梟の骨 21

 

ばたん。
背中で602号室の扉が閉められた音を聞いて、燐は力なく床に座り込んだ。ここに戻ってくるまで雪男に掴まれた腕と左手が仄かな痛みを感じている。 差し込んだ朝日で602号室は仄かに暖かくなってきた。学校、と燐はぼんやり考えたがそういえば今日は休日であった。 最近、曜日の感覚が希薄だ。雪男は扉を閉めると座り込む燐を通り過ぎて、机に手をついて、項垂れていた。その背中がとても広くて大きいのに儚く見える。寝ていたのだろうクロが起きだして、 どうしたんだ?と鳴いて燐の膝の上に座った。燐はクロを撫でることもできなかった。
全部、聞かれてた。
奈落の底に突き落とされた気分だ。足に力が入らず、密かに肩も震えていた。雪男の背中さえ見れない。視線を落せばそこには目を潤ませて自分達を心配してくれているクロがいる。

(弟は自分を捨てるだろう)

ひやり。左胸が寒さでうずいた。

「…僕もね…」

やがて紡がれた弟の言葉に燐は震えた。寒さから恐怖から。

「僕も…少し考えてしまったんだ…。兄さんのその「力」で…神父さん…もとにもどせなかったんだろうか…って」
「…幻滅したか雪男…?」
力なく落ちる燐の言葉に雪男は振り向いた。メガネの奥で緑色の目が、ぐ、っと歪む。
「何言ってるの?兄さん…」
「もう面倒みきれねえよな、こんな兄貴…」

(弟は自分を捨てるだろう)

「もう捨てたほうがいいよなこんな奴」

(みんな、自分を捨てるだろう)

「兄さん、何を…」
「俺みたいな奴…関係ねー奴を巻き込むばっかりだし」

(父上は私を捨てたんだ)

「フータのこともアサガオのこともしえみの花のことも、全部、ジジィが言ってたような「誰かのため」になんかじゃなかった。全部、俺のためにやったことだったんだ。 やさしいことのために使ってなんていなかったんだ。ジジィの言葉…わかってなかった…。フータに…可哀相なことした、ひどいことしたんだ。俺はやっちゃいけないことをしたんだよ、自分のために。…だから、 こんなことになったんだ…。全部、俺のせいだ!」

(父さんは自分を捨てればよかったのに)

「ジジィは…最初から俺なんか捨ててればよかっ…!?」

最後まで叫ぶ前に勢いよく雪男にシャツの襟を掴まれた。怒りに燃える緑の目が目の前にあった。それがわかった途端、頬に走る痛み。殴られた。とわかったが床に倒れることはなかった。 雪男の逞しい腕が燐の体を支えていた。呆然と熱を持った左頬に手をやり我に返ると頭に、か、っと血が昇るのがわかった。なにすんだよ!と雪男の胸倉をつかみ返すその拍子にメガネが外れて床に落ちた。 そこで燐は、は、っと気付いた。

雪男が泣いてる。

「…二度とそんなこと言うな!!」
ぼろぼろ、と。目の端から弟から涙が流れている。
「二度と…そんな、馬鹿な、こと、言うなっ!!」
どん。とベッドに投げ出される。膝から落ちたクロの鳴き声がどこか遠くで聞こえた。ぎし、っと音を立てて雪男が伸し掛かってくる。。ぽたり。温かいものが燐の頬に落ちる。双子なのに似ても似つかない顔から。 ぎゅっと目を細めて顔をゆがめて泣く顔は幼い頃の泣き顔とは違っていた。幼い頃、雪男は膝を抱えて静かに惨めに泣く子どもで、こんな風に耐えたくても耐えられなくて不甲斐ない自分が悔しくてたまらないように、 泣くなんて燐は思わなかった。むしろ弟の泣き顔を見ることさえ何年ぶりだろう。ふと、そんなことを考える。
「…兄さんは…兄さんは…そうやって…僕を、いつも、置いていく…!!」
ひく、っと一度えずきながら雪男はごしごしと袖で目を拭った。しかし、赤くなっただけだった。
「僕に、兄さんを捨てろって…そんなこと…兄さんはそんなに僕を独りにしたいのかよ!?」
「そんなこと…!」
言ってねえだろう。
燐は雪男を独りにしたいなんて思ったことは一度もない。むしろ人と距離を置き、自分自身のことを何も話さない雪男がいつか独りきりになることを恐れていた。 だから周りの人達に雪男を支えて欲しいと思っているのに、自分ではないちゃんとした人間の輪の中に。
しかし雪男は、言ってるよ僕に独りになれって言ってるんだ、と叫んだ。
雪男の重みが胸に寄りかかってくる。冷たくなりつつある左胸に額を乗せた。ぽたぽた、とシャツを通してそこが濡れていく。

「そんなこといわないで、兄さん」
「雪男…」
「僕には、もう、兄さんしか、いないのに…」

そんなこと、ないのに、と燐は思う。雪男には慕ってくれるしえみがいる。いつも気にかけてくれるシュラもいる。自分なんかに縋ることない。 気がつけば燐は雪男の背中に手を回して、固く黒いコートを握り締めていた。縋るように。ああそうか、と燐は気付く。自分が雪男にこうして縋っていたいように、 雪男もそうなのだ、と。

「神父さんのことだって…神父さんは…兄さんを助けるために死んだのに…捨てればよかったなんて…」
「………」
「兄さんがそんなこと言ったら…それこそ神父さんの死は一体なんだったんだよ…」

神父さんがあんまりじゃないか。

「…ごめん…」
「………」
「ごめん、雪男…」

(弟は自分を捨てるだろう)
(みんな、自分を捨てるだろう)
(父さんは自分を捨てればよかったのに)

(父上は私を捨てたんだ)

違う。父さんは俺達を愛してくれた。

乱暴者で迷惑ばかりかけていたのに「燐はやさしいいい子だ」と言ってくれて頭を撫でてくれた。でも叱る時はしっかり叱ってくれた。 アバラを折られながらも抱きしめて諭してくれた。雪男とケンカして修道院を飛び出した時も、 探し回ってくれた。雪男が風邪を引いた時は、どんなに忙しくてもずっと側にいて看病してくれていた。 目尻にシワを寄せながら笑う顏。燐と雪男を軽々抱えてくれる腕の強さ。ベッドでまどろむ燐の額を撫でてくれた手の温かさ。 知らないところでずっと燐を守ってくれていた強さと愛情。自ら心臓を刺して、魔神から守り、燐は俺の息子だ、と言ってくれた。

「雪男、ごめん…」
「………っ…」
「俺…どうかしてたっ!!」

ぐ、っと喉で空気を飲み込んで、雪男は燐の肩に顔を押し付けてきた。ほんとだよ、と震えた声で。
その中で燐は思う。
「こんなこと…考えちゃいけないってわかってるけど…でも俺…」
じわり、と視界が歪む。きっと弟の視界もこうだろう。
「俺…父さんに会いたいっ…」
メフィストの言っていたようにあの時、もとにもどさなくて、よかったのだとわかっている。けれど、そうではない寂しさが父親に会いたいのだと、全身で叫んでいた。 けれどそれは絶対に叶わないから、だから燐は叫ぶのだ。唯一、この気持ちを共有できる弟の前で。
「僕も…とうさんに…会いたい…」
ずっと大人ぶっていた弟の弱々しい言葉に、燐はぎゅうっと胸が締め付けられた。
とうさん。とうさん。叶わないってわかってるし、本当にかっこいい最期を選んだとうさんが誇りだ。でも、今だけは許して欲しい。 会いたいのだ、と。弱さを曝け出すのを許して欲しい。とうさんにあいたい。迷う自分達を導いて欲しい。呑み込む闇から救って欲しい。
くしゃり、と髪を撫でながら雪男の頭を抱きしめる。 密着した体から雪男の心音が伝わってきた。それは冷え切ってしまった燐の左胸を温めるように、とくとくとく、と少し早く鼓動を刻む。 冷えた燐の左腕を雪男がぎゅっと握ってきた。熱を与えるように、もう燐が馬鹿なことを考えないように。 そうして親を亡くしたお互いしかいない双子は、602号室で縋りあうように抱き合っていた。











手を引かれている。
顔を上げれば燐の小さな手を獅郎が握っていた。もう片方の手で雪男の手を握っていた。どこか暗い場所を歩いていてどこか遠い向こう側に、 ぽつり、とした光だけがある。とうさんどこへいくの?幼い燐は問う。獅郎はちょっと振り返って、子どものように微笑むと、 幸せのある所へだ、と言った。そんなところあるの?今度は雪男が問う。あるよ、と獅郎は答えた。
きっといつか導かれるのだ、と。











瞼が開かない。
雪男は少し乱暴に瞼をこすった。赤くなるだけだとわかっていたが、開かないのだから仕方ない。ごしごしこすって渇いたものがぱりぱりはがれた。 目を開けたが、ぐらぐら、視界は歪んでいる。そうだメガネ、と思ってベッドを手探りすると枕元にそれはあった。メガネをかけて視界がクリアになると、 自分は兄のベッドで寝転がっていたことに気付く。同時に、そうかあのまま寝てしまったんだ、と思い出してかあっと顔が熱くなった。なんてこった。色々話を聞いて混乱していたとはいえ、 兄の前で泣き喚いてしまった。がっくり項垂れる。その視線の先にはクロがいて、にゃあ、と鳴いた。ぴょん、とベッドから降りていくのを目で追えば、丁度、がちゃ、っと602号室の扉が開いた。 入ってきたのは兄だった。雪男はバツが悪くて誤魔化すように顔を逸らしたが、一瞬見れた燐の顔も泣きはらしたように目元が赤かったので、お互い様かと思って諦める。
「おう起きたかーもう昼過ぎだぜ」
腫れぼったい目元のままでいつもの調子で燐は言う。え、うそ、と思って枕元の時計を見れば確かに正午12時を過ぎていた。再びがくりと肩を落す。 くすくす燐は笑って、飯食おう、と机の上に食器を置いた。いい香りがして引き寄せられうように身を起こす。食堂行かないの?と問うも、たまにはいいだろう、と返される。 とりあえず着たままだったコートは脱いで、顔を洗うのはもう後でいいだろう、と。 机に置かれた器の中身を見れば、おいしそうな卵粥だった、でも味噌の香もして起き抜けの上に泣きはらしてきもちわるいけれど、食欲を刺激される。お互いの机に座って、 クロにはよく冷ました分を小皿に盛って、二人と一匹でいただきます、と手を合わせた。
「おいしい…」
「そっか、よかった」
味噌と卵の優しい味がして人参、大根、しめじ、ほうれん草と優しい具材が喉に落ちて胃に染み渡っていく。ほう、と息を吐いたのは二人と一匹同時だった。
「…なんかこういうの久々な気がする」
燐がぽつりと呟く。そうだね、と雪男も頷いた。ケンカしてからも二人で食事をしてはいたがどこか気まずかったし、燐も雪男もお互い距離を置いていた。 時間のすれ違いから一人で食べることも多かった。それぐらいで寂しいなんて思わない、そんな風に思っていたはずなのに。いつか兄弟というのは離れていく、そんな風に覚悟していたはずなのに。
「これからは、なるべくこうして温かいご飯、食べような」
「…うん…」
へへ、と燐の笑う声。それにつられて笑ったとき、燐は言った。

「…俺さ、フータ、助けたいと思う」

雪男は顔を上げて、燐を見る。晴れた目元で燐は穏やかに残りの粥を口に運んでいた。
「メフィストは始末しろって言ったけど、でもせめてフータは助けたい。俺が創ってしまったから俺が始末するのが正しいのかもしれねえけどさ、でも」
助けたいんだ。
と燐は手を伸ばして足元でお粥を食べているクロの頭を撫でた。かつて、獅郎が死んだことで再び凶暴な悪魔になろうとしていたクロを燐が助けたように。
「じゃあ僕もあれと戦う」
燐が目を丸くして雪男を見た。雪男はその訴えるような視線を無視する。あれはもう人の手には余る。人の力程度ではどうにもできない。とメフィストは言ったけれど、 それでも何かできることはあるはずだ。絶対に。
「雪男…」
「兄さんがダメっていっても絶対に」
「でもさ、」
「第一、昔のアサガオのことも梟のことも僕にだって責任がある」
にいさんなんかだいきらだ!と枕を投げつけて兄を傷つけたし、梟がかわいそうだ、とわんわん泣いた。兄はあれを優しさなんかじゃなかったというけれど、 雪男はそうは思わない。燐はやさしい。ただそれだけの無邪気な気持ちだった。無邪気だったからといって許されることではないかもしれないが、それでもあれは燐の優しさだった。 だから、きっと、アサガオも梟も、しえみの話だとキキョウも、やさしい悪魔に成ったのだ。
「雪男、おまえの責任なんかじゃ」
それでも燐は否定する。雪男は、ふ、と笑った。
「僕はね、兄さんのそういうところ、嫌いだよ」
揺らめく青い目が不安そうに雪男を見つめている。幼いころ、だいきらいだ、と叫んで兄を傷つけた。けれど本当にきらいになんかなるわけはなく。それでも、 あの頃のよりは色んなものを知って、成長して、純粋ではいられなくなった。醜い感情も随分抱いた。兄を守っていたのに呑気に普通の生活を送っていたころの兄を憎らしく思うこともあった。 嫌いだな、って感情も当然覚えた。でも、

「でも好きだから」
「………」
「小さい頃と違って純粋じゃないかもしれないけど、でも、好きだから」
「俺も、」
「………」
「おまえのおかーさんみてーに口うるさいところ嫌い」
「毎日言ってるのにちっとも課題やってくれないところ、嫌い…最近はそうでもないけど」
「おまえのクソ真面目で何にも話してくれねえところ、嫌い」
「すぐ自分の体身代わりにするところ嫌い」
「大人ぶって背伸びして無理するところ、嫌いだ」
「でも好きだよ」
「…俺も」
「じゃあ、それでいいじゃないか。誰かに嫌われたりとか捨てられたりとか、そんなこと、そんなに怖がることないよ」
「………」
「兄さん…兄さんは関係ない人を巻き込みたくないって言ってたけど、兄さんと関係ない人なんて兄さんの周りにいる人達にはいないよ。みんな関係してるし繋がってる。 いつか神父さんが言ってたよ。人と人っていうのはすれ違っただけで縁が生まれるものだ、って。だったら塾のみんなもあの手騎士の人も僕なんてなおさらだ。 関係ないなんて遠ざけたら、それこそみんなが可哀想だろう。人だとかハーフだとか悪魔だとか、そういうこと考えるの、一回止めなよ」
「……」
「兄さんを独りにはしない」
ひゅっと息を飲む音が聞こえた。しばらく静かにお粥を口に運んでいたら、燐も、
「俺も、おまえのこと独りにしない」
と言った。



その後、片付けをしながら二人は少し話したのだが、どうやら同じ夢を見ていたようだ、とわかって、そんなことほんとにあるんだな、と笑いあった。



手を引かれていた。
顔を上げれば燐の小さな手を獅郎が握っていた。もう片方の手で雪男の手を握っていた。どこか暗い場所を歩いていてどこか遠い向こう側に、 ぽつり、とした光だけがあった。とうさんどこへいくの?幼い燐は問うた。獅郎はちょっと振り返って、子どものように微笑むと、 幸せのある所へだ、と言った。そんなところあるの?今度は雪男が問うた。あるよ、と獅郎は答えた。
きっといつか導かれるのだ、と。















2012.1.30あ、あれ、雪男さんがすげえ男前になっている…