梟の骨 2

 

初めはアサガオだった。



夏休みの宿題だった。アサガオを種から育てて花が咲くまで観察日記をつけるという小学校2年生の時の話だった。 その頃の雪男はまだ体が弱く、夏になっても風邪を引いて寝込むことがあった。風邪というより夏の暑さに弱い体が耐えられなくて、 半ば熱中症のような症状になっていたのだろう。そうなると獅郎は雪男に付きっ切りだった。砕いた氷を水袋に入れて熱くなった雪男の額に乗せ、 優しい言葉をかけ続ける。燐はいつもそれを扉の向こうから見ていた。痛々しい弟の姿はとてもかわいそうだった。 燐は風邪を引いたことはないが、雪男が風邪を引くといつも部屋からは追い出されていた。それでも獅郎のいない隙を見ては弟の側に寄り添っていた。 また、弟も兄が側にいることを望んでいた。熱くなった小さな手を燐の手が握る。メガネを外した雪男は青みのかかった緑の目をとろんと彷徨わせて、 苦しそうに息を吐いた。
「…にいさん、あさがお」
雪男の訴えに燐は、うん、と笑って頷いた。この時から真面目だった弟は、宿題のアサガオに水をやれなくて枯れないか心配だったのだ。 燐は、こくん、ともう一度頷いた。
「だいじょーぶ、俺がちゃんと水あげてるから」
その言葉通りに燐は毎日アサガオにたっぷり水をあげていた。
燐自身が学校の先生に与えられたアサガオの種を、燐は初日で失くしていた。 植物を育てることに興味もなく、またこの頃の燐のクラスの担任は、燐のことを癇癪持ちの乱暴者としか認識していなくて燐に冷たかったこともあり、 ほんの反抗心であったのだ。初日で燐はアサガオの種を近くの川に投げ捨ててしまった。獅郎には失くしたとだけ言った。おそらく獅郎は息子の嘘を見抜いていたのだが、 燐は何も聞いても正直には答えなかった。燐には時折、小さな子でも理性で抑えられるだろうことも抑えられないことがあって、そのせいで小学校にも馴染めていないと獅郎は知っていたので、 それ以上追求はできなかった。燐は確かに衝動的にアサガオの種を捨てていた。それは、悪口を言われたからと同い年の子どもの顔を容赦なく殴り、鼻と腕の骨を折ったときの衝動となんら変わりはなかったのだ。 いつもやってしまった後に後悔するのに、燐にはそれを抑えるのが一苦労だった。だからアサガオの種を捨ててしまったこともほんの少し後悔していた。
燐に対して雪男は真面目でとてもいい子だった。それは教師や世間の大人から見た「いい子」ではあったが、雪男は優しい、いい子だと燐はいつも思っていた。 学校の宿題もちゃんとやっていた。でも、熱にうなされてもアサガオのことを気にするのは「学校の宿題」のことばかりではなく単純に育て続けたアサガオが心配だったのだ。 やさしい、いい子だなあ、と燐は寝込む雪男の訴えを聞いてそんな風に思った。燐には言われることのない言葉を弟はいつも貰っている。 獅郎も燐のことを「やさしい、いい子だ」と言ってくれるけれど人とは違う異常な力を持っていた燐は、あまりその言葉を信じていなかった。
やさしい、いい子、っていうのは雪男みたいなやつのことをいうんだ。
大きなジョウロを抱えてだばだばと葉の上から水をかけた。雪男がここまで育てたアサガオはすでに蕾をつけていて、あとは咲くだけだった。 青いアサガオになるらしく、青い蕾を膨らましていて、燐は自分が育てていたわけではないのに、わくわく、した。来年はアサガオの種は捨てずにちゃんと育てよう。 そう思った。

しかし、結果的にアサガオは枯れてしまった。

原因は水のやり方が間違っていたかららしい。そんなことない毎日水はあげたのに、と燐は獅郎に訴えたが、葉の上から水をかけていたため土までちゃんと水が染み込まず、 また例年より暑い日が続いたので水が足りずに枯れてしまったんだ、ということだった。獅郎は、父さんが雪男に付きっ切りで気付いてやれなかっただけだごめんな、 と謝ったが、 雪男は熱が下がったばかりの体で泣きじゃくった。雪男はいつもはしくしくと膝を抱えて静かに泣く子どもであったが、一生懸命蕾まで育てたアサガオを枯らされてしまったのと、 学校の宿題ができなくなった恐怖と、そして遠慮のいらない兄だったからこそ、泣き喚いて怒った。枕を兄に投げつけた。雪男!と獅郎の咎める声にさらに泣いた。
「にいさんのバカ!にいさんなんか、だいっきらいだ!」
燐はショックを受けたように顔を青ざめさせた。事実、ショックで頭の奥がぐわんと揺れた。乱暴者でどうしても自分の中で沸き起こる衝動を抑えられなくて世間から省かれ気味だった燐には、 養父の獅郎と唯一の弟であった雪男がすべてであった。それが壊れてしまうことが失ってしまうことが燐は何より恐ろしかったのだ。
雪男が俺をきらいになる。
そう考えただけで、燐は怖くてたまらず部屋から逃げ出した。泣きすぎて引き付けを起こしそうな雪男を必死で宥める獅郎が、駆け出した燐に気付いて、燐!と叫んだが聞いていられなかった。



アサガオは花を咲かせる前に枯れてしまった。
茶色にくすんでしおれてしまったそれを見つめて、燐は、ぐすん、と鼻をすすった。
アサガオは修道院の庭の日当たりの一番いい場所に置かれていた。けれど、そのアサガオはもう枯れている。燐は自分が大嫌いで仕方なかった。 雪男に頼まれたことをしてやれなかった。それどころか雪男をあんなに泣かせてしまった。自分が弱いものを育てて愛するのは無理なんだろうか、と膝を抱えた。
燐は幼稚園に通っていた頃から己の力の異常さには気付いていた。
自分が普通ではないと気付いていた。知っていたのだ。しかし、その力は抑えきれないこの凶暴性はどこからくるのかわかるはずもなく、 ある意味燐は自分自身にずっと怯えていたとも言える。
俺には雪男と父さんしかいないのに。
燐の世界は狭かった。血の繋がった弟と血は繋がっていないけれど厳しくも優しい養父が好きなのだ。それを失いたくはない、絶対に。

ひとりぼっちにならないように、その力は誰かのためにやさしいことのために使え。

ふ、と。幼稚園の時に獅朗に言われた言葉を燐は思い出した。やさしいことのために。この力を。何かを破壊するしかできないような力を。
じい、っと枯れたアサガオを見る。

…もとに、もどらないかな?

唐突に燐はそう思った。本能のようにそう感じたといってもいい。
もとにもどらないかな?
幼い燐には自覚はできなかったが、それでも自分の奥底の何かが、もどる、と言ったような気がした。
燐は何も知らなかった。後に獅郎の死とともに知らされることとなった自分の出生も正体も悪魔の神である「実父」から継いだ力のことも。
知らなかったのだが、燐はまるでそれのやり方を最初から知っていたかのように、小さな両手で、そっと、枯れたアサガオの蕾を包み込んだ。
幼く小さな手が、まるで太陽に手をかざしたとき血管が透けて赤く染まるように、ふわりと薄く青く染まったが、燐は気付かなかった。







「燐、ここにいたのか」
獅郎の優しい声で燐は我に返った。振り向けば獅郎が最近少しだけシワの目立ち始めてきた目尻を細めて、燐の隣に腰掛けた。 どうやら燐が外へ飛び出していってしまったと思ったらしく、公園まで探したんだぞ、と、くしゃりと頭を撫でられた。燐は最初からアサガオの置いてある庭に座り込んでいただけだった。 燐の顔は泣きはらしたように真っ赤だったが、今はもう泣いていなくて、むしろ、獅郎の胸に飛び込むと嬉しそうに笑ったのだ。獅郎はそんな燐の様子に首をかしげた。
「父さん、見て!」
そして燐は指差した。枯れた、と言っていたアサガオの植木鉢を。
「……燐、これ」
「うん、なんかね、元気になったんだ!」

枯れていたはずの青いアサガオは、鮮やかな青さを取り戻し蕾であったはずなのに立派な花を咲かせていたのである。

獅郎は、眉を寄せてそれを睨んだ。しかし、腕の中の燐は、きゃいきゃい、笑ってアサガオが「もとにもどった」ことを喜んでいた。
「ねえねえ、これなら雪男も泣きやんでくれるかな!俺のこときらいにならないでいてくれるよな!」
無邪気に笑う子どもに、獅郎はどう言葉を返したらいいのかわからなかった。そんなはずは、と小さく呟いた言葉を燐は聞いていなかった。枯れていたはずなのだ。 青さを失って茶色く枯れていたはずなのだ。なのに、何故。

「にいさん!」
「あ!雪男!」

しかし獅郎の疑念をよそに、先ほど燐に投げつけた言葉を後悔していた雪男がやってきた。まだ、ひくひく、とえずき泣きじゃくったままだった弟の顔を兄は服の袖で拭いてやった。 そして、見ろよ!とはしゃぎながら「もとにもどった」アサガオを雪男に見せた。雪男は一瞬驚いた顔でアサガオを見たが、実際に枯れた姿を見ていたわけではなかったので、また幼い故、 何の疑いも持たず、それに喜んだ。燐も喜んでいたから雪男にそれ以上の疑問を持つ必要もなかったのである。そして雪男は燐に投げた言葉を後悔していたのだ。
「すごい、アサガオ、すごくきれいだね、にいさん!」
青く咲き誇ったアサガオはきらきら煌いて水の露を湛えていた。まるでこの世のものではないかのような、美しさを持って雪男を喜ばせた、笑わせた。
「にいさん、さっきはごめんね…」
弱々しい声で謝る雪男に燐は、
「ううん、いいんだ、…なあでも俺のこときらい?」
「きらいなんかになるわけない!」
そんなわけない!
と言ってくれた弟に兄は幸せそうに、笑って、小さな白い手を握った。

そんな幼い双子の「仲直り」を獅郎は見守りながら、しかし、猜疑に染まった目で青いアサガオを睨んでいたのだった。











その日の夜。
すでに二段ベッドの下で眠りについていた燐に対して雪男は机に向かってアサガオの観察日記を描きおえていた。
「にいさんといっしょに育ててとてもきれいな青いアサガオになりました」
最後の行がそれで締めくくることができて、雪男は満足気に息を吐いた。時計を見ればもう就寝時間を過ぎていていつもなら獅郎が「もう寝ろ」と注意をしにくるのに、 今夜はそれがなかった。それを怪訝に思いつつも寝る前にトイレに行こうと部屋を出た。真っ暗な修道院の廊下は苦手だったがここは獅郎のいう「結界」に守られているので、 雪男がいつも外で見るような怖いものは入ってこない。それに今日は兄が最後に育ててくれたきれいなアサガオのことで頭が一杯で、何が来ても怖くないようなそんな気持ちになっていた。 きっときれいな夢が見られるだろう、と雪男は思っていた。
「…だから………本当に」
ふと。暗い廊下の奥から獅郎のこもった声がするのに気付いた。とうさん?と小さく呼んだが珍しく獅郎は気付かなかったようで、何か焦った様子で携帯電話に耳を当てていた。
「…俺だって信じられねえさ…いやよくわからない。それが少しばかり…恐ろしいな…」
携帯電話の向こうで知らない誰かの嗤う声が聞こえた気がした。獅郎は今まで見たことがないほどの険しい顔をしていた。眉にシワを寄せて、闇夜の中でも光るような鋭い眼光だった。
「…とうさん?」
養父がまるで知らない人のようで不安になって雪男は少しばかり声を張り上げていた。途端、は、っと獅郎が幼い雪男がすぐ横にいたことに気付き、会話の途中だっただろうに携帯を切ってしまった。
「おう、雪男か、どうした?もう寝る時間だぞ」
先ほどまでの眼光はどこへやら。まろやかな目つきで雪男の頭を撫でると、よいしょ、とそのまま抱き上げてくれた。トイレかー?いっしょにいってやるぞー?と、慰めるような言葉に、 父さんはさっきのお話をきかれたくないんだ、と 賢い雪男は察した。
だから何も聞かなかった。
その代わりぎゅっと獅郎の肩を掴んだ。
兄が最後に育ててくれたはずの美しいアサガオの余韻は、嘘のようになくなってしまった。











2011.12.24