎゅっと拳を握る。また冷えてきた左手を右手でさすったが、やはり体温は戻ってきてくれなかった。その手の様子を見ている、黄色い緑の目が。きっとメフィストは燐の身に起きている変調にも気づいているだろう。
「鳴き声が…」
自分でも思ったより、弱々しい声だった。それをこの悪魔に聞かれるのは癪だったけれど。
「梟の、鳴き声が、」

フータ。

タールに覆われた茶色い羽に、青い二つの目。ほう、という悲しそうな鳴き声。雪男の見せてくれたしえみの庭に鬼の食われた場所に落ちていたという梟のものらしい羽。 もう燐には目を逸らすことはできなかった。いや、最初からそんなことしてはいけなかったのだ。あれは、幼い頃「もとにもどした」梟だ。
「それは、この羽をもつ梟ですね?」
メフィストは再び引き出しをあけると今度は茶色い羽を取り出した。あれも雪男が拾ったものだ。メフィストに渡していたのだろう。その羽を見て、燐は頷く。
「その梟は、一度死んだはずの梟、ですね?」
確信したようなメフィストの言葉。燐ははじかれるように顏を上げた。
「なんで、知って」
「当時、藤本からすべて聞いていました。梟のこともアサガオのことも、そして奥村先生の報告から、キキョウのことも」
燐は妙に納得した。自分を人間として育てるために、獅郎がメフィストと旧知の仲だったのは獅郎が亡くなる直前に聞いていたし、自分が幼い頃からそういった情報はやはり報告していたのだろう。
「奥村くん、あなた自分が何をしたか、わかっていますか?」
「………」
わからない。それが正直な答えだった。わからない。あれらに自分は一体何をしたのだろう。ただわかるのは、
「あの梟には、何か別のやつが憑いてるんだよな?」
「ええ、それは間違いありません」
梟の悲しそうな鳴き声に、それとは明らかに違う冷たい泥のような別のものの感情。二重に覆われているようで、だからこそ、梟の悲しそうな鳴き声とあれの悲痛な嘆きが別のものだとわかる。 何か虚無界に埋まっていた泥のような悪魔が、燐の「もとにもどした」梟に憑依している。燐は気づいていた。あのおぞましい闇はあの梟だったからこそ、きっと憑依できたのだろう、と。 それはつまり。
「メフィスト…俺は…」
それ以上言葉を紡げなくて、黙り込んでしまう。悪魔はしばらく末の弟が言葉を取り戻すのを待っていたが、それがないとわかると、ふ、と息を吐いた。
「あなたは何をそんなに怯えているんですか?そして先ほどの質問ですが、あなた、自分が何をしたか、本当にわからない、と?」
怯えている。そうだ、自分は怖いんだ。メフィストに諭されるなんて嫌だったが、確かにそうだ、と燐は認める。
「…ジジィから聞いてて知ってるなら…」
いいや、と。
「アサガオも梟もしえみん家のキキョウも…俺がやったんだ。俺が「もとにもどしたくて」やったんだ」
「………」
「なあ、メフィスト。俺のこれって何なんだよ…悪魔の俺に何かを戻せる力があるなんて、そんなことあるのか?」
道に迷う子供が出口への道を尋ねるように。しかし、狡猾な悪魔は黙っている。子供は早く出口にたどり着きたくて、焦れた。ソファから立ち上がってまっすぐメフィストを睨む、青い目。
「それが本当にあるとして、あなたは何に怯えているんですか?」
悪魔はすぐに答えはくれない。ただ目を逸らさずに青い目と黄色い緑の目がかち合う。ぐ、っと燐は牙で唇を噛む。ぷつり、とそこから血が溢れた。

「そんなのが本当にあったら…ジジィの死は…一体なんだったんだよ!!」

そう叫んだ。
そうだ、自分がずっと怯えていたことはこれだ。
もし本当にあの枯れたアサガオのように死んだヒナのように、死んだものを「もとにもどせる」力があるのなら、
もしかしたら、
もしかしたら、自分の目の前で死んだ養父にもそれができたのかもしれないのに。
もしかしたら、助けられたかもしれないのに。
今でも獅郎が笑いながら、側にいてくれたかもしれないのに。
弟にも悲しい想いをさせずにすんだのに。
どうして、自分はあの時、このことを思い出すこともできなかったのか。
自分は、なんて酷い息子なんだ、と。

泣くことはしなかった。裂けた唇から血の味が口から喉に流れ込む。目も逸らさなかった。悪魔の前で弱さを見せたくなかった。 見せたらつけこまれる。そんな本能をどこかで感じている。月が隠れて、メフィストの顏を闇が覆った。

「奥村くん、あなたは酷い勘違いをしている」

低い声が燐の耳に、妙に響いた。燐は、困惑した表情で、顏のわからないメフィストを窺う。
「勘違いって」
「死んだものを「もとにもどす」?」
ふ、っとメフィストが白い牙を見せたのがわかった。影の中でもそれは真珠のように浮かび上がっている。
「そんな奇跡のような神々しい力、我々悪魔が持っているわけないじゃないですか。いいえ、そんな力自体あるわけがない。死んだものを失くなったものを「もとにもどす」?これはお笑い種だ!」
堪えきれなかったのか、けたけた、と悪魔は嗤った。墓の前でのような嗤い方ではなかったが、しかしあれ以上に不快であった。
「いいですか、我らの末の弟よ」
「…そんな風に呼ぶな!俺の兄弟は雪男だけだ!」
その嗤い声が不快で思わず叫ぶが、メフィストは、いいえ我らは兄弟です、と。
「物質界とは滅びゆくからこそ、価値がある。寿命があり限りがあるからこそ、人と命は虚無界にはない輝きを放つ。だからこそ、人は「死」というものに価値を求める。 それを否定できる権利など、神は持たない。ましてや、悪魔になど。もし、私があなたのいう死んだものを「もとにもどせる」力を与えられることがあったとしても、 そんなもの、こちらから願い下げですよ。そんな力に価値などない。あるのは果てのない虚無だけ。今、あなた自身も言いましたよね?藤本の死は一体なんであったのか、と。 生き物から「死」というものを取り上げるのはそういうことなんですよ。すべての価値を奪い去ってしまう。「生」も「死」もない。だから、「死」を越える力など存在しません。 神も悪魔も持ってはいません」
がたん。唐突に椅子から立ったメフィストに思わず燐は後ずさる。こつ。ブーツの音を立てて白いマントが靡いた。くい、っと手袋をはめた指がシルクハットを上げる。そこから表れたのは悪魔の目だった。
「いいですか、我らの末の弟よ。あなたは自分が何をしたか、ちゃんと自覚なさい。あなたのいう「もとにもどす」力の正体は、素晴らしい奇跡などではなく神々しいものであるはずもない。それの正体は最もいとわしく、 おそろしい」
どん。壁に追い詰められる。背の高い白が自分を見下ろしていた。メフィストの目は何かに浮かれているようなあるいは憂いるような不思議な色合いで。
兄にあたるのだという、虚無界の道化は現実を若い弟に突きつける。



「あなたは、悪魔を創り出したんですよ」



惚けたように青い目が見上げていた。メフィストは楽しくてたまらないというように、肩を上下させる。

「そうですね、奥村くん、悪魔って何で生み出されているのか、考えたことあります?」

燐は首を横に振る。考えたことはない。そんなこと考えることも思いつかなかった。けれど、ぐん、と引力のようにその言葉に真実に引き寄せられる。それを見て、かつて、まったく同じ言葉を告げた獅郎のことをメフィストは思い出していた。 この言葉の真実を知りたいとすがるかすがらないか。それは所詮、悪魔と人の違いである。いくら親であろうとしても確かに親としてこの子供に慕われ続けているとしても、 決定的な違いが、ここなのだ。どんなに人であろうとしても、燐の起源はあの虚無界なのだから。

「それでは虚無界と悪魔の誕生について、少しお話しましょう」







メフィストは、まるで演劇の内容を語るようだった。











2012.1.27