私には何もなかった。
けれど自分で思うほどに、哀れなことに、ある程度の知識は伴って生まれてきてしまっていた。だから私は知っていた。
この世界というものは合わせ鏡のような似ているようで相反する二つの次元で構成されていて、「私達」はその虚無の次元の方に存在するものだということも。
本来の姿はもともと不安定ではあるけれど、あちらの世界で憑依をすればしっかりした形を持てるのだということも。しかし、私には何もなかった。
父上の期待に応えられず何も継げずに生まれてきた。それでも私は最も原始に近い悪魔であることも理解していた。だから余計にもどかしかった。
私には何もない。何も与えられなかった。だから、あちらの世界では私に見合うような器さえ存在しなかったのだ。私は弱いというわけでもなくしかし強くもなく。
ただ何も持っていなかった。ただそれだけで私は虚無界にて悪魔にもなりきれず物質界にも行けなかった。
父上に捨てられてから、私はずっと深泥の中を漂っていた。手足もなく五感もない私にはどうすることもできなかった。長く長く。気の遠くなるほどの長い時間、
私は深泥の中で過ごしていた。どうすることもできない。物質界にも器はない。弱くもなければ強くもなれない私。ああ、せめて、せめて、物質界に「原始の悪魔」、
あの父上と同等のものを持つ何かがいてくれれば、私は、私は。父上にまた拾ってもらえるだろうか。
燐と雪男がそれを拾ってきたのは夏休みも終わって少ししてからだった。
血を流して倒れていてかわいそうだったので拾ってきてしまったのだ、と雪男は泣きそうな顔で獅郎に言った。一緒にそれを拾ったらしい燐も大きな目をすでに潤ませていた。
雪男の手の中にはすでに虫の息だった小さな小さな命があった。
「…これは、梟のヒナ、かな?」
手の中のそれを見つめながら獅郎がいった。
獅郎は動物にはそれほど詳しくはないが、両目が頭部の前面に位置している特徴的な姿とふわふわの羽などからそう推測した。
東京で梟のしかもヒナなんて珍しいな、と言いながら、その死に掛けのヒナの首元を見ると大きく抉れて血が流れていた。おそらく他の鳥にどこかの巣からエサとして攫われてきてしまったのだろう。
聞けば、燐が、カラスが小さな生き物をいじめていると気付いて追っ払ったところこの死に掛けのヒナがいたのだという。
雪男の白い手がその血に染まっていく。ハンカチで包み込んでいたようだがあまり効果のないほどの出血に、虚ろなヒナの目。このヒナはもう長くないな、と獅郎はすぐに察したが、
「ねえ、父さん、助けてあげられないの?」
縋るようにカソックを掴んでくる燐に、手を血の染めながら泣いている雪男に、できる限りのことはしてやろう、とすぐに三人は動物病院に駆け込んだ。
しかしそこでも言われたことは同じだった。もう長くないですね。それを聞いて雪男はさらに泣いてしまうし燐は医者に怒るしで、獅郎は結局、死にかけのヒナと共に修道院に戻った。
その間にもヒナの体はどんどん冷たくなっていった。獅郎は、これはもう駄目だろう、と察していたけれど、生き物の死というものを双子に見せるのもいい機会かもしれない、
とわずかな大人の強かさにため息をつきながら、
「じゃあ俺達で看取ってやろうな」
と、幼い双子の肩を抱いた。しかし、双子は泣いて、できるかぎりのことはする、と言って聞かない。水を含ませた脱脂綿をヒナのくちばしに当てて水を飲まそうとした。
驚いたことにヒナは弱々しくその水を吸った。もうほとんど意識はないだろうに、まるでそのことを感謝するかのように、小さく、ほう、と鳴いた。
温かい布で包んででも暑すぎないように風通しのいい窓際でダンボールの箱に入れて、がんばれがんばれ、と二人で呼びかけた。余談だが獅郎は双子のそんな健気な姿に、少し鼻をすすっていたのだが。
しかし、夜も更ける頃になってヒナはついに目を閉じてしまった。それまで懸命に生きようと、虚ろながら開いていた真っ黒なビー玉のような目が閉じてしまった。
ふわふわの産毛は水分を失いぱさぱさに乾いて、抜け落ちてしまった。
そして、最期に、ほう、と弱々しく鳴いて梟のヒナは死んだ。
確かに、死んだ。
雪男はわんわんと泣いた。燐も泣きそうだったがけれど懸命に涙が零れるのを堪えていた。すでに就寝時間も過ぎた夜中だったが、獅郎は双子の気の済むままにさせていた。
そして双子が「生き物の死」を自ら見た以上に何か大人らしく諭すことはしなかった。そうする資格が自分にはないと思っていたからだ。ただ双子が双子の感じるままに受け止めてくれればいい、と獅郎は思ったのだ。
「明日、お墓作ってやろうな」
泣き疲れてしまった雪男を抱き上げて獅郎はそっとダンボールの蓋を閉じた。燐はまだその前に突っ立っていて、獅郎が呼びかけても答えなかった。
意地っぱりな燐のことだ。きっと獅郎や雪男の前で泣きたくないのだろう、と思って獅郎は燐を一人にさせた。
庭の隅でまだ枯れることなく咲き誇っていたアサガオに気付くことができないまま、一人に、させた。
雪男が泣くのはいやだ。
燐は服の裾を握り締めて、口をへの字に曲げながら、そう強く思った。ヒナが死んだのはもちろん自分も悲しかった。泣きたくて、獅郎が雪男を連れて行ってから一人で泣いた。
ダンボール箱の中の小さなヒナはもう死後硬直が始まっていて、ぴん、とそらされた小さな足が痛々しかった。そっとそれを撫でれば、ぞっとするほど冷たかった。
朝になってこんな風になってしまったヒナを見れば雪男はさらに泣くだろう。ヒナのこともすごく悲しかった。一生懸命水を飲ましたのに、叶わず死んでしまう。
ふと、燐はあのアサガオのことを思い出した。
雪男が泣くのはいやだった。雪男は泣き虫でか弱くて、いつも何かに怯えて怖がって、夏になってからそんな顔ばかり見ている気がしたのだ。雪男には笑っていて欲しい。
燐はただそれだけを思った。窓から差し込む満月の明かりがぼんやりと死んだヒナを包んでいた。
……もとにもどせるかな?
唐突にそう思った。しかし、初めてのことではなかった。
初めはアサガオであった。
その次は、この、梟のヒナであった。
燐は衝動的にその固く冷たくなった哀れなヒナを両手で包み込んだ。青い月の明かりとは違う青いものが、ぼんやり、ヒナを包んだ。
そして翌日の早朝のことである。
寝かしつけるまで泣いていた雪男のことが気になって獅郎は早朝から子ども部屋を覗いた。そこにはやはり二段ベッドの上に雪男が寝ていたが、しかし、燐がいなかった。
まさか、あのままあそこで寝てしまったのだろうか。夏休みが終わったばかりとはいえ、夜になれば少々冷える。いくら悪魔の子どもといっても今は封印されて普通の子とさして変わらない(と獅郎は信じている)子どもだ。
風邪を引いてしまうかもしれない。獅郎は慌ててヒナの置いてあった部屋に向かえば、ドアを開けるまえに燐が先に飛び出してきた。
「父さんっ!」
大きな青い目をぐりぐり輝かせて、燐は小さな両手にやさしく何かを抱いていた。
それは、ぴいぴい、と鳴く梟のヒナであった。
それを抱えて燐は獅郎にいっぱいの笑顔を向ける。しかし、いつもならその笑顔に笑顔で答えるはずの獅郎は驚愕に染まった顔でヒナを見つめていた。
「…燐、おまえそれ…」
「ね、ね、元気になっただろ!これなら雪男も、もう泣かないだろ!」
燐の腕に抱かれて鳴く梟のヒナは、まるでこの世のものではないかのような青い目を瞬かせて、ふわり、と産毛を逆立てていた。
そんなはずがない。ヒナは昨夜確かに死んだのだ。獅郎は呆然としながらたまたま窓から見えた咲き誇るアサガオに気付いた。どうして気付かなかった。いや、
注意していたはずだったのに何かで逸らさせてしまっていた。アサガオは花を咲かせたあの日からまったく姿を変えることなく、咲いている。手の中の梟のヒナは確かに死んだはずなのに、
元気に鳴いて、そうではなかったはずなのに青い両目を湛えていた。昨夜まで確かに黒い目のはずだったのだ。
「燐、おまえ…」
一体、何をしたんだ?
獅郎の普通ではない様子に、しかし、燐は気付かず、ヒナのふわふわの頭を撫でて、こう言った。
「もとにもどれ、って手でつつんだらね、もとにもどったんだよ!」
何も知らない悪魔の子どもは無邪気に笑った。それに応えるように、梟のヒナが、ほう、と鳴いた。
2011.12.25